思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

過去は消えず、過去がゆくのみ

2005年09月24日 | 仏教

 大森荘蔵著「流れとよどみ 哲学断章」(産業図書)の21章「過去は消えず、過去がゆくのみ」の文頭に

 過去が過ぎ去るのは水の流れのようにだろうか、音が消えゆくようにだろうか。それはやはり音のようであって水のようではあるまい。

 音は生まれたときが死ぬときであり、生じたとが滅するとき。存在するときが存在をやめるときなのである。そして消えた音は過去の音である。

という行がある。
 「諸行無常」を語るとき「ゆく川の流れ」などと「水の流れ」を例える場合が多いが、考えてみれば、川の流れを橋の上から見た場合、その水面の一点を固定し見つめると「留まることなく」状態であるが、水の粒子が個別されA粒子と識別されるならば、Aは下流において存在し続け大洋に流れ込み、蒸発し雲となり雨となり雪とになり地上に落下し、川の流れの組成の一部として存在し続ける。
 
 過去は過ぎ去ったものと観る場合、「音」は確かに消滅し存在し続けることはなく、ふり返る人生の過去、訪れるであろう未来は、「音」のごとく発生し瞬時に消滅する。
 残るのは記憶としてのそれのみで実態を有しない。感覚、知覚の残骸の記憶である。

 「色はにほへど 散りぬるを わが世たれぞ 常ならむ」

 仏教で言うところの「色」には、「水」「音」も含まれる。したがって散りぬるものであり、それは常態であり続けるものではない。

 先に「水」のサイクル的な話をしたが、科学的には、水の粒子は変化し永遠の固定化されたAという水の個別の実態は存在しない。
 釈尊は、科学者であるという人がいるが、実にそのとおりであるなあと感ずる。

 しかし、大森氏の「音」は、実にまた感覚的に「瞬間という時」を捉えたとき小生としては、実感がわく話である。
 
 「祇園精舎の鐘の音 諸行無常のひびきあり」
 「岩にしみいる セミの声」
 
 音は、また「ひびき」「染入る(漢字とした)」となると過去への痕跡として存在しながら消滅する感覚を得るから不思議である。

 早朝の無言(しじま)の中に、秋の虫の音を聞きながら、朝焼けのオレンジ色に輝く雲や小高い丘から眼下に広がる朝もやの中の町並みを観ると「色即是空」とは是かと実感することがある。

 「早起きは三文の得」というが歳をとり、早起きになるのは実に是なのだ、と思う昨今である。


不邪淫戒

2005年09月19日 | 仏教

 連休中の家族旅行で宿泊した新潟県のホテルの部屋に写真の掛け軸が掛かっていた。米寿を記念しての書であり、88歳の方の人生訓であろうと思うが、面白いので撮ってみた。中でも「色薄く」という言葉が、なかなかにくい。

 五戒法の3番目に「不邪淫戒(ふじゃいんかい)」がある。人間の道にはずれる愛欲にふけらない戒めである。
 
 法句経26に
 智慧にとぼしき おろかな人は
 官能のままに おぼれしたがう
 されど 心ある人は
 上なき財宝のごとく 精進を尊び守るなり
 
 法句経27
 放逸におぼれることなかれ
 愛欲のたのしみを 習いとすることなかれ
 まこと いそしみと 思い静かなる人こそ
 上なきの安楽をえん
 (講談社法句経友松圓諦訳から)

とダンマパダ(法句経)にある。
 五戒はバラモン教、ジャイナ教にも出家修行僧の戒めとしてあり、「汝姦淫することなかれ」となれば人間性の問題として全ての宗教に共通するするところではないかと思う。


いのちの日記と一夜賢者

2005年09月18日 | 仏教

 柳澤佳子さんがこころの時代で語られているのを拝聴し、柳澤さんの体験と知識から語られる人生観をさらに知悉したいと思っていたところ小学館からその著「いのちの日記」が出版された。
 般若心経の世界を中村元、紀野一義両先生の訳本を元にさらに自己の解釈で著され、その体得されるに至る過程も含め知りたい以上に知り尽くしたい衝動に駆られていた。
 そのような状態に置かれていたから書店で見掛け、手にするや自宅に舞い戻り一気に読んだ。
 非常に分かり易が重厚で深みのある内容に感銘し、「いかに人生を生きるべきか」を人生の折り返し地点を通過し、年齢に相応した考察を加えたいと思っている者にとっては貴重な出会いである。
 神や悟りの境地を創り出す人間の脳に神秘性を感ずる訳だが、そもそも粒子の存在、原子核と電子の創り出す世界。存在はそれぞれの持つ色相により成りたっており、それは物質だけでなく人の意識、精神を成立させ発展させていく。

 死とは、放射線を放出し半減し崩壊していくウランや摩滅し減じていく物質のようなもので、生きながら減じていく生命体の終局である(さらに有機物は無機物化し滅していく)。

 著書の中で神秘体験のことについて語られている。4つの共通の特徴として宗教学者の岸本英夫氏の語る
 1 特異な直感性
 2 実体感、すなわち無限の大きさを持った何者かと、直接触れたとも形容 すべき意識
 3 歓喜高揚感
 4 表現の困難
を掲載している。

 完全な悟りというのを説明するのに、「私達が無限の存在であること、宇宙全体が生命を持っているということを知る、いうことなのです。」という人がいるが上記の2の体験を表す。禅の初期段階で自然の生き生きさを体感することがあるが、その時に2段階になる場合もある。

 人はそれぞれに一番安心できるレベルに落ち着きたくなる傾向にある。意識しなくても落ち着くところに落ち着き、それが健全な生活態度の状態もあれば精神的、神経的、犯罪的、粗暴的な病的な状態になる場合もある。

 その選択は、その人の色相の現われである。
 ならば、最低限の段階として清廉にして堅実な生活態度の状態を位置づけるならば如何様にすべきか、これが「いかに生きるべきか」なのだと思う。

 そこで重要なのが、磨耗し減じている存在である人間だからこそ「ただ今という瞬間」に自分を観ることである。

 瞬間の目の前のそして感覚のそれだけの事実、そこにはその事実しかなくそれをもたらしているものは自分だけであることが分かる。
 そこは無分別世界であり二元論は消滅する。

 法句経の
 「己こそ己の寄る辺、己を措きて誰に寄るべぞ、よく整えし己にこそ洵(まこと)、得難き寄り辺をぞ獲ん」
 
 仏性は、生まれながらにあるが滅するが故にゆらぎがあり固定されるものではない。執着も捨てようとしてもゆらぎながらあらわれる。

 南伝中部経典一夜賢者偈の
 「過ぎ去れることを追うことなかれ。
  いまだ来たらざるを念(おも)うことなかれ。
  過去、そはすでに捨てられたり。
  未来、そはいまだ到らざるなり。
  さればただ現在するところのものを、そのところにおいてよく観察すべし。
  揺らぐことなく、動ずることなく、そを見きわめ、そを実践すべし。
  ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ。たれか明日死のあることを知らんや。」  
や、正受禅師の
「一大事とは今日只今のことなり」

は、小生の座右の銘である。

「今今と今と言う間に今はなく、今と言う間に今は過ぎ行く」
という道歌は、刹那的だが奥は深い。


仏の声をきく(1)

2005年09月11日 | 仏教

 先月 NHK教育「こころの時代アーカイブス」で、1990年12月9日に放送された東光寺住職東井義雄さんの「仏の声をきく」という番組の再放送があった。
 東井さんは、貧しい寺の長男として生まれ、師範学校卒業後は僧侶でもあり、また教育者として小中学校の教員、校長を経験した人である。
 地元には現在先生の記念会館があり教育問題にいかに貢献された方であることがわかる。

 今回の番組は、常々人の仏心について考えている小生にとっては、また新たな出会いとなった。
 東井さんは、兵庫県出石郡但東町の浄土宗本願寺派の貧しい寺に生まれた。
 年少の頃に漢文の先生から休みの宿題として漢文の書物を読むように言われたが、貧しく漢文の書物などは自宅にはなかった。
 どうしたものかと考えていたところ家にあった浄土三部経も漢文ではないかということに気づき、これを夏休みの宿題の題材に選んだ。

 「仏の声をきく」というこの番組は、この様な話から東井さんの仏の心が開かれていく様子が語られていく。

 三部経の中の大無量寿経の
 「独り来たり 独り去り 一(いつ)の随う者なし 身自らこれにあたる 代わる者あることなし」

を読んで、早くに死んだ母の最後の呼吸音を思い出し「私という存在は、仏様でも代わることのできない存在であることに気づいた。」という。
 「代わる者なし」ではなく、「代わる者あることなし」はかけがえのない私の存在を目覚めさせ、漢文の宿題は如来様の導きで、自分というこの存在は、他人が変わることのできない存在であることに気づかされたというのである。

 そして話は昭和7年頃の戦前の不況時代の教員の時の思い出に入る。
 このころの世の中は、親が働けど貧しきゆえに昼の弁当を持参できない生徒がいるという時代であった。この現実に対し先生は、世の中の仕組みに問題があると思うようになり唯物思想にのめり込んでいく。
 宗教はアヘンなりという唯物論。その中で自分は父親が病気のため僧侶としても生きなければならず各戸を回りながら経を読む自分の姿にたまらなくなっていく。
 勤行の「五劫思惟の本願 兆載永劫の修行」こんなでたらめがあるかと思わず心の中で叫ぶ自分。当時の日記にはそのように書かれている。

 その後高等小学校5年の担任になった時に生徒からある質問がなされる。その質問とは、「先生のどの奥にある喉ちんこは何のためにあるのですか。」というものである。その存在は知っていてもその働きについてはまった知らず即答することができなかった。
 先生は学校にある書籍を深夜まで調べ、それが口蓋垂(こうがいすい)というもので、食べた物が気管に入らないように、喉を食物が通る時に気管の入口にふたをする役目をしていることが解かった。
 その時に次の仏の心が開かれる。人間の体の各機関は、自分が意識しなくても生まれた時から機能し自分を生かさんではおかない働きをしている。これが仏さんだったのだ。
 親鸞の正信偈
  凡聖逆謗斉廻入(ぼんしょうぎゃくぼうさいえにゅう)
  如衆入水海一味(にょしゅうにゅうかいいちみ)
 
これが仏。仏の手のひらの内にある自分。そして東井さんは、無神論から目覚めた。

 つぎに娘の死がおとづれる。いつ死んでもおかしくないと医師の宣告。娘の手を持ち脈をとる。
 深夜の12時を過ぎる。今日も父と娘であることができた。今日一日父子一緒に生かされた。自分は大きなはたらきの中で生かされている。
 観無量寿経
  諸仏如来は法界の身なり。
  一切衆生の心想(しんそう)の中に入り給う。
 
仏は思いや心に入り込んで衆生を救ってくれる。

そして46歳の若さでガンで死んだ鈴木章子さんの紹介。
 仏様が聞かせてくれた如足我聞。 
 そこには人間の普通の思いではない如来様がある。生かさんではおかんという如来の願い、はたらきがある。
 鈴木さんは、死が間近になり夫婦の寝室を別にした。
 寝る時刻になると「今日は出会えてよかったね。また明日会えるといいね。」朝「お父さん会えてよかったね。」「お母さん会えてよかったね。」
との夫婦の会話。
 健康であったならば、ありえない会話。「ガンのおかげさまです。」と鈴木さんは言う。
 
 信者でなくても一般の人でも如来との出会いがある。

 死刑因久田徳三のは、最後に人間に生まれたことを喜び。監獄長から差し出される最後のタバコを普通の死刑因ならば時間をかけ吸うのに「尊い世界に生まれるのですから。」と断り13階段を登っていったとのこと。
 歎異抄9章「なごりおしくおもえども 娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土(ど)へはまいりたきこころなきものを ことあわれみたもうなり」

 東井さんは、今度は自分がガンに罹り、さらに教員になっていた息子さんの災難が東井さんを襲う。早朝の学校でのランニングの際に胸の痛みを訴え息子さんが倒れたのである。この放送の時は植物人間の状態であるという話であった。
大無量寿経
 至心に廻向し 彼の国に生まれんと願ずれば 即ち往生を得 不退転に住せん

十七世法如のことば
 仏のはたらきは、助けてくださいよというにあらず。助かってくれよとある仰せに従うばかりなり。

 傍から見ると苦難の連続で、どうしてこの人ばかり不幸に遭遇するのかなどと思ってしまう。が先生は、この世は諸行無常で何が起こるかわからない。が、現在が仏の御手の真中だという。

 目で見させてもらい。耳で聞かせてもらい、そして生かされている私たち。仏様から願われ、拝まれている私たちなのである。

道元正法願蔵
 ただ、わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれて仏となる たれの人か、こころにとどこほるべき


 人は人になるために生まれ、本当の人になるために生かされている。そのために第二の誕生をむかえ永遠の命の人間となる。

 仏はそのために目覚めさせないではおかない。
 「至心に廻向し(たまえり)」が仏の意向。そしてその中の私

 最後に司会者の「それが信仰の極みですね。」という問いかけにうなずく東井さん。
 その後(5月後)不慮の災害で東井さんはお亡くなりになった。

 仏の御手は、心の内にある。手のひらの中でありながら心の中でもある。仏心はそれで固まるものでもなく、第二、第三、第四とこの世に生かさんではおかない仏の至心なのである。


犬のいる風景

2005年09月11日 | 宗教

 早朝ジョギングで出遭うものについて時々書き込みを行っているが、今日は犬についてである。
 早朝犬を連れて散歩する人の数が、年々多くなっているような気がする。
 人の健康犬の健康を考えての散歩なのか、中には大型犬2匹を連れている人もいる。

 朝方の気温も日ごとに涼しくなり、セミの鳴き声もいつの間にか聞こえなくなっている。 写真は、城山公園の入り口の展望のよい場所に自宅を構える方の犬で、犬の前の道を挟んだ反対側にその方の自宅がある。
 犬繋がれている場所はその方の畑で、犬小屋は自宅の敷地内にちゃんとあるのだが、朝この場所に繋がれて道を行きかう人々を見ている。

 犬の後方に見えるのは松本市の南部で、さらに後方は上高地方面となる。
 犬同士というものは、人間と同じに好き嫌いがあるようで目の前を通っても吼えることなく無視しているときもあれば、身を震わせけたたましく吼えるときもある。

 人に対しては、危害を加える人ではないと知ると近くによっても吼えることはなくなり「ヤー」と声をかけているとなつくものである。
 それにしても毎朝 眼前に広がる壮大な景色を見ながらそこに犬は居るのだが、「何を考えているのだろう。」とつい人間的な考えをもつが、只そこに居るという事実だけが連続していることだけは、私にとっても犬にとっても確かである。


愛の宗教が慈悲の宗教に生まれ変わる時

2005年09月10日 | 風景

 仏教は、慈悲の宗教である。原始仏教の思想Ⅰ中村元選集第15巻春秋社の6章「慈悲」P698に

 「慈悲とは一言にしていうならば、愛の純粋化されたものである。人間におけるそれのもっとも顕著な例は、父母が子に対していだく愛情のうちに認められる。すべて原始仏教において、母が己が身命を忘れて子を愛するのと同じ心情を持って、万人を、いな、一切の生きとし生けるものどもを愛せよ、ということを強調している。」

と書かれている。

 仏教では愛は苦の根源であるとされ否定される。
 原始仏典ダンマバダ209から211に

 「道に違うことになじみ、道に順ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。愛する人と会うな。愛しない人と会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。」

と書かれている。

 自己求道の出家者にとっては、家族も含めた人間関係の断絶は必要不可欠な行為で、家族愛も苦の根源となる。したがって、ダンマバダの記述も到底現代人には受け取りがたい表現となっているが、深く読み入ると愛という言葉の持つ二重性が分かってくる。

 そのひとつは、盲目的な愛である。盲目的な愛は愛する相手の裏切り、関係の悪化から、苦と恨みの念を抱かすことがある。

 二つ目の愛は、このような利己的な愛とは異なり母性的な慈しみ深き愛であり、献身的な奉仕活動などがそれに入る。

 サンスクリット語のマイトリー「慈」は「一切の生きとし生けるものの親友」をいい、カルナ「悲」は、「同情、やさしさ、あわれみ」などをいう。

 ブッシュ米大統領は二期目の就任演説で「自由の勝利は神の意思」と語った。
 英語の原文は不明だが、ニュース等ではこのように報じられており、内容的には大きな違いはなかろうと思う。
 ここにいう神は、愛の宗教と呼ばれるキリスト教の神である。

 愛の反対は無関心であるなどという西洋の今は亡き女性奉仕活動者の弁がある。献身的な立場で奉仕に対する者が、しない者に対していっているであるが、何か悲しいものを感ずる。

 米大統領の愛の宗教も西洋的な奉仕活動をする者の愛の宗教も、発想の根底にある精神文化は同じ愛の宗教で育てられている。

 この夏アメリカを大きな台風が襲った。テレビ報道では、悲劇が映し出されている。
 悲劇は大きな台風が襲ったという自然災害だけでなく、災害対策の遅れ、略奪等々。
 被災者、災害対策関係者、最高責任者の行状から起きる。

 愛の宗教が慈悲の宗教に生まれ変わる時にきているのではと思う。