思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

臨書にふれる

2015年11月29日 | 哲学

 NHKの趣味どきっ!・火曜放送「趣味どきっ!石川九楊の臨書入門~女と男の素顔の書~」の第8回「雨ニモマケズ・最愛の妹への思い― 宮沢賢治 × 宮沢トシ」を見ました。

 臨書の意味をさほど深く知らず、番組表の見出しの中に好きな童話作家の「宮沢賢治」の名を発見し見たわけですが、臨書の世界というものに魅せられました。

 手本を手元に置き、可能な限り似せて書く、写経の場合は下敷きとして置いた手本に無念無想で筆を置き走らせるに似たもののように思っていましたが、奥が深いものでした。

 有名な人物の残した文章。原稿用紙等に書き残された作者の筆跡、その文字を「みる」ことから「うつす」という流れの中で作者にふれる。

 残された文字、漢字、ひらがな、カタカナには書き綴る人の個性があり、その時々の感情が込められています。西洋にもこのような臨書の世界があるのか知りませんが興味深いせかいです。

 宮沢賢治の筆跡、かの有名な小手帳に残された「アメニモマケズ」の詩、番組では、


 

 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ
 丈夫ナカラダヲモチ

の最初の部分が紹介されました。

 その小手帳に書かれた「雨ニモ」「風ニモ」の文字の並びから「モ」は最初には書かれず、途中で書き加えられたことが分かる。

 「モ」がないとどうも調子が悪く、やはり七五調の流れがないと詩は生きてきません。

 雨ニマケズ
 風ニマケズ

であったならはこれほどまでに有名な詩とはならなかったであろうという話、私もそのように感じます。

 宮沢賢治最晩年の詩、知から無き筆跡に病に倒れ床に臥す賢治がいます。がの思いも込められているの世界を見て、そこにも「東洋文化の根柢」なるものを感じました。

 西洋では筆跡鑑定になるでしょうが、「臨書」ではそ筆跡の中に「はたらき」の表現を感じる(みる)があり、そして「うつす」ことによって筆者の心に「ふれる」があるのです。

 以前の私の中の臨書のイメージが西田哲学の純粋経験とするならば、今回の臨書の世界との出会いは、当然純粋経験が根底から崩れるものではありませんが、その後の西田哲学の「場」への移行に重なりました。

 話を変え別視点から「ふれる」世界に話をすすめます。

 60年安保当時の首相の岸信介は、首相官邸を包囲するデモ隊を前にしても、

「銀座や後楽園球場はいつもの通りだ。私には“声なき声”が聞こえる。」

と語るだけで、岸信介首相は当然デモ隊に面会し生(なま)の声に耳を傾けることなく、御本人のやるべきことを行なったわけですが、実際に岸首相に聞えた声は別にして、この「声なき声が聞こえる」という言葉が印象に残ります。

 「声なき声」

とはどういうことなのか。声として形に無いものは、聞こえるはずがないのであって、存在しない声が「聞こえる」ということは、その人物の政治手腕に不安を抱く異常さがあるということでしょうか。

 「声なきものの声が聞こえる」

と「もの」を加えるとなぜか聞えるような気がしますし、実際「声なき声が聞こえる」と語っても不思議さを感じないのではないでしょうか。

 西田幾多郎先生は、『働くものから見るものへ』の序文のおわりの方で、

・・・・しかし私の直感というのは従来の直感主義において考えられたものとその趣を異にしていると思う。いわゆる主客合一の直感とするのではなく、有(あ)るもの働くもののすべてを、自ら無にして自己の中に自己を映すものの影と見るのである、すべてのものの根柢に見るものなくして見るものという如きものを考えたいと思うのである。・・・・・・形相を有となし形成を善となす泰西文化の絢爛(けんらん)たる発展には、尚(とうと)ぶべきもの、学ぶべきもの許多(あまた)なるはいうまでもないが、幾千年来我らの先祖を孚(はぐく)み来た東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くといったようなものが潜んでいるのではなかろうか。我々の心は此(かく)の如きものを求めてやまない、私はかかる要求に哲学的根拠を与えて見たいと思うのである。(参考『西田幾多郎哲学論集Ⅰ』岩波文庫p36から)

と書かれていて上記の当時の岸首相は、西田先生の

「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」

という言葉がその語りの此岸にあったようです。

 形相を有となし形成を善となす西洋文化

「形相」とはアリストテレスの言葉で、「あるものにそのものの持つ性質を与える形相(エイドス)のことで、「形成」は漢字のもつ合理的な意味解釈の世界に照らすと「形なる物」と言ったところでしょうか。

 総じて物にはそれぞれの性質があり、形ある存在としてある、と言いうことになると思います。

 しかし、東洋文化には「形なきものの形を見、声なきものの声を聞くといったようなものが潜んでいる。」と西田先生は語っています。

 安曇野の高家(たきべ)には、西田先生の詞碑
 

 無事於心無心於事
 物となって考へ物となって行ふ
       
があります。郷土史の解説では、

「物とは歴史的世界に於いての事物である。我々の自己といふのもかかる現実に於いての事物に外ならない。『物となる』とは我々が歴史的現実の中に自己を没することによって自己を尽すといふことであり,自己が物の世界に入って働くことである。したがってこれは物の真実に行くといふことでなければならない。(中略)己を空しくして物の真実に徹し行くことは日本精神の神髄である。所謂無心とか,自然法爾とか柔軟心とかいふ我々日本人の強い憧憬の境地もここにある。人間そのものの底に人間を越えたもの,それが『事に徹する』といふことであって,事実が事実自身を限定する事々無礙の立場はどこまでも『物となって見,物となって考へ,物となって行ふ』ところになければならない。即ち徳山の『無事於心無心於事』である」

と書かれていて、「本気で子どものことを考えるならば、子どもの心と一体となって関わらないと駄目だ、ということを言っているのだと思う」というこの碑の語る意味として信濃教育会生涯学習センターの元主任曽根原孝和さんの

「本気で子どものことを考えるならば、子どもの心と一体となって関わらないと駄目だ、ということを言っているのだと思う。」 

という言葉が添えられていました。

 個人的な思索の話になりますが、上記の「働き」「ものとなる」に、「みる」「考え」「行う」が重なって表現されるのが西田哲学で、やまと言葉が「形」というような名詞的な個物的な面よりも、動詞的な働きの内にある言葉だと思いに重なります。

 働きは見えるものではなく、知情意の世界。「みる」「きく」「ふれる」・・・などによって現われる。

 今回「臨書」の世界に「みる」「うつす」の世界を見て、そこにも「東洋文化の根柢」なるものを感じました。

 西洋では筆跡鑑定になるでしょうが、「臨書」ではそ筆跡の中に「はたらき」の表現を感じる(みる)があり、そして「うつす」ことによって筆者の心に「ふれる」が生れるのです。

 目の前におかれた書、その筆跡、墨跡と余白との関係

 書の観賞においてはアラビア文字の書も同様な世界があり、デザイン画における文字の描画に「ふれる」世界を感じます。

 「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」

 「働くものから見るものへ」

西田哲学は難解さ故に哲学ではないと言われますが、これほど鮮やかに今を語るものは無いと思うのです。

 眼前の書を見るも身に起きている現象、そこに「ふれる」ことが生(あ)る。

 今回の話はここで止めますが、ここまで話を進めると、前回のサルトルの相克が別意味を持つことが分かります。

 まなざしの中にふれるが生じている。

 働きは決して見ることはできませんが生ることだけは確かに思います。


相克と依存について

2015年11月27日 | 哲学

「相克(そうこく)」という言葉を辞書で引くと、

対立・矛盾する二つのものが互いに相手に勝とうと争うこと。

と解説され、例文として「理性と感情が―する。」が掲載されていました。

 怒りを理性が抑えようとするが、感情が高ぶりついに理性が負けて、相手に暴力を振ってしまう、というような場合が創造されます。

 サルトルの対他存在、対自存在では他者のまなざし、自己のまなざし、言葉を変えれば互いの視線というものに思考視点を置いて、他者が考える私像と私が認識する私像との間(はざま)に相異があるとして、その「対立・矛盾する二つのものの関係」を「相克」という言葉で表現しています。

 「地獄とは他人のことだ」

確かに鋭い考え方で、世の中とはそういうものなのだと思ってしまう。そのようなことに感心していると、『NHKラジオ深夜便』12月号に障害者(脳性麻痺)で東京大学医学部を卒業され小児科医師をされている熊谷晋一郎さん(1977年生まれ)の「誰もが“生きていける”社会を目指して」というエッセーを掲載されていました。

「・・・脳性麻痺の体は“自分が消えたとき”にいちばん動きやすくなるのかもしれない。自分では覚えていないのですけれど、なんとなくそんな感覚はありました。私が思うに、個人の中に能力や障害があるのではなくて、人と人との間に生じてくる。だから、どれだけ周囲の人やものに頼れるか、依存できるか、それが能力を決めるのです。」

「自律とは、障害があろうがなかろうが、依存しなくなることではなくて、依存する先を増やすことだと思うのです。赤ちゃんは親にしか依存できない状態で生まれてきます。生長するにしたがって、親以外にも依存できる人が増え、いろんな道具や乗り物にも依存して、できなかったことができるようになる。そうやって依存先が増えていくプロセスが発達であり、自立だと考えています。」

一部だけを取り出して、こういうのも早計なのかも知れませんが、直覚で感じるのは、存在の本質が現われているのはどちらかだろうということです。

 依存関係はなかなか難しいと考えてしまいますが、善き理解に進めば(思考)、世の中の生きる意味も自然(おのずからしかり)と感得できるように思えるのです。

 世の中に相克ばかりと見てしまう。現代はそう見た方が理解しやすいのだろうか?

 本当に知り、理解してゆくプロセスに自立をみます。

 唯一絶対の存在であり「代わる者なし」の絶対性をみるとき、確たるものが現われてくるのだと思うのです。

 「相克」という言葉がある以上、そういうものを否定するものではなく、あえて言うならば言葉によって人は規定される、ということです。


無常に道が現われるとき

2015年11月23日 | ことば

 庭に積もった枯葉の始末を昨日行ないました。赤色の絨毯をひきつめたような落葉も雨に打たれて、風にさらされて変色、このままにして置くと光合成の力を失い苔が枯れるおそれがあるので落葉焚き、煙の臭いがなぜかなつかしく感じます。

 先週の日曜日の「ほんとうの健康ってなぁに」というテーマの集いに参加し既に一週間が過ぎますが、胸中の苦しみを語ってくれた女性のことが白煙の中に浮かびます。

 昨夜はNHKで瀬戸内寂聴さんの密着500日が放送され、わが人生を思いのままに生きている寂聴さんが「病」「痛み」の苦悩する姿が映し出され他人(ひと)におとずれる艱難を考えてしまいます。

「艱難辛苦(かんなんしんく)」という言葉、その意味するところは、

 非常な困難にあって苦しみ悩むこと。「艱」「難」はともにつらい、苦しい、悩むの意。「辛苦」はつらく苦しいこと。つらい目にあって悩むこと。(<Goo辞典から>)

 類語には、

 四苦八苦(しくはっく)、焦心苦慮(しょうしんくりょ)、 千辛万苦(せんしんばんく)、 粒粒辛苦(りゅうりゅうしんく)

があります。

 漢字を見るだけでもその苦の凄まじさが感じられる。

 苦悩に苦悩する事態という表現になるだろうか、止めど無き苦悩の渦に飲み込まれ精神の病や自死が迫ってくる。

 このような苦悩という事態のなかでも鳴り続けるものがあります。意識しなければ気づけない聞こえない鼓動。自身の心臓の音は、日ごろは意の外にあるもの。

 鼓動は、苦悩する本人に関係なく永遠の響きのように鳴り続ける。

 心臓は自分の意思では止めることはできない。ぴんころ地蔵尊が観光巡りする時代、健康でコロリと死ねたらと、考える人が増えていますが、心臓とは「つれない」ものでです。

 ここに「つれない」という言葉を使いました。「つれない男(ひと)」と言えば艶っぽい話になります。この「つれない」という言葉には、「思いやりがないさま。薄情だ。冷淡だ。」という意味があり、やまと言葉「つれなし」から引き継いでいる言葉です。

 岩波の古語辞典では、

つれな・し(形ク)《「連れ無し」の意》。
1(働きかけに対して)何の反応もない。無情である。
2(事態に対して)何気ない様子である。さりげない。無表情である。
3(期待や予想にかかわらず)事態に何の変化もない。何事もない。
4(うけた誠意や恩義などに対して)何も感じない。情知らずである。

この苦しみから逃れたい一心の中で、何んとつれないものなのでしょう。

 教育者で僧侶でもあった東井義雄先生の話を思い出されます。平成2年12月、今から13年も前に放送されたEテレ「こころの時代~仏の声を聞く~」で話で、自殺企図者の青年からの電話に「生かさんと鳴る鼓動の音」の話です。この話は過去ブログで既に紹介したものですが、とても心を打つ話なので再度紹介します。

 話は京都学派の出隆(うで・たかし)先生の著書の話しから引用します。

【東井義雄】私が若い頃、熱心に読みました『哲学以前』という書物をお書きになった出隆という方は、名高い方ですけども、水泳の神伝流の達人だったと聞いておりますが、その出隆先生が、
 
「水には、浮力がそなわっている。だから、心を無にして、身も心も水に預けると、おのずから浮かぶ。しかるに、水に溺れる人があるというのはどういうことであるか。溺れた人を考えてみると、案外、浅いところで溺れている。浮力に足をすくわれ、『しまった!』と、あわててしまい、その心の重みで溺れているようである。」
 
という意味のものがあったことを思い出します。
 道元禅師のお言葉と同じだなあと思って、有り難く読ませて頂いたことがあるんです。

 真夜中、けたたましい電話のベルがなりました。こんな夜中にどなただろう・・・と思って、飛んで出ましたら、聞き覚えのない、若い男の人の声です。
 
「周(まわ)り中(じゅう)のみんなが、裏切り、逆(そむ)き、見放し、もう生きる気力を失いました。今から首を吊ろうと思うのです。ちょっと気にかかることがありまして」ということです。

「何が気にかかるんですか?」と申しましたら、

「『南無阿弥陀』と称えて首吊ったら、間違いなく、仏さまの国へ往けるんでしょうね」

というのです。私は、思わず、どなりつけました。

「ダメです! やめておきなさい! あなたのこしらえものの『南無阿弥陀仏』なんか屁のつっぱりにもなるものですか! 」

と。これは、意外!という雰囲気が電話器を伝わってきました。

「では、どうすればいいんですか?」

「どうすればいいかって! あんた、周り中のみんなが、裏切り、逆き、見放した、という。周り中のみんなどころか、かんじんのあんた自身が、今、あんた自身を見放そうとしているじゃないか! そのあんた自身さえも見放そうとするあんたを、尚見放すことができないで、つらいだろうが、どうかもういっぺん考え直して、しっかり生きておくれと、ひたすらに叫んでいいらっしゃる方のお声が、あなたには聞こえんのか!」。

「どこにも、そんな声なんか・・・」

「何を言っているのか!あんた、いま、あなたは激しく、こちらまで響いてくるような音をたてて呼吸しているではないか。その呼吸が、ホラ、今も、どうか考え直して生きておくれ!と叫んでいるではないか。心臓が、辛かろうが、どうか考え直してくれ!とひたすら働いて励んでいるじゃないか。これが本当の南無阿弥陀仏だ! 助けてくだされよ、というあらず、助けかってくれよ、という願いが南無阿弥陀仏なんだ。これに出遇わないんだら、生きても、死んでも、あんたの人生は虚しいんだよ!」

と申しましたら、

「何だか、大変な考え違いをしていたようです」
 
という言葉で電話が切れましたので、おそらく首つりは止めてくれた、と思うんですけど。(以上)

この話から東井先生の著書を数多く読ませていただきましたが、東井先生ご自身悲哀のうちに生きた人でした。
 
「私はなぜこんな目に遭わなければならないのか!」

 その苦悩の叫びは他人(たにん)の理解を越えています。

 「つれなし」の世界が、逆に智慧の光に照らされて事態が逆転します。

 「つれなし」は対人的な言葉ですが、「世の中は」を主語にすると「世の中は儚いもの」「世の中は空しいもの」というように、古語の「はかなし」「むなし」が引き継がれています。岩波古語辞典からですが、

はかな・し【果無し・果敢無し】(形ク)
1これといった内容がない。ちゃんとしたところがない。
2手ごたえがない。頼りない。むなしい。
3あっけない。
4みじめで情がない。
5とるに足りない。愚かである。

むな・し【空し・虚し】(形ク)
1中に何もない。からっぽである。
2事実がない。
3何も結果がない。無駄である。
4はかない。無常である。
5命が無い。形骸化している。

「むなし」という言葉の意味の中に「無常」という言葉が登場します。「無常」という言葉は、仏教用語で、その意味は、「一切のものは生滅・転変して、常住でないこと。」というころですが、僧侶でない限りその奥深き意味を理解できないもの、貴族においては学識の一つでしかなく、その意味も既存のやまと言葉の範疇でしかありませんでした。

 「一切のものは生滅・転変して、常住でないこと。」

やまと言葉の世界観で理解すると上記に掲出した「はかなし」「むなし」そして艶っぽい意味理解も含めて「つれなし」の範疇でしかなかったように思えます。

 評論家の唐木順三先生は、鎌倉仏教を境にそれ以前を無常感とし、以後を無常観と『中世の文学~無常~』としています。

 仏教における「無常観」は、智慧の光に「ある」働きの世界観にあると私は今のところ解しています。

 音読みで「むじょう」は、今の世の中、無常(むじょう)にも聞こえ、無情(むじょう)にも聞こえます。

 この世には情け容赦のない、儚(むなし)さに打ちのめされる事態が生じます。

 「人間は言葉の奴隷だ」

と語る哲学者もいるが、言葉を使わずして我が胸の内を語ることもできず、語る意欲も失い苦に沈むゆく姿はまことに最期章を見るようです。

 しかし、そこの底(そこ)に「無上(むじょう)」の調べを聞く、聴く、効く、利くという機会が現われる。

 上記の東井先生の話は、青年の「訊(き)く」と言い尋ねの世界に現れた話しです。

 人間には限界があるのか。

 生を起点にすれば限界は死であることはハッキリしていますが、死の体験は自分には現れないこと。・・・・・

 現われないけれども・・・・「きく」世界に生かされている。智慧の光はをことを問われている存在であることの上において、人間は鼓動の音を「きく」ことに、生かされている存在であることを知る可能性において在(あ)ります。

 「むじょう」という言葉に「道」が浮かびます。V・E・フランクル『夜と霧』の旧版訳者の霜山徳爾先生の『人間の限界』(岩波新書)の「漂泊の道程章・道と道標」の中に次の文章が思いだされます。

 「我が道は艱難に属す」とか「拙をもって吾が道を存し」(杜甫)とか詩人は嘆いた。「まなざしを向け」「手のいとなみと足の歩み」で行う日ごとの内にすごすわれわれの前に、見はるかす「かなたへの道」が展開される。「どこから」来て「どこへ」行くのかはスフィンクスも知らない人間の謎であろう。生涯に暮色のせまる頃、「どこから」を回顧すれば、来し方は惨としたものである。また「どこへ」を考えれば、あたかも氷雪にむかって彷徨するような体感に包まれる。
 世間で許されない愛情(なさけ)の故に、自殺をはかったが未遂におわったくある老歌人は「これの世に 再び生きて はじめての 外出(そとで)の道の 冬の夜の月」と詠じている。口さがない人々の冷たい眼は、冬にまさるものがあったであろう。どの人間にもささやかな独往の願い、主観の内の小さな夢、非時(ときじく)の祈りがあるとはいえ、所詮、彼がひたすら歩むのは無明の道であろう。有名な老学者の死後、思いもよらぬ春画が身辺から発見されて、ある人はそれを「隠者の焔」と呼んだが、そのような焔は決して人間の生きる道を照らしてはくれない鬼火である。
 その道は無礙(むげ)の大道、平安の行路どころではなく、文字通り「艱難に属して」いる。いったい人間にとって「道」とは何であろうか。「道」は人間というものがもともと「遠(フェルネ)さ」の主人に生まれていること、および一所不住の徒であればこそ成立する。
 生きる道のはかなさをパスカルは「ただ一夜とどまりし客人(まろうど)の思い出」と書いた。しかしもし「道」がなければ無常ということも成立はしないであろう。(上記書p136-p137から)
 

長い引用ですが、

「道」がなければ無常ということも成立はしない。

という言葉が意味を向ける。無常感が無常観となる時代背景がある。それは個を含めた社会全体が災厄に包まれた時代でもある。

 そこにおいて何が聞えてくるか。単なる詠嘆の感情ではない、事態認識が転回され新たなる認識の世界が開かれる。それが道なのだと思う。


ほんとうの健康ってなあに

2015年11月17日 | 哲学

 先週の日曜日に一年ぶりに哲学サークルの会に出席しました。毎月2回の例会は平日に行なわれるため仕事の関係上参加できず、満額年金支給の年齢になるまで待機中の私・・・休日に開催されるこの会を楽しみにしていました。

 今回の会は一般参加者も含めた交流会といったところで50人ほどが集いテーマ「ほんとうの健康ってなあに」についてグループごとに話し合いなどを行い、それぞれの健康観を持とうというもので、短い時間でしたが大いなる学びを得ました。

 広報誌に開催のお知らせが掲載され参加する人たち、テーマがやはり人を導くのでしょうか、自己の体験から会に参加される方が多くおられました。

 同じグループに参加されていた女性が、交通事故に遭遇しケガをし、間もなくガンに罹り、手術は成功したものの度重なる苦境に毎日心の置き場所がないと涙ながらに話されていました。

 「個人的な悩みを他人に話すことは迷惑になるでしょうが・・。」という言い方に今もその苦しみが続いていることが、こちらにも伝わってきました。「頑張ってください!」などと言う激励調子の言葉よりも聞いてあげる姿勢が大切であると知ってはいますが、どうしても励ましの言葉が出てしまいます。

 なぜ彼女は会に参加したのか?

 彼女は身の内を語るなかで、「ケガや大病をする以前に『ソフィーの世界』という本を読んで途中で止めてしまったのですが、なぜかこの『ソフィーの世界』の本が読みたくなり引き込まれるように読んでいます。この本が哲学の本だということを知り、今日のこの会が哲学同好会主催だということで来てみました。」と話されました。

 「縁だなぁ」と私は心の中でつぶやきました。不思議なのですが縁とはこういうものだという実感を感じました。

 人間は問う存在ではなく「問われている存在」であり「期待されている存在」というV・E・フランクルの言葉を思いだしました。会終了の最後に顧問の地元の大学の名誉教授からフランクルのこの言葉が紹介されましたが、フランクルのこの言葉は私の内から離れたことがありません。

 テーマ「ほんとうの健康ってなあに」における「健康」とは肉体の健康はもちろんですが心の健康も含むもの、

 会開催時の同教授の「はじめの言葉」の最後に、

 もし「ほんとうに健康な人」ということを言うなら、「健康の時だけ元気でいられる人」ではなく、「健康を失っても元気でいられる人」といえるかもしれません。

という言葉がありました。最初はこの「健康」という言葉に「今現在不健康な者に・・・」にその意味理解はできるのだろうか、という疑問が出てきたのですが、「健康を失っても元気」という問いかけは、今現在この会に、ある心の発動のもとに、何ものかに促されるように集(つど)った人に向けられている言葉であることがこころのうちのこだまのように響いてきました。

 根源的な心の根柢の話

 『「弱さ」のむこうにあるもの~イエスの姿と福祉のこころ~』(木原活信著・いのちのことば社)の本がようやく届き、「神は弱きこころの中に」まさに信仰にある者は、根源的な宗教性に道を見る、そうでない者はどうしたら救われるのか。

 大いなる「まなざし」の中で、何かを見る。

 見る側には大変な事も起きるが、大変な事ばかりでもなく日々のその瞬間の中に色々のことが起こっています。

 その瞬間、喜怒哀楽が現われているに違いないその瞬間、心のうちの自由意志が選択してゆきます。

 まさにその可能性の内に常に開かれているのが人間である、と思えます。

 「実存」というものに力点を置くとこのような流れになるのですが、その後の哲学もよいのですが「実存」には決して古さは無いと思うに至る一日でした。


「ある」時々の創造について

2015年11月12日 | 哲学

 サルトルの『実存主義とは何か』の2回目を見てあらためてサルトに惹きつけられる。

 在り方探し

 有り方探し

おなじ「あり方」を漢字で書くと個人的に「有り」に西田哲学の意味するところが重なります。

 実存哲学

 私が魅かれ、惹きつけられるのはそこにあるのかも知れません。

 哲学的人間学における「人間とは何か」

 人間とはこれこれこうでなければならない。

 このような必然性の内にあるのが人間なのだ!

などと規定された、シナリオ的な人生には『嘔吐』が似合う。

 「神が人間を創造するのではなく、我々自身がわれわれを作りだすのだ。」

 「いかなる人間であろうと欲するかは、各人が責任をもって自分の内から決定しなければならない。」

そう宣言せねばならない時代性があったのか。

 私は時々思うのは、法治国家に生きているということは既に、

 「こうしてはいけない。」
 
 「こういう手続きでなければならない。」

 「従わない場合は制裁があります。」

 「互いの契約は不履行になります。」

 「違反は違法です。」

 「それは不法行為です。」

 これを完璧に履行し違約なく従うならば徹底した倫理道徳者、聖人である。

 すでに国家にはその理想的人間が創られているともいえます。

 国家の創る立法に従うならば、悪者になってしまう。

 最近は特に問題視する事態が、国家によって創られた。そう考えると国家は人間を悪魔へと創り上げる工作をしていることになります。

 「わたしの正しさは何処にあるのか。」

 反哲学の時代なのかよくわかりませんが、人間の性(さが)がここに現われます。

 有(あ)る可能性において自由である。

 これを

 在(あ)る可能性において自由である。

または、

 生(あ)ることにおいて自由である。

さらに、

 或(あ)ることにおいて自由である。

日本語は実におもしろい、「ある」時々に創造するのです。


2015年11月11日 | ことば

 午前がさめる。外は暗く曇り空、今日も一日天気は悪そうです。悪そうというのは雨降りという事を念頭に語っているわけですが、雨降りで嬉しいという人もいるわけで、ものごとはその人の取りようでどうにでも解釈されます。

 そんなことを思いながら『金子みすゞ110年』(監修矢崎節夫・JULA出版)手にし、130ページほどの本の最後の方に「帆(ほ)」という詩がありました。自筆の手帖に書かれたこの詩の写真、4年ほど前にもブログで紹介しましたが「儘の詩(うた)」に改めて感動しました。

 心温まる話とか、心を豊かにする話などという言葉を聴くと、言葉の観念の中に何となくそのイメージ的なものが広がります。

 それは紛れもない実体験であって、実在の温かさ、豊かさを私という個は受けていることになります。

 温かさや、豊かさを誘引してくるのは、語り手であるのか、受け側であるのか、とつい哲学的な問いをしてしまいますが、懐疑的な私でなければ、他人(ひと)となって考え、他人となって行なうなかでその温かさや豊かさを懐に修めているように思います。

 今朝も金子みすゞ詩集から詩を一編紹介したいと思います。

 港に着いた舟の帆は、
 みんな古びて黒いのに、
 
 はるかのおきゆくふねは、
 光かがやく白い帆ばかり。

 はるかの沖の、あの船は、
 いつも、港へつかないで、
 海とお空のさかいめばかり、
 はるかに遠く行くんだよ。

 かがやきながら、行くんだよ。

 

 帆船の「帆」の話ですが、文字表現で漢字使用すると硬さがありますが、短い詩で暗記し言葉にだすと「ほ」という柔らかな響きに風景が広がります。

 遥かの沖の、あの船の白い帆

です。

 ここ(港)にある船の黒い帆

 きっと同じ船なのに、港に寄港するのとしないとでは帆の色が違うのでしょう。

 薄黒く汚れた帆、考えてみれは、遥かの沖ゆく白い帆の船にもなりえたのかも知れません。

 この詩ではそんなことは全く語っていません。語っているのは実際にブログを書いているこの私です。

 沖ゆく船の軌跡からの無常観

 そんな感慨の世界でもありません。

 遥かな眺めの中に、足下を見ている。

 詩というものは、個人的に読むのもいいのですが、語りの中で聞くのもいいかも知れません。

 金子さんの詩には、

 何か仏の様な母の語り

 鈴のような音色のかたり

 穏やかな風のようなささやき

があります。


わたしは例外者なのか?

2015年11月08日 | 哲学

「親が正直で公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ」

「子どもに公平であれば、子どもは、正直感のある子に育つ」


この二つの言葉は、『子どもが育つ魔法の言葉』(PHP)ドロシ・ロー・ノルトとレイチャイル・ハリス共著を石井千春さんという方が訳された、子育てに関係した教育書に書かれているものです。

 過去にこの本からいくつかの言葉を紹介しました。

 さて昨日は、内科、神経内科、精神科の医師(90歳)のお医者さんの「良い子を育てる脳の話」という講演を聴講しました。

 二時間越えの休みなしの講演、立ったまま片手にマイクを持ち老いてなお矍鑠(かくしゃく)とした姿に引き込まれました。脳科学はもちろん精神医学も含んだ話し大いなる学びの時間でした。

 この講演の最初に「人間を人間にする」という話の中で、『狼に育てられた子』、『アヴェロンの野生児』に続いて、上記の子育て本ではありませんが『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』(ロバート・フルガム著・河出書房新社)の言葉が紹介され、

・何でもみんなで分け合うこと
・ずるをしないこと
・人をぶたないこと
・使ったものは必ずもとのところに戻すこと
・ちらかしたら、自分で後片付けをすること
・人のものに手をださないこと
・誰かを傷つけたら、ごめんなさい、と言うこと
・食事の前には手を洗うこと
・トイレにいったらちゃんと水をながすこと
・焼きたてのクッキーと冷たいミルクは体にいい
・釣り合いのとれた生活をすること
・毎日少し勉強し、少し考え、少し絵を描き、歌い、踊り、遊び、そして少し働くこと
・毎日少し昼寝をすること
・おもてに出るときは車に気をつけ、手をつないで、はなればなれにならないようにすること
・不思議だなと思う気持ちを大切にすること

 120億個の脳細胞は20歳を過ぎると毎日10万個が消滅していくとのこと、冗談交じりでに90歳になっても現況を見ると大したことではないようだ、という話し説得力のある話なのですが、自分を特別視する傾向がある私、未だ来たずの未来に同様の自分を見ることができませんでした。

 余談ですが、特別視というのは普遍性を追求する思考視点とは対極にある此岸の足元からの探究心の原点のような気がします。ここでサルトルを出すのもなんですが、他の者とは異なる私に気づいたサルトルを思いました。

 話しを最初の二つの言葉に戻しますが、個々の文章は、親の子育てに関しての事柄を表わし、親と子との関係において成立しています。

 この本の「はじめ」章に「この詩(ことば)と時代の流れ」という著者のこの本の訂正に関しての話が出ています。

 時代の流れにしたがって、わたしもこの詩に手を加えてきました。以前は、英語の文法上の決まりにしたがって、「子ども(child)」という主語を、「彼(he)」という代名詞で受けていました。しかし、では、子どもには女の子は入らないのかというジェンダーをめぐる疑問が80年代に生まれてきました。そこで、わたしは、詩を書きなおしました。主語の「子ども」を複数形(children)にすることによって、女の子も男の子も含まれる代名詞(they=「こどもたち」)で受けるように訂正したのです。(同書p8)

と書いてあります。しかしこの本はあくまでも「子ども」で訳され、「子どもたち」

・「愛してあげれば、子どもは人を愛することを学ぶ」

・「認めてあげれば、子どもは自分が好きになる」

・「大切にされれば、子どもは思いやりのある人間になる」 

などという詩があり、「子どもたち」とは訳されていません。訳者石井千春さんがミスしているわけでないことは日本語を理解する人ならば疑問の余地がありません。

 この著書とは関係ありませんが、

「いじめを止められる子は、自分のことが好きな子」

という、いじめ問題に関係したアンケートの詩を以前ブログに紹介しました。

 この場合は「子」であって「子ども」ではありません。


 そこで、この詩を次のように変えてみます。

「いじめを止められる子どもは、自分のことが好きな子ども」

ついでに

「いじめを止められる子どもは、自分のことが好きな子」

「いじめを止められる子は、自分のことが好きな子」

「子」、「子ども(child)」、「子どもたち(children)」

自分を特別視して思いを書くのではないのですが、日本語とは実におもしろい。

 今日は「特別視」という言葉が時々出てきます。最近「実存」に関係する本を読んでいたところキルケゴール、ニーチェに関して次のように書かれていました。

 ・・・キルケゴールとニーチェはわれわれを覚醒させる力をもっているが、しかし明確な課題をわれわれに与える力はもっていないということだ。すなわち「問題は、例外者ではないがしかしこの例外者なるものを見つめつつ自分の内的な道を探究するわれわれが、いかに生きるかということである」。<ミケル・ディフレンヌ/ポール・リイクール著、佐藤真理人/大沢啓徳/岡田聡訳『カール・ヤスパースと実存哲学』(月曜社)p24から>

 上記の引用文中の「」内の言葉はヤスパースの『理想と実存』の言葉ですが、ここに登場する「例外者」という言葉、ヤスパーズだからというのではありませんが我が身の特別視とともに同意語として例外者が、実存の哲学には現れるように思うのです。

 私はこう思うのであって、普遍性を語る上においても常にその働きをまとう。マントのようにまとうのです。

 わたしはこう思う、という語りが作品になり、サルトルの地獄の死者たちの会話シナリオ『出口なし』のサルトルの発想の根源に絶対例外者を見てしまいます。

 子ども教育から、日本語そして例外者と書いているのですが、人は何ごとかを考え何ごとかを語るものなのですが、大小はありましょうが特別視、例外者思考があるように思うのです。

 その中に正しさや真実を見ようとしますがマントを脱ぐことはなかなかできないものです。

 まぁ着飾る物は、人あってこそですから・・・・そういうことでしょう。


責任を取る前に人であること

2015年11月06日 | 哲学

 100分de名著サルトルの『実存主義とは何か』が始まりました。25分という間にどんなことを受けとることができるか。久々に哲学講義を受けているような気がします。

 学校教育での25分間と比較すると目的をもってその場に臨む姿勢が最も大切であることを知ります。

 今私は何を望んでいるか。

「人間は自らの決断によって自分を作り上げていかなければならない」

という言葉を聞くと、

「経験が人を作り上げていく」

という言葉が浮かぶ。

人間とは能動的な動物なのか、受動的な動物なのか?

受動的が消極的というわけではないが、

「人間は自らの決断によって自分を作り上げていかなければならない」

という言葉には、「積極的に生きる」というイメージを受けます。

 時間の有意義性を感じられる生き方をしたい。そのためには自発的な目的が心の内にわかなければならない、言葉を変えればそのような衝動に駆り立てられる状況に置かれてなければならないという事です。

「人間は自らの決断によって」

とはそうなる自分がなければならないわけで、作られた私がいることになります。

 聞く、見る意思がそこにありそのような選択をする、その結果、有意義に思うことになります。

 目的があって行動するのが人間

 戦争というものは、正当性の戦いです。

 不条理なことでも反倫理的、反道徳的なことでもその正当性を主張して行われます。

 選択した行動に対して正当性の主張する。

 正当性の彼岸には、反正当性的な、不条理なこと、反倫理的、反道徳的なことの結果が現われています。

 想像の範疇でも、内心の自由意思でも、そこにはその観念が現われているのです。

 神も仏もない世の中

においては、心の内を覗かれることはありませんし、何を思っても自由です。

 斯(か)くして「人は自由の刑に処せられている。」

 したことの責任はみずからが負うことを宣言する。

 宗教戦争

いつの時代でも「神も仏もない」戦争がくり返されます。

 無責任男

 日本が実存主義に湧くころ「無責任男」がおお流行でした。責任とは結果なのであって、そのような結果になったことは仕方がないこと、取り返せないこと、損害賠償が悉く原状回復、何事もなかった過去に戻せるかというと絶対に後戻りはできません。

 そもそも人間行為の本質が問題であって、目的意思による行為、目的的行為それ自体がを考えるべきではないかと思う。

 行為とは身体の動静、それが法益侵害に当たることの認識や如何に。定型的発達者においてはそのような行為はしないだろう。ということで責任能力の有無が最終的な判断になる。

 人格者ならばそのような行動はしない。

というのが今の社会の普通の考えですが、「神も仏もない」、内心を覗かれることのない、・・・・共通善に導いてくれる内心の働きがの有無・・・・自分でさえ解からない。

 サルトルの『嘔吐』はそういうことなのか。

 私などは唖然と、あるがままの月が見える。

 実存は働きの内にあるのであって、本質の彼岸には実存があり、此岸においては大地があるだけなのだと思うのです。

 存在とは今あることの一点に集約され、それは時と共に流れゆく

 「目的」の先行を語りましたが、在ることに気がつきます。気づくとはそのような思考転回をするからで、早い話が、物事にこだわることなく淡々としていればよいことかも知れない。

 ここでまた、しかし・・・・味気のない、素気がない日常なんて面白くもない。

ということも考えたくなります。まぁそのような話はさておき、『実存主義とは何か』の25分は短く、300万部も売れた本だという事実は、欲するところ、欲する時代性があり、あったというこです。

 「神も仏もあったもんじゃない!」

という事態が、第二次世界大戦の経験、体験の中で現われ、『実存主義とは何か』が多くの人々の心をとらえたことは事実です。

 これからは自由な世界、自己責任において何でも自分で決することができる。怖れるものは何もない。

 自分の行動は正しい。その正しさ正当性を語ろうとするとき、裸の存在から始めるのが・・・・という発想があるとサルトルは思い立ったに違いありません。

 好き勝手な主張であるならば批判を浴びることになるが、せめて自己責任をつけ足そう。

 現代社会は、最終的に責任性が最後になります。話しのくり返しになりますが、

 構成要件に該当し、違法性の認識があり、そこに責任能力があれば処罰しよう。

 罪刑法定主義は、そのようになっています。

 法律に規定されたている犯罪を構成する行為の類型に該当する行為であり、その行為を違法なものと認識した上において結果を惹起したならば、その責任を取ってもらう、その能力に欠ける責任無能力者ならがその責任は阻却される。

 しかし思うのですが、私という存在が行為をすることにおいて、そもそも私は今何をするのか、しているのかという選択の意識が先行していれば、無責任輩が横行するような事態にならないのではと思うのです。

「人間は自らの決断によって自分を作り上げていかなければならない。」

もいいが、

「経験が人を作り上げていく」

ものでもあるのだと思うのです。

 経験は当然、善いことことばかりではなく、悲しみや苦悩、総じて悲哀も含むものでこの方が重なのが人生というものだと思うのです。

サルトルの話から人生哲学の話に、それも一貫性のない話に終始してしまいました。

これからいざ出陣です。


安曇野の秋

2015年11月04日 | 風景

文化の日 秋晴れの中北アルプスの中房渓谷から池田町の美術館などを巡りました。中房渓谷の紅葉も間もなく終わり、渓谷から大天井岳方向を見るともう雪山になっています。

 





燕岳、大・東天井岳、そして横通岳から常念岳へと縦走の出来る登り口にもなる中房渓谷のこの道の秋の色です。

午後は池田町の美術館に出かけ、安曇野平と北アルプスを一望しました。



標高2000mには雪



雲で見えませんが、パノラマ写真の解説パネルを見るとよくわかります。

そして、ご近所の鐘の鳴る丘へ、



やはりここは見事でした。桂の木から漂う甘い香りの中、陽の光に赤や黄色の葉が輝いていました。 


 

 

 


サルトルはつくりつくられる

2015年11月03日 | 哲学

 「岩に立つ矢」の喩と云えば「固き心の一徹は、岩に立つ矢の喩えあり」という中国古典「韓詩外伝」の楚の熊渠子(ゆうきょし)の話や,「史記李広伝」の,虎と見誤って石を射たところ矢は石を射通した、一文から人生訓として座右の言葉としている人もいるかと思います。

 固い信念を持ち事に臨めばことを成就する。心をこめて事にあたれば,どんな難事でも成就するという喩え。

 で「成就(じょうじゅ)」という言葉そのものに、願いなどのかなうこと。物事が望んだとおりに完成すること、という意味があり、端的に「大願成就」という四字熟語でもその真意は伝わると思います。

念力岩を通す。

というと昔は念力、超能力で矢を岩に通す人がいたなどとトンデモ話を語る人もいるかもしれませんが、それはさておき現代でも「希望は必ず実現する。」というような本を目にすることがあります。

 人はどのような時に希望をもつのか。

 唯一パンドラの箱の中に残された人類救済の働き、その働きの源は「前知魔」という悪魔の力の逆作用を行う「何者か」で、ある意味「希望神」とでも言えるかもしれません。

 ゼウスは人の世の幸福な日常を確保する働きの力の神の要素を箱にいれ女神パンドラに渡す。好奇心の強いパンドラは愚かにもその箱を開けてしまいます。

 ゼウスは何を企んだのか、神の火を盗んだプロメテウスに対し怒り平和な人間社会を反作用的な力(魔の力)で破壊しようとしたのです。

 善の要素の神々は、箱から放出された途端に、悪しき諸々の悪魔に変身しこの世の災厄はこの時から始まりました。ギリシャ神話とはかくも考え抜かられた世の理法を説いているように見えます。

 「世の中とはそういうことになっている」

 世の中に転ずるということがあるから相対世界において人は知を求め、認識もできるのかも知れません。

 「パンドラの箱」を考えれば考えるほど深い話です。

 サルトルの実存主義が明日から100分de名著で語られます。そのような関係もあってサルトルという人を再び見ると「念力男」で「希望は必ず実現する。」流に生きる人だったように見えます。

 どのような体験、経験がそのようなことを考えるに至るのか、

「永山則夫の精神鑑定書」から見えてくるもの(1)[2012年10月23日 ]

永山則夫の精神鑑定から見えてくるもの(2・完)[2012年10月24日

をアップしたことがあります。そこでは永山死刑囚がその出生、そして生活環境が彼をどのように作り、彼自身が自分をつくってきたのかを考えさせられました。

 サルトルの私生活、ボーヴォワールとの関係やその他の人々との関わりに、個人的には善き生き方とは思われない要素がたくさんあるように思います。

 「何があなたをそうさせた。」

 サルトルの実存主義は、自分の行動の理由付けのために、正当性のために思い立つに至った思考の産物のように思われます。

「創るのは自分だ!」

と、サルトルは思う。そして人は何故、神ながらの道を歩むことができるのか。・・・・懐疑

 考えて見れは人は孤島の人ではないか。

 裸のサルトルが独りでそこにいるわけです(単独人間)。

 サルトルは思う、神の道を行く人々は、キリスト教的実存主義者ではないかと。

 そもそも人間は自由の刑に処せられ、自分の責任において生きればいいのではないか。

 ボヘミアンに生きればいいのではないか。

 世の柵(しがらみ)を離れ、伝統や習慣にこだわらない自由奔放な生活をすべきではないか。

 まさにサルトルという単独人間がその裸の実存において、着込んだものが実存主義ではなかったか。

 過去に多くの若者が着込んだ「もの」、この「もの」は働きです。

 希望は箱内にいまだに残され前知魔は存在しないはずなのになぜか。来たらざる未来を想定し不安に慄く、戦慄が走る。

 全ての魔は放出されたように思える。

 科学技術が進み明日が分る、今まさにおとずれようとする事態が解かる世の中になります。

 この子は遺伝的な病気がある。生誕以前に解る世の中。

 サルトルは考える、裸の実存に何を着こむべきか。

 自由奔放

「いいのかなぁ」と、初老の爺は思うのです。

「固き心の一徹は、岩に立つ矢の喩えあり」

「希望は必ず実現する」

そのためには自分はどうあるべきか、無神論者はどうしたらよいのか、心折る必要はありません。

 心を織りなすための努力を自らが発見することだろうと思います。

 その逆作用が必ず働きとして問いかけるに相違ないのです。

 相対の世界が放たれた中においてそれ以前のビックバーンがあったことを知る。

 渾沌から目覚めることが唯一人に残され、また渾沌に納まる自覚も唯一残されている。

 人間には「知性」があります。なぜ私たちには知性があるのか。その謎の解明は遺伝子にあることをNHKスペシャルの「生命大躍進」で知りました。偶然か必然かと相対的に考えてしまいますが、認めざるを得ない事実があります。

 人には学ぶ道があります。教養を身にまとうことができるということで、九鬼周造先生に感謝ですが「実存」という言葉はとても考えさせられます。九鬼先生もサルトルに似た自由奔放がありますね。

 話が止まらないのですが「偶然」という言葉、ヤスパーズも語りだすところですが、実存には、必ず偶然・必然を想起するように思います。「あることの不思議」が根源でしょうがおもしろいですねぇ。