思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

しっかりしなさい!

2013年07月30日 | 思考探究

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 どう考えても話している内容を理解することができない、そういう相手に出会うことがある。本人は一生懸命に話しているのですが分らない、「支離滅裂な話」としか言えない場合です。

 V・E・フランクルの著書に次のような記述があります。

 精神分裂病の患者の中には、その話し方が偽の言語と解釈されても仕方がない話方をする人がいる。つまり、気分だけは表現しているにもかかわらず、その言葉で表現しようとしている現実、その言葉が指し示す現実が存在しないのである。(フランクル著『<生きる意味>を求めて』春秋社からp103)

 精神分裂という言葉はいまは統合失調症と呼ばれますが、「絶対におかしい」と思うわけです。今朝は精神病患者の差別的なことを書こうというわけではありません。それを最初に断わっておきます。

 最近のオレオレ詐欺は、特殊詐欺という名称に改められたようです。「オレオレ詐欺」がなくなったわけではなく手口が巧妙になったからで、騙しの言葉も「信じさせる」ことに巧みな技を使います。より現実的なリアルな演出がそこでは偽りで彩られます。

 間違いなく結果は、偽りの言葉でした。進行中ならば偽りの言葉です。

 被害者側からすれば「支離滅裂な話」ではなく、今まさにそうであるという現実体験を進行させ続け、被害の道へと進みます。

 何が偽りであって、何が確かな話なのか。

 そこで言えるのは、現実存在としての人と人の会話です。会話が成立するには出会いがなければなりません。実存同士の体面です。

 会話には現実を離れた部分があります。希望的観測もあれば過ぎ去った過去話もある。

 偽りの言語には今まさに現前を離れた、創造が含まれるとも、想像が含まれるとも言えるかもしれません。

 結論的にはしっかりしなさい。

という話なのですが、世の中には偽りの言葉が多すぎます。メディアから流される言葉は、ほとんどが希望的観測か、災厄的悲劇です。

 やはり結論的には、己に言い聞かす。

 「しっかりしなさい!」と。

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ただわが身をも心をも、はなちわすれて

2013年07月29日 | 思考探究

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 図書館のDVD・CDの貸出しコーナーを見るとカセット版の文庫コーナーがありました。どんな作品があるのか見てみるとNHKカセットラジオ深夜便カセット文庫3『東井義雄~子供の心が育つ時・仏の声を聞く』が目にとまりました。

 平成2年12月9日のEテレ「こころの時代~宗教・人生~」で放送された番組の音声のみを収録したものでした。「こころの時代へようこそ」ではNo.104で文書化されています。

 これも縁かとこのカセットを聴くと、今まさに説教を受けている、受ける機会を与えてもらえるはからいに、その声の意味が響きました。先生はこの放送の2年後に逝去されているのですが、今も数々ある講話は書籍になり読まれています。

 先生の「仏の声を聞く」は、V・E・フランクル研究家で哲学者の山田邦男先生がフランクルの思想に重なることを指摘されていましたが、「悲しみをとおさないと見えてこない世界」に「意味への意志」「生きる意味」「意志の自由」のフランクルの言葉があり、東井先生は仏のはからいを説かれ、フランクルは人には精神的無意識の意味器官がありそれが自己超越という苦悩する自分の意識転換をはかることを指摘します。

 苦悩が消滅するのではなく、その意味がストンと自己に落ちる。

 創造価値、体験価値、態度価値として説明されるがそれは同じように人々に訪れるものではありません。独りとして同じような人はいない。人は唯一絶対の存在です。

 東井先生は、「代わる者あることなし」という唯一絶対の「お前しか居ない」ことを強調します。変わってくれるものは居ないという意味での「代わる者なし」ではないということです。

 「お前しか居ない」とは絶対存在を教示する自己超越した自己の声であり、仏の手のひらに保護される実感なのかもしれません。

 東井先生は次のように述べています。

【東井義雄】 私が見ているつもりですけど、見させて頂いているんですね。聞いているつもりですけども、聞かせて頂いている。

 聞く耳も何もかもみんな頂き物なんですね。呼吸もそうです。心臓もそうです。生かされているみ手の真ん中の私たちなんですね。

 どうしてもお祈りがしたい。お祈りするのが、仏さまであり、神さまである、という頂き方が随分根強くみなさんの胸の中に根を張っているようなんですね。

 そうでなくて、拝まない先から拝まれている。仏さまの方から「どうぞしっかり頑張って生きてくれよ。どんな苦悩も乗り越えて生きてくれよ、と拝まれ、祈られ、願われている私だ」ということなんですね。

 そうなってみますと、そのことに、こちらがする余地は何にもない。大きな願いの水の中に、私の全体をすっぽり浸(ひた)らせて頂く以外にないわけです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「こちらがする余地は何にもない。」

という言葉に、主観の主要な特性を語るフランクの言葉が思い出される。

<フランクル著『<生きる意味>を求めて』春秋社から>

 私が言いたいのは、あらゆる主観の主要な特性についてである。つまり、主観はその自己超越的な特質、あるいは認識行為の志向的特質によって、常に認識主観の志向的相関物としての客観に、言い換えれば認識行為がたどりつこうとしている「志向対象」に関係づけられているということである。

 主体が単なる“モノ”にされ(つまり“物象化<reification>され”一つの客体にされている限り、主体と密接に結びついていた志向対象は必然的に消されてしまい、その結果、結局は主体の持つ自己超越的あるいは志向的な特質も完全に失われてしまうのである。

 このことは人間に対してのみ当てはなることではなく、あらゆる人間的な現象に当てはまる。私たちが何らかの人間的な現象を実現しようとしてそれについて頭で考えれば考えるほど、ますます志向対象は逃げ去ってしまうのである。

<以上同書p125-p126>

 難解ですが、言葉を追っていくと言わんとしているところが見えてきます。東井先生は京都学派の『哲学以前』で有名な出隆(いで・たかし)の次の言葉を上げます。

 水には、浮力がそなわっている。だから、心を無にして、身も心も水に預けると、おのずから浮かぶ。
 しかるに、水に溺れる人があるというのはどういうことであるか。
 溺れた人を考えてみると、案外、浅いところで溺れている。
 浮力に足をすくわれ、「しまった!」とあわててしまい、その「心の重み」で溺れているようである。<以上>

 フランクルは、

 「リラックスする」ということもまた、それ作りだそうと試みた瞬間、私たちの手からこぼれてしまうものの一つである。<上記書p126>

と言いいます。

 東井先生は浄土真宗の僧侶で、番組も子どもの頃の浄土三部経の教えからの気づきからはじまるのですが、上記の教示の世界を語る道元禅師の言葉を紹介しています。
 
 ただわが身をも心をも、はなちわすれて、

 仏のいへになげいれて、仏のかたより

 おこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、

 ちからをもいれず、こころをも、

 つひやさずして、生死をはなれ仏となる。

       (道元「正法眼蔵」生死の巻より)

 言葉は多様ですが、いのちの流れにおいて迷いの世界、分別の世界を破る気づきの機会を多く与えてくれます。 

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人類遙かなる旅路・科学の目が語るもの

2013年07月28日 | 科学

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 今年の2月3日のサイエンスZEROという番組で「湖に眠る奇跡の堆積物」という番組が放送されていました。福井県の水月湖の湖底の堆積層は、歴史のモノサシとして世界的に注目されるているという話で、7月25日のニュースウオッチ9でこの水月湖の堆積層について「歴史を変える新尺度~7万年分の軌跡の地層~」と世界的に認めたことが紹介されていました。

 福井県の水月湖は地図帳で見るといくつかある湖のひとつですが、その地理的場所的な関係から湖の固い地盤の湖底の上に堆積した縞模様の地層が年縞(ねんこう)といって7年分の情報が詰まったものなのだそうです。

 45mの年縞。それはプランクトンの死骸の堆積物が白い層を形成し、秋の周辺の山々から風に吹かれて湖面に落ち、その落葉は固定へと沈み黒色の層を形成していきます。その白黒の層は1mmにも満たないものですが1年分を示し、45mの堆積層で数えると7万年分の世界に類のないもので奇跡の地層なのだそうです。

 年縞の地層に含まれる植物の葉のこの葉に含まれる炭素を計測し、発掘され土器に含まれる炭素量とを比較すると年単位で正確な年代が分るということで、日本の縄文時代の最古の土器とされてきた16900年前の土器をこの方法で調べると16652年前であったということです。

 「歴史を変える新尺度」というのはこういうことで、その確定力には驚きです。

 この7万年のモノサシに昨夜(27日)放送されたこれもまたNHKの「地球ドラマチック~人類 遥かなる旅路Ⅲ」このシリーズの最終回になるのですが、7万年前にアフリカ大陸を旅だった数百人の現生人類(ホモサピエンス)はついに南北のアメリカ大陸に到着します。

 水月湖の年縞はこの番組では年代特定のモノサシとしては紹介されてはいませんでしたが、7万年のいう言葉は正にこの年縞の7万年に相当するのですから、面白いですね。

 「地球ドラマチック~人類 遥かなる旅路」では遺伝子による化学的な分析も紹介され、世界に満ちあふれる人類は「イブの7人の娘たち」によるものであって人類皆兄妹で『人種は存在しない』(ベルトラン・ジョルダン著・中論公論新社)は正にそのことを指摘しています。

 面白いのはシリーズⅡで「アジアへの到達」が取り上げられ「中国人」の話がありました。

 北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)は、ホモ・エレクトスで180万年前にアフリカ大陸を離れた原人で100万年前に中国に到着しました。

 中国人は「地球最古の民族である」というのが、今の中国人の科学的共産主義、中国民族の復興教育の成果で、中国人の認識なのだそうです。

 番組では、中国人のミトコンドリアDNAの遺伝子解析が紹介され「イブの7人の娘たち」であることが明らかにされていました。すなわち固有の遺伝的特徴が認められず、すべてはアフリカを起源とする現生人類の血を引く者たちというわけです。

 日本にも「大和民族」なる民族が固定された存在としてあるよに思う人がいるわけで、中国人の北京原人祖先説を一方的に一笑に付すわけにはいきませんが、対立の火種は知らないというよりも、知る機会が与えられないこと、知ろうとしないところにあるように思います。

 以前にブログに書いたことですが、上海の漢族、中国南部の少数民族、中国東北部の少数民族、台湾の漢族、北京の漢族、韓国人、琉球人、アイヌ人のミトコンドリアDNAの世界は、すなわち日本本土に住む人々のミトコンドリアDNAの世界に重なるわけで、「人類みなきょうだい」なのです。

 4万年~3万年には日本列島が陸つながりのこともあり旧石器人が来ていたようです。そして1万6600年前には縄文時代がはじまっているというわけです。 

 人類はどうして東に進んだのか。

 『人類20万年 遥かなる旅路』(アリス・ロバーツ著・文藝春秋)が上記の地球ドラマチックのテキストになります。遥かなる人類の旅路は、命を継続するための食料も求める旅路でもあったわけで、道具の発明、自然の恵みに対する感謝の姿勢などが語られています。

 日本列島に住む一人として、東に進んだ「どうして」に深遠なる理由を求めたい。

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「天の正しさ」と「走馬燈のいのち」

2013年07月26日 | 思考探究

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小さな灯(ともしび)、大きな灯

 そんな言葉が頭を過ぎる。「ともしび」という響き、どういうわけか聖書が連鎖する。「こころのともしび」という小さい頃のラジオから流れていたキリスト教のある宗派の番組の女性のナレーションの言葉の影響なのかもしれません。

 命ということ言葉や人を感応させる、共感させる人柄から射し込んで来る温もりのようなものも「ともしび」という言葉の響きの中に感じます。

 私のブログはポジティブ思考かネガティブ思考かと問われれば個人的にはその区別はなくひたすら現象学的な志向性の流れが意識のそこにある・・・ただそれだけです。

 しかしそうはいっても「ともしび」という響きは暗闇があってこそ「光」の存在があるように明暗の内を離れることはできません。

 それはまた他者(ひと)それぞれの気持ちのとらえ方になるように思います。つい最近読んだ読売新聞(7月24日付)の第一面に掲載されている『編集手帳』の記事に心が奪われました。批評という価値観で言うならば「共感記事」の部類に属する話です。

 「孔子のすぐれた弟子、顔回(がんかい)は赤貧のうちに死に、大悪人の盗跖(とうせき)は天寿を全うした。・・・」という話からその記事ははじまります。

 そして東京都調布市で起きた小学校5年生の少女の死が語られます。

 著者の意を決して曲げるものではなく、あくまでも個人的な思考の過程における志向の展開という、ある種目、個人的な覚めの話しなので引用させていただきます。

< 東京都調布市の小学校で5年生の女子児童が給食後に死亡した事故である。アレルギー食材の粉チーズを抜いたチヂミを食べたあと、おかわりで粉チーズ入りを食べてしまったという。そのクラスは残飯を出さない「給食完食」を目標にしていた。体調不良を訴える前、「完食に貢献したかった」と友達に話している。皆と同じ物を食べられない日も多く、何とかしてクラスの役に立ちたかったのだろう。天からご褒美をもらっていいはずの、けなげな心である。・・・・顔も名前も存じ上げない少女の、小さな影が胸のなかで回っている。まじめで心のやさしい、いい子だったろう。>

 天はどうしてこんなにも残酷な事実を突きつけるのだろう。

 「編集手帳」の担当者は司馬遷の『史記』から<天道は是か非か>(天は必ず正しいのか)と問いとして、この少女の話を語っています。

 この出来事に対しては、教育現場のあり方をはじめいろいろな問題提起がなされ、「このようなことが起きないために」という対策という面で語られることになると思います。

 個人的に、『編集手帳』の視点は「天はどうしてこんなにも残酷な事実を突きつけるのだろう。」で言葉を換えると「自然は、どうしてこんなにも残酷な事実を突きつけるのだろう。」という問いでもあると思うのです。

 少女の命ということで「小さな灯」を想い、混沌とした真っ暗闇を照らす「大きな灯」の事実にもみえる。

 「大きな灯」とは「考えさせられる提示」でまた「暗示」のようにも思えます。それは決して、心の外からくるという物理的な話ではなく「自己」を「超える」というV・E・フランクルの「自己超越」という「意味への意志」の問いかけに思えるのです。

 これ以上は言及しない方がいい。

『編集手帳』には久保田万太郎さんの「走馬燈のいのちをかけてまはりけり」という俳句もともに載せられていました。

 

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人が自由に選べるもの

2013年07月24日 | 思考探究

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 二人の人間に同じ災厄がおとずれたときに、精神的に抑圧された状態になるか、そんなことはものともせず跳ねつけるか、言葉を代えれば恐怖に駆られるか、勇ましく毅然とした態度でいられるかという、場面を想定します。それを災厄とは無縁な状態にいる第三者の私がその場面を目撃しているとします。

 目撃している私はそれぞれに何を感じ、どのような言葉をかけるだろうか。


 毅然とした態度に賞賛の言葉をかけるのか。

 慰めの言葉をかけ、頑張れと声をかけるか。

という言葉をかけるのだろうか。

 最近V・E・フランクルの『<生きる意味を>求めて』(諸富祥彦監訳・春秋社)の言葉を引用していますが、「決定論とヒューマニズム」のなかに態度選択の自由について次のような話が書かれています。

<V・E・フランクル著『<生きる意味を>求めて』春秋社から>

・・・人間の自由が暗に意味しているのは、人間は自分自身から引き離すことができる、そうした能力を持っているということである。私はこの能力のことを、こんな物語で例証してみたい。

 第一次世界大戦の時のことである。ひどい爆撃が始まったので、一人のユダヤの軍医が、ユダヤ人ではない彼の友だち、貴族出身の大佐と、たこつぼのような塹壕の中で並んで座っていた。からかうようにその大佐は言った。

「怖いだろう、君は。それこそ、アーリヤ人がユダヤ人よりも優れているという証拠さ

軍医は応える。

「そう。僕は怖い。しかし、どちらがすぐれているんだろう。怖いにもかかわらずここにいる僕と、怖さを感じないからここにいられる君。親愛なるわが大佐殿、もし君が僕と同じくらい怖がっているなら、君ならとっくの昔に逃げ出していってたはずだ」

 考えてみるべきは、人が不安や恐怖を感じているかどうかではなく、不安や恐怖と向き合った時に取るその人の態度の方である。この態度は、人が自由に選べるものなのである。・・・

<上記書p71-p72>

 災厄はパンドラの箱が開かれた時からというよりも宇宙の誕生からあるに違いありません。

 フランクルの「人が不安や恐怖を感じているかどうかではなく、不安や恐怖と向き合った時に取るその人の態度の方である。」という言葉にはこころ打たれるものがあります。

 3.11東日本大震災や原発問題は突然おとずれた災厄、可能性のなかで注意を怠った愚かさから招いた災厄ともいわれています。

 絆という言葉が叫ばれるとともに、現実には助け合い以前に人間性が現れる事態もあり、また現在もその事態は変わらない。

「この態度は、人が自由に選べるもの」

この言葉に、その人がもつ人間性の深みのなかからの応じる態度選択の姿があります。

場面は、常に眼前に開かれている。そこに態度選択の自由が人間性のなかから応じる。

人は何を考えなにを思い生きているのか。

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違いの中で見えてくるもの

2013年07月23日 | 思考探究

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 先日NHKの先どり“きょうの健康”番組で、「気になる子どもの発達障害」題し、小児科医で発達障害、脳性麻痺、てんかん等の神経疾患が専門で、お茶の水女子大学大学院教授の榊原洋一教授が「子どもの発達障害」について語られていました。

 番組は三日に分け次の三点

 その原因
 どう向き合う
 症状に合った治療

についてわかり易く解説されていました。

 普段は変わった様子はない子どもたち、ところが

A君は、周囲に馴染めず一人遊びに没頭

B君は、じっと座っていることができない

C君は、音楽ができない

という特徴的な症状がある。

 という話で、LD(知的障害)の話を以前書きましたが確かに私の過去記憶をたどると、実際小学校、中学校時代を振り返ると確かにそのような仲間が居た記憶があります。

 上記の三例は発達障害によく見られる特徴で、これがみられるからと言って発達障害というわけではなく程度とか頻度により本人が困っているという限度を超えた場合に発達障害という判断がなされ支援が必要となる。

 障害と言っても一般的に言う障害とは異なり、どちらかというと個性とか性格に近いものであるとのことです。

 発達障害の子どもたちに共通して言えるのは、生まれつき自分の気持ちをコントロールしたりその場の雰囲気や他人の意図を理解する力が弱かったりする場合に、上記のA・B・C君のような状況が顕著に現れることになります。

 そうなった場合に、幼稚園とか小学校等で対応が困難になってきた場合に発達障害と判断され治療的対応がなされていくことに成ります。

 平成24年末の文部省の調査では、全国の公立小中学校に在籍する児童生徒の6.5%が発達障害の可能性がありこの数値を基に計算すると全国の児童生徒のうち約61万4千人が該当するということです。それを1クラス40人で計算すると1クラスに2~3人の割合でいるということになるようです。

 私の子どもの頃はおかしなやつがいるなぁ程度の認識で過ぎてしまいましたが、今は親御さんも先生も共通認識に立ち他の子どもたちにそれなりの説明がなされて専門医の適切な指導を受けて行くならば、他の子どもたちも含め教育現場における生きる意味の理解にもつながるように思います。
 
 無理解が差別やいじめ、不適切な対応になり尊い命の奪うことに場合もあると思いす。また一方他の子どもにはみられない特異な才能を持つ子どもたちもいるわけです。

上記のA・B・C君の場合、専門用語で表すと、

A:広汎性発達障害(自閉症スペクトラム)
  自閉症・高機能自閉症・アスペルガー症候群

B:注意欠陥多動性障害
  ADSL

C:学習障害
  LD

の可能性があるということになります。

 人間とは「多様であるにもかかわらず統一されているもの」と定義され、心身論の問題とは、どうすればこの「多様であるにもかかわらず統一されている」という、矛盾に満ちた考えを説得力あるものにすることができるかという問題である。

と言われます(V・E・フランクル『<生きる意味を求めて>』p63から)。

精神医学の世界は昔とは比べものにならないほど進んでいます。

 こころとからだ自分はどのように考えるか。

 違いはあるが違いのなかにも命は常につむぎ出されてゆく。

 今朝は、萩の葉のまわりに輝く水滴を見ました。

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日本列島の夏

2013年07月22日 | 風景

 植物写真家の埴沙萠(はにしゃぼう)さんの足元の小宇宙、生命を見つめる世界で稲のおしっこを知ってから、早朝に見る稲に生成する光り輝く水玉に足を止めることになりました。

 気温が低い時に余計な水分を放出するようです、今朝も輝いていました。安曇野有明の山麓の家々には紫陽花が今盛りです。真言宗の松尾寺の紫陽花はあおいんですねぇ。

 それもバックに水車小屋の茅葺屋根があると一枚の風景画になります。



こんな姿もありました。

 今日は月曜日。新しい一週間が始まります。衆議院議員選挙も終わり、早くも来たらざる未来に慷慨の声が聞こえます。因に最大の責任があって結果には責任はない。民主国家に在っては多数が少数を抑圧すると考えればいつまでも慷慨の念に囚われる。

 多数も少数もあったものではない。流れのなかでそのような姿が現れるならば結局その中で意味を問われ、意味に応答し生きるが肝要であろう。

 あらゆることに備える。

 自然は時には牙をむける。

 人間も自然のなかの一員であることを叫ぶ人ほど備えを忘れる。

 7万年前に東へ東へと向かった人々。

 自然の豊かさを求め、また争いの大陸から東の希望の国を求めて回帰の心で海を渡った人々が集う列島。

  それが今の日本。

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松本市自殺予防対策推進協議会で語られたことから

2013年07月21日 | 哲学

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 7月18日に松本市自殺予防対策推進協議会の本年度会議が開かれた。約30人の委員が集い昨年の自殺者の現状と防止の為の対策について意見が交わされた。この話があくまでも地元紙に書かれていたことで、私は委員でもなくこのような問題に心動かされる一市民であることを前もって言明しておきます。

 その18日の午後6時から8時まで、よく哲学講座で聴講に出かける信州大学人文学部人文ホールで倫理学・西洋哲学がご専門の三谷尚澄准教授による「若者のための〈死〉の倫理学」という講義があり、副題は「いま (さら) 哲学/人文学 (なんか) に何ができる (というの) か?」というものでした。一般にも公開された講義でしたが平日の夕方6時はどうしても都合が悪く受講できませんでした。

 多分最後には質問時間もありかなり貴重な意見も聞くことができただろうと思うと残念です。これも何かの縁でありまして偶然性のなかでこの出来事、内容について知ることになるかもしれません。

 さて最初の協議会の話になりますが、昨年の自殺者数については新聞にも掲載され以前ブログにも書いたような気がしますが、昨年平成24年度の全国の自殺者数警察庁調べで2万7858人でした。一昨年の23年に比すと2793人減で3万人というのが例年の恒常的な数字でしたので、ある程度の対策の効果があったように見受けられます。

 長野県はどうだったか。全県で480人で前年度比21人減。そして松本市は44人で前年度比19人減でした。

 全国の人口が、128057352人で0.0275%

 長野県の人口が、2152449人で0.0223%

 松本市の人口が、243052人で0.01810%

となります。身近な死という問題は、病死や事故、自然災害等がありますが交通事故死と比べてみると次のようになります。

 昨年の交通事故死亡者数が4411人で、長野県が97名で松本市はとなるのですが解りませんでしたが、この自殺という問題が身近な死の現象として交通事故の遭遇による死よりも高いことがわかります。

 自殺はある意味では故意であり、交通事故死は過失で自身にその原因があるものや全く落ち度のないもの(被害者的立場)までが含まれます。

 協議会の話にもどりますが、課題としてうつ病患者や多重債務者への自殺予防対策が一定の成果を挙げている中で自殺者に占める高齢者と若者の増加の傾向にあるということ、その対策はどうあるべきかが問われるところであるようです。

 高齢者のうつ病の増加についてはブログに書きました。若者の自殺には昨今いじめからの自殺問題も後を絶たず、これについても書いてきました。

 同協議会の信州大学医学部付属病院長大野直二会長は、「自殺対策のネットワークを強化し、情報を共有することで一人でも多くの人を救いたい。」と述べられていたそうですが、痛いほどわかる話です。

 何かすべき、という時に、行政的機構が一本化されていて想いが行き渡る。

 「いま (さら) 哲学/人文学 (なんか) に何ができる (というの) か?」

は、過去とこれからを今に問う課題ですが姜尚中さんの『心』『続・悩む力』そしてNHK『地方発・ドキュメンタリー「二度生まれ 姜尚中 息子への道」』は深く考えさせられます。

 『鉛筆部隊と特攻隊』『きけ わだつみのこえ』の文頭の上原良司の遺書にいう自由主義の自由の意味するところ、どんな場合でも極限的苦悩においても選択の自由は平等に開かれています。今まさに自分がしようとする瞬間において委ねられています。「ゆだねられる」とは「まかされる」ているということで委任されているという言葉になります。

 そこに他人はどのような関わりを持てるのか?

 W・ジェイムズは『宗教的経験の諸相』(岩波文庫)に次のように語っています。

<『宗教的経験の諸相』上から>

・・・・ある人々は最初から調和的で良く均衡のとれた内的素質を持って生れている。この種の人々のもろもろの衝動はお互いの調和を保っており、彼らの意志はなんの苦も無く彼らの知性の指示に従い、彼らの情熱は過度に陥らず、彼らの生活が後悔に念につきまとわれて苦しめられることはほとんどない。

ところが他の人々は、それとは反対の素質を持っていて、しかもその程度の差によって、あるいは単に風がわりで、あるいは気まぐれで一貫性がないというだけの軽度なものから、極端に不都合な結果を招きかねないような不調和にいたるまで、さまざまである。・・・

<上記書p254>>

 まさに人さまざまです。V・E・フランクルは「人は常に生きる意味を探し求めている。」と語り、この「意味への意志」はアブラハム・マズローの言うところの「人間の根元的関心」であるといいます。

 そして以前ブログにも書きましたが動機理論の人間観における刺激に対する「反応」や「解放」ではなく「応答」ではないかとし、

 「人は、人生がその人に問いかけてくる問いに応答しようとし、それに応答することによって、人生が差しだしてくれる意味を満たしているのではないだろうか。」(以上『<生きる意味>を求めて』春秋社・p33-p34から)

 私自身ジェイムズの言うところの「他の人々」の一員であると思っています。それだけに逆にフランクルの「応答」の考えに強く魅かれます。

 その時その人は何を選択するのか。

 コロンビア大学の心理学者アイエンガー教授の「選択の科学」のアンコール放送が今月末から予定されています。

 人生とはその時々の選択に違いなく、ある面統計学的数値に左右される現代ですが、その判断は自律的な個であろうと思います。そして、そこに委任がある。誰から委任されているのか。

 存在そのもののであり、何か足りない実存としての葦のような存在の私で生(あ)るとも言えそうです。

 「若者のための〈死〉の倫理学」という講義、結果が知りたい。

※ 午前7時5分に参議院議員選挙県区・比例区の投票に行ってきました。5番目でした。

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遷宮に従事する信州人・茅葺屋根職人の松沢敬夫さん

2013年07月19日 | 民俗学

 現在伊勢神宮では20年に一度の遷宮が行なわれています。最近地元紙の信濃毎日新聞を見ていると長野県北安曇郡小谷村中土の茅葺(かやぶき)屋根職人の松沢敬夫(まつざわけいお)がこの遷宮にたずさわっていて、地元の人々がその姿をドキュメンタリー番組に制作するという記事が掲載されていました。

 松沢さんは現在72歳、若い時には小谷村の消防団員長をおやりになったり、小谷村は栂池などのスキー場がありスキーのメッカで、今では想像もできませんが中国の若い人のためにリサイクルスキーを送るという事業に参加されるなど多くの社会貢献をされている方です。

 現在は跡継ぎの息子さんもおられ最後の方向という決意で従事されているとのこと、地元のテレビ局で貴重な茅葺屋根職人として時々取り上げられてもいました。

 記事によりますと監督は都内で劇団を主宰し、ドキュメンタリー制作も手掛ける斉藤豪さんで、4年前に小谷村の棚田のオーナーになったのが縁だそうです。

 松沢さんはその他に多くの文化財の保存に貢献されてきた方です。自然とともに生き、人のためにと生き、その人柄は第一級です。

 松沢さんは3年前から伊勢に滞在しながら伊勢神宮の式年遷宮の準備にたずさわり、来春まで作業をするそうです。

 健康に留意して頑張っていただきたいと祈念します。

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二度生まれ・姜尚中

2013年07月18日 | 思考探究

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 政治学者の姜尚中さんを意識し始めたのはEテレの日曜美術館であったと思う。そのご同じEテレの100分de名著フランクルの『夜と霧』の最終のゲストででられた時に決定的に意識に残る人になりました。

 『悩む力』『続・悩む力』

そして今年4月の100分de名著夏目漱石の『こころ』の講師、紹介者、解説者として。

 そこで語られていたのは、青年が体験する先生の遺書、先生の話に出てくる先生の同郷の幼馴染Kの自殺、そして先生の問い「まじめ」の意味するところ・・・・読者がそこに見るものをあれやこれやと思考している中で、姜尚中さんという方がこれほどまでに「苦悩」の只中にいたとは知りませんでした。それまでの私は、姜さんが在日であるなかでという安易な想像で、私は理解していました。

 昨日NHK総合で、地方発・ドキュメンタリー「二度生まれ 姜尚中 息子への道」 が放送されました。

 4月に姜尚中著『心』集英社 (2013.4.5) が出版され、読まれた方は直ぐにその意味がわかるに違いありません。4年前、26歳の息子の尚大(なおひろ)が自ら命を絶っていたことをしりませんでした。小説の中に息子をイメージした若者と自分自身を登場させ、その対話を執筆していく中で息子と向き合おうとする父親(姜尚中)。青年にその事実を独白する。漱石の「こころ」のなかの先生の遺書で語られる友人Kの死のようです。

 番組は苦悩し死んだ息子とその死に向き合うことができないでいた父親(姜尚中)の息子の死と向き合うことを決意し新たなる己を構築する姿が語られていました。 それが twice born 「二度生まれ」の意味するところで、「二度生まれ」はアメリカの哲学者ウイリアム・ジェームズのことば、『続・悩む力』第六章で“それぞれの「二度生まれ」”に語られています。

『悩む力』が2008.5.21で『続・悩む力』が2012.6.20ですから息子さんの死は4年前ですから2009年になります。

 息子さんの病に悩み、そして息子さんの死という新たな人生の問いが出て来た時、それが「二度生まれの哲学」(W・ジェームズ著『宗教的経験の諸相』下p160)として現れて来たようです。

【番組の語りで、『心』から】

 人生に生きる意味があるのか、人は何のために生きるのか、それは人がその都度、その場所で具体的に課される問いに答えていくことで発見できるものではないでしょうか。

 そして「生きろ」と強く励ましていく。

 亡くなった人から思いをもらって、生きている自分の生きる力とする。亡くなった人と向き合うことによって、そこから前向きな力をもらう。生へのもやいを断ち切っては絶対だめです。

ある意味答えはすでに君の前にあるのです。

【以上】
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 姜さんは「もやい」という言葉をよく使います。漢字で書けば「舫い」せ「船と船とをつなぎ合わせること。船をつなぎとめること」を意味する言葉で、「生へのもやい」とはまさに生の連続性であり生きているという事実そのもののことだと思う。

 人は過ぎ去った過去、過去の切り株だけを思い実り多いものであったことを忘れ悩みの根源としてしまう。しかし過去は消せないし、フランクルは「過去は宝である」と言っていました。100分de名著の『夜と霧』では姜さんはそこに居ました。

 そして小説『心』で多くの読者を励ます一方で姜さんは、

 「一人で孤独になって徹底してそれと向き合うことが、まだできているとは思えない。」

と、まだ息子の死と向き合いきれていない胸の内を語っていました。

 そして人の出会いの不思議。3.11東日本大震災で津波に呑まれた人たちの遺体の捜索に従事し「死の意味」に悩む青年蛭間さんとの出会いがこころの過程の中でありました。

 当初は蛭間さんは姜さんを救いを求める師的な存在でしたが、姜さんは息子の面影を蛭間さんに重ね、その後会うことを躊躇するようになっていた。

 その出会いが二度生まれの生みの苦しみでもありました。

 一歩踏み出し蛭間さんに息子の死を語り、息子の死の事実を見据える。

 あるこの番組紹介のサイトで、極限の苦しみを経て、自分の生き方を問い直す「二度生まれ」という表現をつかっていました。この「極限の苦しみ」に、「一人で孤独になって徹底してそれと向き合うことが・・・」という姜さんの言葉も重なります。番組では語られていませんが息子の母である姜さんの奥さんは新興宗教に向かったようです。

 姜さんは一人孤独になっています。

 この個で考えるという、裸の実存としての<私>をそこに見ます。

 極限の苦しみは、絶対孤独の体験的事実、応えられるのは自分しかいない。

 二度生まれは完成にあるのではなくその過程のなかに徐々にその意味を表わすのです。

 そんなことをこの番組に見ました。壮絶な極限の苦です。

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