思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

ムスリムの神なき詩(うた)

2009年10月31日 | 宗教


生きてこの世の理をつくした魂なら、
死してあの世の謎も解けたであろうか。
今おのが身にいて何も解からないお前に、
あした身をはなれて何がわかろうか?

いつまで水の上に瓦を積んでおれようや!
仏教徒や拜火教徒の説にはもう飽きはてた。
またの世に地獄があるなどと言うのは誰か?
誰か地獄から帰って来たとでも言うのか?

創世の神秘は君もわれも知らない。
その謎は君やわれには解けない。
何を言い合おうと幕の外のこと、
その幕がおりたらわれわれは形もない。

この万象の海ほど不思議なものはない、
誰ひとりそのみなもとをつきとめたひとはいない。
あてずっぽにめいめい勝手なことを言ったが、
真相を明らかにすることは誰にもできない。

この詩は、11世紀ペルシャ(イラン)の詩人オマル・ハイヤームの詩集『ルバイヤート』の「解き得ぬ謎(1~15)」の中の5~8の印象深い部分です。

全体をあらわさなければ、その思想・哲学はわからないのは明らかですが、オマル・ハイヤームという人物を知る手が係りにはなると思います。

彼は、勿論イスラム教徒(ムスリム)で数学者、天文学者そして哲学者でもあります。この詩からも解かりますが絶対神であるアラーの神の姿は見えません。

 さらにこの詩集から印象深い詩を数点紹介しましょう。

万物流転(35~56)
49
行山川を越えて来たこの旅路であった、
どこの地平のはてまでもめぐりめぐった。
だが、向こうから誰一人来るに会わず、
道はただ行く道、帰る旅人を見なかった。
50
われらは人形で人形使いは天さ。
それは比喩ではなく現実なんだ。
この席で一くさり演技(わざ)をすませば、
一つずつ無の手筥(てばこ)に入れられるのさ。

むなしさ(101~107)
101
九重の空のひろがりは虚無だ!
地の上の形もすべて虚無だ!
たのしもうよ、生滅の宿にいる身だ、
あゝ、一瞬のこの命とて虚無だ!

105
戸惑うわれらをのせてはめぐる宇宙は、
たとえて見れば幻の走馬灯だ。
日の灯火(よもしび)を中にしてめぐるは空の輪台、
われらはその上の走りすぎる影絵だ。

一瞬を生かせ(108~143)
120
はなびらに新春(ノールーズ)の風はたのしく、
草原の花の乙女の顔もたのしく、
過ぎ去ったことを思うはたのしくない。
過去をすて、今日この日だけすごせ、たのしく。

135
あしたのことは誰にだってわからない、
あしたのことを考えるのは憂鬱なだけ。
気がたしかならこの一瞬(ひととき)を無駄にするな、
二度とかえらぬ命、だがもうのこり少ない。

イスラム的には異端的な詩ですが、ペルシャ詩人には相異なく、不思議があります。


「サケ・マス論」に学ぶ

2009年10月31日 | つれづれ記

            (10月30日付信濃毎日新聞から) 

 縄文時代の食性に関する学説に「サケ・マス論」という学説があることを知りました。
 昨日付けの地元紙(信濃毎日新聞)の一面にごらんの「千曲・屋代遺跡群」からサケの歯の断片が大量に発掘されたことが報じられました。

 この「サケ・マス論」とは、当該新聞によりますと縄文土器研究の第一人者、故山内清男(やまのうち・すがお)博士が提唱する、「縄文時代、西日本ではドングリしか頼る主食がなかったのに対し、東日本では川を遡上(そじょう)するサケやマスも食べて繁栄できた。」というもので1940年代から議論されてきたということです。

 屋代遺跡群は上信越自動車道の建設に伴い埋蔵物の発掘を、県の埋蔵文化センターが1991年~1994年に掛け行い、今回その際に縄文期の屋敷跡から採取した土砂を再調査をしたところ、サケの椎骨厄550個と歯が約20個見つかったということです。

 長野県立歴史館考古資料課の水沢教子・専門主事は「なぜ縄文人が水害に遭いやすい川近くに住んでいたか疑問だった。今回の研究から、サケなどの魚を捕りやすい場所を選んだのはないかと推測できる」と話し、同文化センターの松井センター長は、「東京や北海道の縄文遺跡でもサケ・マス類の骨が見つかっている。全国でも同様に調査を進めれば、サケ・マス論を根拠づける結果が得られるのではないか」とも話しているとのことです。

 当初この記事を見たときに一面に出すような記事かと思いました。信州人とすれば、治水対策やダム建設が信濃川(上流は、千曲川、犀川等)にできる前はそれは大量のサケが捕れ、風習として正月にはサケ(地域によっては鯉、ハマチに変化したところもあります)を食することが常識ですので古より、食生活にサケは密接な関係があった当たりまえに思っていたからです。

 今回の調査結果なのですが関係者の中に多分魚類の専門家もいるかと思いますが、サケの先祖は「イワナ」であることは、その姿からも自明で釣り好きな人ならば常識となっています。従ってイワナの生息地をみると寒い地域に限定され北アルプスを境となります。
 
 ところがここで不思議な話なのですが、

 北アルプス分水嶺の西と東にもイワナが生息していることです。東稜線を流れる川のイワナが太平洋まで下り、ぐるりと日本列島を回り日本海から西稜線の渓谷まできてとなりの渓谷に移動する事も出来ない渓谷に閉じ込められたのか。
 
この話は、塚田國之さんという魚の生態学や食文化を研究されえいる方の話で大日本絵画から『さかな物語』という本を出されてそこに、この不思議を書かれています。

     

 気候とも密接に関係するのですがイワナがいる川ならばサケは来るということです。西日本の河川にはサケが来ないということは、海流も変化し西日本の縄文の人々の川には上って来ないという単純な話ではないかと思います。

 なおサケですが、長野県は古代からサケ大国でした。上記の塚田の本に、

 長野県更埴市の山懐に東日本最大級と言われる森将軍塚が再建されている。(注:現在既に完成しています)古墳時代にこれだけ巨大な物を作る事を可能にした経済力の背景には全国有数のサケ漁獲量があったとされる。平安時代に律令の実施細目をまとめた「延喜式(えんぎしき)」による新潟、富山と並び善光寺平は朝廷にサケを貢納した主産地であった。このサケは官吏の給料としても支給されている。

 石器時代でも千曲川を遡った南佐久北相木村の遺跡からはサケの骨が出る。サケは日本人の血肉を育てた魚である。江戸時代には各藩はサケの種川を保護し、水戸藩では一番サケに2~10両の褒美を出した。

と書かれていました。
 アイヌ語では神の魚(カムイチェブ)と呼ばれるサケ、語源は身が裂(サケ)けやすいからという説があるようです。


「法の優先順位」に学ぶ

2009年10月30日 | 仏教

 連日松本平から安曇野は朝から濃い霧に包まれています。このような自然環境でありながら濃霧にならない地域があります。来年松本市と合併を予定している東筑摩郡波田町です。波田町も全域ではないのですが、波田役場から、波田病院を上って山県村へ向かう県道の通る地域の南側の地籍です。不思議にその地籍だけが霧が出ないのです。それぞれの場というものの不思議です。

 写真は、昨日の安曇野の国立公園の入り口交差点です。

 法学上の法の優先順位という場合に大きな問題があります。それは「条約は憲法よりも優先する」という学説と「憲法は最高法規であるから憲法が優先する」という学説です。

 沖縄の普天間基地問題は、鳩山総理大臣の「私が最終的に判断させていただきます。」という所信表明演説で保留されています。

 一国が安全に世界に存在続けるという問題は、実に複雑です。
 平和主義者という言い方はあまり好きではありませんが、民族の違い、宗教の違いを超えてまたイデオロギーの違いも超えて、この青き地球に共に生きようようという崇高な考え方をもつ人もいます。

 折り合いの中で、私もそのとおりだと思います。これは国境の無いジョンレノンのイマジンの世界なのですが、そこで一番重要になってくるのが、「そのことを思う私はいま何処に居るか。」ということです。

 今日の文頭にいった「法の優先順」の学説なり主張を言う者のその身を置いている場所、視点を発するその者の国家観にも通じる問題だとも思います。

 一時「なぜ人を殺してはいけないの」という話題が高まったことがあります。その時にわたし自身は、和辻哲郎先生の「殺されないという信頼」という倫理性に強い印象を受けました。

 ハンガリーという国はいまも不安定な国内情勢にあることを最近報道番組で放送されていました。古代からこの国は大国の狭間に置かれ侵略をくり返されつづけてきました。国境などはあってないようなものです。

 このような国に生まれると、他国というものを常に意識しないと生きて活けません。先ほどの他国民によって「殺されない」という確約がないと、極端に言えば、母はその日子供らに暖かな食事も提供することができません。

 その時に母は思うと思います。「殺されないという信頼」、確約です。

前々回かと思いますが、NHKの「こころの時代」で禅心寺の金子真介住職が「ローソクの火」の話をされていました。

 人間の命は一本のローソクに火を点(つ)けたようなものである。燃えながら刻々と減ってゆく。減ってゆく命を減らぬようにすることは誰にもできない。ただ、何処をどのように照らしてゆくか、これだけが人間に与えられたたった一つの自由である。

と、生きるわが身が置かれている場所が「殺されないという信頼」の中にあればこれほどすばらしいお話はありません。この時金子住職はお釈迦様の「不死」の話をされていました、法句経にも出てくる言葉です。

 言葉を言葉と見るとその言葉の意味のみで終わってしまいます。訳の解からないことを言っていますが、要するに「不死」という人間欲求をそのままに解するとそのままの意味に終わるということです。「バラモンは不死を超える」という単純明快な言葉も、人には理解できない。理解できないとは実感を得ないということです。

 金子住職のいわれる言葉に説法を聞きました。「不死」とは「殺さない」ということだということです。そしてこの「殺さない」という言葉は、身体的な殺害だけを意味しません。精神的に「殺されない」も含みます。

 私は、ここ2・3日法句経の言葉を逆説的に表現してみました。「彼をそれを人という」という表現で「バラモン」を逆説的に語りながら「人」に置き換えてみました。

 というのは、お釈迦様の言葉は原始仏教典にあり。それ以外の大乗の教えは仏教ではないという小乗の教えを毎日見ると悲しくなりそこでつい「殺す」行為をしてしまいました。ということです。

 それは今朝のこの私の主張も「殺す」行為であると否認しません。が「三世諸仏」の生き生きとしたお釈迦様の教えは、過去のその時点に止まっているのか、「三世諸仏」を「殺していないか」ということです。

 単純明快な「三世諸仏」という言葉さえ忌み嫌えばその境地を得ることができませんから「バラモンという」を継続することになります。

 今朝もきっと響き渡るでしょう。

 話はここまで来て、最初の「普天間問題」に移ります。ここまでくれば他国間との契約(条約)、言葉を逆説的に変えると「殺さないという信頼契約」を前提とした当事者の国の最も重要なものは何か、それは「信頼」という相手にサジを預(さず)けることです。預けながら逆に授(さず)かることです。

 憲法は国家における最高法規これは揺るがせない事実です。それは他国を規制できないという意味でもあります。それは主権を誰に置いているかで解かります。

 ですから国連憲章といったときに、その意味の重さが分かると思います。かつて憲法学者と名乗る「やるっきゃない」という女性代議士がいました。今度の政権にもその民族的(思想的という意味で)な血を引く女性閣僚がおられます。悲しいの一語に尽きます。

 言っておきますが「憲法9条」は太田某氏の主張ですが、確かに世界遺産だと思います。それは自分が、自分の視点が何処(場)にあるかで決まります。

 喜劇の世界にあるのか、悲劇の世界にあるのか、唯一絶対の思想にあるのか、唯一絶対の宗教にあるのか、唯一絶対の先生の教えにあるのか、唯一絶対の母の教えにあるのか・・・・・。

 「成りまして成る自分」が最終的には決する、これに着(つ)きます。

ここを押すといろんな法(法律ではありません)をみることができます。


おかしな話

2009年10月29日 | つれづれ記

(日本の名著 本居宣長中央公論社から『本居宣長自画自賛の寿像』)

今朝の『日めくり万葉集』は、

 経(たて)もなく
 緯度(ぬき)も定めず
 娘女(をとめ)らが
 織るもみち葉に
 霜(しも)な降りそね
巻8ー1512大津皇子(おおつのみこ)

で、選者は染色家の吉岡幸雄さんでした。

 近世の万葉学者というと鴨茂真淵となりますが、これに合わせてやまと言葉になると真淵の弟子『古事記伝』の本居宣長です。当然宣長も万葉集の書評しています。その著『宇比山路』の「万葉集の重要さ」の中で次のことをいっています。

 まあおよそ人間というものは、言(ことば)と事(こと)と心(こころ)と、そのさまはたいてい相応に似たものにて、たとえば心のかしこいひとはいう言のさまも、する事のさまも、それに応じてかしこく、心のおろかなひとはいう言のさまも、する事のさまも、それに応じておろかなものである。また男ならば、おもう心も、いう言も、する事も、男さまがある。女ならば、おもう心も、いう言も、する事も、女のさまがある(日本の名著 本居宣長中央公論社P51から)。

と、実に当たりまえのことをいっているのですが、いまの世の中を見ると、言うこととやる事が全く異なる人、性別不詳の若者、老人が実に多い。特に政治の世界は前者の人が多く、これは昔からで驚くことはないのですが、後者は最近特に多くなってきたように思います。テレビも含め一日として見かけないということがありません。

 「おかしな人」が多いという話なのですが、この「おかしな」という言葉には可笑しいという意味もあれば、「変だ」や「狂」の字も含みます。

 今朝は万葉集の詩から本居宣長という近世の国学者の名を出しましたが、やまと言葉を扱うには宣長を避けて通れません。

 そこで宣長という人はどのような人かと思い調べると小林秀雄先生の『本居宣長』は有名な一冊に出会います。

 私の性格から次にこのようなすばらしい本を書く小林秀雄先生とはどんな人かと知りたくなり、そこで橋本治なる人物にであったのですが、この人が実に「おかしい」のです。

 私だけがそう思うのかもしれませんが、その著『小林秀雄の恵み 新潮社』を読んでみました。この本が実に不思議な本で、書評なのか、小林秀雄罵倒論なのか、本居宣長けなし本なのか、判断に苦慮するものでした。

 ネットでこの人物について、調べると評価する賛否両論の方だということがわかりました。まあ原因が私自身の知識不足ということで折り合いを着けてしまいますが、世の中にはなんと「おかしな人」が多いことか。

 今朝はこのようなことを書く私もその一人では、と思う今朝の私でした。

 写真は本居宣長の自画自賛の寿像です。自画自賛というところがまた、「おかしな話」なのです。


「気がついたら殺されていた」ことに学ぶ

2009年10月28日 | 仏教

無常は突然やってくる。
縁起だからと指摘され、自責の念で、我なくし、
他人に尽くすそれもよし。
お題目に、唱題に、そして坐って打ち込みて、
やらにゃあ力の意志に気がつかず。
無常は突然やってくる。

 気がついたら殺されていた。他人が見ればそう思うような事件がまた発生しました。被害者には大変失礼な話ですが、殺される直前までは「ときめいて」幸せだったんだろうと思います。

 知りたくも無いことですが、知らされてしまう現実(メディア)があります。

  「ときめき」は、我が無いことを教えてくれる。ときめいて思い(欲)を止める自己も他己も無いことを知らされる、それは無常に似て突然やってきます。

 無常の詠歎は悲しみでも、喜びでもなくあるがままのその姿。

  信心の心境は仏さまの世界と凡夫の世界との間に壁がないということ。
 それが解かって信心が、成れば軽くなる。

この世の福禍の中にあるもの
その両方への執着を超えることができないもの
憂いと欲と渾沌の中にあるもの
それを人という。

これをDhammapadに聴く
 
 人という字は、大地に二本足で立つ姿であることを教えられます。

 そして大地に立つということは、「ときめき」の中で、「人知の限界を深く思い知る姿」ということでもある、と思い知らされます。「思い知る」とは「気づきをもつ」ということです。

 これも「信心が、成れば軽くなる。」という教えでもあると聞くべきで、その耳をもつに限ります。

この詩は、現代の妙好人といわれる森ひなさんの歌です。

たりき たりき おもうていたが
おもうたこころが みなじりき

 「自分の思いと思っていたら仏さまの計らいであった。」
 一声の称名も自分で唱えていると思っていたら仏さんの計らいであることに気がついたということです。

仏さまとは、拝まれる自分に成っているということでもあると思います。

 今朝の写真は昨朝の夜明けです。雨降りの翌日の朝はとても空気が澄み切っていて黄金の光を放ちます。街中は霧が立ち込めてはいますが、別の視点からは光明の下にあることを知らされます。


一刹那の明滅に学ぶ

2009年10月27日 | 仏教

 岩倉家にて四方山(よもやま)の物語のうちに、えみしのこしらへける風る(オルガン)とやらいふものとり出し給(たま)ひて、しばらくならし給ふ。いとめづらしと人々喜びける。おのれ、
 日本(やまと)にはやま琴ならすさかしらの、唐ごとよしと聞な玉ひそ

という詩があります。作者は幕末期活躍した女性の尊皇攘夷者松尾多勢子です。
岩倉家とは岩倉具視邸宅のことで明治に入りともに戦った戦士として招かれた時のことを詠った詩です。

 松尾多勢子は、文化8年8月5日(1811)に旧下伊那郡山本村(現飯田市山本)にうまれ 明治27年6月10日(1894)に83歳で生涯を閉じた方です。

幕末期の伊那谷と諏訪地方には倒幕運動に参加する者が多くいました。そのほとんどが平田篤胤派の国学の素養を受けた者達でした。

 その一人に松尾多勢子という女傑もいたわけで、この方は50歳を過ぎてからその思想に目覚め子を自宅に残し倒幕運動に参加すべく京に赴きました。

 西郷隆盛や岩倉具視など接した人物は幕末の錚々たるメンバーでした。活躍状況は朝のこの時間書きませんが、攘夷運動に燃えた者が何たる姿と歎いた詩が上記の詩です。

 人の思いといいましょうか、人の思想は大きく代わる者です。松尾多勢子は情熱の女性、維新も落ち着いたころ信州に戻ってしまいます。なぜか、その理由がこの詩に出ています。 その後は百姓をしながらその人生を閉じるのですが、人の変わり身の早さに世の無常を感じたのかもしれません。

 松尾多勢子ではありませんが、鈴木大拙先生に対する批判に関して梅原猛先生の変わり身の変革から学んだことがあります。

 梅原先生は、それは凄い熱狂的な大拙批判者でした。『仏教の思想Ⅰ 集英社P65~67』ではややおとなしいのですが『美と宗教の発見 講談社文庫P32~36』では痛烈な批判を展開しています。

 ところが『梅原猛 日本仏教をゆく 朝日新聞社P286~304』では「二十世紀日本に出現した二人の菩薩」と題し「鈴木大拙・宮沢賢治」を最上級で賛美しています。

 梅原猛先生の言わんとするところも然りですし、鈴木大拙先生の思いも然り。

 仏教的には一刹那の明滅の中で人は変われる。無我とはある意味では固定される己は無いということだ思います。従って鈴木先生も梅原先生も一刹那の明滅の中で生きる身であることを考えれば変わるのが当然で、それが生きる人間の証のような気がします。

 吹く風に なびく男花(おばな)も枯れはてて 淋しくもあるか武蔵の野原

と松尾多勢子は詠っています。 


「神は在るモノ、仏は成る者」への疑問

2009年10月26日 | 仏教

 休日のお決まりコースを午前中にジョギングしました。2000メートル級の山々山頂付近はしかりと紅葉していますが、標高700メートル付近はもう少しという感じです。

 真夏はキャンプ、宿泊施設としてにぎわう鐘の鳴る丘の周辺も、色づきはじめたというところです。

     

 山道を登り、穂高川が流れる中房渓谷の様子です。このあたりは800メートルくらいですがここももう少しです。

     

自宅付近も紅葉前の静けさ。

     

しかし、木々の一つ一つを見ると葉には、しっかりと色の変化が現れています。

     

 今年しっかりと木にまとわり着いたのでしょうか、小さな小さなツタの葉にも秋はおとずれていました。

 このように一つ一つ秋のおとづれを確認していきますと、個性を感じます。
 条件。条件が整うと変化が訪れる。

 人の世も然り。一斉に花開き、色づけば良いのですが、自然はそうにはできていません。条件という互いの折り合いがつくと「成る」というものと思います。

 京都大学こころの未来研究センター教授鎌田東二先生が最近『神と仏が出逢う国』という本(角川選書)を出されました。

 鎌田先生のモットーは「神は在るモノ、仏は成る者」ということです。昨日の鈴木大拙先生の霊性、西田幾多郎先生の絶対矛盾的自己同一、エックハルトのマルタとマリアにおけるマリアの魂の歓喜の到来、そして仏性、仏心は全てことば以前の世界。

 霊性というと「在るモノ」と考えてしまいますが、人はことばで表現しないと互いの思いを伝えられないようにできています。すなわち物的思考に陥るものです。

 鎌田先生には失礼なのですが、「神は在るモノ、仏は成る者」という表現は、書籍の内容からするとそれでないと主張するところは理解できないと思いますが、ジョギングして、渓谷の石に坐すると紅葉はもう少しと思います。

 絵画も自然の様相も然り、描かれ、また「在る」ものに身体が気づく。その気づきであって、どこからか「成り。成りませる」もののように思います。

 従って、神も仏も「成る」ものであって、「モノ」でも「者」でもないと感じています(思います)。



国宝松本城の古式砲術演武

2009年10月25日 | 歴史

 国宝松本城公園広場で、午後『古式砲術演武』が行なわれました。火縄銃の鉄砲隊による各種の撃ち方の空砲撃ちが行なわれ、白煙とともに爆音がこだましました。

        

 愛知県古銃研究会鉄砲隊・駿府古式炮術研究会駿府鉄炮衆・松本城鉄砲隊によるもので、なかなか迫力のある演武でした。

     

 演武種目には前後二段構え釣瓶射ち等のほか大筒、ゆかりの火縄銃によるもの、地元塩尻市洗馬で作られた火縄銃なども披露射ちされました。

 松本城へはたくさんの観光客が訪れます。今日も高原の紅葉狩りのコースの入っているのか写真のとおり、耳を塞ぎながら見入っていました。

     

 松本城は城好きな人にはたまらないお城で、別名烏城(からすじょう)と呼ばれ、白鷺城の愛媛城に対比されます。

 松本城は1550年(天門9)に武田晴信が、小笠原長時を林城(市内筑摩地籍)に破り松本支配するために旧深志地籍(現丸の内)に深志城を構えました。

 その後小笠原長時は一旦松本平を追われますが、1582年(天象10)長時の子である小笠原貞慶が父の旧領を回復し、城を現在の松本城に改めました。

 松本城は7代殿様が替り最後が戸田藩で1726年(享保11)入封し1825年(文政8)には治封100年祭が盛大に行なわれました。戸田藩は8代光庸(みつつね)から9代目光則(みつひさ)にころが江戸末期で幕末へと入っていきました。

     

 大政奉還後は激論の末、朝廷帰順を決定し藩主の戸田光則はそのまま松本藩知事に任命されました。明治もなかばになると松本城も写真のとおり荒廃し、明治36年に天守閣保存会が結成され修理が行なわれました。
 
 昭和11年に国宝に指定され、昭和21年戦火を逃れた松本城を進駐軍の美術顧問C.F.ギャラガーが視察、天守閣の損傷を目の当たりにし解体修理を文部省に勧告、解体復元修理が昭和25年6月から行なわれ、松本城は今日の姿として残ることができました。


「世界の中の仏教」 と「鈴木大拙の世界」

2009年10月25日 | 仏教

    (鈴木大拙全集第一巻 岩波書店から) 

 時節というものは来るものです。

 今朝の「こころの時代」は、平成13年5月6日に放送された「宗教・人生 アーカイブス「世界の中の仏教」 で故上野学園大学教授坂東性純(ばんどう・しょうじゅん)のお話で、ききては金子寿郎さんでした。概略は、NHKの解説では、

仏教思想の研究者である坂東性純さんは、禅を欧米に紹介し、東西を超えた霊性を説いた鈴木大拙から深く教えを受けた。世界の対立を超える道を、大拙の言葉に探る。
禅を欧米に紹介し、宗教の違いを超えた「霊性」を明らかにした仏教哲学者・鈴木大拙から深く教えを受けた坂東性純さん。「坂東本」と呼ばれる親鸞直筆「教行信証」(国宝)を伝えた報恩寺の住職で、仏教思想の研究者でもあった。世界の対立を超える道はどこにあるのか? 鈴木大拙の言葉からその手がかりを探る坂東さんの最晩年の出演。

というものです。

 確かに平成13年にこの番組を観たのですが、今朝改めて観て深く柔軟な思考と心構えを堅持すべきであることを勉強させていただきました。

 心の中にひとつ気に掛ることがありました。今朝の話題は「鈴木大拙」先生の世界の宗教としての仏教についてのお考えについての話でしたが、私が曹洞宗の勉強をするに当って参考とした老師が、最近次のようなことをご自分のブログに掲出されておられたので、私のこれまでの鈴木大拙先生像を何か忌避されたように感じていただけに非情に感慨深く、鈴木大拙先生のお考えを再確認することができました。

老師の言われるところですが、それは

2009年5月20日水曜日付けで「鈴木大拙氏の仏教思想」と題し 、

 鈴木大拙氏は金沢市の出身で、東京帝国大学の哲学専科を卒業後、鎌倉の円覚寺で修行をした。1893年にアメリカのシカゴで万国宗教大会が開催された際、釈宗演老師の随行として出席し、1897年に渡米後は主としてアメリカで活躍し、多数の英文著作を残した。
「日本的な霊性」に関する著作を出版して居られる処から考えると、霊魂の存在を信じて居られたようで、現実的な仏教思想とは異なる立場を取つて居られたように思われる。
したがつて「悟り」に関しても突然の変化を信じて居られたようで、自律神経のバランスにはまだ気付いていない時代の方であつたから、本当の意味の「悟り」に関する知識を知る以前の時代の方であつた。

というもので、結論的にはこの老師の主張を否定するものでも肯定するものでもなく、上記の考えは、そういう場所に老師があるということをわたし自身が感得する機会を得たということでした。

 この番組の内容ですが、奈良県にお住まいの速記をなされる方で、この番組を速記録で掲出されている方がおられます。全文をお知りになりたい方はぜひごらんになっていただきたらと思います。 「私の山歩きと旅」で、「世界の中の仏教」です。

 そこからの転載になりますが、特に印象深い所を紹介します。

坂東:  「仏さまのお働きが、人の上に顕れている」という意味で、「大行」と言われたん ですね。「大」は「仏さまの」ということなんですね。これを「Living」、「Tr- ue Living」と言っていますね。我々がはからいで、生きている現実の、仮初めの 生き方。ところが本願に頷いて、なんまんだぶ(南無阿弥陀仏)の生活をしている人のありようは、 「True Living」である、と。こういう訳し方をされるんですね。それから「信」 のこともですね。
 
金光:  「信ずる」の「信」ですね。「信心」の「信」。
 
坂東:  「親鸞聖人の信は、世界中、どこの宗教にもないから、これは訳せない」という 方がおられるわけです。真宗の中の原理主義者の方ですね。どこにもないんだ、 と。独占したいわけですね。例えば、祈りにしましても、「ああして下さい。こう して下さい」という人間の祈願、請求の気持から、御心のままになし給え、とい う、それ全部含んで祈りなんですね。「祈り」という言葉を使ったから、それが全 部利己的だとは限りません。それと同じように、「信心」の「信」という言葉を使 っても、「人が何々を信ずる」という対象的な信の場合もありますし、信が仏の衆 生にたいする信、或いは、仏の世界に浸っているという意味の時もあります。信 心の心境は、仏さまの世界と凡夫の世界との間に壁がないということですから、 そういう意味で、「faith」という言葉も、いわばやはりピンから切りまで含んで、 「faith」なんですね。「faith」という言葉を使ったから自力だと決まっていない わけです。そういう意味で、私は親鸞聖人の『教行信証』の「信」も、「faith」 という言葉はなんら差し支えないと思うんです。しかし、凡夫の対象的な「信」 と区別して、私が用います場合は、「f」を大文字にして、それを示せばよろしい と思うんです。
 
金光:  ここもちゃんと「True Faith」で、大文字で「F」と。
 
坂東:  鈴木先生は何の拘りもなしに、「Faith」とされました。これは、「他の宗教には絶 対ないんだ」と言って、「これは浄土真宗特有のものなんだから、絶対訳せない」 という、そういう原理主義的な見方もあるんでございます。だけど、それを固執 しますと、自分だけが真理を持っておって、他の人は分からないんだ、と。なん か他の宗教を見下した、非常に傲慢な態度になりますね。鈴木先生はなんらの拘 りを持たれずに、素直に「Faith」という言葉を使われました。大文字で。
 
金光:  その辺になってくると、もう個々の人間が、自分がどう思うからどうだ、と言う んじゃなくて、ほんとにそれこそ神さまと言いましょうか、仏さまと言いましょ うか、要するに、人間を超えた世界と直通の世界でいろいろお考えになったり、 行動も発言もなさっていらっしゃるということでしょうね。
 
坂東:  そうですね。世界中の宗教の一番深いところを常に見ていらっしゃったようです ね。ですから、仏教もキリスト教もイスラムも、実に深いところを見ていらっし ゃって、どの宗教でも最終的に共通にもっているという深いところを、「霊性」 と。「霊性の世界」とこう呼ばれたようですね。ただ、「霊魂」の「霊」の字を使 いますから、誤解されることが多くて、大変不幸な訳語なんですけれども、やは り「霊性」という言葉は、これは貴重な表現でございますね。ちょうど「神秘主 義」の「神秘」という意味も、別にあれは摩訶不思議なことを売り物にするよう なミスティシズム(mysticism)という言葉ですね。別に悪い意味とは限っていな いんですけれども、「神秘主義」という言葉を使いますと、なんか誤解を招き易 い。では、それを使わないとどうかと申しますと、ちょっと適当な言葉がない。 非常に困るんでございますが、鈴木先生は敢えてあらゆる宗教の最後に落ち着く べきところ、そこを「霊性の世界」と言われましたね。
 
金光:  ですから、死後の世界の話なんかされている人がいくらいても、「今、あなたはど うなんだ」という、そこのところを問題にされると、霊魂とか変なニュアンス
(nuance)は消えて、ほんとに生きて、生かされている人間の、それこそ霊性の 部分が問題になってくる、ということになるんでございましょうね。しかし、そ このところを分かって頂く、ということはなかなか難しいことで、九十六年のご 生涯は、それに全部の力を注がれたということだろうと思いますが。
 
坂東:  でも、アメリカの学生さんなんかの質問に対して、理屈でもって応えられないで、 心が二つに分かれる前の世界から発言されていらっしゃる。その言葉を聞くこと によって、聞いている人がすぐ納得してしまう。そういうことがよくあったよう ですね。例えば、「先生はほんとに輪廻転生(りんねてんしょう)を信じていらっしゃるんですか」とい うようなことを、学生が聞くと、それを理屈でもって応えられないで、「儂(わし)は猫が 好きでなあ。殊(こと)によったら儂(わし)の前世は猫だったかもしれんなあ」。それを聞くと、 その一言を聞いた学生がもう納得してしまうんですね。「ご名答」と言ってです ね。もう質問が消えるわけです、疑問が。これは「信ずる、信じない」「あるか、 無いか」という問題じゃないんだ、というわけですね。「理屈を離れた、実感の問 題なんだ」と。先生がそう感じておられるのを、反対というわけにもいかない。 これは理屈以前の世界のことなんだ、と。だから、「先生、ほんとに輪廻転生を信 じていらっしゃるんですか」というような質問に対しては、「儂は猫が好きでな あ。殊によったら儂の前世は猫だったかもしれん」と。それだけで立派な答えが なされているわけですね。あれはもう理屈以前の世界からものをおっしゃってい るので、相手の疑問が消えてしまったわけですね。
 
金光:  ですから、よく無分別ということをおっしゃいますけれども、分別することによ って、分けて考えるところで、なんか人間の智慧みたいなものが働いているわけ ですけれども。
 
坂東:  余計に複雑にしておりますね。
 
金光:  そこのところを超えたところで、発言が出てくる、ということですね。
 
坂東:  はい。滅多にご自分を語らないお方ですけども。人様に、「先生の若い時はどうだ ったんですか」と聞かれますと、まあお話になる、と。そういうお話の中で、こ ういうことをおっしゃっています。子供の時によく隣の町─村ですか、町ですか ─子供達と喧嘩をした。ただ、単に生まれ育った場所が、通りを隔てた向こうか、 こちらか違うというだけで、子供は対立してしまうんだ、と。それで両方相対峙 して、喧嘩したことがある、と。ああ、先生でもお子さんの時にはそういうこと があったのかしら、というふうに思ったんですけども。まあ、そういう先生が、 「人間の精神が幼い、未熟な間は違いを憎む。ところが、成熟してくると違いを 楽しむようになる」と。そういうふうに言われました。しかし、これはそのまま、 これからの二十一世紀以降の私どもの一番念頭に、心に置かなければならないこ とではないか、と思われますね。
 
金光:  長い間、キリスト教の世界にいろいろな考え方、東洋的な思想の特徴なんかを伝 えてこられたんですが、いろいろあると思いますけれども、その特徴というのを 取り上げると、どういうことになるとお考えでしょうか。
 
坂東:  そうですね。表現の仕方はさまざまあるかと思われますが、鈴木先生が絶えず努 めておられたことは、これは根本的には、お友だちの西田幾多郎先生のお仕事と 相即している、と。全く違うことをされてはおられなかったと思われます。それ は、西洋の思想が二つの世界から出発しているのに対して、東洋は、特に大乗仏 教の思想などは、二つに分かれる前の世界から出発している、ということを、い わばご一生の間、説き続けられたに等しいと、私には思われますね。幼い時に、 宣教師さんに対して、鈴木先生がされたご質問ですね。「この世の一切のものを神 さまがお造りになったのならば、その神さまはどなたが創られたんでしょうか」 と。そういう質問に対して、お答えが得られなかった、と。そうお話をしておら れました。これもどうも二つに分かれた後の話では何か物足らないんですね。そ れ以前が私どもの本当の頼りとする場所じゃないか、と。「その前の世界というの は何か」と。これは西田先生は「純粋経験の世界」と名付けられるようですが、 或いは、「本当に頼りになるのは何か」というと、「絶対矛盾と見えるものが、実 は自己同一なんだ」ということを知ること。そういうように言われましたね。「我 々が分別の世界で、二つと見ているものは、実は同一のものなんだ」ということ ですね。ですから、「三日にして甦った」というあの三日が、「即時だ」という先 生のお言葉も、これもやはり三日というのは、後で考えられて、付けられた説明 なんですね。しかし、体験からいえば即時なんだ、と。煩悩の自分が居なくなっ た瞬間に、仏さまの心に触れるのである、と。ちょうどエックハルト(Meister Eckhart:ドイツ中世の神学者:1260-1329)のお言葉を、先生はしばしば引用され ましたが、エックハルトも「人間の心が空っぽになった時、その時、人の心は神 の心で満たされたのだ」ということを言っていますからね。どこの誰が発言した とて、この世の尽きたところが、彼(か)の世界の始まり、と。この法則は総ての宗教 にとって、共通の地盤ではございませんでしょうかね。そこを「二つに分かれる 前の世界」と言うんじゃございませんでしょうかね。
 
金光:  でないと、我が宗は正しく、他の宗は駄目だという。

以上の長い転載をしてしまいましたが、その他にもたくさん参考になることが語られています。

 鈴木先生の「霊性」ということを、どのように解するのか、「仏性」や「仏心」もそうでですが、要は解するものではなく体得するもの、そのように思います。
 
 私はここに強く「成りませる」ものを感じます。

 鈴木大拙の世界、西田哲学の世界、エックハルトの世界再度勉学を進めたいと思います。

 


ヒトが直立二足歩行をはじめた理由(わけ)

2009年10月24日 | 仏教

 直立二足歩行といえばヒトのことだとわかります。ヒトのことをお釈迦様は、

この世にもあの世にも
期待を持つ
欲から離れない者
彼を私はヒトと呼ぶ

といいました。
 なぜ人は直立し二足歩行するのか、先生方が思う疑問を、私も頭の隅においてみました。

 最近流星群が話題になっていましたので、帰宅すると空を見上げる癖がついていました。満天の星の輝き、といいますが、住んでいるところは片田舎。真っ暗とはこのことを言うのでしょう、ですから星は降るように夜空に広がっています。

 以前にも話しましたが、近々旅客機の発着がなくなる松本空港近くには、ボルデメという電波標識があり、国際便も含め数多くの飛行機が流れ星のように夜空を機体の点滅灯を点滅させながら空を流れていきます。

 遥か遠くを飛びますから音はしません。静かに流れていきます。当然「星に願いを」と思いたくなるように流星も流れていきます。

 朝焼けの時は水平に見る私もこの時だけは、夜空を見上げています。その時に私は二足であることに気がつきました。

 空を見上げるには、直立二足がとても便利のような気がしました。四つんばいになって空を見上げてみましょう。美しい朝焼けは見えても青空に点在する羊雲は見えません。

 台地を感じあお向けになれば見えますが、そのたびにおなかを天空(てんくう)に突き出すのはとてもではありませんが疲れてしまいます。

 やはり気がついたら二足で立っていました。

 二足で立つととても素敵な詩に逢い、素敵な話に出逢います。どんな詩かといいますと以前にも紹介したことのある詩です。

 星とたんぽぽ

 青いお空のそこふかく、
 海の小石のそのように、
 夜がくるまでしずんでる、
 昼のお星はめにみえぬ。
  みえぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。

 ちってすがれたたんぽぽの、
 かわらのすきに、だァまって、
 春のくるまでかくれてる、
 つよいその根はめにみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ。
  見えぬものでもあるんだよ。

この詩はお母さんのような詩です。ようなとは諭(さと)すような母の温かみがあります。
こんなお話もありました。

 いちょうの実

 そらのてっぺんなんか冷たくて冷たくてまるでカチカチの灼(や)きをかけた鋼です。そして星がいっぱいです。けれども東の空はもう優し桔梗の花びらのようにあやしい底光りをはじめました。・・・・・・・・・いちょうの実はみんな一度に目をさましました。そしてドキッとしたのです。今日こそはたしかに旅立ちの日でした。・・・・・・・・・そうです。この銀杏(いちょう)の木はお母さんでした。・・・・・・お日様は燃える宝石のように東の空にかかり、あらんかぎりのかがやきを悲しむ母親の木と旅に出た子供らとに投げておやりになさいました。

 全文を書けばよいのですが人であることを(めんどくさがり屋)忘れそうなのでやめました。

 こんなお話もありました。四つんばいの一匹のトノサマガエルを見つめる「私」の話です。

ブンナよ、木からおりてこい

 一ぴきのトノサマがえるが、沼の岸にすわって空を見あげていました。・・・・・「トノサマがえるのブンナ、なにをそんなにしんけんに見あげているんだい」土がえるの仲間がはなしかけました。・・・・・・・・・・木のぼりじょうずなことは、蛙仲間の身を守るたすけとなりました。・・・・・・・・・ブンナはみんなに見送られて、椎の木にのぼりはじめました。・・・・・・・今日いちにち生きてゆける喜び---ブンナは大きく大きく胸をはって太陽にむかって鳴いてたのです。

とてもじゃあーないですが、長すぎて早朝のいまの私には打てません。

ですので作者を紹介します。
 最初の『星とたんぽぽ』は、金子みすゞさん(JULA出版)です。

    

二番目の『いちょうの実』は、宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜 集英社文庫」

     

そして最後の『ブンナよ、木からおりてこい』は、水上勉さん(新潮文庫)です。最後の『ブンナよ、木からおりてこい』は水上先生の仏教観を語る上で紹介されることが多いので仏教の関係者には知っておられる方も多いかと思います。

     

 水上先生の話はカエルの話だから、四足だろうと思う人もおられると思いますが、とても人を超えた立派なバラモンですので折り合いでその通りといっておきますが、私はいまだにヒトですので、二足で立つ水上さんをみるのです。

 ここで、断っておかなければならないことがあります。文頭のお釈迦様のことばです。 
法句経410(法句経 友松圓諦訳講談社から)は、

 この世に
 後の世にも
 希(ねが)いなく
 意楽(のぞみ)なく
 繋縛(まつわり)を離れたるもの
 かかる人を
 われ婆羅門とよばん

ですが、お釈迦様は優しいお方ですから、ヒトに合った話をされる方でした(対機説法)。 するとお釈迦様は、ヒトに、
 
 この世にもあの世にも
 期待を持つ
 欲から離れない者
 彼を私はヒトと呼ぶ

と語りはじめたのではないかと、ある日、二本足で立っていることに気がついた私は思ったのです。

 人類はなぜ直立二足歩行なのか。気がついたら二本の足で立っていたのです。