今日は日曜日、コメントにのることにしました。
「我々は常に空虚な部分を欲求として欲している存在と言えるのではないか?」
というコメント最後に書いたコメントを受けました。言葉を変えれば、
「心が満たされない、よりどころ無き渇き状態たる存在ではないか?」
仏教では渇愛という執着(しゅうじゃく)に落ちつくのだと思います。
その存在を問うならば「生(あ)る」ということになると思います。
コメントを寄せてくださる人に失礼なことですが、私は単なる思索の凡人です。何も知らない、そろうとする全過程がそこにあるだけです。自覚的世界がいつまで私を包んでくれるかわかりませんが、応対できる人があえてコメントをするようなブログではありません。
他者の今状態を「健常者」「身体障害者」という言葉で表現する場合があります。その表現する時の主体である<わたし>は、その概念を「意中(こころのなか)」に理解しているとしている(そう思っている)。
空間に生き、生から死に至る時の流れの一筋に身を置くが<わたし>をわたしとする意も常に流れ行くものです。
その時その意の綴りの中で人は自分を織りなします。織りなされる我を常に汝の視点で我を語りそれが意となり、視点は盲点であるように常なる自分は見ることができません。
汝と我は立ち現れて衰え行くもの。汝の視点で我を観ることもかなわぬ事態なることもある。
他者から見て認知症であれば我は衰えの中で、汝と我の関係性を失い、いつかは純なる我の意の立ち現れに生きるしかありません。自分が解るといういうこと、意識が自分とどこまで付き合うことができるのか。言葉を変えればいつまで自覚の世界に留まれるか。
そんなわたしは、自分の躰でありながら、常に<わたし>というものは「掴めた」という内に置くことができません。
パンドラの箱が物語る希望、その裏返しの、前知魔が形成する世界とはどのような世界なのか。
希望とは時間と空間に生きる意を持つことができる事態にあること。
存在とはある意味希望の世界です。
その事態にないということ、前知魔が放出された事態ということ。自覚が成立しないこと。視点も盲点も無き世界。
希望無き世界と吐露できるのは、意の働きのうちにまだあり、まだ自覚がわたしをつくる。
「希望なし(空虚)」と、わたしはまだ宣言できるから。
シェリング著『人間的自由の本質』に次のような言葉を見る。
<神は悪のうちにも働くのか>
・・・神が悪を欲しなかったとしても、しかも罪人のうちに働きつづけて、彼に悪を遂行する力を与える、ということである。これならば、適当な区別を立てたうえで全く承認できる。実存の元底はは、あたかも疾病のうちに健康がなお働きつづけているごとく、悪のうちにも働きつづけている。乱脈を極め虚妄になり果てた生といえども、神が実存の根底である限り、なお神のうちにとどまり神のうちに働いている。しかしその生には神は、焼き尽くさんとする憤怒と感ぜられる。そしてそれは根底自身の牽引によって、統一に反対した次第に高まる緊張の状態に置かれ、遂には自己勦滅と最後の分裂に至るのである。
そもそも創造は何か究極目的を有しているのであるか。もしそうであるとすれば、何故にそれは直接に到達せられないのであるか。何故に完全なるものがすぐ初めから存在しないのであるのか。これに対しては、既に与えられた答え意外に答えはない。すなわち、神は単に一の存在ではなくして一の生命であるから、という答えである。しかるにすべての生命は一つの運命をもち、苦悩や転化に支配されている。従って神が、人格的とならんがために、まず光の世界と闇の世界とを分けた既にその時、神は苦悩や転化にも自発的に服したのである。存在は転化においてのみみずから感覚し得るものになる。存在のうちには勿論転化はない。存在のうちではむしろ存在自身が再び永遠と定立される。しかし対立を通しての実現においては必然的に一つの転化がある。古代におけるもろもろの密儀と精神的宗教のすべてに共通した。人間的に苦悩する神という概念なくしては、歴史全体は畢竟不可解である。聖書も顕示の諸期を区別し、そして遥かなる未来として、神が一切中一切である時、すなわち神が全く実現されるときを定立している。
創造の第一期は、かつて示されたごとく光の誕生である。光すなわち観念的原理は、闇(くら)い原理の永遠なる対立者として、創造する言葉であり、この言葉は根底のうちに匿(かく)されている生命を非有から救い出して、これを潜勢から現勢にまで揚げる。言葉の上に精神が昇ってくる。精神は、闇い世界と光の世界とを一つに結びつけ、かつ両原理を自己の実現と人格性のために従属せしめる、最初の存在者である。しかしこの統一に対しては根底が反動して、元初的二元性を主張する。しかしそれも、善が次第により高く上昇して遂に悪から分かれるためにすぎない。一切が成就され一切が現実的となってしまうまでは、根底の意志は自由を与えられておらねばならぬ。もしその以前にそれが克服されてしまうならば、善と悪とともにそのうちに匿れたままで残るであろう。・・・以下略
<以上同書p140-p142>
このような思考の世界があります。このように考察する哲学者もいる、ということです。
ここで言われている「闇」も「光」も光学的なものではなく自覚の程度ではあるが、自覚もこれも意の産物であって100%の基準があるという代物ではありません。
創造の目的は何か。そもそもなぜわたしは在りようとするのか。
希望無き虚無感はなぜ創られるのか。
実存における虚無を何ゆえに想定するのか。
多は一に向かい、一は多に向かう。
物質世界は多が一に集結する世界
精神世界も多が一に集結する世界
「統一に対しては根底が反動して、元初的二元性を主張する」というシェリングの想定も
形成という創造の多から一への円相のようでもあります。
人間の思考衝動の根源、元初的二元性を主張する無底の逆対応の力のようです。
今現在には常に元初的な無底が空間を満たしています。だから常に現象で満たされる。
「我々は常に空虚な部分を欲求として欲している存在と言えるのではないか?」
という問いは、空虚を五感の対応物化するところから来ます。
有/無、生/死、空虚/無底
対応できる人は、私にはコメント不要です。わたしには考えを進めないでください。
面前ならば別ですが。闇夜の烏は鳴いてもしじまに消えるまで(URLを求めています意)。
※当該ブログ中:「意」は「意味」や「心」を時々に使い分けています。勝手ながら文脈から察してください。