子は親から生まれる。
親は子から生まれる。
こんな言葉を題材に思うところを過去に書いたことを思い出しました。
タマゴが先か、親鳥が先か?
などという話の延長線上の話ではありません。
最初の、
子は親から生まれる。
は普通に認められるところですが、次の
親は子から生まれる。
となると、思考視点の転回を図るというよりも、「親」「子」「生まれる」ということばの意味に各自がどのような幅広い意味づけができるかで、問いの広がりがあります。
子を育てることによって親になれる。
もっとも親に近い親になるためには、子育てをする中でそれは培われる。どのような親になるのが理想的なのかは、それぞれに異なるかと思います。
この矛盾したような子と親の生まれの話、一昨年のはじめにテレビ静岡が放送している「テレビ寺子屋」という子育ての教育番組で、ピアニストで作曲家の樹原涼子さんが「祈り」というお話の中で語っていました。
【樹原涼子さん】
人は親になると祈ることが多くなります。
子どもが小さいころもそうですが、少し大きくなると手が届きにくくなり、ただ祈ることのほうが多くなります。
「祈る」という言葉からは、ご利益を願う感じが強いですが、 音楽を仕事にして、子どもを育てるようになってからは、「祈り」は特別のものになりました。・・・・・何のために祈るかですが、子どもが学校に入ることとか、 お金がたくさん儲かるようにということではない「祈り」があります。・・・・・
次男が高校受験の時一緒に合格発表を見に行った時、 私は息子がその学校に入れるようにと祈っていましたが、その時 彼は、「どこに受かるかではなく、 自分の人生にとって一番いいところに入れるように祈っている」と言うのです。 私は感動し、負けたと思いました。
もちろん勝ち負けではありませんが・・・。 そして、祈ることは深いものだと思いました。・・・・・・・
<以上>
この話の中には、親になると「祈ることが多くなる」ということが語られています。
子の育ての中には抱き包むためのハグする親の姿があり、両腕に抱きかかえる親の姿があります。その子もいつかは巣立ちます。
そこに、親離れして離れ行く子の後姿に、合掌の祈りの親の姿があります。
そんな母がこの世をまっとうすれば、祈られる今は亡き存在となります。
祈る仏に祈られる仏
合掌する仏に、祈る者は、祈られる立場にあることに気づく。
息子の出征の後ろ姿に手を合わせる母。どうぞご無事と祈る。
「祈り」
宗教的無底(Ungrund)の祈りは、哲学的無底(Ungrund)から導かれる祈りとは異なる。
宗教/哲学
この意味を理解するのに1年かかりました。
私は祈りに解釈をつけません。神の内なる自由、人格的な神から非人格な神へ
存在の探求は「もと」えの探求であり、実存的虚無の深淵の「もと」に空を観たのは西谷啓治先生でした。