正月の三が日のとある日、30歳後半の夫婦と出会いました。二人とも派遣社員で昨年の暮れ失業しアパートは、継続契約を拒否され、野球場の駐車場で車上生活をしていました。
車には、年老いた両親が居りました。行政に住まいの相談をしたところ仕事始めにならないとどうすることも出来ないといわれたとのことでした。この人たちは14年前に、九州から当県に来たということでした。
車上生活のこの時の悩みは、喘息の持病がある父親がこの寒さで、この車上生活の中で喘息が出たらどうしようということでした。
最終的には、「病院に相談しよう」ということになり病院を紹介しました。
当初この人たちが日系二世の方のように見えたので、「教会(キリスト)にいかれましたか。」と尋ねたところ「いいえ行っていません。」というので、信仰の薄い人たちかなと思ったのですが、あとで純粋の日本人である事が分かりました。
私からどうして教会の言葉が出たかといいますと、ある牧師さんから日系の方々がいろんな悩みの相談を受けるという話を聞き、お国柄キリスト教の人がほとんどなのだと思い、派遣社員即日系人のイメージが高くそういう質問をしたわけです。
日本人であることを知って、直ぐに感じたことは日ごろ信仰と向き合わない人は大変だと思いました。(信仰という言葉の定義はしませんが)
そのときに思ったのですが、自分の身を守る者、守りを必要とするものが子どもならば親ですし、成人で自立していれば自分以外の何ものでもないということと、自分を守る、いわゆる守護するものを教えているのが仏教ではないかなと思ったわけです。
災難を区別してはいけませんが、自然災害であるなら当然仏教関係者の救済もありますが、今回のような事態の場合は、行政がまず第一に対処すべきだと思います。
「差別なく困窮するひとびとを救うのが、人の道」と感覚的に思う思考の中には、社会に生きる時の基盤がありません。その基盤とは何かといいますと、公的機関の存在です。
今回のアメリカの大統領就任式に見られるように、聖書とともにある国家ならば行政行為も聖職者の行為も同一の基盤で、行政機関の行為の欠陥を補うことを宗教関係者がするならばそれば自然の流れでしょうが、そうでない国家に生きるならば、法的根拠を基に行政行為が行われるその不備を是正することを問うていくことが第一の思考になる生き方が自然だと思います。
今回の出会いの中で思ったことは、「14年間の生活」は何を意味しているのだろうか、今回のような生きる上での大きな壁、越えなければならない壁、イニシエーションの意味はこんな時に顔を出します。
お釈迦様が何をいわれたか、それは法灯明と、そしてあなたとわたしの
「自灯明」とそのときに思いました。救いの光、姿は多々ありますが一律ではない、それが人生だと思います。
教えの言葉は多々ありますが、その話をどう捉えるか。物を与える心と見るか観る心を観るか。
今日は朝から雨で、霧が濃い天気です。