思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

振り込め詐欺手口の呼称変更

2009年01月29日 | つれづれ記
 振り込め詐欺といえば、「オレオレ詐欺」「融資保障金詐欺」「架空請求詐欺」「還付金詐欺」の四つがよく言われていますが、「オレオレ詐欺」以外はどのような詐欺の手口なのかよくわかりません。

 そこでこれからは、「貸します詐欺」「支払え詐欺」「返します詐欺」と、それぞれの犯罪手口のだまし文句「貸します」「支払え」「返します」をつけた形のほうが被害者に分かりやすいことから、長野県の警察では、これからはそのように呼ぶことになったという記事が朝刊に掲載されていました。

 確かに融資保証金詐欺といわれるよりも「事業資金を『貸します』」、架空請求詐欺よりも「アダルトサイトの利用代金を『支払え』」、還付金詐欺よりも「過払いの年金保険料を『返します』」という手口と説明した方がいま自分がしようとすること、またはしていることに気づきをもたらす効果があるように思われます。

 今年は、常念岳を見ても降雪量が例年よりも少なく気がします。

グレゴリアン・チャント

2009年01月28日 | つれづれ記
 最近は雪こそ降りませんが、冷え込みが厳しくなっています。

 平日の通勤時間帯はまだ暗く、愛車のエンジン音が山麓線に響きます。最近は主にグレゴリアン・チャントを聞きながらの50分。

 日曜日に遅めの出勤でカーラジオからは、聖書の時間で先週は「イザヤ書30章15節」今の世相に合わせたような教示でした。

 他に求め、自己に引き寄せ、自己を修する。荘厳な教会での響きでしょうか、17曲が終了するとちょうど職場に着く時間になります。

いざ出陣

2009年01月25日 | つれづれ記
 西高東低の冬型の天気図。マイナス6度の寒気団が来ているとのこと。日本海を中心に雪が降るそうです。

 日の入りは遅くなったのですが、日の出は相変わらず7時過ぎになっています。

 これから24時気をしき締めて仕事に励む決意を東天に祈り、いざ出陣。

法灯明 自灯明

2009年01月23日 | 仏教
 正月の三が日のとある日、30歳後半の夫婦と出会いました。二人とも派遣社員で昨年の暮れ失業しアパートは、継続契約を拒否され、野球場の駐車場で車上生活をしていました。

 車には、年老いた両親が居りました。行政に住まいの相談をしたところ仕事始めにならないとどうすることも出来ないといわれたとのことでした。この人たちは14年前に、九州から当県に来たということでした。

 車上生活のこの時の悩みは、喘息の持病がある父親がこの寒さで、この車上生活の中で喘息が出たらどうしようということでした。

 最終的には、「病院に相談しよう」ということになり病院を紹介しました。

 当初この人たちが日系二世の方のように見えたので、「教会(キリスト)にいかれましたか。」と尋ねたところ「いいえ行っていません。」というので、信仰の薄い人たちかなと思ったのですが、あとで純粋の日本人である事が分かりました。

 私からどうして教会の言葉が出たかといいますと、ある牧師さんから日系の方々がいろんな悩みの相談を受けるという話を聞き、お国柄キリスト教の人がほとんどなのだと思い、派遣社員即日系人のイメージが高くそういう質問をしたわけです。

 日本人であることを知って、直ぐに感じたことは日ごろ信仰と向き合わない人は大変だと思いました。(信仰という言葉の定義はしませんが)

 そのときに思ったのですが、自分の身を守る者、守りを必要とするものが子どもならば親ですし、成人で自立していれば自分以外の何ものでもないということと、自分を守る、いわゆる守護するものを教えているのが仏教ではないかなと思ったわけです。

 災難を区別してはいけませんが、自然災害であるなら当然仏教関係者の救済もありますが、今回のような事態の場合は、行政がまず第一に対処すべきだと思います。

 「差別なく困窮するひとびとを救うのが、人の道」と感覚的に思う思考の中には、社会に生きる時の基盤がありません。その基盤とは何かといいますと、公的機関の存在です。

 今回のアメリカの大統領就任式に見られるように、聖書とともにある国家ならば行政行為も聖職者の行為も同一の基盤で、行政機関の行為の欠陥を補うことを宗教関係者がするならばそれば自然の流れでしょうが、そうでない国家に生きるならば、法的根拠を基に行政行為が行われるその不備を是正することを問うていくことが第一の思考になる生き方が自然だと思います。

 今回の出会いの中で思ったことは、「14年間の生活」は何を意味しているのだろうか、今回のような生きる上での大きな壁、越えなければならない壁、イニシエーションの意味はこんな時に顔を出します。

  お釈迦様が何をいわれたか、それは法灯明と、そしてあなたとわたしの「自灯明」とそのときに思いました。救いの光、姿は多々ありますが一律ではない、それが人生だと思います。

 教えの言葉は多々ありますが、その話をどう捉えるか。物を与える心と見るか観る心を観るか。

 今日は朝から雨で、霧が濃い天気です。
         

アメリカ新大統領就任式に思う

2009年01月21日 | こころの時代
 オバマ大統領の就任式が平穏の内に終了しました。2・300万人の人々がこの就任を祝い、演説に涙する人も見られました。

 演説でも語られましたが60年前には、考えられないことです。

 白人と黒人・有色人種間の差別問題は、これほど早く解決されれるとは誰も思わなかったことでしょう。

 解消などというと、「そうとはいえない」と反論が出そうですが、アメリカという大国の大統領が黒人の方である、という事実は「解消」と結論付けた表現の方が適切であるように思います。
 
 今後差別的な問題が発生するとなると片方だけの問題ではなく、アメリカ国民全体の問題だという意識の方が高くなるように思います。

 日本では、「出る釘は叩かれる。」「足を引っ張る。」という妬みともいえる心理が働き前向きな前進が見られない。変革をしようにも、内と外から叩かれる。

 叩かれる者もそもそも器ではないのです。

 1964年7月公民権法成立。
 1968年4月キング牧師暗殺。
 1992年4月ロス暴動。

 今年は、2009年です。

 日本は、この間にどれだけ魂を揺るがす変化があったのだろうか。

 今日の写真は、安曇野を訪れているハクチョウたちです。

オバマ新大統領就任式まであと6時間

2009年01月20日 | こころの時代

 オバマ新大統領就任式まであと6時間となりました。首都ワシントンには、200万人から300万人の人々が就任を祝うために参集するものと予想され、4万人の警備関係者による厳戒態勢がひかれるとのことです。

 200万人という数字は、私の住む長野県の人口とほぼ同じで、ワシントンという都市に集中すると思うと首都の治安が保てるか心配になります。

 ニュースを見ると、白人の方は少ないような気がします。それは当然のことで、いかにオバマシ氏就任に対する歓びが高いか、それはいかに彼らが差別の中に生きたか物語っています。

 失業率は日本の比ではないでしょうし、失業者は多分参集する人々と同じ人種層にある人々でしょう。そしてこれも多分でしょうが失業されている方も参集者の中に居られるのではと思います。 この就任式が平穏の内に終わることを祈りたいと思います。

 私は、この200万、300万人とも予想される人々が、マーチン・ルーサー・キング牧師の有名な言葉、「I have a dream」

 私には夢がある。

 いつの日にか、ジョージアの赤土の丘の上で、かつて奴隷であった者たちの子孫と、かつて奴隷主であった者たちの子孫が、兄弟として同じテーブルに向かい腰掛ける時がくるという夢が。

に呼応する人々であって欲しいと思います。

 キング牧師の「夢」には、信仰を基盤とした、人のもつ優しさ、愛への希望があります。

 人は善でありたいものです。「善」というと五蘊の我が身が、と疑念が出そうですが時には、素直になります。

 このような善の心を持つ人が、200万人から居る。それも1都市に居る。
 
 もしこのような心を山国の長野県民全員が持っていたらとおもうと、長野県はどんな県になるだろう。

 またくり返しますが、この就任式が平穏の内に終了することを願います。

 今日の写真は、安曇野にある「ホースランド安曇野」から見た北アルプスの風景です。


攻撃的な思考様式

2009年01月18日 | 仏教
 最近話題の田母神さんが登場し、防衛、戦争、平和教育などについてのトーク番組を見ました。特に印象に残り考えさせられる、女性タレントの言葉がありました。

 「他国から攻撃されたら」という話題に対してのタレントの意見でしたが「私は、やめてくださいと、泣いて訴える」旨を述べ、いわゆる非暴力の立場で話していました。

 このような意見は今まで充分しっていましたし理解もしていましたが、この番組の全体的な流れからでしょうか、何故か新鮮に感じられました。

 そのタレントに有名な平和運動家のようなカリスマ性があるわけではありませんでしたが、子をもつ親の立場あったからかズシンと心に響きました。

 非暴力というと「ガンジー」さんが直ぐに脳裏に浮かびます。早朝のNHKの番組でも最近番組として取り上げられていましたが、ガンジーという人はインドにおけるアンベードカルの指導による不可触民のヒンズー教からの仏教への大量改宗運動の問題において、最後までカースト制度撤廃をそのヒンズー教徒という立場から言及できない人であったことを記憶しています。

 ガンジーさんという人に対しては、また自己の性的欲望を抑えることに固執したり、外国文化に対する排他的立場からそれを息子に押し付け結果的に悲惨な死を息子に強いた人物という人物像が私の中で出来上がってしまっています。

 インドの哲学者で安曇野にも来たことがあるサティシュ・クマールさんという方がおられます。
 
 横浜商科大学教授の尾関修さんと尾関沢人さんという方が「君あり、故に我あり-依存の宣言-」というサティシュ・クマールさんの著書の翻訳本を講談社学術文庫から出されていますので、自己の精神性に興味のある方ならば、読まれたことがあると思いますが、この本に次のように書かれています。

 非暴力の文化そのものを創造することなしに平和と武装解除はあり得ない。暴力の文化に基づいた社会では、目的が手段を正当化するとされている。それが国家的暴力にせよ、テロリストの暴力にせよ、望ましい秩序を実現するために暴力は常に正当化される、と考えられています。
 暴力は、あるいは非暴力は精神状態であり、生き方である。もし私たちが、ある暴力は正当化でき、ある暴力はそうではないと取捨選択するなら、社会的、人種的、宗教的、経済的、政治的な非暴力を築くための共通の文化は存在しなくなってしまう。非暴力の新たな文化を推し進めるためには、私たちは原点から始め、すべての生命の一体性と本質的価値を認める必要がある。自然や動物に対して攻撃的な思考様式は、他の国々や他の宗教の人々に対しても同様に攻撃的になる傾向がある。そして、他者に対する攻撃的態度は、国家や宗教や人種の集団内での敵対へと姿を変えうる。
(上記書P187から)

 サティシュ・クマールさんはジャイナ教の僧侶、ジャイナ教には厳格な不殺生というものがあり、菜食主義的な傾向が強い。

 動物に対する攻撃的な思考様式という言及は、「ものをいかす」という日本語に合わない部分もあるが、サティシュ・クマールさんの「非暴力」に対する思考の姿がよくわかります。

 「攻撃的な思考様式」という言葉に、わたしは感覚的な問題ですが、ドキとする強いイメージを受けます。

 思考の段階では最高の哲理であっても、縁起の前の平等性がなく「慈悲心」の基盤がないと思うことがあります。

 原田雪渓老師の「The・禅 柏樹社」P93~94に次のように書かれています。
此物有故有彼物(増一阿含経)

 この言葉は、皆さんが毎朝唱える「般若心経」の「空」、あるいは釈尊ご生涯の「般若」「智慧」ということに対しての、一貫した説明であります。この言葉のごとく、自己を認めることによって、一切のものが生じるわけです。生じたことそれ自体はなんの問題もありませんが、しかし、受けとる側において問題が生じるということです。
 「私」というものが生じる以前に、森羅万象はすでにありました。人が生じたことによって、その森羅万象を認識の対象としましたし、そして、認めることによって、これを「自然」と名づけました。山川草木それ自体は、自然とも不自然ともいうある方をしていません。人が、ただ、そう名づけたということです。
 それと同じように、すべてのものを人が認識し、名づけたことによって、自分が混乱させられている。その混乱を生ぜせしめているものが自分以外のところにあると考え、それは大きな間違い、顛倒妄想(てんどうもうぞう)であります。そこで、自己を参究することによって、顛倒妄想、すなわち不安が解消されるということが、間違いなく実証されるわけです。

イスラエルが一方的な停戦宣言をしましたが、ハマスもこれに呼応してもらいたいものです。

写真は今朝の美ヶ原のシルエットです。細かい点は鳥の群れです。
        

神の痛み

2009年01月17日 | 仏教
「神の痛みの神学」北森嘉蔵著 講談社学術文庫の序文「講談社版への序」に曾我量深先生とのかかわりの内容として次の記述がありました。

 私はこの書物の第一章において、聖徳太子の「維摩経義疏」を媒介として、仏教の「悲」と神の「痛み」とについて述べた。その要点は、仏教の「悲」が「悲痛」と熟する意味での「かなしみ」にまで達しておらず、「同情」「あわれみ」のいみにとどまっているのではないか、と問うことであった。
 これは、この書物が現われて以来、二十年わたる仏教への問いかけであった。二十年後にしてようやく仏教側から受けとめられたのである。しかも仏教界長老のおひとりから受けとめられたのである。曾我先生は、「悲」をめぐる私の問いかけを素直に認められ、「悲」をこれまでの仏教が「同情」「あわれみ」の域にとどめておいたことを自己批判され、「悲」は「痛み」に通じる悲にまで考え直されねばならないことを認められたのである。(雑誌『中道』、昭和四十二年十月号、曾我量深「往生と成仏」。もちろん、これは仏教がキリスト教化されるというようなことを、ただちに意味するのではない。むしろ、曽我先生の次のような言葉に添うものであろう----「われわれはやはり、キリスト教でも仏教でも、お互いに語り合うて、そうして別に仏教者がキリスト教にかわるとか、そういうことをしないでもですね、両方が互いに話し合い、両方が互いに磨いていくということが必要でなかろうかとこう思うのでございます」(上掲誌11-12項)。

と書かれています。

 ガザ地区での戦闘は連日報道されています。

  仏教における慈悲という言葉は、平等ということばと密接に関係のある言葉です。 平等と言っても不平等を前提にするものではなく、そのような垣根のある志向性で絶対の他と係わらないことを意味するものと思います。

  人を人と見ない。他己が他己でないとき自己の煩悩は、とめどなく流れ悲しみを造ります。
 右頬を叩くものが、「者」でないときは撃たれます。そもそも「平等」「博愛」を叫ぶ時、「無き」を叫んでいるのではなく「有る」を叫んでいる。

 「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ルカによる福音書第23章34節

 主を殺したのはローマの兵隊だが、殺せ殺せと叫んだのはユダヤの群集、ローマの権力に主を引き渡したのもユダヤ人指導者。
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 福音書成立はローマ帝国の時代、時の権力者はローマ人。そのローマの世界にあって教会が伝導するために、あえてこの主の言葉をローマ人への免責の言葉として残したともいわれています。

 行われている行為に居合わせる者にとって、すべては平等に起こっている。ニュースに見入る私にも。
  

幸せの国 ブータン

2009年01月12日 | 仏教

 ブータンという仏教国が最近クイズ番組に登場していました。ブータンは、ヒマラヤ山中にある人口66万人で国土はほぼ九州と同じ小さな国です。

 この国は、GNH(国民総幸福量)を国の目標に掲げ立憲君主制の農業国です。電気の普及率は約四割ですが、渓谷を利用した発電で、電力をインドに輸出し外貨を得るなどの方法により医療費はただ、国勢調査で90%以上の人が「幸せ」と答えているということでした。番組では女性レポーターが一軒の農家にホームステーしましたが、なんとレポーターとステー先の子どもたちが英語でコミュニケーションをとっているではありませんか。

 それもそのはず小学校から英語教育を始めているのです。家屋は田舎の日本でも見られたような雰囲気の作りですがテレビ、プッシュホンがあり、携帯電話はおじいさん以外みんな持っていました。 

 GDP(国内総生産)は、日本の4000~5000分の一の規模で世界の「最貧国」に当たるとのことです。

 稲の収穫時期でしょうか、村人総出で楽しそうに仕事をしていました。近代的な農機具などはなく昔ながらの方法で行っていました。

 即位したジクメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王が通るということで、町場の人並みをテレビカメラが映しだが、すべての人が自然な笑顔であった。朝鮮半島と北の方の国とは比べようがない心底豊かな微笑であった。

 1月5日の信濃毎日新聞夕刊に「幸せの国 ブータン」と題して特集がなされ、その中にブータン国教であるチベット仏教の高僧ガンテ・トゥルク師の言葉が載せられていました。

 「スロー・ダウン(ゆっくりと)、自分も他人も追い詰めてはダメ。少し立ち止まってみては?」

 
今日の写真は、興龍寺にある東京在住の方から寄贈された、西チベットの地獄極楽図の石碑です。
                  

 ※ GNH(国民総幸福量)とは、物質的な基準ではなく、幸せの指標として前国王がGNP(国民総生産)からヒントを得て考え出したもので、良い政治・個人生活・自然環境の三要素からなっている。Hは、「HAPPINESS(幸せ)」のH。


「山は大きく」の碑

2009年01月11日 | つれづれ記
 各地で消防出初式が行われています。今日の午後に東筑摩郡朝日村という小さな村の出初式を見に行きました。

 残雪の残る寒い中、ふと会場の中央公民館前の庭先を見ると立派な石碑がありました。

 朝日村ファンタジー テーマ曲「山は大きく」の碑で、作詞者を見ると上條恒彦さんでした。 そういえば上條さんはこの朝日村の出身者でした。

 この村には、スキー場もあり、高原野菜も取れ静かなのどかな村です。松本空港まで10分ぐらいです。