思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

命に向かう

2019年04月15日 | 古代精神史

 元号の「令和」が万葉集から採用され、初めての国書からということもあってか多くの人の興味を惹きつけているようです。書店では万葉集の関係本が人気だとのこと、また松本でも博物館、文書館などが特別展を開催し祝「令和」ムードが全国的に広がっているようです。

 一方快く思わない人も当然たくさんおられるわけで世の中に均衡というものはないのだろうかと思ってしまう。しかし世の中の推移というものは一律でないことが当たり前で動的でなければ現象そのものが立ち現れないように思う。

 身体が細胞の死滅と生成の動的な変化であるように、世の中のありようも相似的であるように感じられます。全体は部分の集合体ですが、全体は一見固定されたありかたではなく細部に至れば常に動的な在り方です。

 万葉集の話から少々外れてきましたが、国語辞典と古語辞典があるように言葉も止まることなく変化します。万葉集も万葉仮名を使用し現代人がそれを読むことができたとしてもすぐにはその意味を解せないことがたくさんあります。

 しかし古語と現代語の仲介者が存在することで、わかるという事実が現れる事になります。理解する、理解し合うには適切な仲介者が必要に思われます。適切な仲介者と簡単に言ってしまいましたが、何が適切なのかも含む、その判断は自己負担、自己が請け負うしかありません。

 万葉集ですが、過去ブログでEテレで放送されていたNHK「日めくり万葉集」(2012年ころ)を話題にし、思考探求課題の「やまと言葉」で万葉集歌を参考にしたりしてきました。最近の話題としてBSでは現代万葉集に関連した番組が放送されるそうで、万葉ブームがまた起こりそうです。

 元号の「令和」の考案者ではないかと言われる国文学者の中西進さんと歴史学者の磯田道史さんの対談集(『災害と生きる日本人』潮新書)を読んでいたところ興味深い万葉歌が語られていました。その歌とは、

万葉集巻4-678の中臣女郎と大伴家持の間でかわされた

直に逢ひて 見てばのみこそ たまきはる 命に向ふ 我が恋やまめ
(ただにあひて みてばのみこそ [たまきはる] いのちにむかふ あがこひやまめ)

一般的な口語訳では
 「いのちにむかふ あがこひやまめ」は「命をかけた私の恋はやむのでしょう」と「命に向かう」は「命をかけて」と訳されます。

 中臣女郎は大伴家持にぞっこんほれ込んで「命をかけて」恋してるわけではなく「命に向かって」恋こがれている、と言っているわけです。

 古語辞典でも「命に向かう」は、「命に匹敵する。命に等しい。命がけである」と訳されています。

上記対談集の中で、

【中西】いまは普通に「命をかけた恋」と言いますから、それと同じと思ってしまいそうですが中臣女郎は「命をかけた」ではなく「命に向ふ」と詠んでいるのがすごい。

【磯田】南北朝時代から戦国時代あたりまでの時期に、日本人の生命観が大きく変化したように思います。万葉の時代は「命に向ふ」というベクトルの生命観があった。命は自分の外にあって、そこに向かっていくものでありました。ところが、こうした生命観が変容していってしまいました。以下略

【中西】少なくとも、真剣に恋をしている状態を「命向ふ」とはとらえなくなっていったのでしょうね。人間が生きている証を確認するために内面を追求する生命観は次第に失われて行ったのだと思います。

「命に向かう」という言葉、ネットで「いのちに向かう」で検索すると「いのちに向かう道」「いのちの道に向かう主の小道」というサイトや本紹介がありました。どうも意味するところは「主(神)の与えられた命あるものになるための教え」という内容のようです。

 キリスト教の説かれし道とでも言いましょうか、感覚的にそのように解してしまうのですが、間違っているかもしれません。しかし今はそのように個人的に解釈します。

 神の教えにふさわしい命あるものの生き方に向かう。今現在の己の生き方への啓示です。

このような理解のもと中臣女郎の「命に向かう」を読むと全く次元が異なるように思えます。万葉時代の世界観に重ねることはできないのは確かです。

 中西先生が言われるような「真剣に恋をしている状態」の表現として「命に向かう」が、ある時代から「命をかける」という意味を持つ言葉に変化をするそこにどのような精神的な思考変化があったのでしょう。

 あれの様相の世界が何を人々に影響したのか、視点を変えて、影響されたのか。

 個人的に逆転回を示すような詩があります。

 

星野弘著『<花の詩画集>鈴の鳴る道』
いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが
苦しかった

いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった

後段の部分に万葉歌の男女間の恋愛を重ね逆転回などとするには無理に思えます。そこをどうにか勝手に理解したくなるのが私の思考。

「命を思い切り突き抜けると、毎日が嬉しい事態」

 こう解釈すると星野さんの詩に対して不謹慎になるかもしれませんが能動的な心的な作用が、場を変える要素を含むのではないか、そのように感じるのです。

 生命のはぐくみなどは意識することは、まぁ平凡な日常にはないと思いますが、どうでしょう恋愛が高じれば鼓動は高鳴り、居ても立っても居られない。経験があるかは否かは別として、個人的な感想をくり返しますが、「突き抜ける」というような感覚がよぎるわけです。

ここまで万葉集を話題に投稿したところ「万葉集には天皇や皇族・貴族だけでなく防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌」と元号「令和」について語った安倍総理の話は、専門家の間ではそう語る者はおらず、教科書にも書き込まれていないというブログ記事を目にしました。

 万葉集研究に一生をかけた犬養孝先生は情熱をもって防人の親子や農民の歌を語っておられたのを思い出します。

 しかし、そう考える学者はほとんどおらず、語るものは無知と言えそうだというのですから、それをうのみにして語るものは愚か者ということで、私もその愚か者のひとりなのかもしれません。

 何か嬉しくなる思いが、瓦解するような感じを受けるのですが、本当かウソかの議論になりそうなので、そんな感情劣化の議論には足を踏み入れないことにします。

 しかし、おもしろい。世の中はまるで自己の二重性とも言えそうな分裂状態で事は進むようです。落ち着きどころで落ち着けば誰も不幸にはならないと思うですがどっこいそうならないのが世の常。

古代ギリシャの哲学者プロティノスの『自然、観照、一者について』の冒頭で語る「観照」という言葉を紹介したくなります。

 「この世の中のものは、理性的な生きものばかりでなく、理性をもたない生きものも植物の生命(ピユシス)も、またこれらをはぐくむ大地も、すべてが<観照(テオリア)>を求め、これを目指している。そして、すべてはその本性の許す範囲で精一杯の観照をおこない、その成果を収めている。ただし、それぞれの観照の仕方や成果にはちがいがあり、或るものの観照は真実を得ているが、別の或るものの観照は、真実の模像もしくは影を得ているにすぎない」<『世界の名著2プロティノス、ポルピュリオス、ポロクロス 中央公論社』から>

プロティノスの語る「観照」という言葉、好きなんです。

 “すべてはその本性の許す範囲で精一杯の観照をおこない、その成果を収めている。”

人は人なりの観照しかできないのでしょうか。


「令和」を思う

2019年04月02日 | 古代精神史

 新元号が「令和」となるということで、この元号命名の出典が中国の古典からのものではなく、万葉集からとのこと、「おだやかで平和な世の中」を期待したいと思います。

 この元号については制定にたずさわった方々は大方よい評価であったということですが、どこにも必ず異を唱える方がいるもので実に世の中は多様です。

「あかるい」と感ずる人もいれば「命令の令」を意識してしまうと思う人もいます。そして「ぴんとこない」という言葉を取材で得たのでしょう、地方紙にはこのことばを「あかるい」と併記していました。

 この地方紙ですが一面の天声人語のような欄に万葉集の山上憶良の名を出し「平城京から遠く離れた任地で貴族が梅の花にかこつけて優雅に遊んだろう」という文章を織り込んで記事を書いていましたが、個人的には誰もが読む新聞にこのような文章を掲出する己の表現の深層を考えてしまいます。

 元号制定は「めでたいこと」と私は思うのですが、万葉集は確かに貴族層が関係するものでしょうが、地方の農民などの歌も織り込まれたり、防人の親子の歌などがあるなどそれはそれはとても豊かな心を培う要素がある歌集だと理解しています。

 この年号の考案者は万葉学者の中西進先生ではないかという説があるとのこと。個人的に中西先生には古代精神史における「やまと言葉」を著書などから学ぶことができたこともあり、中西先生に違いないと個人的には思っています。

 昭和に生まれ、平成に頑張り、令和に余生を送る。日本人はこのような時代の区分で自己を回顧しこれからを思うところがあります。20世紀から21世紀を生きる。確かにそうなのかもしれませんがんなぜか「ぴんとこない」のですが。

万葉集巻五「太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首」の序

天平二年正月の十三日、帥の老の宅に萃ひて、宴会を申ぶ。時に初春の令月、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。加以(しかのみにあらず)曙は嶺に雲を移し、松は羅を掛けて盖を傾け、夕岫に霧を結び、鳥はうすものに封りて林に迷ふ。庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。是に天を盖にし地を坐にして、膝を促して觴を飛ばし、言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開き、淡然として自放に、快然として自ら足れり。若し翰苑にあらずは、何を以てか情をのベむ。請ひて落梅の篇を紀さむと。古今それ何ぞ異ならむ。園梅を賦し、聊か短詠を成むベし。

からの引用とのこと。

 素直というと反骨を相依させてしまう私ですが、「命令」の令を想起してしまうという方は、従属的な忍従を強いられる自己が主人公になるのでしょうか。

命令によって人殺しをさせられた歴史は確かに「昭和」にあったことを教えられました。しかし平和憲法下で法治国家に生きることは、憲法、法律、政令等に従う意味の場に生きることでもあります。

 世の中の動きに常に反骨精神を持ち懐疑的に生きることも個人の自由ですが、地方紙とはいえ万葉集を貴族的な優雅世界の産物と読み取りそれを公に「令和」の元号に重ねて公言することができる、記者の己の発意の根底には感心してしまいます。

 梅の花の歌、漢詩ではなく和歌で春の情緒を歌っているのですが。


「ある」ことと「なる」ことの力能の主体

2016年10月22日 | 古代精神史

 旧制諏訪中学校(現諏訪清陵高校)で地理を教えながら研究者として活躍した三澤勝衛(1885~1937年)の『新地理教育論ー地域振興とその教化』(古今書院・1937.9.10)に注目される方々が多いようで農文協から関連本が出版されており、個人的にこの著を研究された方が自主出版をなされています。

 三澤先生の「風土論」は過去ブログにこの著に言及したことがありますが、和辻哲郎の有名な『風土』とは視点が異なり、まさに身近な地方の「風土」を語り、そこに生きる人々と自然との共存を語る、貴重な著書です。

います代表的著作「風土産業」をテーマにした本を自費出版した。理学者に三澤勝衛という方がおられますが先生が、風土に関する講演記録の中で次のように述べています。

「・・・元々、風土というものは大自然そのものである.自然には善悪はない。それを善とするのも悪とするのも、それは全く吾々人類の心構えのだけのものです。・・・」
<『三澤勝衛「風土産業」を読む』(志村明善編著・あざみ書房p66)『新地理教育論ー地域振興とその教化』p441)から>

 最近はこの言葉が自然に私の言葉として出てくるようになりました。「天災は忘れたころにやって来る。」と古人は語り、昨日も中国地方で地震があり、最近の阿蘇の噴火、異常気象に伴う洪水被害、台風被害があり、思い出す阪神淡路地震そして東日本大震災と個人的にはこれらの災害に直接影響されることはありませんでしたが、自然の営みというもを考えさせられます。

 東日本大震災で自然の営みを深く考えさせられた一つに、牡蠣(カキ)の養殖がありました。震災では大きな被害を受けたカキ養殖。海はカキの養殖の根本ですが、海があればよいということではなく、山林の腐葉土が川に流れ、それが海に至りカキの栄養分になるので、山林も重要な役割があり、河川も当然、毒を流す河であってはならないのです。

 三澤先生はそのことに言及しているわけではなく、「風土」というものはそのような関係性を有するものだと語っているのです。

 明治以降の公害問題はいかに人間の行う行為が自然のあるべき姿を変え、世の中を荒れ野にし、福島の原発事故は大地も海を汚し大いなる問いを人類に投げかけています。

 荒れ野の豊洲、もともと人びとの生活を快適にするためのガス会社があった土地、も人間の愚かさを語ります。

 語る主は大地ではなく、そこに現れる力能です。存在の力能とでも呼ぶのでしょうか、「ある」こと自体の変更が別様の「なる」に変容して行く、そこに力能を思うのです。

 現象を知覚し、表象し認容したその先に力能の主体を感じる。

という表現をしますが、何かを知るということでもあります。

「われわれ日本人は少なくとも弥生式時代前後から約二千年、比較的穏和な自然に恵まれて、定住農耕ーー一部漁撈---を主としつつ、自然との戦いというような荒々しい生き方をしないで暮らしを立てることができた。また他民族との血の闘争によってはじめて国境を維持し、社会生活を確保しえたという深刻な生活史をもたない。源平の闘争や、戦国武将どうしの抗争は、西洋の民族対立の死闘に比べれば、その規模において、格段の差がある。そこに生まれる人生観は、喰うか喰われるかといったぎりぎりの、絶対的な価値観に裏付けられたものではなくて、自然環境の変化とか、社会情勢のなりゆきとかに順応するための「生活の知恵」式なものになるののが当然であろう。」

 この文章は、宗教哲学者の磯部忠正先生の書かれた『「無常」の構造』(講談社現代新書・はじめに)にある言葉で、その考察の先には「無常」という言葉の意味があります。

 今回は無常について語るわけではありませんが、日本と西洋のある意味では「風土環境」を語るものです。上記文章には弥生とありますが、現代では縄文期にはすでに定住遺構が認められ、私も個人的に身近の遺跡に千年単位の痕跡を確認しています。

 再度ここで前々回のブログで紹介した明大名誉教授で日本精神史研究の平野仁啓先生の言葉を引用します。

 「火山にせよ、大きな川の川合にせよ、大海にせよ、それは古代日本人に自然の事実を強く深く体験させずにはおかないために、そこに自然の事実を体験することから、自然の意味を考えることへの移行なくしてはすまされない。その場合、自然の現象について抽象的に思索するのではなく、自然の体験において感応した聖なる力の意味を考えることになるが、聖なる力を感応することは、すでに宗教体験がはじまっているのであった。人間の力で規制することのできない自然の強大な力能に接するときに、古代日本人の自然についての体験は宗教体験へと転移されるのであった。そして、自然についての体験が宗教体験に転移するとき、自然の事実は、自然の意味へと昇華される。だが、それは自然の事実をそのまま神格化することでもなければ、自然の力能をただちに神格化することでもない。そこに神が出現するのであり、自然の事実は神の意志による出来事として理解されるのである。古代日本人は神を祭ることによって、自然の事実の背後に働く強大な力能と対応する方法を発見したのである。」(『続・古代日本人の精神構造』(未来社・1976.11.30・p73-p75)

今回は上記の

「古代日本人は神を祭ることによって、自然の事実の背後に働く強大な力能と対応する方法を発見したのである。」

を前回は取り出しましたが、ここで言及する「神」という言葉、当然人格神のような様相を呈したものではありませんが、最初に紹介した磯部先生が無常という言葉とともに「幽(かみ)を語っているのです。

 ・・・私は日本人の「無私」の生き方のこの両面を、「幽(かみ)」という概念で統合することができるのではないかと思う。・・・略・・・私はこの「幽」に、さらに、それを側面から照明する「この世に対する根源的違和感」に、日本人の生き方・考え方の原型となる生命観・死生観・価値観などがたたみこまれているように思うのである。・・・(同書・はじめに)

 現代人は科学的世界に住んでいる一方で、実用的に乏しいものであるのにも関わらず関係性を持とうというものがあります。

 しかし彼らはそれとならんで、そのうえに、呪術的なあるいは迷信とみられるような信仰行動をとることがしばしばある。気やすめと言えばそれまでであるが、じつにここに「幽(かみ)」の世界との交流という、日本人に特有の心性を私はみるのである。(同書・p119)

 パワースポット、心霊スポットなどがはびこる現代、非科学的に実用性に乏しい多くの若者が引きつけられる、現代人に限らずでこういう感覚の世界は消え去ることなく現代にも伝播しています。

 科学的にはその実在が証明されないものに魅惑される。

 そういう意味においては「幽(かみ)」という視覚と声音に興味を持ちます。

 幽玄な世界、能楽を語るわけではありませんも、個人的にブログに能楽を語りますが、私にもこの「幽(かみ)」が働きかけるのかもしれません。

「ある」ことと「なる」ことの力能の主体

 この「幽(かみ)」も興味深いのです。


「さわる」と「ふれる」に出遭うとき

2016年10月15日 | 古代精神史

 万葉集には何人かの悲劇の皇子の歌があります。

 磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸(まさき)くあらば また還りみむ

 万葉集にある有間皇子の歌があります。
 
 有間皇子が悲劇の皇子であることは皆さま承知のことだと思いますが皇子にはこの歌はその他に

 家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

もあります。処刑台への道を歩く旅、そこに現れているものは何か?

 過去ブログで、ここに登場する「引き結び」の「むすび」という言葉に注目し、命について考察したことがあります。その際に万葉学者の故犬養孝先生の次の言葉を紹介しました。

 実際にはよくわかっていない。松の枝と枝を結んだか、松を輪型に結んだか、松に幣帛をつけたか、それは不明です。恐らく幣帛をつけたのではないかと思われます。けれど松にさわるということはどういうことでしょう。これは松は常盤ですから、松の常盤の魂が我が身につくということなんですね。だから我が身が”命長かれ”という祈りになるわけです。

 この文章の中に「松にさわるということはどういうことでしょう。」という言葉があります。

 「松にさわる」とは、「松の木に触ること」、「木に手で触れること」ということではないことは犬養先生の言葉でもわかるように、結び触れるには間違いはないのですが「さわる」という言葉には魂にふれるという表現に目に見えない何かに感応している意味が含まれています。

 前回ブログの最後に「障(さ)り」という言葉を書きましたが、日本人が失いつつある何かがこの「さわり」「さわる」という声音の中にあるのではと考えています。

 倫理学者の竹内整一先生の著『日本思想の言葉』(角川選書2016.8.25)の第二章「人」の中で内村鑑三の『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』に書かれている

 「小さな一隅に身をおくことのみ」

という言葉を紹介し、内村鑑三の一隅、道元の一隅、最澄の「一隅を照らす」という言葉も含めその「一隅」の意味深いところを語っています。その際道元禅師の『正法眼蔵』の「面授」の中の

 「大悟を面授し、心印を面授するも、一隅の特地なり。」

という言葉に次のような解説をされています。

 師と弟子が面と向かって一体となり、大悟(大いなる悟り)、心印(以心伝心によって伝えられる悟りの印)が伝えられたとしても、それは真理・悟りの全体ではなくして、その「一隅」の特殊に仕方においてのみふれうる、ということである。(同書p56)

個の解説の中に「ふれうる」という言葉が書かれています。「ふれうる」とは「ふれる」という言葉の変ですが、最初の犬養先生の「さわる」とこの竹内先生の「ふれる」という言葉に五感の接触的な感覚をも超える理解が生じることに改めて気づきました。

 あまりにも当たり前すぎ言及することもはばかるような話ですが、

 「さわる」と「ふれる」

ということばには、外的なものから内的な移行感覚の概念構成があるように思うのです。

 私は事柄ののみ込みが悪く少々頭が悪いのですが・・・・

と書いて、「のみ込み」を「呑み込み」「飲み込み」に変換すると摩訶不思議、似たような感覚に襲われました。「理解力に乏しい」という表現ならば直接的に明白な理解になろうものを動詞のオンパレードに概念を構成させる不思議があります。

話がそれましたが「さわる」と「ふれる」に戻します。

差し障りのある話。
差し障りがある。
体に障る。

心に触れる話。
心に触れる。
神の怒りに触れる。

この「さわる」と「ふれる」には触覚的な意味ではない表現がいくつもありますが「見えないものが見えている」多様な意味を含んだ言葉です。

この言葉は古語の時代から今日まで使われている言葉です。そこで岩波の古語辞典を開きます。

さは・り【障り】
1[四段]《サへ(障)の自動詞形で、行くてをさえぎるものに引っかかって行き悩むのが原義。転じて、ものごとに受続的に接触する意。類語フレは瞬間的にちょっと接触する意》
①障害となる。
②さしつかえる。
③ひっかかる。
④当たり触れる。ちょっと接触する。
⑤相手から差された盃を受けずに、重ねて相手を酒を飲ませる。
2《名》
①さしつかえ。障害。
②月経
③《義太夫節の用語。他の音曲の節にさわる意から》
イ義太夫節以外の音曲の節を取り入れた部分。
ロ歌うように語る、抒情的な口説きの部分。

などと解説されています。古語にはこのほかにこの言葉に関係し

さや・り【障り】[四段]物にひっかかって身動き出来なくなる。

があり、この注釈に

△類語サハリ(障)は、進行するにつれて邪魔なものにひっかかる意。

とあります。


万葉集の巻520に次の歌があります。

「ひさかたの 雨も降らぬか 雨障(あまつつみ) 君にたぐひて この日暮らさむ」


雨でも降ってくれたらいいのに。(そうしたら)雨で出かけずにあなたに寄り添って今日一日過ごしましょう。

何とも艶っぽい歌です。ここに書かれている雨障は、「あめさわり」とも詠まれ、雨障の「つつみ」は現代語の「つみ(罪)」の語源でもあることは以前ブログにも書いたことがあります。

他人の怒りを受けない、という意味にも使われる

 触(さわ)らぬ神に祟りなし。

という言葉があります。

 神の怒りに触(ふ)れる。

他人の怒りを受けないために関係性を断とうとする時に使います。

何かをすることによって、何かにふれる。

何かにふれることによって、何かにさわる。

何かには触れないことが、災いを避けるための最善の方策となるわけで、ここで思い出すのが前回のブログに引用した

「それは自然の事実をそのまま神格化することでもなければ、自然の力能をただちに神格化することでもない。そこに神が出現するのであり、自然の事実は神の意志による出来事として理解されるのである。古代日本人は神を祭ることによって、自然の事実の背後に働く強大な力能と対応する方法を発見したのである。」

という明大名誉教授で日本精神史研究の平野仁啓先生の言葉です。

 目に見えない意志(現れ)というもの、力能というもの、そこには主体のない感覚だけが想定される。

 人格神ではなく現れの動的な働きしかない事態が「神」なるもの、日本の古代の神はそのような感覚の世界にあったように思います。

 一神教の世界では、「触(さわ)らぬ神」は思考外の話で、「ありてある神」は疑いようのない「ある」にあるのだから思考はそれを前提に展開されます。しかし日本の古代精神史においては、自然とのかかわりと他人との関わりの中に現れる力能に思考は展開されます。

 「かみ(神)」は、そのような現れの力能にあることから、擬人的に神を移動させることもたやすい依代によって石にも樹にも神は宿り、逆に人も神になれ、日常的には、御上(おかみ)、女将(おかみ)が声音にて現れています。

「さわる」「ふれる」

で話を進めましたが、今の世の中、倫理・道徳感において正義の名において、悪と善の二極で事態は裁断されます。

 事態の純粋経験において、本質的な「さわる」「ふれる」は個人には現れず、罰当たり的な我が表出する場になりつつあるように思います。

 川におしっこをする。

 河川を汚す行為は、罰当たりな行為としてある時代にはありました。私も幼少期にはそんな教えが支配していましたが、快適の名において「さわる」「ふれる」の深みある感覚、概念化は形がい化されつつあります。

 大いなる反省もしたいのですが・・・現実に戸惑うばかりです。


精神性の古層

2016年10月01日 | 古代精神史

 日本語の「よし」という言葉について最近話題にすることが多くなりました。時間、空間的に現在の場から一歩前に進む行動において、意識的、無意識的であろうが、すべきものとして、すべからくすべし、としてなされる、それが「よし」との声音になるのだろうと考える。

 万葉集の額田王の詩にある「冬ごもり春さり来れば鳴かざりし ・・」(春になれば・・・)の古語的表現からすれば「今現在」を起点に冬と春の関係は「さりくる」の声音になりまさに漢字訳すると「去り来る」(去来)となります。

 先の一歩前を考えると去来に「よし」が現れる、裁断が我に現れているとも言えそうです。

 日本語は漢字の輸入によって意の表現を広げ、表現の世界とともに他者にその意をより近く伝搬させているのではないかと思う反面、音読みの漢字の声音は、概念を固定化させ表象の世界をも固定化させる。

 「一致団結」などと叫ぶとまさに「イッチダンケツ」であって「多くの人々が同じこころをもって事に当たる」のですが、個別の意志は無視され、共通意志に悉く統一された事態にかり出されます。

 日本語の世界は便利に進化し続けている、とも言えそうである。端的に現れるているのは現代社会における若者言葉であり、ローマ字の組み合わせ表現に見ることができる。

 漢字表現はローマ字の組み合わせ表現に近似し、実に合理的に意味解釈するが抽象的表現でもあり、具体的な意味を求めようとすると個別の知識量にも関わり「まぁどうでもよい」事態になる。

 西洋には古い町並みが多いが、火山・地震国の日本では木造建築が主で、木造には耐用年数があるから、街並み保存で残すか、文化財にして建物を残すしかない。

 石は物質的崩壊がないわけではないが、存続という時間の流れにおいては、一個人の持ち得る時間内においては、永遠に残る存在であり、可能性において必然性が根づく。

 一神教の信仰もそれに似ている。終末において救われるそれは信仰において絶対的な約束、契約である。自覚において徹底した確信を持てる。必然性の効用は「信じる者の幸い」となる。

 「神を失う」

という事態は、この必然性の懐疑にはならなかったことが西洋の不思議。近代科学技術は徹底した必然性の世界である。

 ロケットは宇宙に放たれる。核エネルギーは電気に変換される。

このように西洋文化に必然性をみるならば、日本文化は偶然性を主とするのかというと、そうは見えない。個人的には必然と偶然のあわいが織りなす文化に見える。

 天空の太陽や月は限りなく約束のうちに動き、大いに必然を織りなす。四季はめぐりときに荒れの様相を見せる。春夏秋冬は移(うつ)ろい、映(うつ)ろう。火山の噴火、地震、台風の到来は日本列島の特徴的な現象、気象予告があるわけでもなく、突然の到来は驚きの惨事をもたらす。

 移ろいの中に予想できない事態は、稀なる出来事、偶(たま)さかな遭遇である。人びとは、そこに偶然という観念を抱くようになる。偶々(たまたま)の出来事、それはまた唐突、突然におとずれる。

 漢字文化の借用は表記の祭の便利さに現れる。現在は読みやすさと視覚の特性から漢字で使用できる場合も平仮名を使用するばあいもありますが、平仮名と漢字の併用は読みの易さに現れる。

 道具の素材の歴史を考えた時、石や木、骨の時代からその後、銅、鉄が現れ、現代では無数にある。日本においては銅器の時代は中国大陸に比べ無いに等しが素材はより良きものが発見使われてきた。古代ではより硬く丈夫な物がよしとされたが、今では無限の用途に対応できる材質に広がっている。

 より効率的な有益な物が世にあふれ、使われる。近代化とはある意味において人々にとってよりよき選択でした。

 前回のブログの『苦海浄土』の話で水俣病患者の緒方正人さんの『三十八億年の生命の願い』(河出書房新社『石牟礼道子』・2013.1.17)の一説を紹介しましたが、「私はもう一人のチッソであった」という言明に至る次の言葉があります。

 「この40年の暮らしの中で、わたし自身が車を求め、運転することになり、家にはテレビがあり、冷蔵庫があり、そして仕事ではプラスチックの舟に乗っているわけです。いわばチッソのような化学工場が作った材料で作られたモノが、家の中にもたくさんあるわけです。水道のパイプに使われている塩化ビニールの大半は、当時のチッソが作っていました。最近では液晶にしてもそうですけれども、私たちはまさに今、チッソ的な社会の中にいると思うんです。ですから、水俣病事件に限定すればチッソという会社に責任がありますけれども、時代の中ではすでに私たちは「もう一人のチッソ」なのです。「近代化とか「豊かさ」を求めたこの社会は、私たち自身ではなかったのか。自らの呪縛を解き、そこからいかに脱していくのかということが、大きな問いとしてあるように思います。」(栗原 彬著『証言 水俣病』岩波新書p196・1996.9.28講演「魂のゆくえ」)

 「大きな問いとしてある」という自覚は、緒方さんに現れたことである。前回書いたことですが、「三十八億年の生命の願い」から「自分にとって必然的に起こったことだ」と語っているのです。

 Eテレ100分de名著石牟礼道子『苦海浄土』最終回でゲスト出演された緒方さんは「古層」という言葉が短く語らました。上記の「魂のゆくえ」は番組テキストにも掲載されていますが、「三十八億年の生命の願い」にこの「古層」が次のように語られています。

 「・・・世の中では多くの場合、歴史や時間を縦構造でしか見ないですよね通り過ぎた過去として縄文時代、弥生時代、・・・・と知識として知っているだけで、年代を重ねるごとに蓋をしている。だから昭和も遠くなって、平成も天皇が死んじゃえば変わるわけですから終わりに近づいている。そうやって歴史は過去になってしまうんですけれども、私は必ずしも当たっていないと思っているんです。確かに時間を重ねてきた現代という表層もある。ところが同時に横にも進行しているように思います。時間を重ねるだけではなくて、古層が現代に働きかけている。」(同書p46)

 個人的に最近縄文人骨に惹かれて儀式の意義をおしひろめ「何ものかの古層」を求めていたところ、この「古層」に出会いました。

 個人的に「精神の古層」ということで、過去ブログ

祈りの本質・和魂・荒魂・無常感[2012年11月27日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/a1daf732912f3dfdc6ff1e9e7e5beebd

で書いたことがあります。

「漠然とした無常感が列島に住む者の精神性の古層に、また民俗学的伝承として現代に引き継がれてきた。」

とそこでは書いたのですが、この無常感という言葉はどうも現代人には「無情」と同意味にとらえられそうですが、まったく異なるもので、「にき・にぎ(和)」の世界観に落ち着く境地という意味のものです。

この「和」という言葉についてあらためて岩波古語辞典を引用しますが、

にき【和】《ニコ<和>と同根。平安時代以後はニギと濁音。「粗(あら)」の対》
 粗い布などがよく打たれてやわらかになるように、表面がこなれて、さなやかなさま。また、やわらか、おだやかなさま。

ということで、「和」は神道における和魂に表れます。最近のウィキペディアは数年前よりも詳しく掲載されていて、次のように解説されています。

荒魂・和魂

荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま(にぎたま)、にきみたま(にぎみたま))とは、神道における概念で、神の霊魂が持つ2つの側面のことである。
 荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。(ただし、勇猛果断、義侠強忍を等に関する妙用ととらえられることもあり、必ずしも悪い意味で解釈されるわけではない。)
 これに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。
 荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもある。
 人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっている。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂(あらたま、あらみたま)とも通じるとされている。
 和魂はさらに幸魂(さきたま、さきみたま、さちみたま)と奇魂(くしたま、くしみたま)に分けられる(しかしこの四つは並列の存在であるといわれる)。幸魂は運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きである。奇魂は奇跡によって直接人に幸を与える働きである。幸魂は「豊」、奇魂は「櫛」と表され、神名や神社名に用いられる。
 江戸時代以降、復古神道がさかんとなり、古神道の霊魂観として、神や人の心は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)から成り立つという一霊四魂説が唱えられるようになる。
<以上引用>

ウィキペディアで「この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。との注意書きがありますのであくまでも参考です。

「ニギの対はアレ」ということは確実性が高いと考えます。個人的にこのように話を進めていますが、緒方正人さんの話には「和」を感じるのです。

 水俣事件の先頭にあった緒方さんが、快く思わない人は転向と見るでしょうが、騒じょう、闘争の荒れ野からの転回、不知火海の海を見て緒方さんは、「私の願いは、人として生きたい、一人の個に帰りたいということの一点だけです。」と語っています。(「魂のゆくえ」上記書p201)

 夏目漱石の自己本位にも通じるのではと思うのですが、個に起こる転回は、実存的精神療法家のV・E・フランクルの次の言葉にある「コペルニクス的転回」に近いものがあります。

 ある時、絶望のあまり自殺しようと決意していた二人の被収容者と語り合ったとき、次のような類似点のあることがわかった。すなわち二人とも、「もはや人生から何も期待できない」という感情に支配されていたのである。ここでも前述のコペルニクス的転回を行うように説いて聞かせることが重要だった。すなわち、人生の意味はそもそも問われうるものではなく、むしろ人生とは、その具体的な問いに答えねばならないもの、それに応答せねばならないものである、ということである。(フランクル著・山田邦男監訳『人間とは何か』(春秋社・p191-192)

 人生からの問いに応答し人は新しき段階に転回が図られるというものですが、フランクルが解くところはいま在ることから本来の自己に成ることだといいます。それは本来的な自己(彼岸)から此方の今ある我への呼びかけでもあったとも考えられます。

 我執(がしゅう)の只中の我が本来あるべき姿の我となるとも考えられます。刹那の一点において「去来」なるわけです。

 人生からの意味の問い。期待される存在として人を考える時に、精神的無意識からの働きは、本来的な<わたし>からの呼びかけで、現在の自己存在を超える存在として超越的な志向があります。

 魂が浮遊するような超常的な超越ではなく、実存としての<わたし>が自ずからそこに納まる、彼方から此方へと、そもそも自己の外へと向かうのではなく元である此方へ帰還するという思考です。

 これを「逆対応」の如くに、本来的自己、超越的自己からの意味の問いという発想の転回を考えるわけです。

 諸法実相も菩薩が見せてくれるこの世の出来事も、如来さまの「はからい」も、本来的自己からのはからいとも、私は考えてもよいのだと思います。

 「人間に内在する悪性を理解し、それを高い理念と対立させることにより、よき止揚へと導く。」

という弁証法的な思考ではありません。緒方さんの自己本位の語りは、大いに他者へ観照の光をさしているように思えます。

 石原慎太郎さんは環境庁長官であったこともあり、水俣の被害者と直に接した方でもありました。その後の都知事の当時のこの人の魂は荒れ野の豊洲をどう見ていたのでしょうか。重大な啓示の問いがあったのに、後世に大きな問いを放ちてしまいました。


命の連続性・古代日本人の神意識

2016年09月10日 | 古代精神史

 磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸(まさき)くあらば また還りみむ

 万葉集にある有間皇子の歌があります。
 
 有間皇子が悲劇の皇子であることは皆さま承知のことだと思いますが皇子にはこの歌はその他に

 家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

もあります。処刑台への道を歩く旅、そこに現れているものは何か?

 次の言葉に大いに魅かれます。ここに登場する「引き結び」の「むすび」という言葉は、やまと言葉で古い時代からある言葉です。
 
 では松の枝を結ぶというのはどういうことなのでしょか、万葉学者の故犬養孝先生は、

 実際にはよくわかっていない。松の枝と枝を結んだか、松を輪型に結んだか、松に幣帛をつけたか、それは不明です。恐らく幣帛をつけたのではないかと思われます。けれど松にさわるということはどういうことでしょう。これは松は常盤ですから、松の常盤の魂が我が身につくということなんですね。だから我が身が”命長かれ”という祈りになるわけです。

と解説されている『万葉の人々』(PHP)。この「むすび」を古語辞典で調べると、 方丈記の「よどみに浮かぶうたかたは、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」を例に、「(露や霜、または木の実、泡などが)形を成す」を意味するなどの他、「つなぎ合わせる」「契る」「約束する」と解説しています。

 この場合の「結ぶ」は、「漢字」の解説であって、「むすぶ」の共通する発音からは「むすぶのかみ(産霊の神)」もあり、この場合は、万物を生み出す神、むすひの神を表しています。

 宇津保物語には、

 「人知れぬ結ぶの神をしるべにていかがすべきとなげく下ひも(人に知られない縁結びの神様を案内にして、下紐を解いたらよいか、どうしたものか迷っている)」

という興味深い歌もあります。

 「むすびのかみ」は、古事記において「造化三神」として天地初発時に天之御中主神、高御産巣日神に次に神産巣日神と「産巣日神(むすびのかみ)」として登場す神です。

 「結び」という言葉は日本文化が「むすびの文化」といわれるほどに深みのある言葉である。女性の着物文化がその際たるものだが、十二単を例に取れば「結びの紐」はかなりの量になる。「縁を結ぶ」となれは「仏との関係を結ぶ。成仏するための仏縁を結ぶ」の意味を表す。

 ここで少し考察したいのが「むすびのかみ」の「産巣日(むすび)」という言葉とこの産巣日神に似た言葉である「産土(うぶすな)神」の「うぶすな」という言葉についてで、この産土神とは、生まれた土地の守護神、村の守り神、鎮守の神のことなのです。

 古語辞典によると「うぶ」とは「産湯」のように生まれたままの状態であること、初めてであること、出産・誕生の意味があります。

 「やまとことばの人類学(日本語から日本人を考える)」朝日選書293で荒木博之教授は、「うぶすな」の民俗学で次のように語っています。

 日本民俗を、神を考えるうえできわめて重要な鍵を握っていると思われる「うぶすな」について、日本の民俗学界はこれまでほとんど説得力ある発言をしてこなかった。たとえば『日本民族辞典』も「うぶすな」について、「生まれた土地の神」であること、「産(うぶ)神と関係あるらしいこと」、そして、「ウブスナのナは大穴遅神(おおなもちのかみ)のナが土地の意味であるのと同様、土地を意味するであろうこと」以上のような仮説をかろうじて提出しているぐらいである。
 こういった日本民俗学界の現状に対して、衝撃的ともいうべき考え方を提示したのが、谷川健一氏である。谷川氏はその著『古代史ノート』『黒潮の民俗学』などにおいて、「うぶすな」は「産小屋の内部に敷いた砂」を指すという大胆な仮説を提出した。

と述べ、さらに荒木教授は、

 私はこの谷川説は卓抜なる説であると思う。少なくとも「うぶすな」について、右へ行くべきか左へ行くべきか、皆目検討のついていなかった日本民俗学界に正(まさ)しく「うぶすな」のあるべき方向を指示した最初の学説であると思う。

と賛同する一方で「うぶすな」を女性語、幼児語として現に関西に残っている「湯」「風呂」を指す「オブ」という言葉に注目し、土佐の民俗学者、桂井和男氏の「オブ」「ウブ」には「魂」に近い内容があるという主張から、オブ、ウブが再生の霊力であることを裏付ける明らかな事実を示し、

 「うぶすな」の敷かれる場は、人間、あるいは共同体の再生儀礼に参加する家々の門口などであった。

としています。

 しかし、このような「うぶすな」というやまと言葉については、谷川氏よりも早い段階で、言語学者、文献学者の新村出京都大学教授・名誉教授の「うぶすな考」という論文がある。

 ウブスナという語が文字の上にあらわれてきたのは平安朝以来のことであるけれども、この語ができたのは太古のことであって、今も残る「ウブ」という語及びその熟語の一連をはじめ、ウブと濁らないで清んで発音される所のウム並びにその活用形、すべてウブスナのウブと同根であることは、人々の容易に心づくところであろう。ウヒには、初めの漢字が当てられ、ウムには産や生の漢字が当てられている。このウムという語のウは至って軽い発音であるから、次の音に併呑されて省かれてしまい単にムともなることは容易なはずである。従って古語のウムスという語、即ちウムという語源にサシス等の語尾が付いてウムシ又ウムスなどの活用形が新たに発生した場合に、ムシ又ムスなどの省略形が出来たことも、亦容易に考えられることであろう。草や蘚についてクサムスといいコケムスなどというムス、昆虫類についてのその生物をムシというのも、要するに発生出生の意義に外ならぬのである。蒸発のムスという語もそれらと関連して起こったものと見てよかろうと思う。男児をムスコと称し、女児をムスメと唱えるそれらのムスもやはりウムスの略形のムスで、生男と生女との義たることは、亦古来より定説・・・・・創元社「日本の言葉 新村出著昭和15年P106」と語っている。

 思うに「うぶすな」を「ウブ」と「スナ」に二分して考察するよりも一元的に考えるほうが「やまと言葉」として素直なような気がします。

 漢字の当てはめの中で「産」を「ム・ウブ」の音に当てているのですが、その様な考察の中で把握される「動的な、働き」は、「命の連続性」であるかのように思われます。

 「命」という概念は、親子が似(に)るように「うつせみ」の「うつす身」で似るという。そこには、本質的な「もの」がうつる(移る、写る、映る)であって、その「もの」という二音の言葉には個物的な「物(ぶつ)」だけではなく、動的、働きの所産を直覚します。

 万葉学者中西進先生は、「結び」というやまと言葉に「命の連続性」「永遠なる命のつながり」「命の引継ぎ」の意味があり、元来言われていた「結び」の意味と新村出教授の「うぶすな考」を合わせた主張を「やまとことばのコスモロジー」で述べられたことがありました。

 土の中から掘り起こされた、縄文人骨。頭部を土器を被せたその縄文人骨を目の前にすると「スナ(砂)」という言葉とともに、「大いなるつながり」思考を想います。 

 「被る」「冠る」とともに「うぶすな」という言葉に「命の連続性」の希求を重ねてします。

 最近笠間書院から慶大と実践女子大の非常勤講師で万葉学者の森陽香さん『古代日本人の神意識』(2016.9.15)を出されました。NHKの万葉集の番組で森先生を知ったので万葉学者としましたが、この著書を読むと大変私に近い研究をされているので大変勉強になります。

 森先生は、『出雲国風土記』の「神魂命」という言葉に注目して諸学者の言及から次のように書いています。

 「神魂命」をカミ(ム)ムスヒ(ビ)ノミコトと訓むとすると、「魂」の字に「ムスヒ」「ムスビ」の訓があることになるが、何故にそのように読み得るのだろうか。と提示し歴史学者の肥後和男の言葉を紹介しています。

 平安時代の文献には「魂」の字を書いて、ムスビとよませている。(中略)これによってわれわれが知り得る重大なことはムス働きの根源は魂にあると考えられたことである。魂は日本語ではタマとよぶ。つまり諸現象はその内部にタマを保有し、そのタマの働きとしてさまざまのムスビ現象が生ずるということである。(肥後和男)

 森さんはさらに、

 「魂」であるが、これは一般に「ムスビ」と訓まれている。これは「借字」の用字法によったものである。即ち「魂」は「タマ」、或は「タマシヒ」であって、和魂・荒魂という場合の如く、人の活動の原因をない、人の生死を決するものであるから、「タマ」には「生」の義が加えられてくる。「苔むす」などという場合の「ムス」は「生む」ことの義で、古くは「ムス」とも言った、そこで「魂」は「タマ」であり、「タマ」は「むす」という作用を有つことから、その「ムス」という作用を示すのに「魂」という漢字を充用したのであろう(『古代日本人の神意識』(風間書院・p49)。

 と国文学者水野祐の説を引用しながら考究しています。私の「結ぶ」の彼岸がこの言及にも現れているように思えます。

 「ある」という日本語は、有る、生る、在るという漢字に変換され、日本語の読む側に、存在とともに働きを感覚的の想起させる言葉です。この『古代日本人の神意識』には上記のように、

 「タマ」には「生」の義が加えられてくる。

とあります。日本語による哲学の世界、そこには命の連続性を感じます。


和して荒れない人格つくり

2016年09月06日 | 古代精神史

 8月21日に松本市内の新村地籍にある“楽蔵ぴあの”という時々コンサートや講演会が開催される小さなお店があり、そこで安曇野市豊科郷土史博物館百瀬長による安曇野市の明科地区で発掘された7世紀後半から8世紀前半に存在した寺(通称明科廃寺)を中心に「発掘調査などから見えてきた古代明科の姿」と題した講演会が開催され聴講しました。

 明科地籍は8月初めのブログに書いた「豊科郷土史博物館の縄文人骨を見て」に書いたように「人骨(死者)の顔を覆った土器」の縄文人骨が出土したところでもあります。

 この地域は、遺跡発掘によって縄文、弥生、古墳の時代の人々の痕跡が明らかになり、現代にいたるまで人々が生活し続けている場所です。だからといって縄文人がそのまま現代人になっているということではないことは確かで、時々の時代のうねりの中で人々の交わりが、移動ががあり今日に至っているわけです。

 出土する品々と全国各地の遺物(黒曜石・ヒスイ・土器等)との対比によって、同類の特徴が見いだされ文化交流があったことは明白で意思の疎通の中に共有した精神性があったように思われます。

 明科廃寺の存在は、仏教伝来が山深いこの信濃の奥地にも浸透してきたわけで、人々の精神性に大きな影響を与えたものと思います。古代の人々はどのような精神性を持っていたのか、個人的にその分野に興味を持ちます。

 当然考古学のこのような講演会ではそういう精神性は語られませんが、遺物出土の事実からそこは個人的に何かを見つけ出したいと考えています。

 宗教無き汎神論的な日本人

 若者から老人まで多くの人々がそうであろうし、特定宗教の信者であっても排他的な多宗教批判に生きる人々は特異的な存在のように思われます。多くの日本人は宗教においては強烈な攻勢を発揮する宗教団体は例外として、信仰に対する寛容さがあるように見えます。

 野仏の石仏が打ち壊されずにあること。小さな祠が各地に見られること。明治の廃仏毀釈は別にして、今も寺があり、お堂があり、神社があるのが日本です。

 神無月には列島の神々は出雲に集合する。

 このようなことが理解できる、それが日本人。人のつながりから、自然現象をつかさどる神がおり、貧乏神の存在まで理解できる。

 Eテレに「趣味どっき!」という番組があります。以前この番組「国宝に会いに行く」第6回で「縄文のビーナスと仮面の女神」が放送されました。長野県茅野市のから出土した土偶、隣接した山梨県から出土した土器などが紹介され、その際、仮面をつけた土偶とともに「土器を顔に被せられた人骨」(明科出土)が紹介されました。

人骨(死者)の顔を覆っている土器は、

です。どうしてこの時代の縄文人は、このようなことをしたのか。その時代の慣習であり、伝統でもあったのでしょう。それは共同体での「善(よし)」の形式であったことは確かです。

 が、個人的に興味深いものがあります。

 「縄文のビーナスと仮面の女神」については過去のブログに書いたことがありますが、茅野市から出土した二体の土偶です。

 「縄文のビーナス」は、「仮面の女神」よりも古い土偶です。

 ふくよかな女性を表現した造形物


 仮面を被った造形物


 このような出土物に接したとき、縄文の人々が何を表現しているのだろうか、という疑問とともに、現象世界をどのように見ていたのか、という認識感覚の世界を考究したくなります。

 儀礼的に死者の顔に器で覆うのか?

 

 

 極端な肉体の表現にするのか?

 仮面を被るのか?

 ここには主客の分離があって、見せる側と見る側の存在があるように思われます。注目されるのは、見る側の存在で、これは他の集団で無いということです。

 死者の埋葬は、死者のために、埋葬の仕方は何者かのために・・・が顕現しているように思われる。

 ここにおける「何者かのために」にの「何者」とは営みの背景にある働きを司る者で、その意向に沿うことにより日々の営みの保証は得られると考えられていたのではないだろうか。

 大いなる力を有するも者

 それは後の世に語られる「神」ではないだろうか。

 食物の確保における豊穣の願い。死者の再生への願い。子の誕生への願い。

 そこには再生力の安定した働きの力を願います。

 自然界の崩壊の如く荒っぽい力を望まない、破壊的な力の荒れを抑えて欲しいという願いを想います。

 縄文の遺物である火炎土器、炎が揺らぎ立ような形状の造形物、芸術家の岡本太郎さんは、その著『伝統との対決』(ちくま学芸文庫)の中で、後の世の「わびさび」の世界との対比において次のように語っています。

 通常考えられる和かで優美な日本の伝統とは全く反対物である。したがって伝統愛好者や趣味人達には到底すなおに受け入られないらしい。確かに、そこには美の観念の断絶ががある。いったいこれが我々の祖先によって作られたものなのだろうか、という疑問が起って来るのも一応頷けないことではない。弥生式土器や埴輪などには我々に連なる所謂(いわゆる)日本的感性を素直に看取ることが出来る。しかし縄文式はまるで異質が如くであり、直ちに伝統と結びつけ手は考えられないというのが一般的な観方のようである。(同書p16から)

 有名な岡本先生の「芸術は爆発だ!」という言葉はここに原点があります。この文章の最初に「和かで優美な」とあります。「和か」は、

 和か(なごやか)、和か(にこやか)

と読め、多分「なごやか」と読むのでしょう。古語の

なご・し【和し】
①おだやかである。
②ものやわらかな感じである。
(岩波古語辞典から)

で、現代語に引き継がれている言葉です。この場の意味からも推測できますが、反対語は、

あら・し【あらし】
①堅い。ごつごつしている。
②乱暴である。
③(波・風などが)烈しい。
④たけだけしい。
(同上)

となります。岡本さんは縄文の造形物に「荒らし」を観たのでしょう。

このように岡本さんの芸術論には、「和」と「荒」が現れているように思われます。個人的にこの言葉から後の世の『延喜式』に登場する伊勢神宮の荒祭宮を思い出します。

 過去ブログにも書きましたが日本の神の神性には和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)があります。日本書紀には、「天照大神の荒魂」が書かれ、新羅遠征の段には「和魂は王身(みついで)に服(したが)ひて寿命(みいのち)を守らむ。」などと書かれています。

 個人的にこれまで古代人の精神史の中でこの「和」「荒」の感覚的現れを語ってきました。岡本さんが「和」無き縄文美と解するところに大いに感動しました。岡本さんが語るから大いに意味があるのです。岡本さんの造形の表出がまさに「荒れ」の顕現だからです。

 日本人の認識においては、正しいとか正しくないとか、善であるとか悪であるとか、よりも「和」「荒」が先立つように思うのです。

 極端な話、善き人間になろうなどが先立つのではなく「荒れの心を起こさない」が先立つように思うのです。

 おだやかに、にこやかに、なごやかに

 荒れ、猛(たける)のヤマトタケルの神性の顕現とは異なるものとして。

しかしおもしろいのです。ヤマトタケルは樹の再生の神でもあり、筏の安全の神でもあるのです。

 それは司る、という概念において日本人の持つ独特な感覚です。

 縄文人骨の話から和魂、荒魂の話になりましたが、ある意味「善悪」や「正義」なる言葉は後に植え付けられた歴史的認識感覚のように思われます。しかし日本人の根源的深層にはこの「和」「荒」がいまだに残り続けているようにも思われます。

 それがカント流の多数への従属にもなってしまうところに問題があると思うのです。

 日本流の倫理・道徳の根源は「和して荒れない」人格つくりにあるように思うのですが・・・。


善(ゼン)と善(よし)の世界

2016年08月20日 | 古代精神史

 縄文人の死者の埋葬に関して、「善」という言葉を使用したところ

「善悪」の意味が含まれていたでしょうか?

というコメントが寄せられていました。

私の考え方において、

<集団において共通認識としての背景がある。家族的な小集団における「善」がまなざしのかかわりの中に生まれる。>

という文章を書いたのですが、コメントを解するに「善(ゼン)」とコメントを寄せられた方は読み解いたのかもしれません。

「善悪(ぜんあく)」

と解するならば、現象の中に二元的な解析の思考をなしているように思われます。

 神とサターンのような絶対対比の存在を前提に物事を解釈、解析する。

 計測は、基準を背後にその物を共通の場に引き出し、同一基準の次元に立つ者には、大いなる理解の助けになります。

 善悪は、真にこの世の善良なる理と、悪魔的な理由を分別する。

 慣習や儀式において、その挙行は「よろしい」の世界であり、行いです。

 私も含めた環境において「安寧あんねい)」にあることが、「よろしい」の許容の内にあるということです。

 西田幾多郎先生の著『善の研究』は、「善(ぜん)」と読みます。結局西田先生が出版社のこの題名を「よし」と許容したのは何故か。

 人間の存在は問う存在であり、また問われている存在だと考えます。

「何が、なぜ、どのようにして、そのようになっているのか。」

 「悲哀」に出遭わない人はいないでしょう。

 人生を「よし」としないと悲しみや憎しみの内に息絶えるしかありません。

 縄文の世界において、死者の埋葬の儀礼は「善(ゼン)」ではなく「善(よし)」の内にあったということです。


豊科郷土史博物館の縄文人骨を見て

2016年08月07日 | 古代精神史

 長野県では「長野県の遺跡発掘2016」と題して、各地の歴史館、博物館等で県内で出土した遺物が巡回展示されています。安曇野市では9月3日から安曇野市豊科地区にある豊科郷土史博物館で開催されますが、それを前に長野県歴史館に展示されている安曇野市明科光の北村遺跡で1987(昭和62)年から88年に出土した縄文人の全身骨格の人骨が展示されています。

 約8年ぶりの「里帰り」展示で、「地元で見られる貴重な機会」との話に先週行ってきました。新聞によりますと北村遺跡は、長野道建設に伴って発掘調査を実施した際に発見され、縄文時代中期末から後期前半(約4千~3500年前)の人骨が約300体分出土したそうです。同博物館の百瀬新治館長(65)の話によると「縄文人骨は海岸近くの貝塚で出土例が多く、内陸で見つかった数としては全国で最大規模」とのこと、レプリカではなく本物を間近に見ることができました。



 

 展示されているのは、成人男女の人骨2体、男性が身長約160センチ、女性が約150センチで、ともに足を折り曲げて屈葬の形で埋葬されたそのままの状態で展示され、男性は、腕輪やかんざしを身に着けているのがわかります。そのほかに土偶や石皿、縄文土器など20点ほどの出土品も並べられ小規模展示ですが、身近に実物を目にしそのリアルさの中に縄文人の生きた様を想像しました。



 

 哲学者の田辺一先生は「実存協同」という考えを提示しましたが、死者との関わりの中で自己存在を見つめなおしました。縄文の人々は、死者を葬るという形の中で儀式的に、顔に甕を被せたり、石を抱かせるということをしたようです。

 その儀式的な意味は、伝承されていないので現代人には理解できません。しかし、単純な死者に対する扱いで無いことは確かです。

 何があなたたちをそうさせたのか?

と問うとき、

 「そのようにさせるもの」

 行為する存在に至る働きを担っているもの、作用の背景にあるものに視点を向けます。心理主義的な話になりますが、そうしなければならないからそのように行うという衝動がそこにあります。

 そのような埋葬の仕方が習わしならば、伝承の中に第三者の視線、まなざしがあって、暗黙の裡に是認される行為の履行なのでしょう。

 「させたもの」と「させるもの」

と表現すると思考視点が外と内に向きます。まなざしの主体と受ける側の己とのかかわりは履行状態から絶対的な風習ですが、現代社会には死者に対するそのような行為はありません。

 その後の歴史の中に墳墓への埋葬もあれば野ざらしという行為もあったのも事実。

 縄文人の死体の顔に甕を被せたり、死者に石を抱かせる行為。

 懐石というと懐石料理を想起しますが古代においては妊婦が懐に石を抱きその陣痛を抑える風習があり、誕生との関わりから推測すれば生死の輪転思想が見えそうです。

 死者の顔へ甕を被せる行為は、身体の腐敗において顔面の変形は「見たくない」現象でしょう。

 そうさせたものにはそうさせるものがあったに違いありません。

 存在自体がかかわりのうちに形成されているように見えます。

 集団において共通認識としての背景がある。家族的な小集団における「善」がまなざしのかかわりの中に生まれる。

 縄文人骨を見つめながらそのようなことを考えていました。


余りある力に対する畏怖心・鎮魂

2015年04月05日 | 古代精神史

 日本人の精神性の歴史を古代精神史から考察した場合に、日本の神の霊性の現れを「和(御)魂(にぎみたま)・荒(御)魂(あらみたま)」という峻別に日本人の神に対する態度を見ることができる。

 伊勢神宮は、正宮の和魂と別宮(荒祭宮)の荒魂に祀られ、天照大御神の御霊はお伊勢さまの一元としてそこに現れている。

 和魂は「和」で表されるように穏やかさを、一方の荒魂は「荒」で示されるように穏やかさの反面としての荒れの姿となる。「にぎ」「あら」の言葉は、にぎやかさ、あらあらしさにその現れを今に見ることもできる。

 ここに説明なし魂という言葉を使うが、そもそも「魂とは何ものぞ」という問いに対しては、感覚的なもの言うだけにとどめ、個人的に興味あるところは、どうしてもこの「和」と「荒」の二様の力の作用への関心である。

 人は、今あるの状態が継続する中で穏やかな物事のありさまや様子としての様相と、これとは相反する荒れの様相が現われることを知っている。そして受け取る側の態度としては、そうありたいとしての救いと、そうなっては困ることへの怖れが常につきまい、神に対する己の今ある態度が意味あることを思う。

 「祈願、鎮魂とは何か」

 もとも現代にも残る縄文性の精神態度としては、過去ブログでも言及したが九州の椎葉村の焼き畑農法に鎮魂の祈りを見ることができた。山の神に対する余りある力の放出を「なさない」ことへの願い、
 
 「山の神様 火の神様どうぞ火の余らぬ(延焼しない)よう
 また 焼け残りのないよう」 

という祈願の言葉は、恵みをもたらすことと払いの鎮魂の意味が含まれている。

 恵みを得る前に余りある力の放出で「火の禍の拡大が無きように」という「こと」への願い。「ひ(火)」という存在は一極の形として存在するが、陰陽、和荒の二つの性質をもつ。これもまた大いなるものの現われの姿である。

 自然の非情、無関心【indifferent】

 悪しき者にも善き者にも降る雨

無差別の力の顕現である。

 幸いにもなれば災厄にもなる。ギリシャ神話に残るプロメテウスがゼウスから人間への贈り物として盗み出した「火」に似ている。火は人間界の繁栄をもたらした一方でパンドラの箱に象徴される前知魔の恐怖へと現われる。

 体験・経験の微分。進み行く意識の中で感覚は時を刻み、何事かが起こる中で「わかる世界」を構築していくが、わからぬものは創造の世界に神話として残される。「前知魔」が解き放されていないから「希望」という形で人は未来を想像する。

 日本人は自然界の森羅万象の事態にそれを見る。

 八百万の神であろうと一神教の神であろうと神のもつ霊性をどう受けとめるか。

 そもそも霊性とは何かという話が先行するべきなのだが、「もの」のあらわれという言葉に置き換えれば詳細を語らずして納得の世界に身を置くことができる。

 言葉以前の話は「そういうものだ」という納得でよく、意味理解が出来なければそれだけのことである。意味ある話は意味器官が整った者にとっては意味を持つのであって、そうでない、そもそもその必要性の外にある者にとっては意味の無い話なのである。

 私は霊性を魂という言葉においても意味ある者にとっては同一次元での理解の内に身を置くことができるものと思う。

 ここで話を変えるが、読者登録しているブログに、キリスト教における「魂の平等性」の話を知った。あくまでも自分自身の理解であるので詳述しないが。そこに、

 「魂の平等性」(l’egalite d’ame = 諸事物を前にして、それらすべてに対して等しく距離を取り、それらにいっさい惑わされることのない態度)というテーマは、エックハルトのテキストにしばしば見られるテーマの一つである。昨日の記事で取り上げた Traites et sermons (『エックハルト論述・説教集』)の訳注の最後の部分で、アラン・ド・リベラは、そのテーマが二様の次元を持っていることを指摘する。

第一の次元は、「能動的」(active)で、「逆境・災厄を激昂することなしに受け入れること、物事をあるがままに受け取ること」(accepter sans passion l’adversite, prendre les choses comme elles sont)。

第二の次元は、「瞑想的」(contemplative)で、「物事を在るがままにさせること」(laisser etre les choses comme elles sont)。

と書かれていた。能動的、受動的でなく瞑想的な二次元を知るとき・・・ここで思うのは、神の霊性、森羅万象の事態に対する魂の態度である。

 上記にで語ったように上記の「余りある力」に対する態度の現れとしての祈願、鎮魂は、大いなるものに対する畏怖心の現れあり神の霊性の前では謙虚であり敬神的でなければならないという態度でもある。日本の古代から継承される次元の話になるのだが、魂鎮(たましず)めという次元が特徴的に今でも継承されていることに大いなる意味を感じるのである。

 安全祈願ではあるが、事故発生(余りある力の顕現)が無きようにとの祈願が常に背後にある。

 神の非情、無関心は、森羅万象の事態で現われるが、人の他者、自然に対する無関心による非情な事態もある。

 安全神話がなぜ崩壊したかは、科学技術が余りある力の放出をともなう「もの」でもあることの自覚がないことに起因する。プラント完成の祈願がプラントの本来の力を何も知らないことにある。

 人間が人間なるが故に負っている宿命的な罪、いわば原罪の意識がうごめきに気づかず、神の非情、無関心や森羅万象の事態として現れることを知らないことに大きな問題がある。

 鎮魂的態度が大いに薄れた時代が現代であるように思う。

 余りある力の顕現が原罪の結果現れるということ。

 神話でもなく超常的な話しでもなく単純極まりない謙虚さが無いだけである。