元号の「令和」が万葉集から採用され、初めての国書からということもあってか多くの人の興味を惹きつけているようです。書店では万葉集の関係本が人気だとのこと、また松本でも博物館、文書館などが特別展を開催し祝「令和」ムードが全国的に広がっているようです。
一方快く思わない人も当然たくさんおられるわけで世の中に均衡というものはないのだろうかと思ってしまう。しかし世の中の推移というものは一律でないことが当たり前で動的でなければ現象そのものが立ち現れないように思う。
身体が細胞の死滅と生成の動的な変化であるように、世の中のありようも相似的であるように感じられます。全体は部分の集合体ですが、全体は一見固定されたありかたではなく細部に至れば常に動的な在り方です。
万葉集の話から少々外れてきましたが、国語辞典と古語辞典があるように言葉も止まることなく変化します。万葉集も万葉仮名を使用し現代人がそれを読むことができたとしてもすぐにはその意味を解せないことがたくさんあります。
しかし古語と現代語の仲介者が存在することで、わかるという事実が現れる事になります。理解する、理解し合うには適切な仲介者が必要に思われます。適切な仲介者と簡単に言ってしまいましたが、何が適切なのかも含む、その判断は自己負担、自己が請け負うしかありません。
万葉集ですが、過去ブログでEテレで放送されていたNHK「日めくり万葉集」(2012年ころ)を話題にし、思考探求課題の「やまと言葉」で万葉集歌を参考にしたりしてきました。最近の話題としてBSでは現代万葉集に関連した番組が放送されるそうで、万葉ブームがまた起こりそうです。
元号の「令和」の考案者ではないかと言われる国文学者の中西進さんと歴史学者の磯田道史さんの対談集(『災害と生きる日本人』潮新書)を読んでいたところ興味深い万葉歌が語られていました。その歌とは、
万葉集巻4-678の中臣女郎と大伴家持の間でかわされた
直に逢ひて 見てばのみこそ たまきはる 命に向ふ 我が恋やまめ
(ただにあひて みてばのみこそ [たまきはる] いのちにむかふ あがこひやまめ)
一般的な口語訳では
「いのちにむかふ あがこひやまめ」は「命をかけた私の恋はやむのでしょう」と「命に向かう」は「命をかけて」と訳されます。
中臣女郎は大伴家持にぞっこんほれ込んで「命をかけて」恋してるわけではなく「命に向かって」恋こがれている、と言っているわけです。
古語辞典でも「命に向かう」は、「命に匹敵する。命に等しい。命がけである」と訳されています。
上記対談集の中で、
【中西】いまは普通に「命をかけた恋」と言いますから、それと同じと思ってしまいそうですが中臣女郎は「命をかけた」ではなく「命に向ふ」と詠んでいるのがすごい。
【磯田】南北朝時代から戦国時代あたりまでの時期に、日本人の生命観が大きく変化したように思います。万葉の時代は「命に向ふ」というベクトルの生命観があった。命は自分の外にあって、そこに向かっていくものでありました。ところが、こうした生命観が変容していってしまいました。以下略
【中西】少なくとも、真剣に恋をしている状態を「命向ふ」とはとらえなくなっていったのでしょうね。人間が生きている証を確認するために内面を追求する生命観は次第に失われて行ったのだと思います。
「命に向かう」という言葉、ネットで「いのちに向かう」で検索すると「いのちに向かう道」「いのちの道に向かう主の小道」というサイトや本紹介がありました。どうも意味するところは「主(神)の与えられた命あるものになるための教え」という内容のようです。
キリスト教の説かれし道とでも言いましょうか、感覚的にそのように解してしまうのですが、間違っているかもしれません。しかし今はそのように個人的に解釈します。
神の教えにふさわしい命あるものの生き方に向かう。今現在の己の生き方への啓示です。
このような理解のもと中臣女郎の「命に向かう」を読むと全く次元が異なるように思えます。万葉時代の世界観に重ねることはできないのは確かです。
中西先生が言われるような「真剣に恋をしている状態」の表現として「命に向かう」が、ある時代から「命をかける」という意味を持つ言葉に変化をするそこにどのような精神的な思考変化があったのでしょう。
あれの様相の世界が何を人々に影響したのか、視点を変えて、影響されたのか。
個人的に逆転回を示すような詩があります。
星野弘著『<花の詩画集>鈴の鳴る道』
いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが
苦しかった
いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった
後段の部分に万葉歌の男女間の恋愛を重ね逆転回などとするには無理に思えます。そこをどうにか勝手に理解したくなるのが私の思考。
「命を思い切り突き抜けると、毎日が嬉しい事態」
こう解釈すると星野さんの詩に対して不謹慎になるかもしれませんが能動的な心的な作用が、場を変える要素を含むのではないか、そのように感じるのです。
生命のはぐくみなどは意識することは、まぁ平凡な日常にはないと思いますが、どうでしょう恋愛が高じれば鼓動は高鳴り、居ても立っても居られない。経験があるかは否かは別として、個人的な感想をくり返しますが、「突き抜ける」というような感覚がよぎるわけです。
ここまで万葉集を話題に投稿したところ「万葉集には天皇や皇族・貴族だけでなく防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌」と元号「令和」について語った安倍総理の話は、専門家の間ではそう語る者はおらず、教科書にも書き込まれていないというブログ記事を目にしました。
万葉集研究に一生をかけた犬養孝先生は情熱をもって防人の親子や農民の歌を語っておられたのを思い出します。
しかし、そう考える学者はほとんどおらず、語るものは無知と言えそうだというのですから、それをうのみにして語るものは愚か者ということで、私もその愚か者のひとりなのかもしれません。
何か嬉しくなる思いが、瓦解するような感じを受けるのですが、本当かウソかの議論になりそうなので、そんな感情劣化の議論には足を踏み入れないことにします。
しかし、おもしろい。世の中はまるで自己の二重性とも言えそうな分裂状態で事は進むようです。落ち着きどころで落ち着けば誰も不幸にはならないと思うですがどっこいそうならないのが世の常。
古代ギリシャの哲学者プロティノスの『自然、観照、一者について』の冒頭で語る「観照」という言葉を紹介したくなります。
「この世の中のものは、理性的な生きものばかりでなく、理性をもたない生きものも植物の生命(ピユシス)も、またこれらをはぐくむ大地も、すべてが<観照(テオリア)>を求め、これを目指している。そして、すべてはその本性の許す範囲で精一杯の観照をおこない、その成果を収めている。ただし、それぞれの観照の仕方や成果にはちがいがあり、或るものの観照は真実を得ているが、別の或るものの観照は、真実の模像もしくは影を得ているにすぎない」<『世界の名著2プロティノス、ポルピュリオス、ポロクロス 中央公論社』から>
プロティノスの語る「観照」という言葉、好きなんです。
“すべてはその本性の許す範囲で精一杯の観照をおこない、その成果を収めている。”
人は人なりの観照しかできないのでしょうか。