万葉集の720に、
村肝(むらきも)の 情(こころ)くだけて
かくばかり わが恋ふらくを
知らずかあるらむ
(体の中のもろもろの心も砕けて、これほど私の恋うていることを、あなたは知らずにいるのだろうか。)
という歌があります。(中西進『万葉集』講談社文庫から)
文頭にある「村肝」は、こころにかかる枕詞です。「むらきも」を群れる肝と書かれている場合もあるのですが、「《群がっている臓腑(きも)の意で、内蔵のこと》心は内蔵の働きによると信じられていたことから、心にかかる」(岩波古語)ということです。
前々回は神功皇后の鎮懐石を詠んだ山上憶良の歌の「彌許々宮(みこころ)を鎮め給ふ」から「懐」を心の場所をみました。
「こころある人々」「こころない人々」
を持ち出すと、「腹に一物」と言うようにお腹に腹黒いなにかを(物)を懐いている人々ということになるのですが、腑分けしたところで「こころ」はあるものではなく、すなわち実体があるわけでもありません。
有るものが無いが有る。
これが「こころ」という「もの」になるわけで「働きとしてのもの」「有るとしての物」という二重性の現れがそこにあります。
『<ひと>の現象学』(筑摩書房)を鷲田清一先生は書かれていますが、「こころ」について「しるしの交換」という副題で語っています。人間相互の交わりの中で現れ出でるもの。
わたしの「こころ」はわたしには見えない。それは、わたしの名前がそうであったように、他者から贈られたものなのだ。「大事にする」ことが「こころ」を生むと先にいったのもそういうことなのである。他者に大事にされることでかろうじて繕(つくろ)われる「わたしのこころ」、それはわたしには、いつかだれかによって大事にされるはずののものとしてしか感受できないものなのである。(上記書p77から)
今月の上旬に、松本市子どもの人権検討委員会が行なったアンケート結果からとして、
「いじめを止められる子は、自分のことが好きな子」
という言葉を紹介し、ドロシー・ロー・ノルト著『子どもが育つ魔法の言葉』(PHP研究所)から、
「愛してあげれば、子どもは人を愛することを学ぶ」
「認めてあげれば、子どもは自分が好きになる」
「大切にされれば、子どもは思いやりのある人間になる」
という言葉も紹介しました。
「心はどこにあるのか?」から「<ひと>の現象学」へと話しを進め、
「こころある人々」「こころない人々」
はどのような世界から生まれてくるのか、地平の彼方(かなた)に見えてきます。
以前のブログの繰り返しになるかもしれませんが、「相依相待(そうえそうだい)」という仏教語があります。「相依」は互いに寄りそう意に介せますが、「相待」という言葉は、龍樹のアペークシャー(apeksa)「相待」からきている言葉です。
「持つ」のではなく、「待つ」に深く感動するのです。
待つとなると消極的なイメージを受けますが、上記の人と人の親と子に照らすと互いの醸成を想います。そのような関係性から生成、形成される「こころ」ということです。