思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

心はどこにあるのか?・<ひと>という現象

2014年11月30日 | 哲学

万葉集の720に、

村肝(むらきも)の 情(こころ)くだけて
かくばかり わが恋ふらくを
知らずかあるらむ

(体の中のもろもろの心も砕けて、これほど私の恋うていることを、あなたは知らずにいるのだろうか。)

という歌があります。(中西進『万葉集』講談社文庫から)

文頭にある「村肝」は、こころにかかる枕詞です。「むらきも」を群れる肝と書かれている場合もあるのですが、「《群がっている臓腑(きも)の意で、内蔵のこと》心は内蔵の働きによると信じられていたことから、心にかかる」(岩波古語)ということです。

 前々回は神功皇后の鎮懐石を詠んだ山上憶良の歌の「彌許々宮(みこころ)を鎮め給ふ」から「懐」を心の場所をみました。

 「こころある人々」「こころない人々」

を持ち出すと、「腹に一物」と言うようにお腹に腹黒いなにかを(物)を懐いている人々ということになるのですが、腑分けしたところで「こころ」はあるものではなく、すなわち実体があるわけでもありません。

 有るものが無いが有る。

 これが「こころ」という「もの」になるわけで「働きとしてのもの」「有るとしての物」という二重性の現れがそこにあります。

『<ひと>の現象学』(筑摩書房)を鷲田清一先生は書かれていますが、「こころ」について「しるしの交換」という副題で語っています。人間相互の交わりの中で現れ出でるもの。

 わたしの「こころ」はわたしには見えない。それは、わたしの名前がそうであったように、他者から贈られたものなのだ。「大事にする」ことが「こころ」を生むと先にいったのもそういうことなのである。他者に大事にされることでかろうじて繕(つくろ)われる「わたしのこころ」、それはわたしには、いつかだれかによって大事にされるはずののものとしてしか感受できないものなのである。(上記書p77から)

今月の上旬に、松本市子どもの人権検討委員会が行なったアンケート結果からとして、

「いじめを止められる子は、自分のことが好きな子」

という言葉を紹介し、ドロシー・ロー・ノルト著『子どもが育つ魔法の言葉』(PHP研究所)から、

「愛してあげれば、子どもは人を愛することを学ぶ」

「認めてあげれば、子どもは自分が好きになる」

「大切にされれば、子どもは思いやりのある人間になる」

という言葉も紹介しました。

 「心はどこにあるのか?」から「<ひと>の現象学」へと話しを進め、

「こころある人々」「こころない人々」

はどのような世界から生まれてくるのか、地平の彼方(かなた)に見えてきます。

 以前のブログの繰り返しになるかもしれませんが、「相依相待(そうえそうだい)」という仏教語があります。「相依」は互いに寄りそう意に介せますが、「相待」という言葉は、龍樹のアペークシャー(apeksa)「相待」からきている言葉です。

 「持つ」のではなく、「待つ」に深く感動するのです。

 待つとなると消極的なイメージを受けますが、上記の人と人の親と子に照らすと互いの醸成を想います。そのような関係性から生成、形成される「こころ」ということです。


心があらわれる時

2014年11月29日 | 郷土

 前回は「腹黒い」という、悪心を懐いている人間表現の中に「こころ」のある場所を見たのですが、「腹」の付く人間のこころ(状態)表現を表わす言葉を見ると、

腹が据(す)わる(覚悟ができていて、物事に動じない。度胸が据わる。)
腹に据えかねる(腹が立って、がまんできなくなる)
腹を据える(覚悟を決める)
腹が立つ(怒りを感じる)
腹に収める(ある情報などを、自分の心の中にとどめておく。)
腹を切る(責任を取って辞職する)
腹を肥やす(地位・職務などを利用して私利をむさぼる)
腹を抱える(おかしくてたまらず大笑いする)

という言い方を国語辞典(大修館)等で確認できます。

 参考に古語辞典(岩波)を見ると、

腹が細る(腹がへる)
腹からの(生まれつき)
腹高し(妊娠のさまにいう)
腹に毛の無い(老獪である)
腹は借物(宿った母親の腹は一時の借物で、生まれた子の貴賤は父によって決まる。)
腹召す(切腹する意の尊敬語)
腹を切る(切腹する)(

という言葉があります。4番目の「腹に毛の無い(老獪である)」が難しい言葉でよくわからないのですが、「老獪(ろうかい)」と読んで「いろいろ経験を積んでいて、悪賢いこと。また、そのさま。老猾(ろうかつ)。」(goo辞典)という意味なのだそうです。

 ひとつ疑問に思ったのは「腹を抱える」ですが、しぐさと見れば「お腹が痛いのかも知れない」と思うのですが、・・・・やはり「腹を抱えて笑う」がふさわしい。

いろいろと「腹」の付いた言葉の新しき(現代)と古き(古語)を知るのですが、古語の世界では「こころは遠く」で、現代の使われ方の方が「こころに近い」気がします。

心の状態、心積もり・・・人の心の内が見える、そんな気がします。

「腹を抱えて笑う」と書いて思うのは、「頭を抱えて悩む」という言葉です。

「頭を抱えて悩む」はそのままズバリで、「苦悩」する姿そのものです。

「笑う姿」と「苦悩する姿」

「苦しむ姿」と書くと「腹を抱えている姿」(腹痛)にも見えるので、「苦悩」としましたが、身体の頭と腹、部位的には上・中で「下」は足になります。

「足を踏む」「足を踏み鳴らす」

何かジタバタと忙しくなってきます。「足早に退散」「足しげく通う」・・・。

「心はどこにあるのか?」

は、「心とは何か?」という問いとも密接にかかわってきますが、身体的表現と密接にかかわってきます。

 「しぐさ(仕草)」

という言葉もありますが、動作という表現と密接に「心は現れる」ということも出来るような気がします。

「心はどこにあるのか?」

 『ことばと身体』(尼ケ崎彬著 勁草書房)『心のなかの身体』(マーク・ジョンソン著 紀伊國屋書店)『脳はなぜ「こころ」を作ったのか』前野隆司著・筑摩書房)・・・いろんな本があります。

 考えるときりがありませんが「こころ」は、現れ、表われに・・・・ということに落ちつきます。


心はどこにあるのか?

2014年11月28日 | ことば

 「心はどこにあるのか?」という問いを持つとき、脳生理学や哲学的に解釈しようとするほかに、単純に日常的な生活のなかで何気なくつかんだ心の位置があります。「魂はどこにあるのか?」「精神とはどこにあるのか?」なども類似の範疇に入ってくるような気がします。

 英語のハート(heart)は普通は心臓や心をさします。しかし奇妙なことに気がつきます。

 「ハートが問題である」は日本語で言えば「心に問題がある」ということになりますが、決して「心臓が悪い」という意味には解せず、「誠実性が現れていない人」「悪い人間性が現われている人」「悪意のある人」が持つ「心の欠陥」をイメージします。

 「腹黒い人間」「腹に一物」は悪者に違いなく、「心のきれいな人」は「腹がきれいな人」で、「腹黒い人」は「腹がきたない人」となり「心の中をさぐる」ことは端的に「腹を探る」という表現になります。

 直接心が腹にあるとは言いませんが、どうも日本語では心の話は内蔵のある腹のあたりを使い表現します。

 このような意味での「心はどこにあるのか?」という疑問をもつ人がいるわけで、江戸時代の学者さんで伴信友という方がおられて『方術源論』という書物を著しその中で『万葉集』の山上憶良が神功皇后が新羅攻め際に「彌許々宮(みこころ)を鎮め給ふ」ということで懐妊して陣痛の真中を鎮めるために石を懐に納めた歌を指摘して、どうも昔から心はお腹にあたりにあるらしいと云っているようです。

 この話は人は心をどう指示するか、どこを指し示すかということで手話関係の本を調べたところ大原省三著『手話の知恵』に書かれていました。手話では「自分の腹を人差し指でさして心を表現する」のは普通だそうで、上記のことが「こころ」の語源でもあり手話の表現でもあると書かれたいました。

 ということを知って現代社会を見ると、どうも心はあちらこちらに行ってしまっているわけです。

 どうも心の落ち着き場所がないのです。

 ドンと腹を落ち着かせた方がよいようです。


森の思想の根柢にあるもの

2014年11月26日 | 古代精神史

 ちくま新書の新刊に山下博司著『古代インドの思想』読んでいると「輪廻の教説はインドからアジア各地に伝わり浸透した。輪廻の教えが広がった土地は、森林に覆われ多神教的環境であったことも共通している。」(同p166)と書かれている。

 「インダス文明、ヴェーダ、ヒンドゥー教、ヨーガ、仏教をつらぬく「インド的なもの」とは?

を述べるのがこの著書です。先週の日曜日のEテレ「こころの時代」での宗教学者の山折哲雄先生が仏教伝来以前から悉皆仏性的な自然崇拝思想が日本列島には根柢にあるのだが、旨の話を話されて、落日の夕焼けに美しさを語っていました。実際にはそのような言葉を使ってはいませんが個人的な読み取りでそのように解されました。

 時々書くことですが、6・7万年前にわずかな集団でアフリカ大陸を出発した現生人類は1・2万年前に地震と火山の東方に至り、その後も旅の途中で分れた集団が東方を目指し海を渡り、南から北からまた朝鮮半島から日本列島に渡来してきました。むかしは帰化という言葉も使われましたが、今は渡来人と呼称するのが一般的になりました。

 過去ブログにも書いているところですが、個人的には「東方を目指す」その根柢にある希望の彼の地を思う志向性を考えると「帰るべき処」であったという意味で「帰化」の言葉が的を得ているように思います。

 民俗学的な伝承の中には旅の過程で学び会得した、生きる術があったに違いなく、「どこからきてどこへ去るのか」も自ずから身に付いて来たのではないかと思います。

 「森林に覆われ多神教的環境」

 日本だけに「森の思想」があるわけでなく過去に沙漠であった地にもその思想は産まれていたに違いなく、人類の実存に通底する根柢には自然という一体渾然とした「無くて有るもの」が現われるのではないかと思う。

 それは表現されると多くを語ることになりますが、美への観照、落日の美しさは身を持った体験として現われるのだと思います。哲学的な経験とは、純粋を付けるまでもなくリアルに「生(あ)る」を宣言するしかありません。

 リアライズ、わかるということはそういうことだと思う。

 「不生不滅」「不一不異

この言葉も旅の過程での会得なのかも知れません。


風景に足を止めるとき

2014年11月25日 | 風景



  最近は 風景を語ることが多くなりました。それだけ心を風景に囚われるということになるのでしょうが、毎年確かに見ている風景で、秋ではなく、飽きがきても不思議ではないでしょうが、そうならないところに人間と自然との不思議な関係性を想います。

 あらゆる物事が互いにつり合いそこに生(あ)るということ、生(な)っているということ、それを「相依相待(そうえそうだい)」といい大乗仏教の縁起説はそれを語っています。

 自他一如(じたいちにょ)

 風景に感動している時は、風景と我の関係が一如、ということに生るのかもしれません。

 関係性における一如、一如という言葉は、「一如(いちにょ)とは、絶対的に同一である真実の姿、という意味の仏教用語である。」とサイト事典は解説されていますが、「あぁ・・いいなぁ・・・」、単純に感動を言葉に表せばそれに尽きます。

 1・2分、もっと短いかも知れませんが、そこに止まりたい機会が現われます。

 季節でしょうか。

 昨日の午前8時頃の常念岳(西方)と安曇野平・松本平(東方)の風景です。


文明の光の中で、天然・自然の無常観を想う。

2014年11月24日 | 風景

 世の中にどんなことが起ころうと夜が明けない日はない。と改めて思う。地球の自転が止まらない限り、陽は東から昇り、西に落ちる。

 大きな地震があった翌日も当然陽が昇ります。そして何事もなかったように一日がはじまります。

 昨日の朝も、美ヶ原の山々はあかね色の背景に稜線を映し出す。



 休日出勤でしたので、いつもの場所に車を止めいつものように常念岳を見る。



 常念岳も空には若干雲はあるものの青空に雪山の姿を現わします。

 朝焼け、常念岳の山々の風景に美しさを感じます。

 土曜の夜10時過ぎ、最大震度6弱の地震が発し、震源地から離れた我が家は震度4の揺れ、死者は今のところないようですが家屋が倒壊し、けが人も何人か出ているようです。

 どこまでもどこまでも自然の Indifference (無関心・無関係)がそこにあります。

 自然は人間に敵意があるかのように災厄を発生させ、苦悩させ空虚感を味遭わせるのかと嘆きの渦に引き込みますが、忘れさせるような美の世界をも現わします。

 総じて言えば、自然とはそういうものだ、ということになります。

 昨日早朝の山折哲雄先生のNHKこころの時代~宗教・人生~「無常の風が吹いている~私が死について語るなら~」では「天然の無常」が語られていました。

 2011年3月11日の東日本大震災の3か月後の同番組でも語られた話し今回さらなる深い話となって語られていました。

こころの時代~人生と宗教~ 共に生きる覚悟(1)・魂の行方[2011年06月13日]

こころの時代~人生・宗教~「共に生きる覚悟」(2)・天然の無常観[2011年06月13日]

「無常の風が吹いている」

 最近書店に行くと「死」に関する本を多く見かけます。口癖のように我がブログに書く「メメント・モリ」(死を想え)の世界が語られています。

 本年7月にPHPから出版された『人は死ぬとき何を思うのか』の中に山折先生は「現代の日本人には死生観が欠落している」と題した昨朝のテレビ番組に重なる話を書かれ、番組でも話された、山折先生の仏教における「無常」が書かれています。

世の中は「無常」であることを肝に銘じる

という章の中でそれは語られています。

仏教における無常には、三つの考え方がある。

地上には永遠なるものは一つもない
形あるものは必ず壊れる
人は生きて、やがて死ぬ

いずれも否定できない真理で、それを認めないのはあまりにも倣漫である、と先生はいいます。

 V・E・フランクルの『夜と霧』にも出てくる収容所で見る夕焼けの美しさの価値の転回につながる話でもありますが、誰にも天然の無常観は開かれています。

つらくても、等身大の実物をみつづけなければ、ニンゲン、滅びます。」

この言葉は時々引用している藤原新也さんの写真集『メメント・モリ』(情報センター出版局)の中のお地蔵さんの写真に添えられている言葉です。

 解説があるわけではなく勝手な解釈ですが、等身大(とうしんだい)とは身の長(みのたけ)ということです。自分の身の長を考えずに人は大それたことを行うことが多い、そのように聞こえるのです。

 天然・自然に跳ね飛ばされるようなことを何か仕出かしてはいないか?

 そう語る私はLEDの光の中でこの文章を書いています。行燈(あんどん)の天然の光ではない、最先端の光の中で書いています。文明の光の中で・・・・・。


長野県北部地震・リアルな体験から思うこと

2014年11月23日 | こころの時代

 昨夜10時22分ごろ深度6弱の地震が長野県北部を中心に発生しました。長野県は南北に長い形をしており、私の住む安曇野市は地理的には北西部に当り、震度4との発表でした。

 揺れは15秒ぐらいと長く机の横に30冊ぐらい重ねた新書、文庫の上部3冊が崩れ落ちましたが、大きな被害を受けることなく済みました。

 今から5年ほど前の2011年6月30日午前8時頃発生した松本市を震源にした長野県中部地震の時は松本市にいて、その時の震度は5弱でそれに比べると体感的に弱かったのですが、揺れが少々長く考える余地があると、今後この揺れは強くなるのか、という不安にとらわれます。

 直下型、どちらかというと横揺れではなく5年前と同じ揺れ方で、これが横揺れだったら書籍群に押しつぶされていたかもしれません。

 ちょうどその時に生中継の報道番組か何かを見ていたのですが、5秒もしないうちに「長野県北部で大きな地震が発生しました。」という地震警報が流れました。

 1分1秒を争うという表現がありますが、関東地方には結果的には弱い地震でしたが地震予知になったわけで、現代社会はリアルです。

 ちょうど今、宗教学者の山折哲雄Eテレこころの時代~宗教・人生~「無常の風が吹いている~私が死について語るなら~」が放送されています。聴きながら思うところを書くのですが、自然災害が多く起る日本列島に住む日本人の信仰、日本の伝統的な森羅万象に対する畏敬の念、それが汎神論な信仰になり、「生老病死」と密接なかかわりがあって、自然は対峙するものではなく、人間自身がその内に取り込まれている存在であることを読み取る力がありました。

 伝統的な死生観は、現代社会では隠蔽するかたちになり、リアルな体験には術を無くしてしまいます。

極度の情報化社会の中
閉そくした未来に向き合いながら
私たちはまことに忙しなく生きています
目先のことにとらわれ
複雑な人間関係に煩わされ
将来の心配をしながら

その中で、時々起る天変地異の現象、それを意味あることと解し、それに見合う智慧を会得する必要性を強く思います。


あの景色を見てから瞼を閉じる

2014年11月20日 | 風景

 昨日の夜明けの写真です。朝日の昇る直前、オレンジ色に空は輝きはじめ、天空には昇り来る太陽の光に照らされた月が残ります。

 藤原新也さんの『メメント・モリ』(情報センター出版局)という写真集に荒涼とした大地を小高い丘から見つめる一人の人物の後ろ姿の写真があります。

 写真の左側には、「人体はあらかじめ仏の象(かたち)を内包している」という言葉が添えられています。仏教的に言えば仏になる可能性を持つという意味の「仏性」という言葉が重なります。

 昨夜のNHKクローズアップ現代では「“最期のとき”を決められない」と題して時々話題にする「メメント・モリ」に関係した番組が放送されていました。

 新聞でもテレビでもこちらで期待するわけでもないのに人間の最期、誰にでもおとずれる死についての話題を目にします。

 興味のない人、忌避感が先行する人には全く関係のない話ですが、死に囚われたわけではないのですが、還暦を過ぎた私には、突然死も含め覚悟心とでもいった死に至る覚悟の自覚を醸成したいという気持ちがあります。

 誰も最期の時を決めることができない。

 病院のベットに横たわる一人の男性が映し出されます。

 脳梗塞で倒れた男性、独身で独り暮らし、頼れる家族はなく、どこまで延命治療を続けるのか。

 今「本人の意思が確認できない」患者が急増し、こうした中医療現場では回復の見込みのない患者に対する延命治療をどうするか決められないケースが増えてきている。

 というナレーションとともに始まり、延命治療にたずさわる医師の話が続きます。

 背景には最近話題になったアメリカの脳腫瘍の女性患者の自死の選択がありました。自分の意識がまだあるうちに自分の最期は自分で選択したい、そんな姿が世界に発信されていました。

 番組はどこまで延命するのか揺れる医療現場の現実が発信されていたのですが、考えさせられる場というのが常に来ます。

 藤原さんの写真集『メメント・モリ』の最後は、「あの景色を見てから瞼を閉じる」という言葉が添えられた、青空と緑の芝と花々が映った風景写真です。


空の名残・詠嘆的無常観から自覚的無常観へ

2014年11月19日 | つれづれ記

外は未だ暗く、山麓の中、物音一つしません。気温は低く霜が降りているのでしょう。

 学びの場として人様のブログを拝見し意味への問いを授かっています。久しぶりに徒然草の「空の名残」の出会い、今朝は「意味への信仰」として思うところを残したいと思います。

徒然草第20段
 某(なにがし)とかやいひし世捨人の、『この世のほだし持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき』と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ。

の「空の名残」という言葉を目にしました。「なごり」とよむ「名残」という言葉ですが個人的にとても優しさのある響きのある言葉です。感覚だけで心に足跡が現われるような感じです。

今朝は三省堂の『詳説古語辞典』を使用しますが、

なごり【余波・名残】[名]
1【余波】
(1)波が引いたあと海岸に残っている海水や海藻。
(2)海の荒れがおさまってもなおしばらく立っている波。
2【名残】
(1)物事が終わったあとにその気分や状態が残っていること。余情。余韻。気配。
(2)故人の代りに残されたもの。代わり。忘れ形見。子孫。
(3)別れたあと、おもかげなどがこころに残ること。また、その気分。
(4)別れを惜しむこと。
(5)連歌で、懐紙に書くときの最後の一折。最後の一面。

このように「なごり」は解説されています。

 執着とも解される「心残り」がそこにあります。同辞書には続いて「なごり」否定として、

なごりな・し【名残なし】

が解説されていて「心残りがない」「執着しない」「跡形もない」とあります。

 別室ブログ(10月11日付「地球イチバン・地球最後の航海民族~ミクロネシア・中央カロリン諸島~」)では、評論家で哲学者の故森本哲郎先生の「空の名残」を紹介しました。

 なにがしかとか言った世捨人が、「この世の何の執着も持たぬ身でありながら、ただ、空と別れることだけがつらい」と洩らした、と言うのです。そのことばに、兼好は深い深い感動をおぼえたのです。「空の名残のみぞ惜しき」、彼は千釣りの重さを、この一語に感じとったのです。

 思えば、このことばは、何と深く、何と重いものでありましょう。ことばは、「名残惜しい」と言う、その空(そら)のようなものです。空は私たちのすぐ上にあります。手のとどくところにあります。けれど、空は。同時に、無限の高さ、無限の深さを持っているのです。ことばも、同じです。

 「この世のほだし持たらぬ身」にとってさえ、空の名残は惜しいものではありませんか。私はその「空」を、「ことば」に置きかえて、さらに旅をつづけてゆきたいと思っています。(森本哲郎著『ことばへの旅第3集』「まえがき」から)

 改めて森本先生の、

「空」を、「ことば」に置きかえて・・・

がとても響きます。森本先生は「置き換える」と言っていますから、

「空」=「言葉」

となり、そこに森本先生の旅紀行が続きます。森本先生の旅紀行は有名ですが原点はここにあることが解かります。

 徒然草の吉田兼好にもどりますが、評論家で哲学者の唐木順三先生は『無常』(中公選書)で『徒然草』に「詠嘆的無常観から自覚的無常観へ」を読み解いていきます。

 そこで引用されているのが、国語学者の西尾実先生の『日本文芸史における中性的なるもの』中の次の言葉を紹介しています。

「無常を悲しむ生活感情としての世界観から、無常を実相として覚り、その無常に処して無常ならざるものを求めて生きる、生活創造としてのそれ・・・」

西尾先生、また唐木順三先生ともに信州人ですので個人的にも両先生には書籍上でしかありませんが影響を受けてきました。

※西尾実
西尾実の「道元の愛語」

 学者が仏教を語るのはと指摘を受けたこともあるのですが、どうも「遊行」という言葉が「自覚的無常観へ旅」「人生の旅」にも根源的探求の過程には現れてきます。

 矛盾でも差異でもない単純なる、純粋なる現れの中で「自覚」が現われてくるような気がします。

「空の名残」

 それが「ことば」として表現されるのですが、それは汝の根源的深淵からうつし出されてくるものなのだと思います。

 西尾先生、唐木先生ともに「絶対的無の場所」は自明の理です。

名残りはつきねど まどいは果てぬ
今日の一日(ひとひ)の幸
静かに思う


山雅FCと「天上天下唯雅独尊」

2014年11月18日 | ことば

 「My V 天上天下唯雅独尊」

 帰宅時に国道19号線を走っていると前方のワゴン車の後部ガラスに白色の上記の文字が目に入りました。

 「天上天下唯我独尊」

というお釈迦様の言葉で「雅」ではなく「我」でしょう。明らかな誤りで「なぜ間違いたのか?」

 「みやび」の「ガ」と、一人称の「ガ・われ」とはどうも同じには見えません。発音だけの「ガ」ならば、漢字表記を見ない限り問題ありませんが、「上品で優美なこと」(みやび・ガ)とはどう重なるのだろうか。

 「天上天下唯我独尊」

ならばその意味するところは・・・・。

 サイトの「古事ことわざ辞典」によると、

【天上天下唯我独尊】この世に個として存在する「我」より尊い存在はないということ。人間の尊厳をあらわしている言葉だが、「唯我独尊」はこの世に自分より優れたものなどないという思い上がりの意味でも使う。

と解説され、後者の「この世に自分より優れたものなどない」の部分の「自分」を「雅」入れ替えると、「この世に雅より優れたものなどない」という意味の捉え方ができそうです。

 「我」より尊い存在はないということ、が、「雅」より尊い存在はないということ。

「My V 天上天下唯雅独尊」

「我」ではなくなぜ「雅」なのか。

「My V」=我が勝利

 この言葉にハタと気づく。

 松本山雅FC(まつもとやまがエフシー)というプロサッカークラブがあります。つい最近J1に昇格し、地元では来月記念行事が開催される予定になっています。

 地元では大騒ぎ!

 長野県松本市、塩尻市、山形村、安曇野市をホームタウンとするサッカークラブで、熱心なサポーターがいて、車を走らせていると応援のメッセージをペイントしている車を多く見かけます。

多分、帰宅時に見た車の運転手は熱烈な山雅FCのサポーターなのでしょう。

「山雅FC」より尊い存在はなく、この世に山雅より優れたものなどない。

というわけです。

 本来の意味するところはは失われ、新しい使い方に新たな意味が生まれたのは確かです。

 仏教の熱狂的ファン(サポ-ター)で、絶対的な正しさを主張する方々からすればトンデモナイ話になるでしょう、が、地元では常識化され歴史に残る言葉になるかもしれません。