特殊詐欺が相変わらず流行のように毎日全国の何処かで発生しているようです。人の欲に目をつけた「儲かります」詐欺から、子の不幸を心配する親心に付け込んだ詐欺など、その手口は巧妙でバージョンアップをくり返しています。
「人を見たら泥棒と思え」という言葉は、戦後の混乱期に流行った言葉に違いないが、今は「息子の声を聴いたら詐欺犯と思え」と思った方がよいような状態になっています。
すると今という時代は、何かの混乱期にあるのか?
何徳、そんな問いが自分のなかから出てきます。
私という現象は、実に不可思議なものです。
「私という現象」と最初の言ったのは誰か、と思うと、少ない知識から思い当たるのは、宮沢賢治です。
『春と修羅』の序に「わたしといふ現象」といきなり書かれています。過去ブログにも多く登場しているのですが、この詞が1920年代に既に書かれていることに最近気がつきました。
ヘーゲル哲学にも登場する「現象学」ですから、おかしくはないのですが、「私という現象」という言葉を使うところに宮沢賢治の精神の深淵を見ます。
特殊詐欺の話に戻しますが、独居の老人が騙されやすいかというと、そうでもなく同居していても親心から騙されるケースが多くあるようです。家族間のコミュニケーションが取れていないからだ、と思うとそうではなく、とれているほど騙されやすいような状況にあるようです。
詐欺がこの世から無くならないのは、そもそも「人を騙す」などというのは、この世に人がいる限り「騙される人」が必ずいることを示しているわけで、この世という現象は悪人と善人の織り成す世界だからということになります。
パスカルの『パンセ』の断章に次の言葉があります。
「人間は、天使でも獣でもない。そして、不幸なことには、天使のまねをしようと思うと、獣になってしまう。」(断章358・中公文庫p230)
この言葉を思い出して鷲田清一先生の『<ひと>の現象学』(筑摩書房)を思い出しました。
「この世に生れ落ち、やがて死にゆく<わたし>たち、<ひと>として生き、交わり、すれ違うその諸相・・・。」
顔、こころ、親しみ、恋、私的なもの、<個>シヴィル、ワン・オブ・ゼム、ヒューマンそして死
それぞれの人という現象が語られています。
現象学は、そのものズバリ現象を哲学します。
しかし、「そもそもなぜ現象するのか?」は人だからで止まってしまいます。
そんな気がします。「人はどこからきてどこへと向かうのか?」それに現象学は応えてくれません。
「人間は苦悩する存在である」
となると、
「我々は常に空虚な部分を欲求として欲している存在と言えるのではないか?」
という疑問も出るのも当然です。