思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

全ては夢の中・NHK連続テレビ小説“おひさま”の風景消える。

2013年03月31日 | 風景

 東日本大震災のあった年の4月から放送された連続テレビ小説“おひさま”の道祖神や水車小屋の撮影セットが2年を経過し、ついに撤去されてしまいました。




道祖神のある風景と賢治の心[2013年03月14日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/5cdf73e7b87349d43c7ebc87ad51a8db

に書いたように、番組で特に個人的に思い出がある印象的な「道祖神と水車小屋がある風景」場所のロケ地が3月17日をもって撤去される話を書きましたが、その後の様子を知りたく現場を訪れましたが、駐車場や案内板は撤去されているもののセットは残されていたました。しかし、撤去されることには違いないので今日確認するため小雨の中、セット現場に行ってきました。

 予定通りすべては撤去され、小雨の中にただ静けさだけがありました。

 水車小屋の脇に流れていた小川の水音だけが静けさの中でかすかな水音を立てていました。

 菜の花の咲くころ、ソバの白い花の咲くころ、雪の降ったころこの「道祖神のある風景」がとても好きでよく出かけました。観光客もつい最近までおとずれていました。













 家族全員でリヤカーに荷物とお母さんが乗り新しい安曇野の自宅に向かう場面。


(NHK連続テレビ小説“おひさま”から以下同じ)

 道祖神に子供たちが化粧をする道祖神祭りに村人が集いた双体道祖神前の広場。



 兄弟がにこやかに食事をしていた水車小屋の道端



全ては記憶の中、思い出の中です。

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きく文化(4)・「“聴く”という生き方」と「魂への配慮」

2013年03月31日 | こころの時代

[思考] ブログ村キーワード

 今朝のEテレ「こころの時代 ~宗教・人生~」は「“聴く”という生き方」と題して京都ノートルダム女子大学特任教授の村田久行さんのパストラルケア (pastoral care) における「傾聴」というお話でした。

NHKの番組紹介には、

“傾聴”に20年にわたって取り組んでいる京都ノートルダム女子大学特任教授・村田久行さん(68歳)は、「真剣に聴いてくれる相手がいることで、人々は“生きる力”を自ら引き出せるようになる」と言う。“傾聴”は、末期患者や家族、災害の被災者など、深い心の痛みを抱える人のそばで悩みや苦しみを真剣に聴いて、痛みを和らげようという“心の支援”だ。村田さんが“傾聴”の神髄を語る。

と書かれている通り個人的に勉強になった番組でした。

3.11東日本大震災後の被災地における精神的なケア関係で「きく」ということの重要性については、以前

こころの時代~宗教・人生~・命の世話と向き合う・鷲田清一[2011年09月04日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/54ce3383a67e6816d78a3fa2ec1e5e49

で「傾聴」ということの重要性について語りましたが、今回の村田さんのお話は村田さんの人生の歩みも含め新たな「きく文化」を個人的に編成するものでした。

「きく文化」とは個人的な一つの問いのテーマであるという意味で、これまでに2010年に集中しますが、

きく(聞く・聴く)文化(1)・高木美保の香り学[2010年10月20日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/baedb9e7f20454505d1439bad85050a1

きく文化(2)・色即是空、空即是色[2010年10月21日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/f346c6f701c9ec12547126218c0e09f4

きく文化(3)・法華経・耳根最も利なり[2010年10月23日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/650951eb09ee6952c4fb23bb0c99eb46

で取り上げてきました。

パストラルケア (pastoral care)とは何か?

キリスト教(カトリック系)を主体にした心のケアで、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の解説を見ると、

【パストラルケア】 (pastoral care) とは、牧師その他の患者の属する宗教(教会、会衆、その他)の宗教的指導者から与えられる心理療法的なケアのこと。家庭訪問からライセンスを受けた牧師による公的なカウンセリングまでのさまざまの形をとる。

日本ではまだ公的なパストラルケアの資格は存在せず、ボランティアのような扱いを受けているが、一部の病院などで採り入れられている。

パストラルケアを行なう者は依存性人格障害や共依存その他の非専門家による心理療法にしばしばありがちな問題を避けることに特に慎重にならねばならない。

世俗の用法でも用いられるが、キリスト教、プロテスタントの教会用語では、牧会と呼ぶ。カトリック教会の用語では、司牧である。

パストラルケアがどの程度宗教指導者の責務の中で重要なものかについては、特に精神医療の専門家としてライセンスを受けていない指導者のそれについては、一部では議論の種になっている。

<以上>

村田さんは「魂の救い」という言葉を使われていたようにスピリチュアルケアの一つになるようです。即ちこれもウィキペディアからですが、

【スピリチュアルケア】(spiritual care)とは、「生きがいを持ちやすい人生観」への転換を推奨し、人生のあらゆる事象に価値を見出すよう導くことにより、人間のスピリチュアルな要素(心あるいは魂)の健全性を守ることである。

ウァルデマール・キッペス(Waldemar Kippes)は、「スピリチュアルケアとは現代人のスピリチュアルな生活のバイタリティーおよびその深さを育成する援助であり、他者や神や自分自身の内面的なニーズに応対する、人間としての成長を示し、育成するものである」と述べている.

<以上>

というものです。今現在はさほどの問題はないのかも知れませんが、災害時直後の宗教性をもった心のケアにおけるボランティア活動に対しては排他性が強かったようです。個人的な視点から今回の番組を見て最初に語りたいことは、村田さんのパストラルケアの道に入る経緯でした。最初は理科系の大学に入ったのですが「何のために生きているのか」「生きている意味」という問いが起り、生きているための努力に対してむなしさを感じられその答えを見つけるために、哲学科に編入されそこでイギリスの経験主義について学び自然科学や経験だけでは答えが出ないことに思い至ることになったようです。

 当時主流であった実存主義でもない経験主義にひかれたと述べられていましたが、私自身の個人的な視点からは当に「裸の実存」におけるバックボーンとしての御座に置かれるべきものは何かを求めていたように見えました。

 そこで出会うのがキリスト教えで行われていたパストラルケアでその点を見ると、人間の存在における「実存」という思考の視点はとても理解しやすい概念であるように思います。

 「傾聴」という言葉における「聴く」という漢字の旧漢字の「聽」が出てきました。

目と心が右辺にあります。中間にある「一」は白川静先生の説で説明されそれぞれに集中した注意力を表わしているとのこと。さらにこの文字には「聖」「徳」が含まれていて「聖なる心で聞ける人は徳のある人」ということでした。

 「聖なる声を聞く」白川先生はこの「聖」を「耳(みみ)聡(さとく)自然の声を聞きうるもの」と別本で解説され「神託を聞く形を示す」漢字ということです(『桂雑記Ⅱ』平凡社・p155)。

 「きく文化」の話になるのですが日本の山岳信仰で唱和される六根清浄、

 目に諸の不浄を見て  心に諸の不浄を見ず 

 耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず 

 鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず 

 口に諸の不浄を言いて 心に諸の不浄を言わず 

 身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず 

 意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず 

 これは個人的な内心的なものですが、客観的な現象を「聽」で捉えることの重要性を教えられます。「耳(みみ)聡(さとく)自然の声を聞きうるもの」は正にこのことでネイチャーではなく「おのずからしかり」の「自然」への精神感応です。

 村田さんは被災者も含めて死に逝く人々もの話を聴くことの難しさを語っていました。この問題にも関係するのですが、

PTSD(Posut Traumatic Stress Disorder)「心的外傷性ストレス障害」から学ぶ[2012年10月21日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/cb1f5f32bccb2d29a3422450bc39cdc0

に書いた、Eテレ「東北発・未来塾~心をケアするチカラ・桑山紀彦~」という番組がとても参考になります。

「東北発・未来塾~心をケアするチカラ・桑山紀彦~」
http://www.nhk.or.jp/ashita/miraijuku/archives/121005.html

ここでは相手と体面接した時に大切なことは「あなたのことが知りたい」という「一番の根本は“愛”だ」と強調していましたが、パストラルケアもこの「愛」がその根源にあるわけです。

 今回のこの番組で思うことはヴィクトール・E・フランクル(以下フランクル)の三つの価値の最も重要な「態度価値」のについてです。精神的無意識には良心や芸術や宗教性があるとされ、自己の持つ意味器官は苦悩の意味するところを察知し概念の転回を可能にします。

 「精神療法、とりわけ精神分析が求めていたものは、世俗的な告白であった。しかし実存分析が求めているものは、魂への配慮である」(フランクル著・山田邦男編訳『人間とは何か』・春秋社・p383)

 フランクルは「魂の配慮」の重要性を説いています。フランクルの説く魂は浮遊するような魂の話ではないことは以前にもブログに書きました。精神科医の香山リカさんが最近出版されたイマーゴimago4月臨時増刊号『ヴィクトール・E・フランクル』で上記の「私の好きな言葉」としてフランクルの言葉を取り上げていました。香山さん自身は、“「魂」という単語に、ご用心。”を文頭に掲げるほどに忌避感をもたれているようですが、このフランクルの「魂の配慮」についてはその意味するところをわかり易く語っています。

 結論的に何が言いたいのか。

「“聴く”という生き方」の村田さんの話に全てが含まれているように思うのです。実存としての主体的な我(われ)の姿、そして聴く側として客観的な転移視点を向ける際の配慮の心が示された話でした。

 「きく文化」の(4)として「“聴く”という生き方」すなわち「魂への配慮」について書きました。このブログ内容は、パストラルケアを批判するものではなく、これはフランクルの正に態度価値の話しでもあるわけで個人的に勉強の機会を与えられたものでした。

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煩悩即菩提

2013年03月29日 | 哲学

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 東日本大震災後2年目の番組として再放送されたEテレ「3.11後を生きる君たちへ~東浩紀 梅原猛に会いにいく~」から学びを得ています。梅原先生は基本的な話ですが哲学という学問について「人間はどう生きたらいいか?」を考えるものだ旨を最初に語られていました。フィロソフィアの定義を語れば限りがないと思いますが、個人的には同感です。

 簡単に語れそうに思うことをこと難しく語る、それ自体が目的ではないのですが、「どう生きるか」という問題は、そこには語り得ない深淵な世界が根底にあるのからであろうと思います。

 仏教的にはネックになるのは執着(しゅうじゃく)で即ち「欲望」という名の人間のもつ本質的を如何に制御するかなのだろうと思います。煩悩即菩提という仏教語がありますが梅原先生は東浩紀さんとの対談の中で御自身の哲学思考について次のように語っています。

「私は今はだいぶ衰えましたが、もともと愛欲がほうなんです。それは悪いことではない。愛欲が抜群に強い人を見ると、煩悩即菩提を思い起こします。私も愛欲が強く、それに知識欲や創造欲がとても強い。しかし名誉欲や金銭欲はわりあい薄い。学者のなかにも金銭欲や名誉欲の強い人がいますが、そういう欲望が本質的には知識欲や創造力に吸収されていくような、そういう欲望を持つ人に成って欲しいと思います。」(東浩紀著思想地図『日本2・0』p318)

 ロダンの『考える人』のように、人間お考える姿は悩める人間の姿でもあるように思います。苦悩を苦悩するが故に苦悩する姿が実存的空虚感の姿ならば、考える人もまた知り得ない充足されるべき空間、空いた御座に座るべき存在を求める姿なのかもしれません。

 「欲望が本質的には知識欲や創造力に吸収されていくような、そういう欲望を持つ人に成って欲しい」

という話は誰にでも理解できる話です。欲は「意志の力」ニーチェ的には「力への意志」という表現がいいかも知れません。決断するのは個人で欲に対峙するとき力を如何に逆転するか、やはりその瞬間極みのように思います。

「今まさに自分は何をしようとしているのか」

 煩悩即菩提

その瞬間・・・・・を言っているように思います。

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個人の実存

2013年03月28日 | 哲学

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 3月23日にEテレで昨年放送された梅原猛さんと東浩紀さんの対談番組が再放送されていました。人間中心主義の西洋哲学から自然や環境との折り合いの中にあるはずであった人類が特に日本人は3.11の東日本大震災、原発破壊放射能災害を契機に新たな文明の進むべき方向性を示されることになった自覚をもつべきことが強調されている内容でした。

 この対談は3時間に上るもので番組は之を時間い編集したもののようです。この対談の内容の詳細は東浩紀著思想地図『日本2・0』には23頁に渡って掲載されており、番組と若干会話部分が異なりますが、思想や哲学には素人の私にもよくわかる内容になっています。

 東さんは著書の最後のほうには、番組でも紹介されたものですが梅原さんの「一粒の麦もし死なずば」の話に続き、「思想や宗教は、本当は、世代や家族、そして地域のつながりを考えるためにこそあった。ところが近代哲学はあまりにも個人の実存を強調し、そして他方、今の日本では社会の社会の現実として人々が急速にバラバラになりつつある。そのような時代において、西洋哲学の超克から始まりつつ、個人の実存から生命のつながりへと力点を移してきた先生の思想の歩みは、それそのものが強いメッセージに満ちたものになっていると感じました。」と語られています。

 再度番組を見て感じることですが、番組でも語られた東さんの言葉の中に「近代哲学はあまりにも個人の実存を強調し・・・」という語りがあります。東さんの語りから感じるのは東さんの実存は、戦後に盛ん読まれたサルトルの実存主義であって今現在の「実存」の考え方とは異なるような気がします。その後の「個人の実存から生命のつながりへと力点を移し」がどうも今現在の私には少々理解に苦しむところがあります。

 人間存在の本質の中に自然や環境にあるべき本来的な姿があるのであって、現実存在としての私が何も持たない裸の個であることを実感してこそ、「本来的な姿」が自(おの)ずから呼応してくるものではないかと思うのです。捨てられるべきは個人主義的な我欲の塊のような人間であって「個人の実存」は少々違和感を感じます。

 私は何ものか?と問うた時に、全く何ものも持たない存在であることに気づき、そこに着込んでゆくものに視点が移されて行くのがよろしい、というはないかと思うのです。純成るものは持ってあるというよりも、漢字実現させる可能性をおのずから持っているということで無意識的なところにそのものがあるということではありません。

 「生命のつながりへと力を移し」は純な物の有あり様を丁寧に見てゆく意識の芽生えが必要だという話になるように思えるのです。ヴィクトール・フランクルではないのですがアウシュヴィッツで犠牲になったユダヤ人女性エティ・ヒレスムの日記で作られた『生きることの意味を求めて』(晶文社)があります。

 その中で彼女は「人生において事実は、本当の意味で重要ではありません。事実を通して人がどういう人間になったかだけが、重要なのです。」(同書p30)と語っています。強制収容所の露と消えていった方ですが、この言葉を知った時に極限的な裸の実存を思うのです。

「事実を通して人がどういう人間になったかだけが、重要なのです。」

 人間の持つ精神感応の事実に思えるのです。彼女は「事実は重要ではない。」と言明しているという人もおられるかもしれませんが、眼前の事実ではなくそこに感応して有る私の意識の事実です。そうなるように意志の力は最後まで働く、見棄てられることなくそうなっている、と語っているように思うのです。

 裸の実存を純粋実存とした方がよいのかも知れない。なにも無い私だが、何ものかが有る。

即是

即非

どちらでも意味なすものだと思うのです。

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福寿草と今現在説法

2013年03月27日 | 風景

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 午後ランニングで山麓を回りました。近くの松尾寺の福寿草が雪も消えご覧のとおり毎年の風景となりました。



冬ごもりでエネルギーをその内にたくわえ、春を感じ一気にその姿を表わします。

 何と自然は正直なのでしょう。あるべき姿のままに、その姿を継承し根が絶え無い限り永劫回帰します。今現在のあなたがそのままに永劫回帰すると言われたらこの我があり様でありがたいことだと言えるだろうか。

 輪廻転生が有るや否を語ったり、無記で語らずよりも「今現在の己の心のあり様が回帰する」の方がどれほどありがたい話でしょうか。当然取り巻きの状況、状態は継承されずあくまでも心の問題です。

 フロイト的に無意識にエスを溜め込んでいる者はそのままに、状況、状態はその都度変化します。

 執着を離れるとは、その意味の理解であるように思います。今在る己のあり様それに尽きるわけで、「今現在説法と一夜賢者の偈」の意味するところはそこにあると判るのです。

福寿草話が今現在説法になってしまいましたが、今現在このようなことをブログに書くところに今日の意味がありました。

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命を使う

2013年03月26日 | 思考探究

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 仕事の都合でブログを日記的に毎日というわけにもいかなくなっているのですが、考えてみればわが心の編成歴的なものですから長さにこだわることなく書ける時に書くに徹することにしました。

 ありがたいことです。また以前書いたブログにコメントを頂きました。死して名を残す、当然に善い面という意味で言うのですが、与謝野晶子さんの歌の一首に詠まれている「黄金の釘」をを思い出します。

 劫初より造りいとなむ殿堂に
     われも黄金の釘一つうつ

私は造営された殿堂ではありませんが、いのちの尊厳を思えば一個人ではありますが<わたし>という造られてきている構築物なのかもしれません。ブログはその遍歴の記録でそれも私の表現するところの構築物なのかもしれません。そこに使われる釘は錆ついている釘ではならず与謝野晶子さんの「黄金の釘」とはいかなくとも永遠性の中にとどまり置かれるものでありたいと思います。

今現在でコメントが二つ来ています。その中の一つが2010年05月02日に書いた“こころの時代・「いのちとの出遇い」・藤田徹文”と題してEテレの「こころの時代」を見て書いたものです。

 私は私なりに精一杯輝かして命を生きることに本当の自由があります。仏教ではそれを「自在」といいます。

という言葉を書いています。「生命」とは「命を生きる」と書きます。この命の問題で最近考えさせられた話があります。それは3月に放送されたマイケル・サンデルの白熱教室@東北大学「これからの復興の話をしよう」で語られた話で、番組は、

●今後の復興は、うまくいく?うまくいかない?
●原発の放射線不安により、自主避難をした人にも、公的補助をするべきか?
●災害時に、消防団や民生委員の人たちは、死の危険を冒してまで人命救助を優先すべきか?
●復興は時間がかかっても「合意」で進めるべき?多数決でも「スピード」を優先すべき?

の四点について論議されたものでした。この三番目の「災害時に、消防団や民生委員の人たちは、死の危険を冒してまで人命救助を優先すべきか?」については書いているのですが、コメントを受けて「命・いのち」について改めて考えさせられました。

 「命を生きる」という生命という言葉を考える時、指名を受けて消防団や民生委員になられた方が、震災の時に他者の命を救うために命懸けの活動をされていた現実が紹介され、多くの消防団や民生委員の方々がなくなったことが亡くなられました。まさにそこには「命を使う」という事実がありました。すなわち「使命」という言葉があり「使命感」が存在しているということです。

 「しめい」という三文字の平仮名、「指名」「使命」はそう読むところに個人的に意味深く感じるのです。使命感を肝に銘じて徹底した命を使った活動・奉仕の現実が3.11東日本大震災にはありました。

検索ドライバーで「使命」と言葉を検索すると会える興味深いサイトに遭遇し或る事実を知ります。「誇りと使命感をもって国家と国民に奉仕する」という言葉がある公的機関の「職務倫理及び服務に関する規則」として書かれているのです。公的機関ですから公務員の倫理規則としてあるということです。

公務員は指名されて成るのではなく公務員試験を受けて成るのです。今や公務員は国民の税金の無駄使い的な流れがあることに危惧します。原因はどこにあるのでしょうか。一律に公務員という言葉に問題がありそうです。公務員を禁止用語にして、より具体的に説明されなければならないのではないかと思うのです。

従事する職種に

●「使う命」感を必要とする者
●国民の命を救うために己の身を危険にさらす者
●救うためには己の命を引き替えにする者

という明確性をもたせる。今の公務員という用語はある面形骸化しています。試験の競争率は高くても何かを忘れています。「誇り」という地位性、名誉欲・・・と本来的な尊さからの誇りが失われているように思うのです。使命感があってこそ誇りであるのです。

 公務員は、使命から成る者である。

コメントが寄せられた「いのちとの出遭い」からは等のいた話かもしれませんが、どういうわけか自分の思考の世界でサンデル教授の白熱教室@東北大学の話と重なりましたので今朝はこの話を書きました。

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私の存在理由

2013年03月23日 | 思考探究

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 最近のコメントの多くは過去に書いたブログによせられることが多くなりました。私のたどった思考の世界のその時の思いがあることを私自身が「アハー体験」します。わが身が失われていたとしても、コメントはよせられたであろうから、不思議なありがたさを受ける。

「自らの人生において、自分にしか答えられない問いに気づき、応答しているか、と自問することが求められているのでしょう。」

とV.E.フランクルの有名な「私たちは問われている存在なのです。」(V.E.フランクル著『それでも人生にイエスと言う』春秋社p.27)と解説していたある宗教団体の解説がありましたがありましたが、私の過去はそんな過去であるような見えこれからもそうなのだろうと思います。

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V・E・フランクルの『夜と霧』の第三回・態度価値に思うこと

2013年03月21日 | 思考探究

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 昨夜Eテレ100分de名著でV・E・フランクルの『夜と霧』の第三回の再放送がありました。「運命と向き合って生きる」と題して「生きる力を与えてくれる“3つの価値”ある」というフランクルの創造価値、体験価値、態度価値が解説され、姜さんが「ある種のバイブル」と語った「態度価値」が最後に語られました。

 昨夜のブログに書きましたが新版『夜と霧』の池田香代子さんの「私はこう読んだ」という言葉に感銘し個人的に態度価値については考えさせられるところが多い概念です。あくまでも個人として・・・・夏目漱石が自己本位で苦悩から脱却できたと語っていましたが、・・・・その意味では自己本位のフランクルの教えを受けて別の意味理解を受けて私にとっての態度価値観を持たせてくれました。

 まえがきが長くなりそうなのでここまでとし、今月の初めごろに「震災遺産」について書きました。その中で3.11東日本大震災で最愛なる子供さんを失くされた方の、小学校の「震災遺産」と残すべきか否か、遺産ではなく最近では「震災遺構」と言うのだそうですが、その残したいという親御さんの「親の思い(情意)」について言及しました。

「親は子の苦痛が消え去ることを望まない」

という言葉を書きました。書いてしまってから言葉の足りなさを痛感するのですが、実際に子供さんを失くされたご両親は子どもさんの死んだことを忘れないし、苦痛の中で死んで行ったことをも決して忘れられるものでもなく、それはある意味「消え去ることを望まない」という裏返しの心があるように思います。

 そのような心情の中で今でも後追い自殺をしたいほどに精神的な苦痛になられている方も多いのではないかと思います。まさに人生の悲哀を考えずにはいられません。「悲哀」と書くと「悲しく哀れなこと」と「哀れ」が今日的な「みじめさ」に誤解されると困るのですが、「人生や人の世に対して感じる儚さや無常観」と言った意味のものです。

 人の世とはどうしてそうなのだろうか。こんな人生に何の意味があるのか、ただ苦しいだけではないか。しかし、フランクルは、「人生には無条件に意味がある」と言います。

 第三回のこの番組では講師の諸富祥彦さんは、創造価値、体験価値そしてが「どんな時にあっても人生には意味があると言える最終的な根拠」という態度価値について語られます。

この番組については私は昨年、第三回目だけでも、

フランクルの『夜と霧』第三回目を見て(1)フッと花ひらく[2012年08月16日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/0b29b5334763d84a58d04562d853232e


フランクルの『夜と霧』第三回目を見て(2)体験価値と現存在[2012年08月17日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/62d360e654c7079d630e7dc7269ae196

フランクルの『夜と霧』第三回目を見て(2-2)体験価値「美しいという体験」[2012年08月19日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/bf355557f8e7d7e2ae306b27cae4417f


『夜と霧』第三回目を見て(3)創造価値・代理不可能な存在[2012年08月18日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/56c9a75d967999e887de1c154e762607


フランクルの『夜と霧』第三回目を見て(4)態度価値・運命愛[2012年08月20日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/93d5d13a7b7beade9341ec1279f2534b

と今から思うとよく書いたものだと思うほど書きました。番組を見て感じるままに書いているだけですが、その中で体験価値で語られた中でいまだに私自身が考え続けている話があります。それが今回話されている「最愛なるものの死」に関係するもので、番組では、収容所の早朝、極寒の中での作業場へ向かうある男性とフランクルとの会話の中で語られるものです。

 この会話については、旧版『夜と霧』(霜山徳爾訳・みすず書房p122)に記載されている話で、テキストではp64-p68に解説も含め詳細に書かれています。

「なあ君、もしわれわれの女房が、今われわれの姿を見ていたとしたら! 多分彼女の収容所はもっといいだろう。彼女が今われわれの状態を少しも知らないといいんだが。」とそれに続くフランクルの9ヶ月の短い夫婦生活の思い出しかなかった妻との思い出からの態度価値についての説明です。『夜と霧』を読まれた多くの女性が一番感動する部分ですが、取り上げる問題はこの話に続く部分で、フランクルの言葉の紹介の後諸富先生の次の話しからです。

【諸富祥彦】 心から愛した思い出があれば、それが単なる思い出であっても人の人生を一生支え続ける力を持っている、ということだと思います。

【伊藤敏恵アナ】 軽々しくは言えないことかもしれませんが、今回の東日本大震災で多くの方が大切な人や家族を失った、そうした人たちにも過去に愛した記憶がきっと支えになるよというメッセージかも知れないですね。

【諸富祥彦】 過去にご家族と触れ合ったその体験は、永遠に現にそこにあり続けるんだと、フランクルの診療のエピソードの中にこんな話があるんです。御高齢の夫妻だったのですけれども、奥様が亡くなってしまった。奥様がなくなった後に日本でも残された男性がうつ病で苦しむ方が多いんですね。やはり打ちひしがれたこの方がフランクルのところに相談に来て「愛し合った妻もいない。こんな只々時間がもうカラカラと過ぎて行くだけ。こんな私の人生にこれ以上生き続けて意味があるんでしょうか」と、フランクルはこう問うたのです。「もしあなたが先に死んで奥様が残されていたらどうだったでしょうね?」と、「おそらく妻もわたしを失ったことに同じように苦しんでいるとおもいます。」とその方が言ったんですね。するとフランクルは「そこにあなたの生きている意味があるんです」と、つまり「あなたが今辛い体験をしているためにですね、奥様が辛い体験をせずに済んだんだ」と、「そこにあなたの生きる意味がある」というふうに言ったんですね。

【伊集院光】 例えば、後追い自殺しちゃおうかと思っても、この自分の命があることを一番喜んでいてくれていた人が、その愛してくれた人だったからなんだと考えると、頑張るという・・・・うぅ~ん。我々はこの境地になれますかね、どうですかね。信じたいのは、それは今空気があると、思わないといっしょだから、究極の苦しさの時に発見できるけれど、今持ってんもんだったらいいなぁ~と今ちょっと・・・・(思っています)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上のように諸富先生のフランクルの診療時のエピソードから始まる話です。ここで諸富先生はフランクルの言葉「もしあなたが先に死んで奥様が残されていたらどうだったでしょうね?」と、妻を亡くして苦悩する男性に問い、その男性は、「おそらく妻もわたしを失ったことに同じように苦しんでいると思います。」と答えます。するとフランクルは「そこにあなたの生きている意味があるんです」と答えたという話です。そこで諸富先生は、

>つまり「あなたが今辛い体験をしているためにですね、奥様が辛い体験をせずに済んだんだ」

と言う解説をしています。「あなたが今辛い体験をしている」ことによって「奥様が辛い体験をせずに済んだんだ」という語りに観点の転回があるのでしょうが、どうも私は理解が浅くなぜかこの点に違和感を感じるのです。今現在の事実は、最愛なる妻はこの世にいません。それを居るものとして想いを創るのか。

 そんなに難しい話ではないのですが、どうしても「奥様が辛い体験をせずに済んだんだ」というところがよく分からないのです。妻は既に亡くなっているのですからつらい経験とは無関係ですから、このような観点の転回でいいのか、「つらい経験」にはさらなる根源的な意味があるのではないかと思うのです。

 番組では、諸富先生の上記の話に伊集院さんが「自分の命があることを一番喜んでいてくれていた人」と言います。「自分を一番愛してくれていた人」と言っていいと思いますが、その妻がもういないその立場が変わって自分が死に、その一番愛してくれた人が苦悩することを思う。そこにあるのは「互いが愛する者同士」という関係にともなう「相手を忘れることのない永遠の愛」です。

 今現在亡くなってしまって現実には存在しない人、その魂は個人の心の内に存在し「私の苦しみは永遠の愛が消え去ることを望まない」という心の現れであると思うのです。

 これはあくまでも私個人の自己本位の理解ですが、実際フランクルはどう話しているのか、諸富先生の話を信用し出来ないという話ではありませんが、その実際のフランクルの語りを紹介したいと思います。この話は『夜と霧』ではなく『苦悩する人間』の中で語られています。

<『苦悩する人間』「第二章意味否定から意味理解へ」から>

 このことは、一つの具体的な症例によって説明できるでしょう。ある日のこと、一人の年配の紳士が来訪します。職業は開業医です。彼は、重い抑鬱状態にかかっています。その抑鬱状態は、内因性ではなく、外因性、心因性、反応性であることがただちに判明します。その男性の抑鬱は、妻の死に始まります。彼は妻と共にこの上なく幸せな結婚生活を送ってきたのです。ところが今や、彼には人生がまったく無意味に思われるのです。彼自身、自分の状態が病的なものではないことに気づいています。私もそれが正しいと認めざるをえません。確かに、彼の悲歎は異常に長く続いていますが、それだけ彼の結婚生活は「異常に」幸せだったのです。したがって、彼の悲歎は、その長引く経過にもかかわらず、適切な情動なのです。

 さて、この患者(「病人」と言うのは言い過ぎでしょう)は、自分がどうしたらよいのかを知りたがっています。ただし、はじめに彼はこう断っています。「薬は要りません。薬ならお手をわずらわせるまでもありません。自分で処方できますので」。薬物療法を受けることを彼が断ったのはもっともです。つまり、それは、目をつぶることになりましょうから。「それでは何にもならないのです。私の人生が無意味になったことを意識しないようにしても、私の人生が有意味になることはないでしょうから」。

 まず、彼が体験したこと、つまり幸せな結婚生活は、何であれ誰であれ、それを彼から奪うことができないことに患者に気づいてもらわなければなりません。たとえ、結婚生活が、彼の人生を有意味にした唯一のものであったとしても、その幸福だけでも彼の人生は有意味だったし、有意味であり続けるでしょう。言い換えれば、私が他のところで繰り返し説明してきた次のことを彼にわかってもらわねばなりません。つまり、過去の刈田だけを見て、過去の満杯の穀物倉を見ないのは間違っている、ということです。〔時間について〕あたかも一種の侵食作用だけが有効であるかのように「侵食する時間の歯」とだけ言うのは間違っています。むしろ私たちは実際には、もう一度地理学の用語を借りるなら、絶えざる沖積層の中に住んでいるのです。過去となって失われ取り返しがつかなくなるようなものは何もありません。すべてのものは過去存在のうちに蔵されていて消し去ることができないのです。時間は流れ去ります。しかし、出来事は凝固して歴史になります。エルヴィン・シュトラウスが「歴史とは過ぎ去ったもの」と呼んでいるのは、「過ぎ去ったものが現実となったものとして消滅に逆らう」限りにおいてのことです。そうだとすれば、このことは先の患者にもあてはまります。彼の人生の意味は消滅に逆らうのです。それは彼の妻への愛が妻の死に逆らうのとちょうど同じなのです。

 けれども、彼が私の助言を求めていた本来の問題は、別のことにあります。彼が苦悩しているのは、彼自身が表現したように、彼のその苦悩によって「誰の役にも立たない」ということなのです。もしその人のために苦悩することができるような、そういう人がいるとするなら、もし自分の苦悩を犠牲として捧げることができる誰かがいるなら、彼はどんなに喜んで苦悩することでしょう。
 
 一つの単純な考え方をすることによって、彼の苦悩にもそのような意味がないわけではないことに彼は気づきます。その意味を明示するには、ただ、仮に彼が妻よりも先に死に、妻の方が長生きしていたらどうなっていたかを考えてもらいさえすればよいのです。妻が彼の死を悲しまなければならないという逆の場合の方が彼にとってよかったのだろうか、ということを考えてもらうのです。そうすれば、妻が苦しまず悲しまずにすんだこと、ただその代わりに自分自身が悲しみ苦しむことで代償を支払わなければならないことがすぐに彼にわかります。

 その瞬間、彼の人生、彼の苦悩は、突如として意味を取りもどしました。「意味を授け」られたのです。悲しみは誰かに「代わって」の犠牲となり、その誰か「のための」犠牲となったのです。
 それは、数分の対話のことでした。その数分の間に、患者によってコペルニクス的転回が成し遂げられたのです。彼の苦悩がすっかりなくなったわけではありません。しかし、少なくとも苦悩の無意味さが解消されえたのなら、それはつまらないことでしょうか。

<以上同書p138-p140> 

 諸富先生の「奥様が辛い体験をせずに済んだんだ」はフランクルの上記の言葉から間違いなく解説されているもので、確かにフランクルは「代わって」の犠牲という意味で「妻が苦しまず悲しまずにすんだこと、ただその代わりに自分自身が悲しみ苦しむことで代償を支払わなければならないことがすぐに彼にわかります。」と説いています。

 この点について哲学者でフランクル研究家の山田邦男先生は以前にもブログに書きましたが「死者に対しての心づくし」としての苦悩する西田幾多郎先生の言葉から解説しています。ここに山田先生の「私はこう読んだ」があるのだと思うのです。

 西田先生の言葉は「震災遺産に思うこと」ブログの中で引用した言葉でダブりますが紹介します。その話は山田先生の最新の著書『フランクルとの<対話>』(春秋社・2013.1.25)に掲載されています。西田先生が最愛なるお子さんを失くされた時の話です。

<山田邦男著『フランクルとの<対話>』(春秋社)から>

 西田が40歳ぐらいの頃、まだ三、四歳だった愛娘が突然亡くなります。そのときの悲痛な気持ちが記されていますので、少し長くなりますが、まずそれを引用させていただきます。

 亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、ただわけもなく可愛いのである、甘いものは甘い、辛いものは辛いというの外にない。(中略)飢渇は人間の自然であっても、飢渇は飢渇である。人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親にとっては堪え難き苦痛である。時は凡ての傷を癒やすというのは自然の恵みであって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。(中略)折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉(いしゃ)である、死者に対しての心づくしである。この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。(『思索と体験』岩波文庫、p229-p230)

 この西田の文章には、愛する我が子を亡くした深い悲しみが切々と記されています。その悲しみを見て、知人たちは、恐らく励ましや慰めの気持ちからでしょうが、「諦めよ、忘れよ」と言う。しかし、そうすることは親にとっては「堪え難き苦痛」なのです。確かに、愛する人の死を思い出すのは苦しい。しかし親はその苦しみが消えてゆくのを望まないのです。せめて自分が生きている間だけでも、所に触れて思い出してやりたい。それが人間としての自然の情であり、親の誠・真心であり、死者に対する「心づくし」である。

この悲しみは、確かに苦痛ではあるが、しかし親はこの苦痛が消え去ることを望まないのである、というのですね。・・・・略・・・・それは、たとえば仏教のような立場から見れば、執着であり煩悩であるわけですから、それを断ち切る、思い切るということも大切かもしれませんが、しかし仏教は他方で「煩悩即菩提」とも言うわけですね。この煩悩即菩提というのは難しい言葉ですが、煩悩の底を突き抜けると、そこに、煩悩がそのまま菩提である、苦しみであるという地平が開かれてということではないかと思います。

<以上上記書p176-p178>


ここで語られている西田先生の「死者に対しての心づくしである。」がとても印象的です。死者をいつまでも弔うことができることが「苦悩する意味」重要性を示し、最愛なる子が自分に懐にいつまでも抱ける喜びでもあるように思うのです。

 「弔うことの死者に対する心づくし」(※表現が難しいのですが)

 これが最愛なるもの死に苦悩する自分の態度価値の現れ意味するところであると思うのです。

>「あなたが今辛い体験をしているためにですね、奥様が辛い体験をせずに済んだんだ」

>妻が苦しまず悲しまずにすんだこと、ただその代わりに自分自身が悲しみ苦しむことで・・・

が誤りであるという話ではありません。「私はこう理解したい」という話です。

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ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』を「私はこう理解したい」

2013年03月20日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 今月のEテレ100分de名著がV・E・フランクルの『夜と霧』の昨年8月に放送された番組の再放送であることを以前にも書きました。そのような求めの流れがあるのでしょうか、3月18日に青土社から『imago現代思2013年4月臨時増刊号総特集 ヴィクトール・E・フランクル』が出版されました。

 フランクル著の「実存分析と時代の問題」「意味喪失の時代における教育の使命」「山の体験と意味の経験」の訳文、池田香代子×姜尚中の「フランクルから現代を問い直す」と題した対談他多くの方々がフランクルを語っています(詳細は青土社のサイトで)。

 「語っています」と書きましたが昨日から販売されたばかりで今日丸善松本店で購入しました。新版『夜と霧』の訳者池田香代子×『続・悩む力』の著者姜尚中の対談がとういうわけか気になったのでまず読んでみました。

 池田さんが対談中に語っていることで、『夜と霧』を多くの方々が3.11東日本大震災後読まれる方が多く、たくさんの講演会依頼があるそうです。しかし池田さんはそれを断っているとのこと、その理由と言っていいのか次のように話しています。

【池田】 「けっきょく、この本(『夜と霧』)は、私はこう読んだ、としか言えないのではないでしょうか。ここから万人向けの人生処方箋を説くのはちょっと、と思います。」

 この話を二回程され最後に姜さんが「そうだと思います。」と語り「だから逆に、フランクルはフロイトのように広がらなかったと思います。でも個人の読み方で学問的価値も含めてフランクルのほうがはるかに読み継がれていくのではないではないかと思うのです。」と答えています。そして対談の最後に姜さんは、「僕個人にとってはフランクルはある種のバイブルだという意味があります。」とも話され姜さんにとってのフランクからの一番のキーワードだったのは“「態度価値」と思う”と話されていました。

 私は個人的に興味をもちフランクルが語るところを学んでいますが、特に「現存在の意味の実現するのは --- 私たちが自らの現存在を意味で満たすのは --- 常に私たちが諸々の価値を実現することによってです。そのような価値実現は三つの方法で可能になります。」で語りはじめる創造価値、体験価値そしてこの二つの価値の実現から撤退しても、この価値の可能性が制約されても本人が正しい態度を取るならばその時こそ「態度価値」という価値を実現する機会が与えられているというこの「態度価値」に大変感銘しました。

 私自身の過去を振り返ると姜さんほど悩み多い人生を歩んできたわけでもなく、今現在実存的空虚感にあるわけでもありません。そして今後もおそらくならないのではないかと思うのです。だからといって知る必要はないという気持ちにはなれないのです。全く気持ち的には全く逆に「態度価値」の重要性を更に知っていることが人生に厚みを与えてくれるように思います。

 今夜再放送のV・E・フランクルの『夜と霧』の第三回「運命と向き合って生きる」でこの三つの価値が解説されます。池田さんの「私はこう読んだ」が非常によくわかります。

 私自身は「こう読んで、こう理解している」という面があります。夏目漱石の言うところ自己本位なのでしょうか、「私はこう理解したい」とも言えるのですがそれが私の厚みになるのです。

 この話に直接かかわるかどうかわかりませんが、以前別視点から引用しましたが、フランクル自身『宿命を超えて、自己を超えて』(春秋社))の中で、

 ・・・略・・・私は、フロイトが生きていたなら、かれは現在では別の考え方をするだろうと確信しています。本来の創始者よりも、追従者のほうがずっと正統主義的であり、教条主義的であるものです。そしてこのことから、私はある教訓を学びました。私は、ロゴセラピー研究所の創設と、カリフォルニア州パークレイの「フランクル記念図書館」 --- これは記録センターのようなものですが --- の開設の機会に言いました。「みなさん、ロゴセラピーは、まだけっして完成されてはいません。私が試みたのは礎石を敷くことです。みなさんがロゴセラピーという建物をはじめて建設するのです」と。その後、一冊の本が出ました。『ロゴセラピーの現状』という題の本です。三十名の執筆者がその中で自分の主張を述べています。かれらの多くは、アメリカで活動しており、さまざまな分野でロゴセラピーの応用を専門としています。その本の前書きで私ははっきりとこう言っておきました。それぞれの執筆者が別々のことを、ある意味では私がまったく賛成しかねるようなことをも言っているが、かれらには、その権利があり、完全な自由がある、ロゴセラピーには正統というものはないのだから、と。(上記書p64から)

と語っています。素人の立場で考え、思い、くり返しになるのですが、『夜と霧』は「私はこう読んだ」という自分自身の読後感をもたせてくれるのではないかと思うのです。

 どんな本にも読後感はあるのですが、自分の糧としての「私はこう理解したい」があるように思うのです。

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最後の二年間

2013年03月18日 | 思考探究

 本格的な冬が終わり時は確かに春の到来を告げています。常念岳の降雪も終わりよく見ると稲作の時期を告げる雪形「常念坊」が薄らと見えるような気がします。

 庭先の福寿草が待っていたかのように咲きました。

 松尾寺の水車小屋の福寿草も咲き始めました。まだ残雪が残っていますが午前中に来れば太陽の光でもう少し色鮮やかに見えるのですが訪れたのが午後ですので少々残念です。

 さて今週は職場が変わり最後の2年間を勤めることになります。これまでの仕事内容とは全く異なりますが経験済みのことですので基本を思い出しながら一日一日全力を注ぎたいと思います。

 楽しみは多くの人々と接し、多くの人々に語ることができることでそういう機会を与えてくれた人生に感謝です。

 最大の問題点はお酒を飲む機会がある、ということです。酒に弱いというよりもアルコール・アレルギーの私にとっては、好意的に注がれる酒に断りの言葉を言わないと命取りにもなりかねないので、・・・・世の中で一番嫌いなのがお酒なんです。

 若い頃は異常な心拍数を感じ真っ赤になり苦しみながら気合で飲んでいましたが、もうだめですね。1年間に新年会等で3回ほどその機会がありコップにビール3倍程度が今の体調ですから無理はできません。

 「みわ」というやまと言葉があって「三輪」「神」「美和」等の漢字で表記されますが、元々は「カミ」概念と直結する言葉です。奈良県には三輪山があり、「みわ」という名称の日本酒もあると聞いたことがあります。

 「みわ」という読み方の氏は神職に関係する人々であったことを古代の氏族研究の中で知りましたが、武田信玄に攻められた諏訪氏は「神氏」で、もともと諏訪地方にいた国津系の人々でした。諏訪市周辺の神社には国津神の祭神が多かったことを思い出します。

 まだ終わりではないのですが、30年間ほどの努めは長いがまた短い。光陰矢の如くと言いますがまさにその通りです。時間的な余裕は今までとは異なりないように思います。したがって思考の世界のブログアップも少なくなると思います。

 体力増進、健康に留意しながら勤め上げたいと思います。

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