思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

一極・一元の継承

2007年01月28日 | 古代精神史

 「罪」という言葉を聞くと犯罪と言う言葉がすぐに想起する。現代社会においては、犯罪は法律に違反する行為が身近な罪となる。しかし「あなたは罪深い人だなあ」と言われるとその言葉が発せられたその場、受ける者、相互の人間関係など場の状況、シチュエーションにより「罪」の意味が異なってくる。

 神に対する罪もあれば、男女間の情愛の罪もある。許される罪から取り返しのつかないものまである。
 罪という言葉の感覚的な意味合いを考えると世間とのかかわり方、世間という社会生活での対人関係における阻害行為、すべき慣習における遅滞、不作為も「罪」に含まれてくるような気がする。

 「罪」という言葉の意味を思考すると「一線を隔する」「境界」そして「内と外」「主客」という概念が探求の課題として浮かんでくる。

 今朝のNHK教育のこころの時代「われとして生きる 歴史学者 阿部謹也」をみて私自身の思考課題でもある「罪概念」を改めて考えさせられた。
 阿部先生のキリスト教学における「告解」という行為が西洋の「個人」を見つめる原点である旨の話と、また「世間」との係わりの話に日本の古代精神史における「罪」概念との対比を考えてみたくなった。

 私自身は「罪(つみ)」という記紀神話の時代からある「やまと言葉」を「自然(じねん)を阻害する行為」という意味に解している。
 大祓詞(おおはらえのことば)に綴られている天津罪・国津罪の罪種は神話作成後のものである。
 
 それよりも時代を遡る「つみ」という言葉の「つ」「み」の組み合わせで表現する時代においては、この言葉を発生するに相応しい事態は、大祓詞におけるような「固定的」な概念はなかったと考える。

 記紀以前の時代においては、「つ」「み」の単音の組み合わせ・タ行、ミ行の組み合わせ表現の中に「阻害、壁、分離」などの意味があったと思う。
 「堤(つつみ)」「包む」「津(つ)」「慎む・謹む」などの「やまと言葉」には一定の内と外の分離がある。

 古代人は、全体的な、自然(じねん)的な、大いなる存在の推移の中に分離をもたせる。いわゆる不自然な状態が生じることを「つ」「み」の組み合わせで表現したものと思う。
 これは古代における分離の音であるが、それならば古代人は、あるべき姿、あるべき状態、自然の有りようといった状況をどのように捉えていたかということを考えたくなる。

 古代人の深層心理には、あるべき姿、あるべき状態、自然の有りようを捉える時にその全体性の中に阻害や分離の概念が包み込まれて一体と把握される思考形態ではなかったかと思う。
 それを解明するヒントが、その後に成立していく神道の神概念にあると考えている。

 そこで日本の神はどういうものかということだが、神道においては神は、御魂という言葉で表わされる。そしてこの御魂は「和御魂(にぎみたま)」と「荒御魂(あらみたま)」の総体で表現される。
 和御魂という、平和と繁栄の御魂と荒御魂という荒ぶる戦勝の御魂の総体である。

 先ほど自然の推移の阻害、分離等の二極(二元)的な表現をしたが、御魂にもその姿がみられる。そしてこの御魂の概念も二極的なものに表わしたが、ここで注意をしなければならない点は、二極は存在の中にあるが「純粋経験」においては一体の存在そのものであるということである。

 存在そのものとは、一極・一元であると言うことである。西洋的な「善悪」「神とサターン」などの分節にない。
 あるがままは、一体の「純粋経験」であり西洋的な二極・二元の概念は成立しない。絶対無の状態で、あるがままなのである。

 以上のことから日本古代精神史の中では、一極・一元的な概念思考が専攻すると考えている。そしてこの一極・一元的な態度は、歴史的身体として継承されていると思う。

 「世間体」という中に阿部先生は、日本の問題点を探そうとしたらしいが、その後の儒教的な思想の流入は、「世間体」という概念を強く日本の社会生活に浸透させ、その後の個人主義がその「世間体」の中にあった「差別意識」に別な要素をもたせ今日に至るのである。この点については別の機会に言及したい。
 
 クイックをお願いします。 

画像は、安曇野の早春譜碑から北アルプスの冬景色です。


青空に舞う白鳥

2007年01月21日 | 哲学

 午前9時30分頃に、安曇野市の旧明科町にある白鳥飛来地である御宝田に立ち寄る。 
 熱狂的な白鳥ファンでもなく、写真家でもないが穂高の宮城に帰るときには最近立ち寄りの衝動に駆られる。

 今日は、50人くらいの人たちが訪れ、車のナンバーを見ると他県の人がかなりいるようである。池を見ると白鳥が100羽程おり、5分おきに10羽程の集団で餌を求めて直線で2キロほど離れた、旧穂高町の田んぼ池に飛び立ってゆく。

 白鳥は、飛び立つ前に羽を大きく広げる行動をする。順番にこの動作を行い、そして一斉に水面を走りながら、羽で水面をはたきながら羽ばたき大空に舞い上がる。200メートル程離れていてもかなり大きな音がする。写真家はこの瞬間を待っている。

 一斉にシャッター音が響かせる。北アルプス常念岳をバックにお好みの白鳥の写真は撮れただろうか。

 白鳥の羽ばたき、青空に舞う白鳥の姿。この刹那なるその瞬間を観ると、一刹那前の瞬間、一刹那後の瞬間。その前後の特定一羽の白鳥は、一刹那前後の個体は白鳥という個体としては絶対的に同一なるもので、無矛盾である。しかし現実的には、生態学的に時の経過とともに同一である訳ではない。
 
 一刹那前の白鳥と一刹那後の白鳥では物理学的にも質量変化を生じ、そこには矛盾する同一なる個体がある。
 白鳥の飛ぶ姿の中に見入る私が居るのだが、見入る自己もまた然りではないか。

 青い空と白い常念岳。鳥の鳴き声と肌をさす寒さ。

 事実が絶対現在の瞬間的自己限定と考えられるが故に、それは自己自身を限定する事実として、絶対の権威を有するのである。而して絶対現在の自己限定として、自己自身を形成する世界は、自己の中に自己の映像を有つ。それは要するに自覚的と云うことである。かかる形式において、世界は自己自身に同一でなければならない。然らざれば、それは自己自身によってある一つの世界とは考えられない。矛盾律とは、かかる形式を言い表したものである。絶対現在の自己限定の世界は、自己自身の中に自己の映像を有つ。自己自身のなかに自己の映像を有つ世界は、絶対現在の自己限定の世界である。かくして充足律と矛盾律とは、矛盾的自己同一の原理の両面である。矛盾的自己同一の原理において、個性的概念と同一的概念とが結合する、事実真理と永久真理とが結合する。両者は相補的でなければならない。事実真理の一面に永久真理があり、永久真理の一面に事実真理がある。事実を離れた永久真理はなく、真理を離れた事実はない(事と理との矛盾的自己同一的に理事無礙、更に事事無礙)「西田幾多郎全集第10巻 哲学論文集第5一知識の客観性についてP413・414から」。

 何処までも与えられたものは作られたものとして、弁証法的に与えられたものとして、自己否定的に作られたものから作られるものへと動いて行く世界でなければならない「西田幾多郎全集第3巻 哲学論文集第3三絶対矛盾的自己同一P148から」。

 「自己が自己において自己を見る。」という課題の思考において、今日は一刹那前後の自己には、自己の止揚という動きがあるように思えた。
 自己満足的ブログですが クイックをお願いします。


無常で無我であること

2007年01月20日 | 仏教
 「観察者、観照者、存在者、己を見つめる目の主体と言おうか、渾沌とした身体内に在(あ)ろうかと思われるもの。」を「自己と他(佗)己」の問題提起以後、思考のひとつの課題となっている。
 
 そんな折りに「諸法無我」という言葉を他のブログで目にするとその共時性に感動する。
 哲学的な存在論、認識論は西田幾多郎先生に(書籍のみであるが)素人であるが甚く感動し同先生の考察を中心に思考を進めている。

 仏教学の分野で好きな研究家に鎌田茂雄先生がおられるが、鎌田先生の思考の経路の出発点は、「禅とはなにか(講談社学術文庫)」で明らかなように西田先生である。
 西田哲学の中で特に「場所の論理」は脳裏から離れなず思考の渦に引き込まれる。「繋辞の論理」の展開は、論理的なものから混沌の世界に落ちていくように観ずる。

 西田哲学を「ぺルニックス的な思惟的方法の転換を敢えて成就するに至らしめたもの」と言及する学者に柳田謙十郎という方がおられた。左翼社会では著名な方だが戦前までの思考の世界は

 自己から世界を見るのでなしに創造的(行為的直観的)におのれ自身を限定する歴史的世界の底から自己と行為とを見る(下書P2から)。

であった。
 この柳田先生の古い著書に「行為的世界 弘文堂書房 昭15」がある。その著書の「行為的主体」という章に

 我々が客観的自然認識の範疇の下に捉えるところのものは、その内容が物理的なものであると生命的なものであるとを問わず、行為する我々の自己の主体性の契機を含まず、どこまでも自己をば第三者的観察者として、これに対立するところの客観的存在として把握されるところに存する(同書P121)。

という言葉がある。柳田先生の思想的な発展(打ち切りかもしれない)段階の一主張ではあるが、甚く感動する。
 
 哲学的な思考は「存在」に向う。ウパニシャッド哲学もブラフマンを知り、アートマン(我)を知りその一体なる梵我一如に向かい唯一なるものの「存在」がある。反面仏教はこのような形而上学を避け、実体(存在)を避ける。

 しかしその実体という「存在」の問題は、凡夫の思考の世界から払拭することはできない。そこで仏教は実体、存在者はそのままにし現実に「ある」ことの成り立ちに思考を進めた。
  
 仏教はすべての存在の決定性・所与性を見ようとするのでも、不確定性・偶然性を見ようとするのでもなく、因果性・論理性を見出そうとするのである。それを仏教では縁起という術語で語る。縁起とは「(原因に)縁って(結果が)起ること」という意味である。すべては「縁起」されている。すなわち「さまざまな原因からさまざまな結果が起る」というあり方においてある。したがっていかなるものも、それ自体で自足的に存在し得るものはなく、すべて無常であり無我であるのである「講座 仏教思想第一巻理想社 原始仏教・アビダルマにおける存在の問題 桜部建P21から」。

 しかし、無我であると知ったところで、観念的世界で留まるを得ない。このような仏知を得るには、瑜伽行の禅定の裏づけがないと当然だめなことはお釈迦様の歩みをみれば知ることができる。
                

こころの時代(打たれた傷によって)

2007年01月14日 | こころの時代

 午後2時からNHK教育こころの時代で、昨年10月に放送された安城教会牧師・武岡洋治さんとの「打たれた傷によって」という番組が再放送された。
 当ブログにおいても昨年放送後に、感想を掲載したが改めて再放送を聴取し感動を新たにしたので再度掲載することにしました。
 
 コリントの信徒への手紙1第2章第2節でパウロは、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた。」という言葉を残しているが、武岡牧師の話を聞くと、このパウロの言葉の意味が私を直観の世界に導いてくれたような気がした。
  
 聖書の厚みは、この一点、「イエス・キリストの十字架」要約されるような気がする。聖書の作者は、イエスの悲惨な処刑の描写をしているのではない。
 「黙想十字架の七つの言葉 加藤常昭著 教文館」で著者の加藤さんは、
 
  聖書は主イエスの十字架を絵として描いていない。しかし、使徒パウロは自分たちが説教として語る福音が、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示す」ことであると言い切っている。

と、同書序文に書いている。 
 いわれなき生命、財産の被害、己が身に招きの原因がない被害、自然災害もあるが、人の手による不正な生命、財産への侵害など、避けて通れぬのが世の常である。

 武岡牧師は、名古屋大学の植物学の教授であった1992年8月に干ばつで喘ぐスーダンへ調査団の一員として訪れた。しかし、出国前のマラリア対策のための投薬とその後の投薬によりスティーブンスン・ジョンソン症候群という病気に患り死の境をさ迷い、結果的には失明に近い状態になってしまった。 

 武岡牧師は、若いうちから洗礼を受けていた身で、失意の中にあっても聖書の導きであろうか、その苦の中で出会う人々、出来事に常にイエスの姿を観じていた。
 1995年にスーダンを再訪し、エルヌール盲学校を訪ねる。内戦と干ばつ、貧困の中で栄養失調から子ども達に失明するものが多い。

 この事実と武岡牧師の薬害、どちらも本人が招いたことではない。そういうことに遭遇する運命の中で聖書は、自分にとってどう係わりを持つのか。
 その問いの中で2000年3月に退官後、答えを求め同志社大学で神学を学ぶ。 

 「真実の和解」について武岡牧師は、爆弾による4人の黒人少女の死、その葬儀の際のキング牧師の「自ら招いたものでない死は、人を救う力がある。だから報復してはならない」という言葉、そしてナチスドイツ時代に迫害された牧師デートリッヒ・ボンヘッファーの「この人を見よ」という言葉を紹介しながら語り続ける。 

 世の中の力は、この人(イエス)を襲い、イエス・キリストの十字架の事実になる。 
 いわれなき苦難に遭う者、災難を受ける者には一つの使命がある。完全なる和解の力。完全な愛、それを「真実の和解」と武岡牧師は語る。 
 イエスの死、贖罪は、身代金を支払ってその人に自由を与えること。 

 旧約聖書イザヤ書第53章第5節
 
 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、 
 われわれの不義のために砕かれたのだ。 
 彼はみずから懲らしめをうけて、 
 われわれに平安を与え、 
 その打たれた傷によって、
 われわれはいやされたのだ。

を、武岡牧師は読まれた。

 午後3時過ぎに裏山の城山公園にジョギングで行く。展望台から北アルプスを見ると常念岳の南斜面の雲が強風で舞い上がっているのが見える。
 青空にくっきる映しだされる北アルプスと安曇野平らの残雪の白。いいですね。
         


グレープフルーツ

2007年01月13日 | 風景
 自由訳「イマジン」という新井満さんの書籍(朝日新聞社)のあとがきに、次のように新井さんは語っている。 

 1964年、オノさんは作品集『グレープフルーツ』を発表した。各詩篇には「飛びなさい」「水をやりなさい」「笑いつづけなさい」といった指示語が登場する。
 例えば、「想像してみなさい。千個もの太陽がいっぺんに輝いているところを・・・・」(筆者訳) あるいは反撥して違う行動を起すかもしれない。作為、不作為を問わず、そこには必ず読者の参加が生まれる。アーティストの指示と読者の参加、その全体がひとつのアート作品なのだという発想がある。 

 ジョン・レノンは同書の発想にいたく感動し、創作の上でも大きな影響を受けながら「イマジン」を作詞したのだという。彼は死の二日前、インタビューにこたえてこんな言葉を残している。「あの歌は実際にはレノン/オノの作品とすべきでさ、多くの部分が----ヨーコの方から出ているんだけど、あの頃のぼくはまだちょっと身勝手で、男性上位で、彼女に負っているという点をオミットしちまったんだな。でも本当にあれは彼女の『グレープフルーツ』という本から出ているんで、あれを想像せよ、これを想像せよというのは全部彼女の作であることをここにまことに遅ればせながら公表します。」(『ジョン・レノン ラスト・インタビュー』ジョン・レノン/オノ・ヨーコ著、聞き手・アンディー・ビーブルズ、訳・池澤夏樹、中央公論新社)

 「イマジン」という紅白でも歌われたジョン・レノンの名曲。この「イマジン」という言葉に惹かれた私は、その発想の原点であるオノ・ヨーコの『グレープフルーツ』という本を一度読みたいものだと思っていた。 

 この『グレーップフルーツ』というオノ・ヨーコの本は、1964年に限定版でわずか500部でに東京で出版され、その後1970年に加筆された英語版が出版された。初版から30年の時を経た1973年に、日本の代表的な写真家たちの協力を得て『グレーップフルーツ・ジュース』(講談社 訳南風椎)という題名で出版されている。 

  「機が熟す」とでもいうのか、こころの内に出会いを求める気持ちがあると「そうなる」もので最近立ち寄った古書店で1973年度版を入手した。 
 この本を手にし読み始めると「イマジン」という言葉の意味探求は何処へやら。次の四行の短い詩に驚いた。 

   思い出を脳の片半分に入れなさい。 
   そこに閉じこめ、忘れなさい。 
   脳のもう片半分に 
   それを探させなさい。

 この詩の意味というよりもこの発想である。私にはこのような文章を、突然脳裏に思い浮かばせる能力は持ち合わせていない。 
 発想する主体。私は何処にその場があるのか。そのようなことよりも視点、志向の動きに驚かされる。
               

哲学的ゾンビ

2007年01月08日 | 哲学

 「哲学的ゾンビ」という言葉がある。どのような意味があるのか、脳科学、認知科学を専攻されされ東京工業大学大学院客員教授の茂木健一郎さんの著書(NHKブック 脳内現象)に以下のよう書かれている。

 心脳問題の議論において、外見は私たち人間と区別がつかないが、一切の意識を持たないような仮想的存在を考えることが在る。そのような存在は、まるで人間のように喜び、悲しみ、ことばを話すように見える。表情も身振りにも、会話も、客観的に観察される振る舞いは人間そのものだ。ただこの存在は、一切、意識や主観的体験というものを持たないのである。そのような存在を、哲学的ゾンビと言う(P53から)。

 キョンシーよりは、人間に近い存在のようなイメージを描けばよいのか、生物で、死者ではなく生きている人間モドキで、攻撃性の無いものであろう。
 「哲学的」とはどういうことか、「哲学」ということばの意味について辞典を引いてみる。

 「哲学」という言葉 「哲学」という言葉は、明治のはじめに、西周によって、西欧のフィロソフィの訳語として作られ、以来、一般に用いられるに至った。西欧のフィロソフィは、ギリシャのフィロソフィアに由来し、「知恵」を「愛する」という意である。そこで西周は、賢哲(明智)を愛し希求するという意味で、「希哲学」と訳し、のちに「哲学」と定めた。

と書かれている(講談社現代新書 現代哲学辞典 P445・6から)。いわゆる語源の説明である。これではよく分からないので、哲学者の梅原猛先生の意見を拝聴する。

 哲学は自分の頭で考えることである。しかも、それは、過去の哲学の学説や、概念について考えることではなく、今の世界において、人類はどう生きてゆくべきかを考える学問なのである。
 このことを、日本の哲学者は西田幾多郎以来すっかり忘れていやように思える。私はやはり哲学者は、生きている世界と人生の鼓動をききつつ哲学をしなければならないと思う。あまりに生きた世界と人生に背を向け、本の中にのみ真実を求める哲学が多すぎたのである。もとよりわれわれは本から学ばねばならない。けれども、本はやはり二義的ないみしかもちえないのである。われわれの哲学の源泉はやはり、生ける世界であり、生きる人間でなくてはならない。
 今の人類は新しい哲学を必要としないほど幸福ではない。この世界の危機にどう哲学が対処するか、これはひどくむずかしい問題である(講談社 哲学する心 P8から)。

と語る。
 ここまでくると主題の「哲学的ゾンビ」から離れるので、話を戻すが、茂木健一郎さんの著書は、上記の文章に次の文章が続く、

 現代科学が、未だに意識の謎を解き明かせない根本理由は、私たちの脳が意識など生み出さない純粋な物質的過程として、すなわち哲学的ゾンビとして存在していないのはなぜか、ということを説明できない点にある。科学の立場からは、物質の客観的な振る舞いを決定する。客観的な法則があればよいように思われる。なぜ、脳の活動に伴って意識が生まれるのか、それが必然の帰結になるような法則を、今の科学は導くことができないのである(上記茂木同書P54から)。

と「意識」という問題に視点がおかれている。「一切、意思や主観的体験というものを持たない」生物それを哲学的ゾンビとするならば、逆説的にいって意識や主観的体験を持たせれば哲学的ゾンビは「人間」になるのだろうかと言う疑問である。茂木さんの著書は、哲学ゾンビが人となるための研究書でないので批判をするつもりはなく、反対にこの「脳内現象」という書には「クオリアル」「ホムンクルス」「小さな神の視点」等の概念もあり、私の知識の宝になる本である。

 哲学ゾンビに足りないもの、私はその一つに「こころ」があると思う。すると「こころとは何か」という哲学的命題を掲げなければならなくなるが、日ごろ批判的に思っている南伝仏教ではあるがその関係者の書籍に上記の「哲学ゾンビ」に足りないその一つである「こころ」の説明に同書を読んでいて次のセンテンスが、すばらしく合うような気がしたので参考に引用させていただくことにしました。

 人の人生のすべてをつかさどる支配者、管理者というのは、実は自分自身のこころなのです。そのこころが、まったく役に立たないほど弱々しかったり、とんでもなく汚れていたりしたら、どうなるでしょうか。支配者あるいは管理者が、さらに言い換えれば創造者がこの調子なら、願望を叶えることは、針の穴にラクダを通すより何百倍も難しいことでしょう。
 ブッダは、このように答えます。こころを鍛えなさい。汚れを落としなさい。究極の幸せを今ここで実現するのです、と

(サンガ 自分を変える気づきの瞑想法 A・スマサーラ著 P3はじめに から)人の人生のすべてを司る支配者、管理者さらに言葉を変えれば創造者であるものは、「こころ」であると説明されている。この著書はこのこころを鍛えるための瞑想について説明されているが、そのことについては言及しません。でも私には上記の茂木さんの本と等しく参考になる本です。

 「こころ」これは西田哲学流にいえば、抽象的一般概念ではない。真の概念でなければならないもの。自己の中に自己を限定するもの。超越的述語面が超越的主語面を包む状態を思考すると「こころ」は「ある」と表現するもそれ以上の思考は進まない。「こころ」の反対語、それは無い。支配者、管理者、創造者には、当然に反対の概念があり、言葉も想起できる。それは抽象的一般概念だからである。創造者までもと思うが、創造されるものが創造された時、自己から離れたものになる。

 西田幾多郎先生の書簡集を読んでいると大正11年8月15日の書簡に

 自分などでも今日までいくど哲学をやめようと思ったかも知れぬ。今でも始めから数学をやっていた方がより面白かったと思っているくらいである。文学や哲学を専門にせねば人生に意味がないとか不幸とかいうことはない。人生の目的は人生に対して真摯なる仕事をするによって解せられる。ゲーテのファーストでも迷いに迷うて最後にそういうことになっている。真面目な仕事によって救われることとなっている。そして人生において真面目なる仕事といえば自然科学の研究という如き貴き仕事の一つでなければならぬ。文学者や哲学者が何か幸福なものとでも思えば誤りである。(岩波書店 西田幾多郎全集第18巻 書簡集一 P252から)

 自然科学における「哲学的ゾンビ」非常に面白い言葉である。

 写真は、今日の松本城の雪吊りであるが、効果はいかがなものか。

    
  


今日も雪降り

2007年01月07日 | こころの時代

 今日も朝から雪。降りかたからさほどの積雪にはならないようです。
 積雪を見つめると昨夜と同じ真っ白な雪の塊の集合体に見えますが、地表の暖かさの差異により積雪の模様も昨日とは異なっています。 

 雪降りの日は、雪が降っているという同じ現象の中にある昨日、今日だがその様相は異なっています。 
 目の前の現象、展開される様相に、「人のこころも同じだなあ」とあらためて考えました。  

 目の前に展開される現象の全ては、私自身の中にあり、見るもの、聞くもの、感ずるものなどの素があるから展開されるものは、悉く展開されていることが認知される。 

 超越的、創造的な人間は、その瞬間には自己限定、世界自身を限定しているが次の瞬間に変容していく考える。 その限定は、展開される眼前の現象(客観)からの働きかけがあり(実際はそのように私の心が思う)、能動的な私(主観)は限定されるが、瞬間に止揚し変容する機会がおとずれ変容する。 

 変容する私はこころの深層に、民族をも越えた元型(象徴)なるものを保持し、さらに人間としての共通の性質をも持っている。それらは生物学的な遺伝により継承され、現世に至って、環境と創造され続ける性質により私は変容し続ける。 

 昨日の私は今日の私であることには違いないが、呼吸の数から血圧の値等の肉体の現象の変化もあれば、細胞の老化などの肉体変化もある。肉体変化は、身体変化をも当然含むものであり、身体は脳も含む。 

 意識の進化、創造的進化、形態形成場、共時性(シンクロニシティ)、全体と部分等々あるが、私には悉く同じに観える。 
 
 私自身が居ること事態が、外界の変容に寄与する。従って、殺人者であろうが、通りすがりの人(目の前を通り過ぎる人・関係する人)あろうが、無駄と思う人も含め全てが外界の変容に寄与している。

 私には時として、変容を感じさせる機会が訪れる。
 場(主客合一)の気が熟したというのか、訪れる(行なわれるも含む感)。 
 変容は、価値判断(客観的)の結果で善し悪しを伴うものであるから分別、分節の無い私を保つことは容易ではない。
 

  ちらつく雪の中でそのように思考する自分が在りました。


雪国

2007年01月06日 | 風景

 早朝から雪降りとなり、20センチほどの積雪となった。雪にもそれぞれ人間に性格があるように、降り方や降る時期によりその性質が異なる。今回の雪は、重く除雪に力を要した。「雪」といえば川端康成の「雪国」が思い出される。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

という名文で始まる小説である。

 哲学者の梅原猛先生は、「官能と景色のまばゆい複合美」と川端美学の裏側について語り(講談社学術文庫 美と倫理の矛盾)、音相システム研究家黒川伊保子さんは、次のように語る。

 さて、「雪国」の冒頭の名文を何度か吟じてみて欲しい。「国境」は、意味的にはクニザカイと読むのが正解かもしれないが、音相的にはコッキョーの方が成功する。「コッキョーノ ナガイトンネルヲ ヌケルト ユキグニデアッタ。ヨルノソコガ シロクナッタ」。まるで幻想の世界に導く呪文だ、と私は長く惹かれてきた。

 この魅力に着目し、十二年前に音相理論によって明快に解いてみせたのは木通隆行先生である。先生の分析結果は緻密な論文になっていて見事だが、一部だけ切り出すことができないので、ここで私自身の要約で以下に紹介する。

 コッキョーということばの音相の特徴は、非常に強い特殊感にある。意味の通り、遠い異郷を思わせる音なのだ。これが長くナガイトンネルは息の詰まるような鬱陶しさを持った音。これに華やかにして妖しげな音ヌケルトを重ね、あげく魔法のことばユキグニが受ける。

 すなわち、コッキョーノでいきなり遠くに連れて行かれた読み手は、次のナガイトンネルヲでまさに別世界へ続く長い闇を経験し、やがてヌケルイトの妖しい華やかさに照らされて、ユキグニデアッタでイリュージョンの世界に辿り着く。

 つまに二文目は、前文で辿り着いたイリュージョンの世界でこれから始まる物語への誘いのフレーズだ。壮大なシンフォニーの始まりにも似ている。
 それにしても、実時間にして数秒足らずの奇跡である。川端は、どうやって、この奇跡を生み出したのであろう。

と、その専門的立場から解説している(筑摩書房 感じることば 情緒をめぐる思考の実験 P39から)。

 同じこの雪国の出だしの短文だが、哲学・倫理学専攻の千葉大学文学部教授の永井均先生は別の視点から

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」とは、誰かその経験と独立のある人物がたまたま持った経験を述べている文ではないのだ。もし強いて「私」という語を使うなら、国境の長いトンネルを抜けると雪国であったという、そのことそれ自体が「私」なのである。だから、その経験をする主体は存在しない。西田幾多郎の用語を使うなら、これは主体と客体が別れる以前の「純粋経験」の描写である。

と解説する(NHK出版 西田幾多郎 <絶対無>とは何か P12から)
このように雪国の出だしの短い文章だが、人の思考の視点が変われば様々に解釈されるものである。

 信州松本は、朝から雪国であった。


謹賀新年

2007年01月01日 | こころの時代
あけましておめでとうございます。

 大晦日から山荘にて、年越しのアルバイトでした。明日は、出社日のため夕方自宅に帰りパソコンの前に座っています。

 妻と娘達は、アルバイトを継続しているため今は積極的孤独の時間です。
 積極的孤独の言葉は、創造学園大学の客員教授である津田和壽澄(つだ かずみ)がNHKの番組で紹介され、惹かれるものを感じ使用しています。

 昨夜の紅白歌合戦で、「千の風になって」が歌われました。新井満さんが歌うものと思っていたところ、オペラ歌手の方のようでした。
 「この街で」という歌を新井さんが歌っているのを聞いて情感を歌われる方と感動していただけに少々残念でした。

 今回布施さんが、「イマジン」を歌われ「こころの時代だなあ」と思いましたが、新年早々のNHK教育の「こころの時代」にはがっくりしてしまいました。
 気を取り戻して早朝から朝食準備、あと片付け等少々新年から疲れてしまいました。

 今年も自意識過剰といわれない程度に、積極的孤独の時間を利用し思考の世界をさ迷いたいと思っています。