「罪」という言葉を聞くと犯罪と言う言葉がすぐに想起する。現代社会においては、犯罪は法律に違反する行為が身近な罪となる。しかし「あなたは罪深い人だなあ」と言われるとその言葉が発せられたその場、受ける者、相互の人間関係など場の状況、シチュエーションにより「罪」の意味が異なってくる。
神に対する罪もあれば、男女間の情愛の罪もある。許される罪から取り返しのつかないものまである。
罪という言葉の感覚的な意味合いを考えると世間とのかかわり方、世間という社会生活での対人関係における阻害行為、すべき慣習における遅滞、不作為も「罪」に含まれてくるような気がする。
「罪」という言葉の意味を思考すると「一線を隔する」「境界」そして「内と外」「主客」という概念が探求の課題として浮かんでくる。
今朝のNHK教育のこころの時代「われとして生きる 歴史学者 阿部謹也」をみて私自身の思考課題でもある「罪概念」を改めて考えさせられた。
阿部先生のキリスト教学における「告解」という行為が西洋の「個人」を見つめる原点である旨の話と、また「世間」との係わりの話に日本の古代精神史における「罪」概念との対比を考えてみたくなった。
私自身は「罪(つみ)」という記紀神話の時代からある「やまと言葉」を「自然(じねん)を阻害する行為」という意味に解している。
大祓詞(おおはらえのことば)に綴られている天津罪・国津罪の罪種は神話作成後のものである。
それよりも時代を遡る「つみ」という言葉の「つ」「み」の組み合わせで表現する時代においては、この言葉を発生するに相応しい事態は、大祓詞におけるような「固定的」な概念はなかったと考える。
記紀以前の時代においては、「つ」「み」の単音の組み合わせ・タ行、ミ行の組み合わせ表現の中に「阻害、壁、分離」などの意味があったと思う。
「堤(つつみ)」「包む」「津(つ)」「慎む・謹む」などの「やまと言葉」には一定の内と外の分離がある。
古代人は、全体的な、自然(じねん)的な、大いなる存在の推移の中に分離をもたせる。いわゆる不自然な状態が生じることを「つ」「み」の組み合わせで表現したものと思う。
これは古代における分離の音であるが、それならば古代人は、あるべき姿、あるべき状態、自然の有りようといった状況をどのように捉えていたかということを考えたくなる。
古代人の深層心理には、あるべき姿、あるべき状態、自然の有りようを捉える時にその全体性の中に阻害や分離の概念が包み込まれて一体と把握される思考形態ではなかったかと思う。
それを解明するヒントが、その後に成立していく神道の神概念にあると考えている。
そこで日本の神はどういうものかということだが、神道においては神は、御魂という言葉で表わされる。そしてこの御魂は「和御魂(にぎみたま)」と「荒御魂(あらみたま)」の総体で表現される。
和御魂という、平和と繁栄の御魂と荒御魂という荒ぶる戦勝の御魂の総体である。
先ほど自然の推移の阻害、分離等の二極(二元)的な表現をしたが、御魂にもその姿がみられる。そしてこの御魂の概念も二極的なものに表わしたが、ここで注意をしなければならない点は、二極は存在の中にあるが「純粋経験」においては一体の存在そのものであるということである。
存在そのものとは、一極・一元であると言うことである。西洋的な「善悪」「神とサターン」などの分節にない。
あるがままは、一体の「純粋経験」であり西洋的な二極・二元の概念は成立しない。絶対無の状態で、あるがままなのである。
以上のことから日本古代精神史の中では、一極・一元的な概念思考が専攻すると考えている。そしてこの一極・一元的な態度は、歴史的身体として継承されていると思う。
「世間体」という中に阿部先生は、日本の問題点を探そうとしたらしいが、その後の儒教的な思想の流入は、「世間体」という概念を強く日本の社会生活に浸透させ、その後の個人主義がその「世間体」の中にあった「差別意識」に別な要素をもたせ今日に至るのである。この点については別の機会に言及したい。
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画像は、安曇野の早春譜碑から北アルプスの冬景色です。