思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

アグネス・チャンさんへの期待

2010年02月28日 | つれづれ記

 1980年代後半に「アグネス論争」という出来事があった。タレントのアグネス・チャンさんの「子連れ出勤」タレント復帰から働く女性の労働環境問題へと発展した騒動です。

現在は、ユニセフ大使として紛争地域等を訪問し、その成果を国内で講演会で熱心に講演しているようです。

ユニセフ大使ですからユニセフ(国連児童基金)の国内委員会「日本ユニセフ協会」の大使ということで、募金活動が主な活動です。

 ユニセフ(国連児童基金)とは、民主党内の左翼系政党のような存在であったような気がしていましたが、アグネス・チャンさんのイメージから認識を改めなければいけないのかと思う次第です。

 そのアグネス・チャンさんが、あの「海賊船」のソマリアに行ったニュースを知りました。

 無政府状態のあの国に行った(毎日新聞 2010年2月18日)というニュースが流れ、その後無事には帰国し(毎日新聞 2010年2月25日)東京都内で帰国報告会を開いたことが報じられていました。



視察に行った都市は、東アフリカ・ソマリア北西部のハルゲイサで、「海賊船」のソマリアではなく隣りの自治政府が実効支配する地域「ソマリランド」と国(国際的に承認されていないが、秩序が保たれている地域)だそうで、さらに東部には「プントランド」と呼ばれる自治政府も存在するが、どちらも国際的に認められていない。アグネスさんは「ソマリランドの政府は軍事に予算の多くを割き、国際社会にも承認されておらず、援助が届きにくくなっている」と実情を報告会で報告したそうです。

 今後は中国のチベット自治区の人権抑圧で泣く子ども達の支援活動を期待したいものです。

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「無防備都市宣言」というのがあるそうです。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると「ジュネーヴ条約追加第1議定書」の次の条文を根拠に、自治体単位でその宣言をしようという活動で、「無防備地域宣言運動全国ネットワーク」まであり新たな主体的国家から離れ個別的な地方平和を実現しようという運動のようです。ではこのジュネーヴ条約追加第1議定書の条文ですが、以下のとおりです。

第59条「無防備地区」
1 紛争当事国が無防備地区を攻撃することは、手段のいかんを問わず禁止する。
2 紛争当事国の適当な当局は、軍隊が接触している地帯の付近またはその中にある居住地で、敵対する紛争当事国による占領のために開放されているものを無防備地区と宣言することができる。無防備地区は、次のすべての条件を満たさなければならない。
(a) すべての戦闘員ならびに移動兵器及び移動軍用設備が撤去されていること
(b) 固定した軍用の施設または営造物が敵対的目的に使用されていないこと
(c) 当局または住民により敵対行為が行われていないこと
(d) 軍事行動を支援する活動が行われていないこと
3 諸条約及びこの議定書によって特別に保護される者並びに法及び秩序の維持のみを目的として保持される警察が無防備地区に存在することは、2に定める条件に反するものではない。
4 2の規定に基づく宣言は、敵対する紛争当事者に対して行われ、できる限り正確に無防備地区の境界を定め及び記述したものとする。その宣言が向けられた紛争当事者は、その受領を確認し、2に定める条件が実際に満たされている限り、当該地区を無防備地区として取り扱う。条件が実際に満たされていない場合には、その旨を直ちに、宣言を行った紛争当事者に通報する。2に定める条件が満たされていない場合にも、当該地区は、この議定書の他の規定及び武力紛争の際に適用される他の国際法の諸規則に基づく保護を引き続き受ける。
5 紛争当事者は、2に定める条件を満たしていない地区であっても、当該地区を無防備地区とすることについて合意することができる。その合意は、できる限り正確に無防備地区の境界を定め及び記述したものとすべきであり、また、必要な場合には監視の方法を定めたものとすることができる。
6 5に規定する合意によって規律される地区を支配する紛争当事者は、できる限り、他の紛争当事者と合意する標章によって当該地区を表示するものとし、この標章は、明瞭に見ることができる場所、特に当該地区の外縁及び境界並びに幹線道路に表示する。
7 2に定める条件又は5に規定する合意に定める条件を満たさなくなった地区は、無防備地区としての地位を失う。そのような場合にも、当該地区は、この議定書の他の規定及び武力紛争の際に適用される他の国際法の諸規則に基づく保護を引き続き受ける。

という内容です。
 「無防備都市宣言」を新たな平和運動と呼ぶ人もいるようです。

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 お上が御粗末だから人心も乱れる。お上が御粗末だから外国からの侵略が迫っている。早急に非暴力都市(治安組織は除く)にしなければならない。

 アメリカには、駐留米軍基地で占拠され、トヨタはバッシングの危機状態。

 民主党政府は、朝鮮半島北部の国と密接な関係にある少数政党の意向なのか首領様親子写真を揚げる聡聯連下部組織に支援をする構想を持っているようです。

 朝鮮半島の北部からは、ロケット弾が来るものの育英資金は来ないようです。誘拐・拉致された親の気持を思うと何か悲しくなります。アグネス・チャンさんに全権委任したい気持ちです。

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民俗学における講について

2010年02月28日 | 民俗学

       (写真は安曇野の道祖神群です)

 民俗学の方法と書き始めると漠然とした語りになってしまいますが、今日は民俗学における調査対象項目の一つについて記録しておきたいと思います。

 一般的に調査項目「信仰」については、「村の神」「祭礼・「籠もりと精進」「神役」「同族の神」「屋敷神」「屋内の神」「生業の神」「講の祭り」「寺院と仏」「共同祈願」「巫女・祈とう師」「妖怪・異霊」「憑きもの」「予兆」「卜占」「禁忌」「呪術」「医療」等があります。(『民俗学の方法』井之口章次著 民俗民芸双書から)

 これらを郷土史を研究する上において、裏方としての必要不可欠な民俗的な項目です。最近道祖神類の石塔に二十三夜塔や庚申塔ばどがあり、郷土における「講の祭り」の種類はどのくらいあるのか調査してみました。

 調査地域の選定ですが旧街道それも江戸と都を結ぶ街道沿いとして、両文化の狭間の中の「信仰」という点に注目し選定しました。

 その地域は、塩尻市楢川地籍で、平成大合併前の木曽郡楢川村(ならかわ)としました。ここは楢川宿で全国的にも名が知られています。

 講は本来寺院の講会(こうえ)に始まったもので、それが民間に広がり信仰仲間の集まりと形になりましたが第二次世界大戦を境に急激に激減してしまいました。

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 さて講の種類ですが、全国的に名が知られている有名寺院に対する信仰仲間の伊勢講、津島講、秋葉講、三峰講、豊川講、金毘羅講、戸隠講、御岳講があります。

 この講は、遠隔地の本社への参拝を目的とし、講員がくじ引きによって交代で代参してお札をうけてくるものです。

次に生産活動と密接に関係のある講ですが、これには庚申講、甲子(かつし)講、二十三夜講などがありました。お日待つというのですが、順番に講員の家を宿にしてあつまり、掛軸などを掛けて祈願するものです。

その他に念仏講や徳本講の念仏信仰の講があり、太子講という職人仲間の講もありました。

ここで実際の最新(平成6年正月)の念仏講の状況を見てみます。
楢川の塩水と羽淵という地籍です。

午前中に女の人たちが当屋に集まり餅を作る。餅は米粉を買って、みんなでつくる。午後二時に男も女も集まり、それぞれが祭壇に賽銭と線香をあげる。掛軸の前に餅とお茶をお供えした後、輪になって百万遍の数珠繰りがはじまります。掛軸ですが「善光寺の掛軸」と称されるもので阿弥陀様かと思われます。

 導師につづいて、まわりの人も「南無阿弥陀仏」と唱え、房のついた大数珠がくると、頭をさげていただくようにする。数珠玉は各家が分担した手づくりで、大きさ不揃いのものだそうです。

 導師の前においた数取りは木札10枚を紐で通したもので十の位は大、一の位は小の札をめくって数える。110回まわし終わると、全員が数珠をおしいただき念仏は終わり、餅投げが行われるそうです。この地域では翌日に観音講というものが行われ「西国三十三番和讃」を女性中心に唱和し、観音講が終了すると鉦と鈴を取り出し「弘法大師入定和讃」を唱和、この間男の人は後ろのほうに座ってならぶが唱和しないそうです。

念仏講だけをみてきましたが地域の人々の集まり、日常生活における付き合いとともに風土的な信仰でのつながり人と人との信頼はこのようなものが根底にあったようです。

すたれ行く文化、復興できない文化が多くなってきています。

※注:木曾・楢川村誌第六巻 民族編 を参考にしました。

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尊徳先生の学びの「力への意志」

2010年02月28日 | 東洋思想

       (二宮尊徳肖像 福村書店刊『二宮翁夜話』から)

  尊徳日く、それ世界は旋転(せんでん)してやまず。寒往けば暑来り、暑往けば寒来り、夜明くれば昼となり、昼になれば夜となり、また万物生ずれば滅し、滅すれば生ず。たとえば銭を遣れば品が来り、品を遣れば銭が来るに同じ。寝ても覚めても、居ても歩行(あるい)ても、昨日は今日になり、今日は明日になる、田畑も海山もみなその通り、ここにて薪をたきへらすほどは山林にて生木し、ここで喰いへらすだけの穀物は、田畑にて生育す。野菜にても、魚類にても、世の中にて減るほどは田畑・河海・山林にて生育し、生れたる子は時々刻々年がより、築きたる堤は時々刻々に崩れ、堀たる堀は日々夜々に埋まり、葺きたる屋根は日々夜々に腐る。これ即ち天理の常なり。

 この言葉は、二宮尊徳先生の高弟福住正兄(ふくずみ・まさえ)の著『二宮翁夜話』の「二 自然の理法と人の道」の冒頭の一節です。

 尊徳先生のお弟子さんの手になる「如是我聞録」は、この他に『報徳記』(富田高慶著)があります。

 姓は平、名は尊徳、通称金次郎、その祖先は曽我氏にいず。二宮は氏なり。

で、二宮金次郎、二宮尊徳、報徳先生と親しみをもって呼ばれます。尊徳先生を知りたいと思う人はこの二冊を読むことになると思います。

 戦後二宮尊徳先生の銅像が学校の敷地内でその姿が見えなくなったように、その教えも悪しき戦前の教育の排斥の中で語られなくなってしまいました。

 間違いなく腰パンの青少年諸君は、父母さえ知らない人物です知るはずがありません。

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 今朝は、先生の学びに対する「独学姿勢」その力の意志が端的にわかる、若き日の姿を紹介したいと思います。

 この尊徳先生伝は、『独学の精神』(前田英樹著 ちくま新書)から引用させていただきました。

†二宮金次郎という人
 二宮金次郎は、天明七年(一七八七)に生まれたというから、江戸時代の終わり頃の人である。相模の貧しい農家に生まれ、十六歳の時に両親を亡くして、伯父の家に引き取られた。この伯父さんは、今からみれば酷薄な人だったらしく、金次郎の時問は全部自分のものと心得、本を読むことなどは許さなかった。本を読む時間は、一日の畑仕事のあと、夜しかない。
 
 それでは灯油を使うことになるから、いかんというわけだろう。金次郎はなるほどと思った。それで、川岸の空き地を開墾し、わずかな暇を見ては菜種を栽培した。一年後、大きな袋一杯の菜種(なたね)を収穫できた。それを城下の油屋に持っていき、灯油と交換した。これで夜の勉強ができる。金次郎は奮い立ったけれど、伯父はこれもだめだと言っった。夜は夜で、筵(むしろ)や草履を作る仕事がある、本など読ませる時間はない、というわけである。金次郎は、この時もなるほどと思った。それで、歩きながらの『大学』になる。
 
 これでは、金次郎を羨(うらやむ)どころではないかもしれない。しかし、彼はやっぱり羨むべき強さを持った男だった。今度は、菜種ではなく、米を作った。洪水で泥沼になっていた空地から少しずつ水を汲み出し、ついにそれを小さな田んぼにした。近所の農家から、捨てられている苗をもらい、わずかな時問を見つけては、それを育てた。秋には、米二俵を収穫した。これが、彼の最初の資金になり、人生の出発点になった。
 
 数年後、金次郎は、自分の米俵を背負つて、伯父さんの家を去る。廃屋となっていた両親の家に戻り、誰も耕さない山の斜面や川岸の開墾に取り組み始めた。数年のうちに、荒地は豊かな水田に変わった。夜は好きなだけ本を読み、昼は白分の田畑で働く。金次郎の常人ばなれした勤勉をしっかりと支えていたものは、言うまでもない、独立して在ることの喜びである。この喜びを得るのに、どれくらいの精神の健全さを必要とするかは容易に想像がつくだろう。
 
 伯父さんに二度の理不尽を突き付けられた時、少年金次郎は二度なるほどと思った。このなるほどには、すでに偉人の明瞭な刻印がある。彼は、すぐに伯父さんの考えの道筋を理解した。ここで理解したということは、ただわかりましたということとは違う。伯父は、強欲にもこのように考える。では、それからどう離れて在るか、その思案のうちに入ったということである。こういう心は、すでに高度に独立していると言っていい。
 
 強欲な者、愚かな者に憤ったり、反抗したりするのは、愚かである。まして、じめじめ恨んだりするのは・馬鹿らしい。そういうことをするのは、まだ心が相手に依存しているなからだろう。相手の出方次第で反抗に勢いづいたり、萎(な)えたりする。金次郎には、そんな暇はなかった。どうしたら、『大学』が読めるか、この算段でまずは心がいっぱいだった。『大学』は面白い。『論語』は、『中庸』は両白い。これらを繰り返し読めば、この身ひとつがどう生きていけばいいか、そのことがわかってくる。だからこそ、彼は柴を背負って歩きながら、夢中で本を読んだのである。

 尊徳先生の独学の力の意志がよくわかると思います。尊徳先生16歳の時には両親が亡くなられておられますから、その姿勢の素はそれまでに築き上げられたものだと思います。

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 宗教信仰においては、正しい先人に出会い学ぶがよく、その正しさは今に現れます。万人の信仰するもの。この「もの」を今に観る人は幸いです。「もの」はあなたと伴にあるからです。
 
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「正氣」について

2010年02月28日 | 歴史

 今年の二月も春の到来とともに余すところ二日となりました。さて過ぎ去った2月26日は、日本の歴史的な事件が起きた記憶すべき日付でした。

 サイトでもニュースでも、特集番組でもほとんど語られなくなった過去の遠き事件になってしまいました。

 「二・二六事件」は、昭和11年(1936)2月26日未明の出来事。一部の皇道派青年将校にひきいられた軍隊が、政府高官、重臣達を襲撃し、暗殺した事件です。

 この「二・二六事件」で思い出すのが、「五・一五事件」です。前後しますがこの「五・一五事件」は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、

1932年(昭和7年)5月15日に起きた大日本帝国海軍の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅首相を暗殺した。

と解説されていますが、ここで暗殺された犬養毅首相に視点をおき、青土社版の事件内容も含めた、犬養毅首相についてです。

犬養毅(1855~1932)
 武士階級出身の犬養毅は、二十世紀初頭以来の日本の指導的な民主主義者だった。1931年、犬養は最終的に日本の首相の地位を手にする。しかし、その翌年の超国家主義グループによる彼の暗殺を契機として、この国の政党政治は実質的に終息し、10年後に日本は第二次世界大戦へ突入する。
 
 1890年、犬養は第一回衆議院選挙に立憲改進党から出馬して当選。1898年には文部大臣になり、その後立憲国民党を組織した。1913年には護憲運動を推進して国民の人気を集め、元軍人の桂太郎が主導するそれまでの高圧的な政府をついに打倒した。その後、犬養は、国家主義グループが目論む軍国主義的なほとんどの政策に、抵抗を続ける。1931年の暮れに首相になった犬養に軍部からの要求が突きっけられた。「中国の満州地区占領について自決権を軍へ渡すべし」。犬養は、内閣の政策決定権擁護のため、これに徹底的に抵抗した。陸軍のこれ以上の動きを封ずるため、特使の中国派遣まで準備した。

 犬養のこの動きに軍の一部は激怒する。1932年5月15日、9人の若い海軍将校が首相官邸に乱入し、犬養の腹と首に銃弾を撃ちこんだ。この犯人たちの意図ははっきりしている。軍の権限の拡大だ。この目的が達成されたことは、この国のその後の歴史が証明している。犬養暗殺の犯人たちは逮捕された。裁判で有罪が申し渡された。彼等に刑は執行されたが、12年後に特赦令で釈放された。(『暗殺の辞典』カール・シファキス著・関口篤訳 青土社から)

 これは青土社の立場で書かれた内容です。
 
 この「五・一五事件」をフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でみると、
 
背景
当時は1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。1931年(昭和6年)には関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形だった。犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。

しかし、1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。ところが、立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。計画の中心人物だった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになる。本来ならば標的でなかった犬養が殺されることになったといえる。

計画
各隊が首相官邸、内大臣官邸、立憲政友会本部、三菱銀行、警視庁を襲撃した後、別働隊が変電所を襲撃して、東京を暗黒化しようという計画を立てた。

と解説され、鎮圧された後の処分については次のように書かれています。

裁判
海軍軍人は海軍刑法の反乱罪の容疑で海軍横須賀鎮守府軍法会議で、陸軍士官学校本科生は陸軍刑法の反乱罪の容疑で陸軍軍法会議で、民間人は爆発物取締罰則違反・刑法の殺人罪・殺人未遂罪の容疑で東京地方裁判所でそれぞれ裁かれた。元陸軍士官候補生の池松武志は陸軍刑法の適用を受けないので、東京地方裁判所で裁判を受けた。

当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなった。このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われ、二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校の一人磯部浅一の獄中日記によって伺える。

その一方で大川周明ら民間人に対する言渡刑は非常に重かった。このことは、二・二六事件でも民間人の北一輝や西田税が死刑となったことと共通する。

とフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は、「二・二六事件」の処分状況を重ね解説しています。さらにウィキペディアは、事件評価を次のように掲載しています。

評価 [編集]
 この節の内容に関する文献や情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。

犬養は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校の気に入らない点だったといわれる。不況以前、大正デモクラシーに代表される民主主義機運の盛り上がりによって、知識階級やマルクス主義者などの革新派はあからさまに軍縮支持・軍隊批判をしており、それが一般市民にも波及して、軍服姿で電車に乗ると罵声を浴びるなど、当時の軍人は肩身の狭い思いをしていたといわれる。

犬養は中国の要人と深い親交があり、とりわけ孫文とは親友だった。ゆえに犬養は満州侵略に反対で、日本は中国から手を引くべきだとの持論をかねてよりもっていた。これが大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それにつらなる大陸利権を狙う新興財閥に邪魔となったのである。犬養が殺されたのは、彼が日本の海外版図拡大に反対だったことがその理由とも考えられる[要出典]。

本事件は、二・二六事件と並んで軍人によるクーデター・テロ事件として扱われるが、犯人のうち軍人は軍服を着用して事件に臨んだものの、二・二六事件と違って武器は民間から調達され、また将校達も部下の兵士を動員しているわけではないので、その性格は大きく異なる。同じ軍人が起こした事件でも、二・二六事件は実際に体制転換・権力奪取を狙って軍事力を違法に使用したクーデターとしての色彩が強く、これに対して本事件は暗殺テロの色彩が強い。

また犬養首相の暗殺が有名な事件だが、首相官邸・立憲政友会(政友会)本部・警視庁とともに、牧野伸顕内大臣も襲撃対象とみなされた。しかし「君側の奸」の筆頭格で、事前の計画でも犬養に続く第二の標的とみなされていた牧野邸への襲撃はなぜか中途半端なものに終わっている。松本清張は計画の指導者の一人だった大川周明と牧野の接点を指摘し、大川を通じて政界人、特に森恪などが裏で糸を引いていたのでは、と推測している[1]。だが、中谷武世は古賀から「五・一五事件の一切の計画や日時の決定は自分達海軍青年将校同志の間で自主的に決定したもので、大川からは金銭や拳銃の供与は受けたが、行動計画や決行日時の決定には何等の命令も示唆も受けたことはない」と大川の指導性を否定する証言を得ており、また中谷は大川と政党人との関係が希薄だったことを指摘し、森と大川に関わりはなかった、と記述している[2]。

本事件は昭和天皇の勅命により失敗に終わった、というのが定説である。この事件によりこの後斎藤実、岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。もっとも実態は両内閣共に民政党寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多かった。民政党内閣に不満を持った将校らが政友会の総裁を暗殺した結果、民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。また、犬養の死が満州国承認問題に影響を与えたという指摘もある。

事件の前日に喜劇俳優のチャールズ・チャップリンが来日し、事件当日に犬養と面会する予定であった。チャップリンが思いつきで相撲観戦に出掛けた為難を逃れたが、これには米英の日本に対する態度を硬化させる狙いが陸軍にあったと云われている。

 ここには、出典根拠がないことがあることからそのまま是認するのは各個人の知識に寄りますが、なかなか細かな評価が書かれています。

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 今夜は、「五・一五事件」「二・二六事件」の事件内容に言及することを目的にしていません。

 「五・一五事件」この事件の被告人を弁護したのは「清瀬一郎」という弁護士です。この人物は、これもフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考にしますが、

清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年7月5日 - 1967年6月27日)は大正、昭和時代の日本の弁護士、政治家。弁護士としては極東国際軍事裁判で東條英機の弁護人などを務め、また政治家としては文部大臣、衆議院議長を歴任。学位は法学博士。東京弁護士会会長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。

兵庫県飾磨郡夢前町(現、姫路市)出身。弁護士としては小作争議裁判や思想事件等を手がけ、政界入りしてからも普通選挙運動の推進や台湾議会設置運動への支援、治安維持法への反対などリベラルな政治家として知られてきた。しかし1930年代以降親軍派に転向し五・一五事件の裁判において、被告側の弁護人を務めた。

と紹介されています。

この方が、戦後どのような経歴をもつかといいますと、

・1946年:公職追放。追放期間中は弁護士として東京裁判で日本側弁護団副団長と東條英機の主任弁護人を務める。
・1952年:追放解除にともない改進党から政界に復帰。改進党幹事長、日本民主党政務調査会長を歴任。
・1955年:第3次鳩山内閣に文部大臣として入閣。
・1960年:衆議院議長に就任。

ということで、現在の鳩山首相の父君の内閣で文部大臣をなさっていたことがわかります。

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 今夜は、まだ何を云いたいのかという主題を書いていません。戦前のテロ・暗殺のあった事実だけです。

 さてこの清瀬一郎先生は、上記の通り「五・二五事件」被告人の弁護人です。その時の弁護記録を一冊の本で出版しています、それが写真にもある『正氣』(309頁)という本なのです。

 本の内容について言及するつもりはありません。この本の題名「正氣」が気になるわけです。

 清瀬先生は、この本の「後記」で次のように書かれています。

 本書は、先年、私が五・二五事件の法廷に立ちて、爲した辯論の筆記である。満州事件と五・二五事件は、日本の進路に加へられた一轉機である。この史観は、今日となっては、之を疑ふ者は一人もない。しかし當年に在っては、この観方は未だ定説とはなって居なかった。ただ私は、事象を検討し、被告人に面接し、書類を読破し、法廷に於ける関係人の供述を聴き、更に証拠物を前にして沈思黙考すること幾夜の後、遂に或る種の信念に到達した。「日本の進路は、これより新ならん」と。私の辯論の要旨ば「本件は、被告等が起こしたのではない。世界の変化、日本の成長は、造化の秘密が遂にこの事あらしめたのだ。本件は、誰かが起したのではなくして、起ったのだ。悲むべからず、憂ふべからず、況んや憎むべからず」といふに在った。爾來十年、當年の観察が近年逐次事實として現はれたとして、其の辯論記録の刊行を望む人が出て來た。私は「将來を語る本ならば出すが、今は過去の記録などを向顧する時でなからう」といった峻拒して居ったが、友人岩谷君、山崎君は世間で求むる以上、そこに必す出現の理由があるのだとの論を立てて屈せぬ。

 私も途には斯う考へるに至つた。「戦争は長期戦であって見れば、時に郡合の悪い、ニュースも這入る。この位なことで日本人は動揺せぬ。しかし、この大敵を相手に最後迄戦ひ抜き、我國の本義を大東亜に顯現するには、。日本國民をして、今次大戦の本質、及び本民族の責任といふ問題につき、長い眼で之を見、且根底ある信念を得せしむるの要がある。昔私の述べた文字を讀むの必要はなくとも、五・二五事件を識る必要はある。これに依って國民の必勝信念を鞏固にするならば、本書の出版は意義がないとも言へぬ」と。遂に両君の論に從ぴ、本書の印刷となった。「正」といふ題號は兩君の選んだものである。
昭和十八年六月五日 山本元帥國葬當日
         清瀬一郎 識す

と書かれていました。
※注:旧漢字を変換するのに時間が掛かるので旧漢字で無い部分あります。

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 清瀬先生は昭和30年の鳩山内閣における文部大臣です。この方の「五・二五事件」の弁護記録が『正氣』なのです。

 「正気」といえば「狂気」とのボーダレスが問題となり、全体主義における「個人の自由」の問題とも深くかかわってきます。

 深く考えさせられます。

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信州の御柱祭

2010年02月27日 | 歴史

 信州は昨年の善光寺ご開帳に引き続き今年は、諏訪御柱のが行われます。

 御柱は諏訪の御柱が有名ですが信州では、各地で小規模な御柱が行われます。特に伊那地方には今もって多くの御柱が行われており、平成22年庚寅は、34箇所の神社で行われる予定です。

 諏訪大社の御柱について、伊那史学会の機関紙『伊那』では、御柱祭の特集号で諏訪社の御柱の歴史が簡略説明(歴史家山内尚巳先生)されていますので紹介したいと思います。

諏訪大社と御柱祭

 諏訪大社は元官幣大杜で上杜と下社からなり、上社は茅野市宮川の前宮(まえみや)と諏訪中州の本宮(ほんみや)、下社は下諏訪町の春宮(はるみや)と秋宮(あきみや)がある。諏訪大社の歴史は極めて古く『古事記』『日本書紀』にも記されているように日本でも最古の神社に数えられる。

 歴代朝廷や武将たちの崇敬があつく信濃国一之宮とし一て、県内はもちろん、全国に諏訪神社は一万杜以上存在する。祭神は建御名たけみなかたとみの方富命とその妃八坂刀売命やさかとめのである。山内尚巳一般には諏訪明神で通っている。
 
 「諏方大明神画詞」にみる造営と御柱諏訪大社は七年に一度ずつ鳥居、社殿、御柱をすべて新調することになっていたが、その中で現在も続く御柱の建てかえはその一環である。諏訪大杜の最古の史料である延文元年(2256)にかかれた「諏訪大明神画詞(えことば)」の第十二段にはそのことが記されている。

       

絵在之
寅申ノ支干二当社造営アリ、一国ノ貢祝(税)永代ノ課役桓武ノ御宇二始レリ、但遷宮ノ法則諸杜ニハコトナリ白元古新二杜相並テ断絶セス、侃仮殿ノ煩ナシ、先年寅歳造替ノ新社ハ七廻ノ星霜ヲフレハ天水是ヲ洗ヒ降露カワク事ナシ、当社寄特ノ随一ナリ、自ラ潔斉シテ今度申歳遷宮ヲナシ奉ル、其ノ時ノ古社ハ又新造ノ後七年送リテ神座、又七年ヲフレハ前後支干一襖十三年二当テ撤却ス、其次二又新造ヲ造替シテ来寅ノ歳ヲマツ、如此輪転ス、是則両社同末杜一同ノ儀也、サレハ後年暦二当レハ初春ヨリ国司ノ目代巡役ノ官人ヲ大行事二差シ定メ、御荷ヲキリ、国中ノ要路二関ヲスヘテ神用ヲ分配ス、一国ノ人民諸道ノエ匠ヲ集テ経営ス、氏人井国中貴賎人屋ノ営作ヲナサス、料材ヲ他国エ出サス、数十本ノ元御柱上下ノ大木一本別一二千人ノカニテ採用ス、加之首服婚嫁ノ礼其以是ヲト㌧ム、違犯ノ者ハ必ス神罰ヲカウフル、垂迩已来越年ノ例ナシ、年内必造早ヲトケテ覆勘トイフ啓白ヲ申事也、

 これを要約すれば、諏訪大杜は桓武天皇代から寅、申年に信濃国中をあげて造営し、断絶したことがない。造営には国司の目代を大行事に定め、国中の人民・工匠を集めて経営する。この年はすべての人の家屋営作をなさず、材料を他国へ出さず、数十本の大木の御柱を一、二千人の力で採用する。加えて元服、婚嫁の礼をやめる。違犯者は必ず神罰を蒙る。この造営は越年したことがない。というのである。
 
 7年ごとに行われる造営には信濃国中に勤仕が割り当てられており、その実際は別の史料で確認できる。のち、建武2年(1335)の中先代の乱以降の諏訪一族の衰退と上杜と下社が激しい対立を繰り返したため、諏訪大杜への勤仕は劣えた。その後、武田氏による再興、織田軍による焼き討ち、徳川氏の保護、明治維新による上・下杜統合、太平洋戦争と戦後の試練を経て、今日の御柱祭の隆盛となった。前回、平成16年には、下社秋宮の御柱にはじめて女性が乗って話題をよんだ。御柱祭の起源については先の諏訪大明神画詞にある桓武天皇代(781~806)に社殿の造営に合わせて行われたとすると、少なくとも平安時代初期からとなり1200年前にさかのぼる。しかし、この記述が御柱祭を明確に示しているとは暫言できない。したがって起源については古くから諸説があり、そのひとつには縄文時代起源もあるという。

特殊神事としての御柱祭と意義

 御柱祭は正式には「諏訪大杜式年造営御柱祭」といい諏訪大社の数ある特殊神事のなかで最も特筆されるもので、地元では単に「おんばしら」と呼ぶ慣わしで「祭」の字を加える場合は「みはしらさい」と呼んでいる。御柱は四社の境内四隅に巨大な自然木の椛の柱を建てるのである。御柱祭の意義については、古くから諸説がある。主なものは①儒教・仏教の教理に由来する説、②神霊降臨のための「依代よりしろ」(神霊が招き寄せられて乗り移るもの。樹木・岩石・人形など)説、③神社という聖地の四至標示説、④社殿造営の代用説などがあり、なお検討の余地を残し、今後考古学、民俗学、民族学などによる比較研究の成果にまつところが多いとされる。

と解説されています。
 御柱研究は盛んで数多くの出版物が発刊されていますが、民俗学的にも貴重な伝統行事です。

 行事の期間ですが、諏訪の御柱祭の 開催期間は、4月1日(木)~6月15日(火)で、飯田・伊那地方は3月から4月に掛けてです。

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『哲学を持て!』という深い話

2010年02月27日 | 仏教

 大乗仏教典の般若心経には、「色即是空」「色即是空」が語られ、「空」という言葉、「空即是色」と言う言葉は、「本来あるべきお釈迦さまの教えとはかけ離れたものである」論にまた出会いました。

 仏教の宗教団体の中には当初から毛嫌いする団体もありますが、日本という国にこのお経が伝来し、今日まで唱えられ一大ブームにまでなるにはそれなりの理由があると考えるのが普通です。

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 考えに考え抜いた結果、思考に思考を重ねての結果から、これを上記のように否定できる自分があったならば、自分は偉大な聖職者であり、また思想家だと自負してよいと思います。

 存在することを否定する勇気、あるものを「ない」と公言できる勇気、これはとても強い力の意志の持ち主です。

 私は、素人ながらお釈迦さんの偉大なところは「無我」を公言できたところにあると思います。

 お釈迦さまはお亡くなりになるまで語りつくします。伝え聞いたそ後の人々は、その場(生きる場において)においてその言葉を人々にひろめます。

 日本には、「空」があり「空即是色」がある。こうしたことが今日の渾沌とした世界を作ってしまう原因となっているなどと考える人はまずいないと思います。

 現実的にテロや政治犯の幽閉は、全くないと思うのが折り合いに生きている人々の共通意識です。

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 人間は思考するから「悩める人間」「苦を背負う人間」になり、自ら苦を生じさせている存在であると、語られることもあります。

 無我といっても現実的には、思考せずに入られない人間であり、「是色」というものはそういうものであると思います。

 お釈迦さまの言葉の裏返しは、その旨(趣旨)を言っていると考えるのが普通ではないかと思います。

 このように説かれ、そのように理解することで納得する人もいるわけで、そういう人にとってはこれほどありがたいことはありません。

 思考すること、これにより人は生きています。それは程度の深さに問題がること、それは人それぞれの個性をつくり出しているものと同じで、普通に他の人々と共有できる程度から大きく逸脱する姿に変化する場合に問題があるわけです。

 そこに心の強さがあるわけで、心が無いと否定したところで何の助けにもなりません。教示を受け、思考し自分のものとしていくこれが信仰だと思います。

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 最近の新聞でイイ話を見(聞き※心に響いたということです)ました。
 
 長野市のNPO法人「劇空間 夢幻工房」青木由里理事長の『哲学を持て!』という、先週の日曜日に掲載された話です。

 女優を目指して、高校2年生の時に劇団東俳に入りました。
そこで出会った恩師の一人が演出家の杉山健一郎先生。温厚な方で、役者とは、演劇とは、と議論をよく交わしました。印象に残っているのは「哲学を持て!」という言葉です。

 役者にとって大事なのは存在感。それは演技のうまい、へたとは別です。演じる技術だけでは存在感を感じることはできない。確固たる信念を持って、何かを伝えようとするエネルギーがあって生まれてくるのです。
 
 哲学を持つ---。その言葉を聞いて人間について考えるようになりました。小学生の時にベトナム戦争の映像を見た衝撃から「大人は人を殺してはいけないと言うけれど、何でそんなことが起こるのか」と疑問を感じていた私にとって、哲学の探求は人生の大きな糧になりました。
 
 哲学書を読みあさるうち、宗教も哲学だという言葉から、宗教について調べるようになりました。教会や寺院に通ったひ、聖書や経典を読んだりして見えてきたのは、命の重みであり、人問という存在の奥深さでした。そして、内に潜む傲慢(ごうまん)さを転化させるには、何かを信じること、自分のルールや基準を明確にすることが必要だと思うに至りました。
 
 その経験は、戯曲を書き、演出をするようになって、作品の世界観を形作る上でも生きていると思います。
 
 地方から舞台芸術を発信しようと立ち上げた劇空問夢幻工房」では、、毎年夏に小学生以上の子どもや大人を交えた野外劇の上演をしています。子どもたちには、責任感や協調性を学びながら、あきらめずに努力し続ければ必ず夢は実現できることを体験してもらいたい。自分たちがばかみたいに演劇に打ち込んでいる姿が、何かのきっかけになればと考えています。
(2月21日付信濃毎日新聞から)

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 「哲学すること」は、思考することだと思います。程度は自分がそれを決めることができる状態に落ち着かせている、そのことが認識できる程度にです。

 わけのわからない文章になっていますが、要するに「落ち着くべきところ」にある、「納まっている」といことです。

 今朝は、この文章を書いている午前5時31分ころに沖縄地方にマグニチュード6.9・震度5弱の地震がありました。今のところ被害は出ていないようです。

 発生前に今回は警報が出ました。

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人を裁くということ(14)「仏の戒め」と「人の定めし戒め」

2010年02月26日 | 仏教

 今朝は、「戒」には罰則がない旨を解説したブログをみて、日本語の言葉の世界から私の思っていることを書いてみました。

 「戒め」と言う言葉があります。もともと古語の世界ではどのような意味をもっていたのか、今朝は昨夜に引き続き古語辞典を開いてみました。

いましめ【戒め・警め】①注意、訓戒②禁制。禁止③用心して備えること。警戒。④こらしめること。懲罰。⑤捕らえて体の自由を奪うこと。縛ったり閉じ込めたりすること。

とにいうように解説されています。

 この意味合いから、主体、客体との関係から守るべき側の者と、守らせる立場にある側の者の視点があります。

 ここで注目したいのは④の意味です。ここには間違いなく懲罰という罰則を伴う概念があります。

 従って人の定める「戒」には懲罰を含む「罰則」が規程されることが前提になります。

一方仏が定める戒めはどうでしょうか。遺教経に書かれている「戒」です。

 ここに、この世においては、よくととのえられたる戒をこそ、学び習うがよい。なんとなれけ、戒はこれを行なうものに、あらゆる幸いを与えるからである。

 戒を持(じ)する者は、よく自ら制することによりて、多くのよき友を得るであろう。戒を破る者は、悪しきことを行ないて、よき友より遠ざかるであろう。

 戒は第一の依りて立つ処である。これはもろもろの善の母であり、諾法のうち最もすぐれたるものである。されば、まず戒を浄くたもつがよい。

 戒は無比の力である。戒は最上の武器である。戒は最も尊き荘厳である。戒は稀有なる甲冑(かっちゅう)である。
 
 戒は第一の旅資である。戒は最上の路銀である。戒は最もすぐれたる乗物であって、人はこれによって、此方(こなた)より彼方(かなた)へとおもむくことができる。

この言葉は、宗教家の増谷文雄先生の『阿含経典による 仏教の根本聖典』(大蔵出版P307)から引用しました。

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 このように仏の戒めには罰則はありません。一方西洋の宗教には厳格な守りと罰則、神の怒りを伴います。

 人が人に罰則を与える。これはとても重大なことです。それは専門家に任せ、専門家はその自覚とともに最大の尊敬を受けなければなりません。

 現代は、尊敬すべき一部が悪さを行い、残りの多くの尊敬されるべき人も批難される社会になってしまいました。

 庶民のための裁き、これは人が定めた「戒め」が根拠です。人が作った宗教と同じく怒りを持つのが普通です。人が処罰権を持つととんでもないことになる歴史的事実がたくさんあります。法治国家内においては専門家にお任せするが最善だと思います。

 このような当たりまえのことが形骸化される、とても怖いことです。

 「仏の戒め」と「人の定めし戒め」それはそれは深いものだと思います。

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春の陽気に「陽気」という言葉をみる。

2010年02月25日 | 東洋思想

 早朝の外の気温から今日は春のような天気にだろうと予想していたところ、松本平は19度を超える春の陽気となりました。

 この気温は4月下旬から5月上旬の気温ということです。帰宅時のラジオニュースで聞き「春の陽気」という言葉に惹かれました。「陽気」は「ようき」とことばですが、どう見ても「漢語の世界」ですので中国のの辞典を引いてみました。岩波の日中辞典ですが(写真)ご覧の通り、現代中国語では日本語の「陽気」に匹敵する概念を表すには別の言葉を使用するようです。

次に『広辞苑』を開いてみますと、

 ①陽の気。万物が動き、または生じようとする気。②心がはればれしいこと。ほがらかなこと。気分がうきうきすること。③時候。季節。
と解説されている他、「朱熹の文」として
 陽気発する処金石亦透る。(いかなる困難も精神を集中して行えば打ち勝つことができる。)

が紹介され、

 「精神一致何事か成らざらん」と同趣旨。

と解説されていました。さらに角川書店の『大字源』みると「陽気」は二種類に分かれ

①陽の気。万物が動き生じようとする気。春の気。②ア[国]晴れ晴れしいこと。にぎやかなこと。イ気候、季節。

と、上記「朱熹の文」が紹介されていました。

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 そもそも「陽」「気」と言う言葉を見たときに、儒学、道教の「気」とか「陰陽」の言葉が浮かびます。

老子の第42章には次のように書かれています。(『老子』蜂屋邦夫訳注 岩波文庫P202)

 道は一を生じ、一は二を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負い陽を抱き、沖気以て和を為す。

 無という道は有という一を生みだし、一は天地という二を生みだし、二は陰陽の気が加わって三を生みだし、三は万物を生みだす。万物は陰の気と陽の気を内に抱き持ち、それらの気を交流させることによって調和を保っている。

この文章の注釈は、

1 道生一 本章には『老子』の有名な万物生成論が展開されているが、多くの解釈があり、的確な理解は難しい。四十章の「天下の物は有より生じ、有は無より生ず」を参考にすれば、「道」は「無」のことであり、「一」は「有」のことである。「無」は捉えどころがないからそう言ったのであり、そこには「有」も潜在しているのであって、何もない空虚の意味ではない。「一」である「有」は存在一般を指し、そこで、場合によっては三十九章に見えるように「道」の意味にもなる。

2 一生二 王弼注には「一と言う以上、言葉が無いわけにはいかない。言葉があり一があるのであるから、二でなくて何であろう」という意味の説明があり、存在とその言語表現で「二」としているが、観念的であり、『老子』の思想はもう少し素朴であろう。その他さまざまな説があるが、ここは、存在一般は具体化すれば「二」になるということで、「二」は天地を指すと考えられる。

3 二生三 古代中国では、天には陽の気が、地には陰の気があって、相互に交流し活動すると考えられていた。すなわち、天地があれば陰陽の気があるわけで、「三」は天地に陰陽の気を加えて言ったものと考えられる。

4 三生万物 天地間の陰陽の気が混ざりあって万物を生むということ。

5 負陰而抱陽 「負(ふ)」は背負うこと、「抱(ほう)」は抱くことであり、どちらも含み持つ意味である。

6 沖気以為和 「沖気(ちゅうき)」は、調和、和合させる気という解釈と、陰陽の気を沖(ちゅう)する(揺すり動かす)という解釈の二つの解釈がある。いま後説をとり、陰陽の気が相互に作用し合うことと解した。

と解説されています。

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春の陽気から老子の思想にまで発展してしまいました。

 そもそも日本の古語にはこの「陽気」はないのかと思うわけですが、古語にはでてきません。然らばどのように表現するのかと逆引きの古語類語辞典(三省堂)を引いてみますと、

はなやか(華)、わららか(笑)
陽気になる・・・・うく(浮)
陽気に振る舞う・・・・いまめく(今)。はなやぐ(花)


 時候。季節に関する表現はないのですが、上記のように解説されています。

 ここで注目したいのが「いまめく」です。現代語として使うことは内容に思います。そこでこれも古語辞典をみて見ます。今日はベネッセを使用します。

 この辞書には、「いまめく」があるのですが、その前語に「いまーめか・し」という言葉があり「語相」として次のように解説されています。

 「いまめく」が形容詞化した、中古では、華やかで陽気なさまについて肯定的にいわれることが多い。中世以降、否定的にも用いられ、華やかすぎて軽薄なさま、わざとらしいさまも表した。

「いまめく(今めく)」は、
 現代的になる。当世風にふるまう。

となっています。私見ですが、「いまめく」は、当世の、今の、その時の「ときめき」の感慨が含まれているように思います。

 ある現象、事象の中にある陽的な感慨が生起している状態を表しているように思います。

 風が生じて波が起きるよいう「因果」的なものとは異なり、水に波が生じる「水と波」との関係に似ています。この関係を「体用の論理」というものです。(『朱子学と陽明学』島田虔次 岩波新書P3~P5)
 
 島田先生によるこの「体用の論理」は中国的なものではなく、仏教的要素があるようです。島田先生はこの中で六朝時代、梁の武帝の『立神明成仏義』から次の言葉を引用しています。

「無明の体に生あり、滅あり、生と滅とは用であって、無明心には、何の変化もない」

この言葉を水と波の関係にみるとき、何かが見えてくるように思います。

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 春の陽気の中で「陽気」と言う言葉に思考を重ねると時間を忘れてしまいます。
日本語にある「陽気」、「いまめく」とても深い意味があるようです。

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幕末イタリア使節が見た日本の宗教

2010年02月25日 | 歴史

       (アンベール『日本絵図1870年パリ刊』横浜弁天通り)

 19世紀の初め鎖国日本では、長崎だけが唯一の外国との接点地で特にオランダとは密接な関係にありましたが、このころになると相次いで、長崎にアメリカ船、イギリス船が姿を見せるようになりました。

 そして半世紀たった1853年(嘉永6年)には、ペリー艦長率いる蒸気船が浦賀に現われ開国を要求し、ロシア使節プチャーチンは長崎に来航し開港を要求しました。

 翌年1854年(安政1年)ペリーが再来日し日米和親条約が結ばれ下田・函館の二港が開港となり鎖国体制が崩壊し、幕末明治維新へと進んでいきます。

 1859年(安政6)5月には英国の総領事オールコックが着任、翌年1860年には幕府の咸臨丸はアメリカへ向かいました。

 1864年(元治元年)8月にはアメリカ・フランス・イギリス・そしてオランダの四か国が下関を砲撃、フランスも本格的な利権の取得のために活動を始めます。

 ひとたびアメリカに門戸を開かれるとこのように西洋の主だった国がそれぞれの思惑の中に本に来たのですが、イタリアとは1866年(慶応2年)7月に日伊修好通商条約を結びました。

 神秘の区に日本、諸外国では時ならぬ日本ブームが花開き多くの見聞記が出版されました。

 イタリアではヴィットリオ・アルミニヨンという海軍中佐が訪れた慶応2年ごろの日本の様子を綴った見聞記『イタリア使節の幕末見聞記』を出版(1869年)しています。

 その中で日本の宗教については、知りえた知識、目撃状況を次のように書いています。

 日本人は仏教を信奉している。仏教は、予言者的、福音主義的キリスト教の退廃した形ともいいうるもので、不条理な宗礼と哲学的箴言の混淆である。日本人は、中国人やインド人と同じく、四つの主たる仏、すなわち阿弥陀・釈迦・観音・地蔵を信仰している。阿弥陀は中国の諸仏中のもっとも古いものの一つであり、極楽の最高支配者である。日本人は神秘的な形式のもとに、この仏を拝み、僧侶らは庶民を善導するために多くの語を語って聞かせる。
 
 釈迦はシャム(実は釈迦はネパールの刹帝利古種族・釈迦族の王子といわれる)に生まれた。彼を産んだのは処女の母であったが、非常な難産であったため、彼を産み落とすと同時に死亡した。釈迦は永年にわたり、極めて厳しい苦行を行った。伝説によれば、彼は中国に赴いて阿弥陀の教えを説き、宗教書を書いた。この書は孔子の教えに劣らず熱く信仰されている。彼は布教の旅を日本で終えたが、この国の最初の立法者になったといわれる。
 
 観音さまについては、日本人は六十六本の腕と百の手とを付けてこれを描く。この仏は太陽と月をつくり、大空に光を与えた。
 聖職者・つまり僧侶は、よく組織された階級制を有している。これは、強力で永続的な社会組織すべてに必要なことである。この階級制はカトリック教会のそれに酷似している。僧侶は正規僧と俗僧に分かれ、その上にツンドがいる。これはカトリックの司祭に相当し、僧侶を任命し、これにいけにえを捧げる資格を与える権限を持つ。
 
 普通、ツンドは僧院または教団の長である。日本の教団は、説を異にし、互いに反目し合う幾つも集派に分かれている。各宗派は僧侶のまとう衣の色で見分けられる。僧侶の衣は・西洋の昔の陰修士のそれに幾分似ている。
 阿弥陀の僧侶は霊魂の不滅を信じている。この僧侶たちは上層階級の出身で、廉潔の聞こえ高く、政治的にも大きな勢カを有している。彼らは厳しい規律に服し、ヨーロッパのかつての騎士修道会の騎士と同じように武器を携えている。
 釈迦の僧侶たちも規則正しいことで尊敬されている。彼らは夜半に集い、のどの奥から出るような声で仏をたたえる歌を唱える。また、僧院長が毎日説くところの道徳やや哲学の間題について瞑想にふける。
 
 これらの僧侶の中のある者は、かなりんの学識があり、若い子弟を教育する。また、ある者は禁欲生活を送り、回教の僧のように苛酷な苦行をおのれに課する。さらにまた、ある者は托鉢によって生き、死人のような顔色をしている。これらの僧侶は、たとえ身体が清潔であつても、その姿は不気味なものである。
 しかし、正規僧の大半は放埓(ほうらつ)な生活をしており、僧院内に、彼らの宗旨を奉じる尼僧を置いている。これらの尼僧のうち、禁欲節制の誓いを立てる者は少ない。また、ある者たちは、自分の属する寺院に処女性を売り渡し、寺の財源となっている。
 
 仏教には、さまざまな仏と偶像があるにもかかわらず、日本国の政治組織は神道を基礎としている。神道とは神の道であり、往古の君主を神として祭り、祖先への崇拝を旨とする。日本人は無数の精霊の存在を認めるが、この精霊は大気中を浮遊しているとされ、それがどういう性質を持っものかは知られていない。精霊は感知できる姿をもって現われることもあり、あるいは生き物となって現われることもある。先祖の霊魂は、生きている者たちの中に住み、子孫の平安と幸福を見守るものとされる。
 
 神道の教理によれば、死は人知碧超える神秘であり、人間は現在への不安と未来についての暗黒の中で生きなければならない。そこで人間は、適度の快楽を求めながら、この世を楽しく生きることを主な目的とすることになる。その際・悪霊を鎮め、その黙りを避けるように注意する。ピタゴラスの唱えた古い学説である輪廻の思想は、神道の教えと一致している。死者の霊魂が何かの動物の体内に転生するということを信じるために、日本人は動物の肉を食用としない。庶民は魚と米と野菜を常食とし、富者の食卓にも家禽(かきん)の肉がたまに上るだけである。

 日本の最高の神は天照大神である。この女神を始祖として何人かの神または半神が続き、その最後が神武であり、初代の天皇となった人物である。この天皇は別名を神日本磐余彦尊と称し、そののちの代々の後継者は御門(ミカド)という称号をとなえるに至った。
 
 誰もが気づくように、日本の神々の系譜は、オクタヴイアヌス.アウグストウスの後継者たるローマの帝国内に行わせようと図ったものと幾分類似している。当時、ローマの元老院は、アウグストゥス・リヴィウス・ティベリウスなど物故した皇帝およびそれらの後継者たる現在の皇帝に関し、彼らを神として遇し、神殿を作り、神官に任命する旨の布告を行った。しかし、日本の天皇は、俗権のほかに神権をも併せ持ち、神の子孫と信じられるために無制限の権威を与えられている。そして、その住居は内裏(すなわち、皇居)とよばれている。
(『イタリア使節の幕末見聞記』大久保昭男訳 新人物往来社P162~P164)

 内容的におかしな部分もありますが、当時の日本の様子を知ることができます。

 イタリアという国は、日本に何を求めたかと言うと蚕だということです。  ヨーロッパでは1850年代の終わりごろから60年初頭にかけ蚕の卵に悪疫病が発生し、イタリア・フランスの養蚕業は打撃を受けてました。イタリアは日本の卵が評判がいいので通商条約を結び本格的に輸入することにしたようです。

 幕末期でたまたま読んだ本の中に宗教関係の記述がありましたので紹介しました。

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人を裁くということ(13)公正そして幸福

2010年02月24日 | つれづれ記

 裁判員裁判で死刑判決が出る可能性のある、裁判員になることに拒否をする方が多いようです。理由は、「私にはそのような重要な判断をすることができない。」ということのようです。

 裁判員制度に求められた根底にあるものは「公正」です。今までの裁判にこの「公正」がかけているので社会正義は満たされていないことから庶民にその「公正」な判断を委ねようというものです。

 「不偏不党」「公平中正」とは日本の公務員に求められている崇高な使命です。これは実際法律にも規定されている事柄であるのですが、まるで過去の産物のようになってしまいました。

 近代的な平等を求める以前の歴史の中で、庶民が求めたものは「公正」です。公正さが保たれないので平等感が発生してきた、私はそのように思います。ですから「公正」ということが第一であると思います。

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 重要判決を下すとき、量刑を考えるとき裁判官の偉大さが見えます。

 いくつかの不適正(不公正)な裁判が全体の裁判の「公正」を破壊しました。
 
 そしてすべての裁判とは公正ではないのだよ、すべての捜査とは違法なものなのだよ、すべての取調べとは善良な庶民が泣かされる事なのだよ。いつのまにか庶民の心に刷り込みがなされてしまいました。

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 「死刑」。ある被告人が絞首刑になる。それを判断する。「私にはできない」と苦悩し拒否する人を非難することは私にはできません。

 裁判員制度が、本当に理想とする社会を作る制度なのでしょうか。所得の格差を見ても平等という言葉が、仮想であることがわかります。崇高な理念と説く人もおられますが、理念は現実ではなく理想です。

 これと同じく、裁判員制度の制度理念も仮想の範囲を出ないように思います。

 最大限求められるのは現実的な「公正」です。

 「真理を求める努力はいたるところできわめて無思慮にほめそやされているが、その努力が偉大な要素を帯びるのは、当の誠実な人間が公正であろうという無条件の意志をもつかぎりにおいてのみのことだ。」

 ニーチェの『生に対する歴史の功罪』の言葉です。ここには、幸福についても次のように語られています。

 最小の幸福においても最大の幸福においても、幸福を幸福たらしめているものは常に一つである。すなわちそれは忘れることができるということ、もっと学者風に言えば、幸福が持続しているあいだ物事を非歴史的に感覚することのできる能力である。
 
 すべての過去を忘れて瞬間の敷居に腰をおろすことができない者、勝利の女神のようにめまいも恐怖もなく一点に立ち止まることができない者は、幸福とは何かを決して知らないであろうし、さらに悪いことには、他人を幸福にするようなことを決してしないであろう。」

 一点に立ち止まるほんのひと時に「幸福」を感じられる私でありたいと思います。そして誠実に生き、公正に扱ってもらえればそれだけでいいのです。

 扶養申告の際の妻の所得制限「103万円」の撤廃。悲しいかな、どう考えてもそこには「公正」はみられません。

 今朝一番言いたいのはここです。私は小さな幸せに感動を持続させたいだけです。

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