思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

一切衆生 悉有仏性

2005年10月28日 | 仏教
 通過儀礼という用語は、元服、割礼など民族学上のある種個人の社会的立場の変革などの機会を表現している。
 ユング心理学では、自立、人格の向上の機会に現れる障壁と打破と通過を表現している。障壁到来は、神によるものと理解するならば西洋的な思考で十分に理解される。
 
 自分自身に生まれながらに具わっている自分を自分であらしめる根源的な心が、生けるものすべてに具わっているという、「一切衆生 悉有仏性」の仏教世界では上記の通過儀礼は他律的な出来事ではなくなってくる。
 
 例えば、華厳経の世界では、すべての世界の海はかぎりない因縁によって成り立っていると理解し、さらに将来も成立するであろうと理解する。
 そのため衆生には無上の悟りの機会が与えられる。自ら求めるならば、対機説法の形になり各自の機根に応じ説法は異なる。

 念仏信仰であろうが、禅宗であろうが、機根に応じた説法である。
 
 そこでは、自分の大切さが重要な鍵であり、形而上学的な観念は存在する余地はない。 死後の世界、霊の世界、天国や地獄など、人間の思考を超える世界に己の存在を関係付けることは、方便と捉えるべきで、一つの儀礼でしかないと理解すべきである。

 友松圓諦訳講談社法句経160「己こそ己の寄る辺、己を措きて誰に寄るべぞ、よく整えし己にこそ洵(まこと)、得難き寄り辺をぞ獲ん」
 長部経典「さればアーナンダよ。ここに自己を燈明(洲)とし、自己を依処として、他人を依処とせず、法を燈明(洲)とし、法を依り処として、他人を依処とせずして住せよ。」

 仏陀の教えとされる自灯明・法灯明、自帰依・法帰依である。

観音菩薩のみすがた

2005年10月11日 | 仏教

 早朝に出会う事物について時々文章にしてみるが、今日は仏像である。
 ページの写真としてアップロードさせてもらう中に青銅製の観音像があるが今日はそれを題材にしたいと思う。
 曹洞宗の寺の本堂におられる像で、3年も毎日拝ませていただくといつしか「みすがた(み姿)」が「みすがた(御相)」に変わっていることに気がつくのである。「観られつつ、観ている」観音様に気がつくのである。 
 
 仏身を観るをもってのゆえに、また仏心を見る。仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈しみをもって、もろもろの衆生を摂するなり。(観無量寿経 浄土三部経下 岩波文庫P61)

 松原泰道老師は、「仏心・仏性は人間を人間たらしめる根源のいのちを指しますから、私はそれを(純粋な人間性)と申します。」といわれる。

 老師は、また「すがた」について
 「相」と「姿」とは違う。「姿」は外見に表れた通りの体つきや顔かたち。「相」は、人相という熟語があるように、外から窺えないその人の内面の心の様子が、その人の顔や体や動作に表れるのをいう。
と語る。(観音菩薩 信ずる心4集英社)

 自分自身を観たとき、「如何なる相をなしているのだろうか。」とふと考える。

 というのは、今話題の阪神株上場の某氏の目つき、目の輝きが某県知事に酷似していて、皆様から注目され、また見られる姿に、二人がダブって見えたからである。


境界線不動の碑とバリ島のテロ

2005年10月03日 | つれづれ記

 亡中村元先生の著書に「思想をどうとらえるか」という東京選書から出版された書籍がある。
 最後の「平和を希求」という章があり、そのP249に

 人はどうかすると、とかくエゴイズムに駆られる。だからその点を反省して、我執を離れねばならない。そして、そのことがもともと無我の教えであったはずである。それは他の面からみると、他人の身になって考えるということである。それはまた、同情であり、共感であり、基本的には愛情であるといえるであろう。仏教ではこれを「慈悲」と呼んでいる。

と書かれている。

 通勤で通る道そばに古い2階建てのモルタル造りの建物があった。最近取り壊され整地され今度は別の建物ができるらしい。
 取り壊しているときから、その建物のあった土地と境の土地のところに、何か黒い物体があるのに気がついたが、瓦礫と草で判別できずいつも素通りしていた。
 瓦礫も取り除かれきれいに整地されるとそれが何であるか判明した。それが写真にある石碑である。
 石碑の側面には、「境界線不動の碑」と書かれており、北面は、
  世人は
  貪恣を軽蔑す
  貪恣は
  餓鬼の性なり
  末代の恥なり

となっている。他の面には昭和50年勝訴の経緯や碑の設置者の氏名が書かれている。

 200坪ぐらいの土地でしょうか。これを二分する戦いなのか、境界線の内と外の線引きの争いなのでしょうか。結果から設置者の主張とおりの結果になったようである。
 それにしても凄まじい碑である。末代の恥とは、勝者のことなのか敗者のことなのかと疑いたくなるような碑である。
 取り壊さないでそのままこの碑は、この地にあり続けるようで、丁寧にホコリがぬぐいとられ遠くからも黒光りしていてよくわかる。

 バリ島のテロは、イスラム過激派による自爆テロということのようだ。
 自爆テロの行為者は、死後は天国で生き続けることが約束されているから罪悪感はないという話しをよく耳にする。

 自分たちは善でありそれ以外は悪で分別の極致である。
 無分別智の慈悲の世界などはあるのであろうか。宗教が同じでも宗派が異なれば米国と同等の存在で、いつもテロの標的である。
 
 しかし、我々の世界も上記の「境界線不動の碑」が存在する。
 不生の仏心、母から生まれたときからあるという仏心、仏性もいわゆる自我の目覚めとともに覆い隠されてしまう。
 人間らしくなりなさいという、仏の手の中でそのぬくもりに触れる時もあるが、所詮凡夫である。痛いほどに同じ経験を積み重ねることになる。逃れるには、この経験の繰り返しの意味を理解し、仏心に目覚めるしかない。
 意に沿わないことや苦しみ悲しみに出遭うとき、喜びのときもそうである。「おかげさま」で目覚められるように己を整え続けたいものである。


色即是空 空即是色

2005年10月02日 | 仏教
 「今の日本には物がありすぎる。何でもあるということは実は何もないことで、これ一つという大事なものがないのである。」という言葉がいつも早朝お邪魔するお寺の掲示板に掲出されている。
 いきなりこの文章に出遭うとびっくりする。「色即是空」をいうのであろうか。
 目に見える存在というものは空しいものである。空しいとはあらゆるものがかかわりあってはじめて存在できる。「即」とは離れてはないという意味である。
 色と空とは異質のものではなく水と氷のように本質的には変わりはない。というのは松原泰道老師。
 美しいものを素直に美しいと見て、しかもそれにいつまでも引きずり回されないことが本当の智慧であるという。

 かかわりあいというものがあってはじめてはじめて色(目に見えるもの)になりえるのだから、色は尊い。
 「空即是色」は完全な間違いという上座部仏教徒がいるが、論理(ロジック)的に観ても間違えとは思えない。
 老師は、心の目で見るということはこういうことだという。
 大事了畢(己事究明)までは下山できない。