立ち寄りブログに田辺元先生の名をに接し先生の西田先生の批判文書の一説を思い出しました。西田とは言うまでもなく西田哲学の西田幾多郎先生です。
「先生がカント以来ドイツ観念論者の説いた自覚の解釈を不完全として、自己が自己を見る主客の合一という規定の上に、更に自己に於いていう場所的制約を加えられたことは、殊に後年のシェリングやヘーゲルの思想を補正するものとして重要なる意義を有するものと思う。しかし私の考える所によれば、場所は自発的に自己を限定するものではない。逆に限定に由って始めて場所と現われるのである。・・・」(『田辺元媒介的自立の哲学』(書肆心水・P278)
先生というのは西田幾多郎先生のことですが、思考探究する私自身、私のおいてある場所、私が私であるとする場所を「ある」という「現れの中」で感じ取っています。
自覚する自分、自覚する己、存在の驚きの中にある時それに気がつきます。
「場所」というと限定された位置や範囲の中に固定されたものと思いがちですが、
そういうもの
そういうこと
と自覚する私は何者かと問うたところで現われの中に「ある」としか言えません。
ここである話を思い出します。僧侶で小学校の校長先生もなされた東井義雄先生がなされたお話を時々引用しますが、平成2年にEテレのこころの時代という番組の中で語った、「仏の声を聞く」という話の中での話で、神戸の盲学校の全盲の生徒さんが語った次の言葉です。
「もしも目が見えるようになったら?」
という質問に答えて、
「先生、そりゃ、もし見えたら、真っ先にお母ちゃんの顔が見たいわ。でも、もし見えたら、ぼくなんか、あれも見たい、これも見たい、ということになってしもて、気が散ってダメになってしまうかもわからへん。見えんかて、別にどういうこともあらへん。先生、見えんのはそりゃ不自由やで。でも、ぼく、不幸や思ったこと、いっぺんもあらへん。先生、不自由と不幸は違うんやな」
という短い話ですが、この生徒さんの自覚に驚かされますし、問われる私がそこにあることに気がつきます。驚きの中に驚きの真中の自分があります。
「自由」というと直ぐに他人から拘束されない自由を思い出してしまいますが、そのような意味合いの「不自由」ではないことは言う間でもありません。
さらにこの生徒さんの言葉に、最近読んでいる東田直樹さんの『自閉症の僕の七転び八起き』の中での言葉が思い出されます。「孤軍奮闘」の「自閉症で良かったこと」という文章の中の言葉です。
「確かに自閉症者が、この社会で生きていくことは大変です。しかし、たいへんだということが、そのまま不幸ではないと思います。」
と東田さんは語っています。その後の東田さんの言葉とともに「ガツン」と我が身を叩かれます。
見るものでもあり、聴くものでもあり、語るものでもある私です。
どう考えても「働くものの内にある」としか言えません。
この働くものの内にあるという自覚こそが現われであって、場所の限定はまさにおのずから、みずからの間の「あわい」のなかに「ある」としか言いようがありません。
スピチュアル的な超越存在の自覚では無く、ひたすら(只管)の内にあります。
主はもっとも自分に近い存在として自覚されるとき、「不自由と不幸は違うんやな」と、語ってくれます。
崇めるものでもなく、拝むものでもなく・・・
逆に、拝まれるものとしての語りが織りなさたところに存在の感謝があります。