思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「不自由と不幸は違うんやな」と語る時

2015年07月31日 | 思考探究

 立ち寄りブログに田辺元先生の名をに接し先生の西田先生の批判文書の一説を思い出しました。西田とは言うまでもなく西田哲学の西田幾多郎先生です。

 「先生がカント以来ドイツ観念論者の説いた自覚の解釈を不完全として、自己が自己を見る主客の合一という規定の上に、更に自己に於いていう場所的制約を加えられたことは、殊に後年のシェリングやヘーゲルの思想を補正するものとして重要なる意義を有するものと思う。しかし私の考える所によれば、場所は自発的に自己を限定するものではない。逆に限定に由って始めて場所と現われるのである。・・・」(『田辺元媒介的自立の哲学』(書肆心水・P278)

 先生というのは西田幾多郎先生のことですが、思考探究する私自身、私のおいてある場所、私が私であるとする場所を「ある」という「現れの中」で感じ取っています。

 自覚する自分、自覚する己、存在の驚きの中にある時それに気がつきます。

 「場所」というと限定された位置や範囲の中に固定されたものと思いがちですが、

 そういうもの

 そういうこと

と自覚する私は何者かと問うたところで現われの中に「ある」としか言えません。

 ここである話を思い出します。僧侶で小学校の校長先生もなされた東井義雄先生がなされたお話を時々引用しますが、平成2年にEテレのこころの時代という番組の中で語った、「仏の声を聞く」という話の中での話で、神戸の盲学校の全盲の生徒さんが語った次の言葉です。

 「もしも目が見えるようになったら?」

という質問に答えて、

 「先生、そりゃ、もし見えたら、真っ先にお母ちゃんの顔が見たいわ。でも、もし見えたら、ぼくなんか、あれも見たい、これも見たい、ということになってしもて、気が散ってダメになってしまうかもわからへん。見えんかて、別にどういうこともあらへん。先生、見えんのはそりゃ不自由やで。でも、ぼく、不幸や思ったこと、いっぺんもあらへん。先生、不自由と不幸は違うんやな」

という短い話ですが、この生徒さんの自覚に驚かされますし、問われる私がそこにあることに気がつきます。驚きの中に驚きの真中の自分があります。

 「自由」というと直ぐに他人から拘束されない自由を思い出してしまいますが、そのような意味合いの「不自由」ではないことは言う間でもありません。

 さらにこの生徒さんの言葉に、最近読んでいる東田直樹さんの『自閉症の僕の七転び八起き』の中での言葉が思い出されます。「孤軍奮闘」の「自閉症で良かったこと」という文章の中の言葉です。

 「確かに自閉症者が、この社会で生きていくことは大変です。しかし、たいへんだということが、そのまま不幸ではないと思います。」

と東田さんは語っています。その後の東田さんの言葉とともに「ガツン」と我が身を叩かれます。

 見るものでもあり、聴くものでもあり、語るものでもある私です。

 どう考えても「働くものの内にある」としか言えません。

 この働くものの内にあるという自覚こそが現われであって、場所の限定はまさにおのずから、みずからの間の「あわい」のなかに「ある」としか言いようがありません。

 スピチュアル的な超越存在の自覚では無く、ひたすら(只管)の内にあります。

 主はもっとも自分に近い存在として自覚されるとき、「不自由と不幸は違うんやな」と、語ってくれます。

 崇めるものでもなく、拝むものでもなく・・・

 逆に、拝まれるものとしての語りが織りなさたところに存在の感謝があります。


空有論の此岸

2015年07月28日 | 思考探究

 わが生涯においてどのくらい書物を読むことが出来るだろうかと考えるときがあります。最近はどうも本の収集家ではないかと思う程に目の前に書物が並びます。

 専門書なのか一般書なのかその区別なき我が選択に不思議を思います。残り少ない人生に何を求めているのか。

 存在の不思議にその根柢があるのは確かで、日々起こるわが身への問いかけにその源が「ある」確かさの確認かも知れません。

 『論理と歴史』(師茂樹著・ナカニシヤ出版)ということしの3月に出版された仏教関係の研究者の専門的な研究書で、空・有という空有論の歴史をその専門的な立場から東アジアをも含めた歴史を紐解きその形成と現代に問われている「共生」の構造へと論を展開するものです。

 こう語ったところで内容を理解したのかと問われると全くの素人、理解の幅が天空を風に乗って旅する蜘蛛の糸のような幅のない軽量なもの(物・者)の舞です。

 『自閉症の僕の七転び八起き』(東田直樹著・KADOKAWA)を早速読む、いきなり目が止まります。

 「どこから来たのだろう」項の最後に、

 複雑な感情をもっているから人なのです。
 自分の意思だけではどうにもならない思いがあることを、本当は誰もが知っているはずです。(同書p13)

 当たり前の話などと言うのではなく、あまりにも明確な語りに自分が納得し目が止まることに「問い」を感じるのです。

 至極当然

 空有論が宙に飛びます。

 一方新潮選書から大塚柳太郎著『人はこうして増えてきた』が出版されています。副題は「20万年の変遷史」とあります。

 移住・戦争・疫病・農耕・気象変動・定住・文明・産業革命・・・72億人・・・そして今年

 との帯の言葉に、「ある」事の現在形を感じます。

 東田さんの「自分の意思だけではどうにもならない思い。」という言葉が此岸の足下に響きます。

 だからどうなのだという話ではありません。

 四面楚歌で二進も三進もいかない状況などは決してない。

 極まりない事態などというものがあるのだろうか。

 安直な解はなぜ生まれるのか。

 「事態」に対する「自体」が無い時には、既に「死に体」のように思う。

 「問う事」以上に「問われる事」に意味への意志が必要な気がします。

 「人は問われる存在であり、そのように期待されている存在でもある。」

 空有論などというものも説くこと自体に既に意味があるように思います。


今日という日

2015年07月27日 | 今日という日

 信州安曇野有明山麓の朝、昼間の猛暑とは一変、涼しさがあります。遠く松本市の東方の美ヶ原高原の山景色を見ていると、王ヶ鼻にあるテレビ塔に朝陽が当り、中継所のの建物の壁面が輝いています。

 

 7月最後の1週間、今日は1日中松本市内にある会館で、哲学講習会ではありませんが私どもが主催する講習会があり、事務手続の仕事に追われます。

 300人ほどが出席する予定ですがそれぞれにお忙しい中、決められた1年一回の講習会の受講義務をクリアーしなければならず大変な事です。

 特殊なことでもありましょうが、そう決められているとなると一般的な当りまえの当然の事柄になります。

 私にとっての特別・特殊が、誰もが行なわなくていけない、あたりまえのことだと自覚するならば普通の出来事になる。

 自分を中心に考えると、どうも特殊概念に支配されわずらわしさが付きまといます。

 人間の性(さが)でしょうねぇ。情意がそこにあるのですが、淡々と合理的に物事は行なわれているだけのこと、生(しょう)じることにどうしてもそこに意が入り込みます。

 私にとっては、今日は機械的な一日、単純な手続きの中に私は身を投じることになります。

 手続き上の失敗をせぬように配意し終わることに専心したい。


人は意味の中に生きる

2015年07月25日 | 思考探究

 物事を楽観的にとらえる人もいれば悲観的にとらえる人もいます。「悲哀」などという言葉を時々ブログ内で語る私はある意味、物事を悲観的にとらえる人間に見えるかもしれません。

 個人的に4月から三ヶ月ほど人生の節目と思われる「苦悩する自分」を体験し・・・今もかすかにその片鱗は残っているようですが・・・他者から見ればそういう時もあるさ思われますが(簡単な言葉に書き換えられる)、当事者たる私には連日の苦悩でした。

 NHKの白熱シリーズ、7月24日(金)から「心と脳の白熱教室」4回シリーズが始まり、第1回はオックスフォード大学・感情神経科学センターのエレーヌ・フォックス教授「楽観脳と悲観脳」でした。

 脳科学ですから脳の仕組みからこのテーマが語られるのですが、その鍵が「サニーブレイン(楽観脳)」と「レイニーブレイン(悲観脳)」と呼ばれる脳の働きにあるとのこと。

 番組概説によると「人間の脳には危険を察知し恐怖を感じる回路と快楽や喜びを感じる回路があり、そうした強い感情を抑えようとする回路もある。 そうした回路のでき方は人によって違い、悲観的な人や楽観的な人が生まれるという。脳科学と心理学で、あなたの性格に迫る。」まさにこのテーマに興味を持つ方も多くおられるかと思います。

 「認知バイアス」

 自分の思い込みや願望・恐怖心などのために論理的な判断を下せなくなる心理パターン

をこのように呼ぶようで、状況をどのように解釈しどのように受けとめるかによって同じ事象が全く異なるように見え、それが人それぞれの性格に影響してゆくとのこと。

 このバイアスにはいろいろな種類があり番組では、

・帰属の誤り(自分をどのように評価するかを示す)

・注意のバイアス(何に注意を示すか)

・解釈のバイアス(同じ出来事をどう解釈するかを示す)

・記憶のバイアス(人生における様々な出来事のうち何を記憶にとどめるかを示す)

が代表的な4つのバイアスだと説明されていました。

 まことにその通で、日々の出来事に私はそのような心理パターンの内に右往左往しているように見えます。

 なぜ私を敵とみなすのか。

 4月に始まった私の事象はこの言葉に代表される。

 彼の性格もあるが私が彼の職場に入ることで彼は来年退職しなければならないことになる。

 彼は全く退職の意志は無かったのだから・・・この解釈は正しかったと思う。

 マンネリ化した仕事の中で余裕の時間を持ち好きなゴルフに興じる喜び。

 多くはない給料ですが年金生活者にとっては大変助かります。

 それを奪うのですから・・・私は侵略者というわけです。


 「おれはケンカぱやいのだぞ!」

 この言動には、驚き桃の木山椒の木でした。

 結局は彼の「往生際(おうじょうぎわ)」になるのです。

1 死に際。
2 ついにあきらめなければならなくなった時の態度や決断力。

これが、善いか悪いかで他者との関係も変化してきます。

 NHKの「心と脳の白熱教室」の番組紹介をしようとしたわけではなく、私の思考の世界のきっかけにしたわけで、「善いか悪いか」という解釈のバイアスを考えた時に、そこにあるのは「私にとっての・・・」です。

 解釈とは意味付けであって意味には範疇化された己の区分の境があります。

 「ある」ことの区切りの中で意味をなす。その意味が自己を支配する。

 そのパターンのくり返しが時を刻み楽観・悲観を産み出し、悲哀が現われる。

 世の中に境界などというものがなければいいのにと思ってしまうのですが、それこそ意味の無いくり返しが現われます。

 ネコのソラやイヌのララを見ていると毎日をくり返しています。

 それもいいのでしょうが、人間ですから・・・「何かの声」を聴かなければならないように思います。

 長野県出身の宇宙飛行士が今天空を飛行しています。宇宙から見れば誤り無く国境線はありません。

 ある意味、愛で覆われている事実がそこにあります。

 しかしそこには人を見ることはできません。

 解像度の高いカメラで観れば見える・・・という人もいるかもしれませんし国境線も見えるとも云うかもしれません。

 科学を持ち出し物理学を持ち出し・・・大いなる学問がそこにある世界

 その中に生き、どのような声を聞くか・・・ですね。


愛すると云う事は自と他の矛盾の一致

2015年07月24日 | 哲学

数日前に、

 NNNドキュメント「“元少年A”へ ~神戸児童連続殺傷事件 手記はなぜ~」

という番組が放送されていました。
 
 太田出版から私の誕生日に近い6月の下旬に出版された『絶歌』という300頁ほどの本で、作者は“元少年A”で、神戸連続児童殺傷事件の犯人とのこと。本人が実際に書いたのか・・・ということも番組内で語られていましたが、「酒鬼薔薇聖斗事件 生命(いのち)の記」などと帯の背に書かれていると何とも言い難い世の中の成立に矛盾・矛盾の連続性を感じてしまいます。

 全体が違和感を持つのではなく、あくまでも部分と部分の対立で一方は「是」とし、片方は「否」が常にまとわりついて世の現れとなります。いわゆる反対の一致がそこに在るわけで、一致が即ち見せられている現実です。

 見せられると書くと当然・・・「誰に」・・・という主語性という思に駆り立てる私があることに気がつきます。

 綜合的な統一事態というものがあるのだろうか。

 知識を持って何事かを語る上において、さてさて我道を貫くのか・・・誰もが安心・安全を感じる中に綜合的な統一事態を見ることはできないのか。

 「我等が他と対立して、利害相容れない矛盾のところに一致の結合をする心情が愛である。」(『語る西田哲学』書肆心水・p36から)

 西田幾多郎先生のこの「愛」は、私には仏の声という顕現の中に見えるように思う。現実というものは対立の中にあることであるが、主語性を求めたくなる・・・綜合的な統一事態を求めたくなります。

 「我等が真に愛すると云う事は自と他の矛盾の一致である。」(同上)


法治国家に生きて

2015年07月23日 | 法学

 法治国家において、明文化されたされた条項に従うことが求められるのは当然のことで身近な話しならば、赤信号ならば車両も人も止まらなければならない。よく昔は「信頼の法則」とか言われ私以外の他人も当然にその行動を行なうものと信頼していましたが、過失ではなく「みんなで渡れば怖くない」的ではなく積極的にそれに従わない者、いわゆる故意の意思をもって法を犯(おか)し、我が道とばかりに渡ってしまう人(犯罪者)がいます。

 信号機のない国では当然それは犯罪ではなく、赤信号無視という言葉そのものが意味ある言葉にはなりません。

 「してはならないことはしない」

 「住人の多数がその決まりに付従うことが当然のこと」

しかし、今の世の中、国境や垣根を越えた我が生きる範疇の外界はわが認識を越えた流れの中にあります。

 「そうでしょう」と思ったところで「そうではない」という他者が存在し我が意とは異なる世界がそこにあります。

 なぜそのよう私の意図するところとは異なる者の行為に右往左往しなければならないのか。

 私は法治国家に生きている。眼前に広がる現象の中に「他者」を常に意識するのが法治国家ではないだろうか。ということは、

 他者の予測不可能な私(自己)への不法行為・侵害に常に警戒しなければならない。

 なんとも・・・悲しき世界ではないだろうか。

 「信義則」

 信頼し義務としてそれに付従うのが当然こと。

 冷血に条項に付従った裁断

 「悪いことは悪い」

 大岡裁きはありえないのが今の世の中、「御慈悲を」とひれ伏したところでどうにもなりません。

 法を作ればそれに従うのが、法治国家に生きる国民の義務

 しかし「信頼」すべき条項なのか・・・という疑問が残る。

 交通社会においては「赤信号」がなければ二進も三進もいかない。


 赤信号は「信頼」が背後に存在し、止まるという・・・もう無意識的にブレーキを踏む・・・ことが義務以前のこととしてなくてはなりません。

 しかし信号無視する者はいるのです。

 夜間、他の車両や歩行者がいない交差点の赤信号の燈火。周辺には誰もいない。

 赤信号の向こうには、帰宅すべき我が家がある。

 法益の衡量だという人もいましょうが何んと疲れる話でしょう。

 決められた事は決められた事として「青色燈火を待つ」者もいれば、簡単なことなのに「いいじゃないの」と犯す者がいる。

 その裁断は己のみに生じている事態であることに気がつきます。

 「第一講ではカントの定言命法を例にとりながら、近代道徳哲学では、人間に理性があること、実践理性が人間の行動を律し、善悪の判断がかのうであることを素朴に想定していたことを指摘する。そして古代のアリストテレスやトマス・アクィナスの哲学を考察しながら、道徳というものがふつうにかんがえられるように、他者との関係であるよりも、自己との関係であることに注目する。カントの定言命法は、主観的な原則としてみずからにてらして吟味する性格のものであり、他者に対する影響や、他者に対する配慮などが入る余地がないのである。」

 この文章は、ハンナ・アーレント遺稿集ジェロ-ム・コーン編『責任と判断』(みすず書房)の訳者中山元先生のあとがきの言葉です。

 吾々のいるところは現在であって、その現在というところから時が考えられる。私の時は流れ、私の裁断の時が現われ続ける。

 不法行為に対する制裁には侵害の程度すなわち衡量があり、罰則という処罰規定もそれに合わせて存在します。

 世の中が進むと衡量は二の次、「侵害行為には銃弾を浴びせる」自立的ロボット信号が出来るかもしれません。

 絶対に赤信号は守られるでしょうね。

 誰が設置を決めたのだと言ったところで、完璧に法は守られるに違いなく・・・安全・安心なのです。

 いつだれが何を決めているのか。

 足下の此岸(しがん)か、遥か彼岸(ひがん)にあるのか。

 私はどうも関東系のようで「し」「ひ」の区別が無意識の世界で出来ません。

 しおしがりに行く・・・のです。

 そういう話はさておき、

 領土に対する侵害がある。無視がある。侵害する国・者にその「無視」なる前提がない。無視の言葉が想起されない。即ちこの事態では、

 そこは私の領土・土地ですよ・・・と叫んだところで両者には意味の無い言葉になっています。

 意味ある事がらにするには、互いにしっかりと決めるべきことを決めるしかありません。

 先決事項は武装なのか話し合いなのか・・・。

 相手国・者の出来具合にもよりますが・・・出来の悪いのには・・・とつい先に思ってしまいます。

 止めどない話を続けていますが、結論などというものは・・・ないと言ったところでしょうか。


人生最高の美味

2015年07月21日 | 哲学

 最初に断わっておきますが、料理の話ではありません。・・・しかし人生をどのように料理すべきかと考えれば・・・遠からずかも知れません。

 今年の2月に出版された『幸福に死ぬための哲学 池田晶子の言葉』という本があります。講談社から出されている哲学者で文筆家であった池田晶子さんのこれまでに出版された著作から「人生」「自分」など11個のテーマに池田さんの短い言葉を抽出してまとめた本です。

 呼んでいるとまさに魂が残るということを実証したような現実を感じます。本人は肉体的にはその存在をこの世から失いますが、そのまなざしは残り続ける。永遠とは云えませんがまさに今語りかけているように思います。

 YouTubeには「生きていることとは何だろう? 池田晶子 当たり前だけど不思議なこと」という短い話が掲出されていて17万回以上も今もなお聞かれています。

 11のテーマとは、「人生」「幸福」「愛と孤独」「自分」「善悪」「世の中」「科学と情報」「言葉」「老い」「死」「考える精神」で、自分のこれまでに書いたブログもこれらのテーマに収斂されることに驚きます。

 私は、「魂は残る」ことをこのブログの最初に書いたのですが「魂」というテーマはありません。

 「魂」という実体が有るのか無いのか不明なものは感覚で味わうものであって、現在・過去・未来を思考の背景に乗せた「魂」というものは本当に不明確そのものであることに気づきます。

 池田さんのテーマの中から今朝は一つ紹介します。

「人生」から、

 <人生最高の美味>
 結局のところ、「死」こそが、人間にとって最高の謎であり、したがって、また魅惑なのだ。
 少なくとも私は、そうなのである。言葉と論理、すなわちすべての思考と感覚が、そこへと収斂し断絶し、再びそこから出発してくる力の契機としての「死」。この人生最大のイベント、これの前には、生きんがためのあれこれなど、いかに色あせて見えることか。死を恐れて避けようとし、生きんがためのあれこれのために生きている人は、死を考えつつ生きるという人生最高の美味を逃していると言っていい。『残酷人生論』

 ガンでお亡くなりになった池田さんです。この文章はガン告知後の言葉なのか否かはわかりませんが、私には池田さんの生(なま)の言葉のように聴こえます。

 幼い命を自ら断つ子どもたちを時々耳にしますが・・・一方所さんの番組でしたか・・・すごい哲学的な言葉を持つ子どもたちもいます。

 親が育て、環境が育てるのでしょうが、生死観か死生観か、早い時にこの前後の意味を問う力をつけるべきなのかもしれません。

 魂の引継ぎとしては、死生観であることを説かれているように思う。


自然界に対する立法者

2015年07月20日 | 思考探究

万葉集第3849に、

 生死(いきしに)の 二つの海を 厭(いと)はしみ
 潮干(しほひ)の山を しのひつるかも

という歌があります。次の第3850が、

 世間の 繁き仮盧に 住み住みて
 至らむ国の たづき知らずも

でこの二首は河原寺の仏堂の中の倭琴(やまとこと)の面に落書きしてあった歌で作者は従ってわかりません。

 明日香村の河原寺には伎楽団があったことから楽団員の琴演奏家がなかなかいい歌だろうと、自慢げに書いたものだろうか・・・。

 楽団員は舶来の学問として仏教を学んでいたようで、仏教の教えがこのような世界観を、説くに至らしめたということが言えそうです。

 東国の農民ならば日々の暮らしの中からこのような歌は作ることないでしょう。ある階層に生き仏教的な知識を習得し、しがらみの中に悲哀を見、文字を使い意の内を語ったその表現として上記の二首の歌になっているのです。

 「生き死にの二つの海」とは何か。『華厳経』というお経の中に「何能度生死海入仏智海(なんぞよくしょうじのうみをわたりてぶつちのうみにいらん)」という言葉があって、仏の知恵を般若といい、般若の船にのって生死の海を渡るという意味のようで、最初の第3849の歌は、

 「海は潮が満ちたり引いたりすることにより、生の海だったり、死の海だったりする二つの世界をもっているが、その生死の二つの海を厭わしく思って、潮の満ち干のない山が慕わしい。」

という意味のようです(中西進著『万葉秀歌選三』四季社・p109)。

 楽団員は、海の潮の満ち引きが、人生の悲哀、浮き沈み語っているように感じたのでしょう。この無常は厭わしいもの、不愉快で嫌なものと解していたようです。世間は無常なものという無常感を当時の知識層は仏教から学んだようですが、「無常住」という仏教の教えは「物の本質は常に止まるところがない変化して行くもの」という無常観なので、情け容赦のない現実としての無常感として解するものではないのです。

 山がなぜ慕わしいのか。

 「潮干(しおひ)」の意味するところから、潮の満ち引きのない場所としての山だからということになります。

 「無い」処(ところ)としての身を処す空間・時間を「思・想」うからだろう。

 物々交換からはじまる数的な「0(ゼロ)」という概念は、有る無しを明確に分別します。

 インドにおける原始仏教では「無い」は虚虚無感の概念としてのネガティブに使われた。これは「有る」ということに対する「無」という一つの在り方で、「世の中は無だ」といえば虚無思想の概念になる。
 しかし中国仏教における「無常住」の「無」は、「有る」「無し」という価値観を超えての根元にある基本的概念である。そのように変容した理由は、中国には仏教を受け入れる以前から老荘思想というものがあり、そのなかに存在の基本としての「無」があった。老荘思想の最高の価値観は「無為自然」で、その人格を持つ人を真人(しんじん)という(中西進著『万葉秀歌選三』四季社・p108)。

 理解というものは変遷過程があり、弁証法的な止揚の過程でもあり身分制という身の置き処が、認識、理解というものに大きな影を落とします。

 世間無常は世間無情を・・・どうすることもできない処の体感があるからで、憧れようがどうすることもできない事態の継承があります。

 そこに世の乱れ、乱世の時代になると下剋上の身分破壊が始まり、大陸の春秋戦国の乱世に似たりの世界が広がります。儒教的な階層的な社会からの退避、インド仏教が老荘の思想をも含む理解の上に変遷過程を踏み本格的な思想としての根元性へと向かったとき、そこには「有る」「無し」を超越した世界観が生まれる。

「ある」という事態は、有(あ)る、在(あ)るであり生(あ)ることでもある。

 無我の境地はある反面、はからいの只中にあることの気づきでもあります。

 誰が事態を作るのか。

 誰たる主語のなき世界がそこに生まれます。

 社会を動かしているのは誰なのか。政治家なのか。国民なのか。

 国家に、社会に、アイデンティティがあるのか。

 「普通に自然界というものを、私というものに対する他と考えるけれども、本当は自然界と云うものは我々の自己と云うものをずっと拡げて行けば自然界を含むということが出来る。カントの考えのように経験界と云うものは純我の綜合統一によって成立と考えれば、我々の自己と云うものは自然界に対する立法者だと云うこともできる。・・・」(『語る西田哲学』書肆春水・p27)

 国家・社会が有機的に綜合統一的にあるものとするならばパーソンが現われる理解が先行するだろうし、実際に明治以降の教育で培われたカント道徳観は根深いものがあります。

 多数の人間はそれに従くことが正義であり、義務であるという認識が先行する。

 「憂う」

 事態を憂う根元的な主体が、我を超越し「ある」とするならば・・・。

 日本的なものの考え方の中には述語に主語を含み理解があります。

 先行する、はからいの世界がそこに現われてるという体感です。

 どうも世の中は徴兵制が始まり戦争が始まる気配が蔓延しています。

 日本人は平和主義者が多く戦争は絶対に行わない。

 貴方の向ける銃の前に立ち、無抵抗主義を貫く覚悟である。

 しかしこの「無」というものが曲者で、事態の現れの根元的に触れているのであろうか。

 いつの間にか歯車になっている事態。

 事態を憂う根元的な主体が、我を超越し「ある」とするならば・・・。

 何か言わんか。

 時々「平和の希望」が聞えるようですが、衆生の心には響かないようです。

 平和憲法は象徴という立場を説いていますが、衆生は悉くこれを形骸化し、戦争放棄条項も悉く形骸化していきます。

 「自然界に対する立法者」

という考え方の恐ろしさは払拭し難いものです。


自然界に対する立法者

2015年07月20日 | 思考探究

万葉集第3849に、

 生死(いきしに)の 二つの海を 厭(いと)はしみ
 潮干(しほひ)の山を しのひつるかも

という歌があります。次の第3850が、

 世間の 繁き仮盧に 住み住みて
 至らむ国の たづき知らずも

でこの二首は河原寺の仏堂の中の倭琴(やまとこと)の面に落書きしてあった歌で作者は従ってわかりません。

 明日香村の河原寺には伎楽団があったことから楽団員の琴演奏家がなかなかいい歌だろうと、自慢げに書いたものだろうか・・・。

 楽団員は舶来の学問として仏教を学んでいたようで、仏教の教えがこのような世界観を、説くに至らしめたということが言えそうです。

 東国の農民ならば日々の暮らしの中からこのような歌は作ることないでしょう。ある階層に生き仏教的な知識を習得し、しがらみの中に悲哀を見、文字を使い意の内を語ったその表現として上記の二首の歌になっているのです。

 「生き死にの二つの海」とは何か。『華厳経』というお経の中に「何能度生死海入仏智海(なんぞよくしょうじのうみをわたりてぶつちのうみにいらん)」という言葉があって、仏の知恵を般若といい、般若の船にのって生死の海を渡るという意味のようで、最初の第3849の歌は、

 「海は潮が満ちたり引いたりすることにより、生の海だったり、死の海だったりする二つの世界をもっているが、その生死の二つの海を厭わしく思って、潮の満ち干のない山が慕わしい。」

という意味のようです(中西進著『万葉秀歌選三』四季社・p109)。

 楽団員は、海の潮の満ち引きが、人生の悲哀、浮き沈み語っているように感じたのでしょう。この無常は厭わしいもの、不愉快で嫌なものと解していたようです。世間は無常なものという無常感を当時の知識層は仏教から学んだようですが、「無常住」という仏教の教えは「物の本質は常に止まるところがない変化して行くもの」という無常観なので、情け容赦のない現実としての無常感として解するものではないのです。

 山がなぜ慕わしいのか。

 「潮干(しおひ)」の意味するところから、潮の満ち引きのない場所としての山だからということになります。

 「無い」処(ところ)としての身を処す空間・時間を「思・想」うからだろう。

 物々交換からはじまる数的な「0(ゼロ)」という概念は、有る無しを明確に分別します。

 インドにおける原始仏教では「無い」は虚虚無感の概念としてのネガティブに使われた。これは「有る」ということに対する「無」という一つの在り方で、「世の中は無だ」といえば虚無思想の概念になる。
 しかし中国仏教における「無常住」の「無」は、「有る」「無し」という価値観を超えての根元にある基本的概念である。そのように変容した理由は、中国には仏教を受け入れる以前から老荘思想というものがあり、そのなかに存在の基本としての「無」があった。老荘思想の最高の価値観は「無為自然」で、その人格を持つ人を真人(しんじん)という(中西進著『万葉秀歌選三』四季社・p108)。

 理解というものは変遷過程があり、弁証法的な止揚の過程でもあり身分制という身の置き処が、認識、理解というものに大きな影を落とします。

 世間無常は世間無情を・・・どうすることもできない処の体感があるからで、憧れようがどうすることもできない事態の継承があります。

 そこに世の乱れ、乱世の時代になると下剋上の身分破壊が始まり、大陸の春秋戦国の乱世に似たりの世界が広がります。儒教的な階層的な社会からの退避、インド仏教が老荘の思想をも含む理解の上に変遷過程を踏み本格的な思想としての根元性へと向かったとき、そこには「有る」「無し」を超越した世界観が生まれる。

「ある」という事態は、有(あ)る、在(あ)るであり生(あ)ることでもある。

 無我の境地はある反面、はからいの只中にあることの気づきでもあります。

 誰が事態を作るのか。

 誰たる主語のなき世界がそこに生まれます。

 社会を動かしているのは誰なのか。政治家なのか。国民なのか。

 国家に、社会に、アイデンティティがあるのか。

 「普通に自然界というものを、私というものに対する他と考えるけれども、本当は自然界と云うものは我々の自己と云うものをずっと拡げて行けば自然界を含むということが出来る。カントの考えのように経験界と云うものは純我の綜合統一によって成立と考えれば、我々の自己と云うものは自然界に対する立法者だと云うこともできる。・・・」(『語る西田哲学』書肆春水・p27)

 国家・社会が有機的に綜合統一的にあるものとするならばパーソンが現われる理解が先行するだろうし、実際に明治以降の教育で培われたカント道徳観は根深いものがあります。

 多数の人間はそれに従くことが正義であり、義務であるという認識が先行する。

 「憂う」

 事態を憂う根元的な主体が、我を超越し「ある」とするならば・・・。

 日本的なものの考え方の中には述語に主語を含み理解があります。

 先行する、はからいの世界がそこに現われてるという体感です。

 どうも世の中は徴兵制が始まり戦争が始まる気配が蔓延しています。

 日本人は平和主義者が多く戦争は絶対に行わない。

 貴方の向ける銃の前に立ち、無抵抗主義を貫く覚悟である。

 しかしこの「無」というものが曲者で、事態の現れの根元的に触れているのであろうか。

 いつの間にか歯車になっている事態。

 事態を憂う根元的な主体が、我を超越し「ある」とするならば・・・。

 何か言わんか。

 時々「平和の希望」が聞えるようですが、衆生の心には響かないようです。

 平和憲法は象徴という立場を説いていますが、衆生は悉くこれを形骸化し、戦争放棄条項も悉く形骸化していきます。

 「自然界に対する立法者」

という考え方の恐ろしさは払拭し難いものです。


おも【思・想】いの中に割り込んでくるもの

2015年07月17日 | ことば

 毎日の生活のなかで物事を見聞きし、何かしかのおも【思・想】いを懐き、みずから作為的な行動に移すこともあれば、不作為に時を過ごすこともあります。

 見るという言葉や聞くという言葉には、自分という主体が主人公になり外界に向けて意思が働いています。

 山を見、林を見、鳥の声を聞き、風音を聞く。

 人を見、人の声を聞く。

ということになるわけですが、見えているもの聞えるものがそこに見え、そこに聞えるときに、

 おも【思・想】いの中に割り込んでくるもの。

があると、

 私が見ているつもりでも、ひょっとすると見させて頂いている。

 聞いているつもりでも、ひょっとして聞かせて頂いている。

という境地が現われる時があります。

 なぜにそのようなものが見え、そのようなことを聞かなければならないのか。

 そのような体験や経験がかつて在り、今まさにあり、これからもそれが継続するであろうかとおも【思・想】うと、

見させて頂いている。

聞かせて頂いている。

などと、「頂いている」という敬語的な尊さの内に身を置くことができるであろうか。

 見聞きすることが心地良さの中にあるならばありがたさに涙がこぼるることもあろうが、悲哀に満ち満ちた事態であるならば「頂いている」などという心境は現れことはないであろうとおも【思・想】う。

こんな言葉があります。

 ただわが身をも心をも、はなちわすれて、

 仏のいへになげいれて、仏のかたより

 おこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、

 ちからをもいれず、こころをも、

 つひやさずして、生死をはなれ仏となる。

       (道元「正法眼蔵」生死の巻より)

 道元さんの言葉ですが、

 おも【思・想】いの中に割り込んでくるもの。

それが何かは分りませんが、只中に、真中(まなか)の時に「頂いている」が現われることがあります。

 仏になる可能性・・・いわゆる仏性が在るか無いかの問いを発するまでもなく、「仏の声を聞く」ことが「ある」と・・・。


きく文化(4)・「“聴く”という生き方」と「魂への配慮」
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/b8afeba7d3e2b8a97559d314be98c242

思考を思考する・万象に感応し咀嚼し叡智を愛する。
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/867a731e6a4222495736556c436e9f33


などといろいろな思いを書き続けてきましたが、歳とともにその世界が頂戴したくなりました。

 どんな思いが入り込み、人を支配するのか。

 き【聞・聴】く耳を持っていない人間がいるのだろうか。