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「実存」と「実在」という言葉に囚われの身となって、素人の軽薄な知識に悩む日々を送っています。
原点に立ち戻るというわけでもないのですがそもそも日本語の両者は辞書的にはどう書き表されているのかを見るとみると次のように意味解説されています。参考にするのは講談社の『日本語大辞典』です。
じつ・ざい【実在】(名・サ変自)
1 実際に存在すること。あること。entity
対義:架空・仮象。
2 哲学で、時間空間的な外的世界に、意識から独立に存在している客観的対象。もしくは事物の本質的な存在。真実在。reality
じつ・ぞん【実存】(名・サ変自)
哲学で、本質に対し、いま、ここに現実に存在するという個人のあり方。実存主義の中心概念。もとスコラ哲学の用語でだったが、キルケゴールが自己存在に関心をもつ人間の主体的なあり方意に用いた。existence
両者は明らかに書かれている内容が異なります。以前に書きましたがこの言葉は「存在」という言葉があるからこのような二つの表現があるように思われます。「存在」という言葉自体は、『翻訳語成立事情』(柳父 章著・岩波新書)によると明治になってからの言葉でこの本では「存在---存在する、ある、いる」という見出しで解説されています。
視点を「存在」という言葉の翻訳事情にもどしてみると、
「存在」は哲学用語であるが、哲学辞典にもなかなか現われてこない。1881(明治14)年の、井上哲次郎等編『哲学字彙(じい)』では、
Being 実在、現体
absolute being 純全実在
rationnal bieng 霊心生類(れいしんしょうるい)
sentiment being 有情物(うじょうぶつ)
などとなっている。1884の改訂版も同じである。だが1912(明治45)年版では、
Being 実在、存在、生類、有
absolute being 絶対実在
human being 人類
pure being 純粋実在
rationnal bieng 合理生類
などとなっている。この頃になると、あらゆる分野で、翻訳語はだいたい定着していて、今日につながっている。
・・・・・・・
と解説されています。ここには「実在」はあっても「実存」という言葉がありません。
日本語大辞典に「実存主義の中心概念。もとスコラ哲学の用語でだったが、キルケゴールが自己存在に関心をもつ人間の主体的なあり方の意に用いた。existence」と書かれています。ここでいうキルケゴールとは、
<フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』>
セーレン・オービエ・キェルケゴール(デンマーク語: Soren Aabye Kierkegaard、1813年5月5日 - 1855年11月11日)はデンマークの哲学者であり、今日では一般に実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されている。キェルケゴールは当時とても影響力が強かったヘーゲル哲学あるいは青年ヘーゲル派、また(彼から見て)内容を伴わず形式ばかりにこだわる当時のデンマーク教会に対する痛烈な批判者であった。
であって、宮原晃一郎という方がデンマーク語の翻訳したのが最初で、「(家庭文学全集) 憂愁の哲理 キエルケゴール 世界大思想全集 第36巻 春秋社1930」があるようです(『世界の名著』中央公論社 第40巻「キルケゴール」付録8対談椎名麟三・舛田啓三郎から)。
1930年(昭和5年)
この年代が日本で「実存」という言葉が使われた最初なのだろうか。素人の私にはよくわかりませんがそう考えざるを得ません。
さらに「人間の主体的なあり方の意に用いた。」とする「実存」、「あり方の意」とは何か、疑問がのこるばかりです。
さて柳父先生の『翻訳語成立事情』に戻りますが、この「存在」に関しての解説は、以前書いたように、
1 辞書におけれ「存在」の翻訳史
2 和辻哲郎の being 翻訳論
3 「である」は翻訳で作られた
4 「存在」は「存」+「在}でない
5 「ある」と「有」は同じでない
6 「私はある」は間違っている
7 日常語の意味を切り捨ててきた翻訳語
について書かれており、この中の“4 「存在」は「存」+「在}でない”にはついては既に紹介しました。今朝は“6 「私はある」は間違っている”について紹介したいと思います。
<柳父章著『翻訳語成立事情』から>
六 「私はある」は間違っている
いわゆる「存在」論の古典的な命題とされている、デカルトの『方法序説』(1637年)の一節、
je pense,donc suis.
つまり英語で言えば、
I think therefore I am.
は、日本語では、
私は考える、だから私はある。
というように翻訳され、「ある」という表現になっている。
これはどうもおかしい、と私は考える。私はある、ではない。私はいる、と言うべきであろう。それが日本語の正当なことば使いである。ところが、この「私は考える、だから私はある」という変な日本語の訳文は、どの哲学翻訳書を見ても書いてある。高校の教科書でもそうなっている。いったいどうして、こういう変な日本語の言い方がまかり通っているのだろうか。
この文句は、かつて、「我思ふ、故に我あり」というように、文語体で翻訳されていた。文語体ならば、これはおかしい言い方ではない。この「あり」の影響で、口語の言い方も「ある」となった、という事情が考えられる。しかし、それにしても、口語には口語の、いわゆる共時的な構造がある。その中へ勝手に文語体を入れてはいけない。
今日の私たちの話しことばでは、「ある」と「いる」とは、はっきりと対立し、区別して使われている。
だが、この文語体の影響ということよりも、おそらく重要なのは、哲学用語「存在」の影響であろう。je suis を、まず「私は存在する」と訳し、それをさらに日本語でやさしく言い換えて、「私はある」としたのではないだろうか。
漢字の「存」も、「在」も、そして和辻哲郎の言う「有」も、「あ(る)」と訓読される。そして「存在する」という成語も、辞書で見れは、第一に「ある」の意味である、とされている。
つまり、簡単に図式化すれば、
Suis→存在する→ある
という、いわは二段階の翻訳の過程をたどっているのである。この矢印の方向は、一方通行であって、逆の方向の思考の働きはない。
「ある」という一見やさしい、日常語風のことば使いは、実は日常語の文脈のルールに従って使われているのではなく、西欧語から翻訳用日本語へ、さらにその翻訳用日本語からの翻訳、という経路で天降ってきたのである。哲学の専門家にとっては、表面上「ある」とは言われていても、その頭の中では、suisなどの横文字と、その翻訳語「存在する」が働いており、そのことばで考えている。「ある」で考えているのではない。だからこそ、「私はある」ということは使いのおかしさが、これまで全く見過ごされてきたのである。
<以上>
ここではデカルトの『方法序説』について書かれています。デカルトと言えば西田幾多郎先生には『デカルト哲学について』という論文があります。これは昭和19年(1944年)7月の『世界』に発表されたものです(『自覚について』西田幾多郎哲学論集Ⅲ 上田閑照編 解説から)。
<青空文庫西田幾多郎著『デカルト哲学について』から>
・・・・・真に自己自身によってあり、自己自身を限定するものは、それ自身に於おいてあり、それ自身によって理解せられるのみならず、自己自身を理解するもの、自覚するものでなければならない。然しからざれば、それは我々の自己に対立するもの、対象的有たるに過ぎない。コーギトー・エルゴー・スムといって、外に基体的なるものを考えた時、彼は既に否定的自覚の途みちを踏み外はずした、自覚的分析の方法の外に出たと思う。
無論それはスピノザのいう如く一つの命題としてスム・コギタンスとしても、問題はこのスムになければならない。我々の自己自身を、デカルトの如き意味において一つの実体と考えるならば、それにおいての内的事実として、いわゆる明晰めいせき判明なる真理も、主観的たるを免れない。
デカルトも明あきらかにこれを意識した。数学的真理の如きも魔の仕事かも知れないとまで考えた。彼は遂に知識の客観性を、神の完全性に、神の誠実性に求めた。デカルトのかかる考といい、ライプニッツの予定調和といい、時代性とはいえ、鋭利なる頭脳に相応ふさわしからざることである。デカルトの如く我々の自己を独立の実体と考える時、神の存在との間に矛盾を起さざるを得ない。
デカルトは「第三省察」において神の存在を論じた。これは結果による証明といわれる。一つは我々の自己に於おいてある神の観念の原因を考えることからであり、一つは我々の自己の存在の原因を求めることからである。無から何物も生ぜない。しかも有限なる自己の内に無限なる神の観念の原因は求められない。また現在の自己の内に次の瞬間への自己の存続の原因は求められない。
そこに創造的なるものが働かねばならない。かかる原因として我々は神の存在を認めねばならないという。しかし斯かく考える時、自己はそれ自身によってある実在ではない。それ自身によってある実在は、神のみでなければならない。それとともに我々の自己の独立性は失われて、我々の自覚は消されてしまわなければならない。而しかして神は我々の自己に神秘的原因たるを免れない。
一体、デカルト哲学において原因というのは、自己自身によってあり、自己自身によって限定するものとして、スピノザのカウザ・スイという如きものであると思う。本質即存在、存在即本質の根柢という意義でなければならない。それには先ず本質と存在との関係が究明せられねばならない。・・・・・・・
<以上>
この中で西田先生は、「かかる原因として我々は神の存在を認めねばならないという。しかし斯かく考える時、自己はそれ自身によってある実在ではない。それ自身によってある実在は、神のみでなければならない。それとともに我々の自己の独立性は失われて、我々の自覚は消されてしまわなければならない。而しかして神は我々の自己に神秘的原因たるを免れない。」と「自己はそれ自身によってある実在ではない」という言い方をしています。
「実存」の意味するところの「人間の主体的なあり方」との相異はどこにあるのか。
デカルトは、上記の通りに「かかる原因として我々は神の存在を認めねばならない」と言葉を変えれば「人間の主体的な存在の背景に“神”を想定せざるを得なかった」と言えるのではないでしょうか。
これはその後のキルケゴールでも事情は同じで先に参考にした『世界の名著』中央公論社第40巻「キルケゴール」付録8 対談椎名麟三・舛田啓三郎から)で作家の椎名麟三は、次のような話をしています。
【椎名麟三】 ぼくは、『死に至る病』を読んで、自己が自己自身を措定(そてい)している限り、どう考えても、どんなにあがいてもだめだと思った。結局、第三者というか、キルケゴールの場合は“神”であるが、ぼくはそれを、“世界”と読みかえてみたのです。・・・・。
「自己が自分自身を措定」の意味は、「人間の主体的なあり方」として存在の根底がなければ、とも読み取れると思います。椎名さんは自己という存在のあり方を世界との関係性に以っていきますが、キルケゴールは結局デカルトのごとくに“神”に行きつくということです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何を言いたいのか、「実存」「実在」という言葉、翻訳事情と共に時代というものが微妙にかかわっています。
存在と言えば「現象学」があります。
創設者 エトムント・フッサール (1859-1938年)
第二世代 マルティン・ハイデガー (1889-1976年)
第三世代 ジャンポール・サルトル (1905-1980年)
エマニュエル・レヴィナス (1906-1995年)
モーリス・メルロ=ポンティー(1908-1961年)
という流れがあって「実存主義」という言葉は誰もが知るところですが「サルトル」の言葉です。
西田先生の『デカルト哲学について』には、
「自己自身の証明を他に求めるものは、自己自身によってあるものではない。主語となって述語とならないといっても、それは自証するものではない。哲学の対象は自己自身を自証するもの、対象なき対象でなければならない。カントが形而上学として排斥したのは、推論によって外に実在を求める形而上学である。そこでは哲学は科学に堕するのである。」
「カントは主語的方向に超越的実在を否定したが、述語的方向に実在の根拠を求めたと考えることができる。カントの自覚的自己は、デカルトのそれの如く、それ自身によってある実体ではないが、私が考えるということは、私のすべての表象に伴うという。我々の判断的知識は、その綜合統一によって成立するのである。主語となって述語とならない基体が、逆に述語的に主語的なるものを包み、すべての判断を自己限定として成立せしめる述語的主体となったということができる。無論、斯かくいうのは、色々のカント学派の人々から色々の異議があるでもあろう。私は今これらの議論に入らない。とにかく、カント哲学においては、先験感覚論の始はじめにいっている如き、我々の自己が外から動かされるという如き主客の対立、相互限定ということが根柢にあり、そこに主語的論理の考え方を脱していない。」
とカント哲学を批判しています。私の個人的に思うのですが西田先生のこのような考え方は、実在的な思考法と呼んでもいいのではないでしょうか。主語-述語論ということではなく現象学的な思考の志向性に何を背景にするのか、まったく背景を持たないのか、ということです。
「実存」からはキルケゴールにみるように罪責としての神からの眼差しがまだ捨てきれない。サルトルに至れば明らかに眼差しを受けない冷ややかな自己しかない、それでいいと思い切る私しかいない、そんな気がします。
「思い切る」もいいのですがガラスの個人を想います。存在そのものに、実在する人物そのものがある」こと自体の背景、新緑の木々の緑に心ときめくような躍動を感じ、さらに「ある」ことに重心をもてる。それが実在の根本のように思いますし、それは「自然(じねん)」の意味に通底するかも知れません。
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