思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

運命愛(アモール・ファティ)

2012年05月31日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 Eテレ100分de名著の5月のカフカ『変身』が終了し、来月はパスカルの『パンセ』です。買いそびれない内に昨日買い求めました。この番組だけは放送当初からパーフェクトに見ています。

 学校教育から35年以上も離れ勉強する機会もないものにとってとても有意義な時間を持つことができます。養老孟司先生が恩師の言葉として「勉強とは人を理解できるようにすることだ」ということを言われていましたが、他人(ひと)を理解してあげるということは自分を知ることであり、物事を知ることであり、すべてを知る難しい言葉でいえば知悉(ちしつ)するという言葉になりますが、そこまでいかなくともできるだけ知る知識を身につけたいものです。

 カフカ最後の番組にブログでも紹介した『絶望の名人カフカの人生論』の作者頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)さんが出ておられました。カフカの出会いや、難病に罹った時に絶望から救ってくれたカフカの言葉、なぜカフカなのか頭木さんは人生の歩みの中でのカフカ論を話されていました。著書の帯に「いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」というカフカの言葉が紹介されていました。

 今までになかった“絶望の名言集”

の紹介に、なぜこのこの言葉を表紙の帯に刷り込んだのか。結論は簡単でこの言葉が一番好きということで、私もこの『絶望の名人・・・・』を購入しブログに紹介した時はこの言葉を選びました。短い言葉ですから覚えてしまいましたが。

 将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
 将来にむかってつまづくこと、これはできます。
 いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。
             ----- フェリーツェへの手紙-----

 フェリーツェはカフカの婚約者ですが、つまづくわけがよく分かります。

 しかし、カフカの言っているところがよくわかるので不思議です。とことん絶望するようなことはなかったのですが、その気持ちは分かります。

 どこか私の好きなニーチェの「運命愛」と「力への意志」に似たところがあります。

 我が人生の今、境遇の真っ只中にいる私。その我が人生は我が欲するところ運命。強い意志でその価値の転換がはかることで切り抜けて行こう。

 変わることのない境遇なのだから(永劫回帰)、そうな得するものならば抜け出すよりも真正面から受忍して行く。ニーチェは、『ツァラトゥストラ』の中で「

 <生存>という罰からの救済は、どこにもない」

 「生存も、永遠いわたって行為であり罪責であることをくり返さなければならぬのだ」

という強烈な狂気の説教を書いていました。

 そこまでトコトンとは言いませんが、そういう運命を「我が選んだ、欲するところの運命として我は愛する」とでも言いましょうかそれがニーチェの運命愛の思想、実存的な考え方はトコトン追い込む・・・・が光明の光を放ってもいるように思います。

 同情するよりも、自分と同様の姿をカフカは吐露してくれている。気持ちを吐露してくれている。ニーチェは難しすぎますが、その根柢、言いたいところは共通しています。

 運命は必然か、偶然か。「偶然とは必然の否定である」と九鬼周造先生は語っていました。また「偶然性にあって、存在は無に直面している」とも言っています。

 偶然性を三つに分けその中に「離接的偶然」という偶然性の理解があります。ある人の境遇は、私の境遇であった可能性もあった。端的に言えばこういうことです。

 そうなると上記の「無」には関係性という言葉が見えてきますし、間主観性という実存的なフサールの現象学にも立ち現れてきて当然のように思います。

 そう考えるとさらにユングの共時性、偶然は偶然ではない、にも通じますし、V・E・フランクルのろごさらぴーによる魂の癒し、意味への意志、人生には意味がある、にも通じます。

 今日のタイトルはどうしたものか。・・・・・「運命愛(アモール・ファティ)」(人生の苦しい物事を有益と認め、愛そうとすること)ニーチェの言葉とします。

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改訂版Eテレ・こころの時代「生きる意味を求めて ヴィクトール・フランクルと共に」(後編)

2012年05月28日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

<精神的無意識>
 
 フランクルの言葉でもう少し申しますと、「意味への意志」というものは、自分の人生を生きがいのある人生にしたいという願いなんですけど、そういう願いが人間の一番根本的な無意識だとフランクルは考えていますね。
 
 その「意味への意志」という無意識が呼び覚まされたといいますか・・・例えば先の例でいいますと、愛する子どもが外国で待っていると、そのことを想うと自分はどうしても頑張らなくてはいけないんだ、とこれはいわば親心ですよね、自然に湧いてくるものであって、人間にはそういうものがあるのだという、それがフランクルの一番療法としては基本的なもので、そういう精神的無意識という言い方で、そういう無意識が人間の一番根柢の所にある。
 
【山田誠浩アナ】 精神的無意識?
 
【山田邦男】 無意識という場合、精神医学とか深層心理学、フロイトが最初ですけれど無意識を発見したと言われているわけですね。我々は平素意識していないけれども意識の底に意識されざる意識のようなものが隠れていて、これが時々いたずらをして人間に神経症を起させるのだと・・・で、そういった無意識もあるけれどもフランクルの考えでは、そういう無意識だけではなくて、「精神的な無意識」もあるのだと・・・フランクルの場合には愛とか良心とか、インスピレーション、芸術的な直観・・・主にその三つを上げているんでいるんでしけど、その辺は実はもう少し複雑なんですが、例えば、良心というもの良い心という良心ですね、これは精神的無意識の一つです。
 
【山田誠浩アナ】 そういう場合の良心とは?
 
【山田邦男】 例えば子供が道で転げたと「ハット」して助け起こそうとしますよね、これが良心なのです。ですからその都度その都度の場面において何か自分に呼びかけてくるものがあると。その呼びかけに、その呼びかけをこちらで察知するといいますか、直感して、感じとってそして答えて行きます。
 
 感じとって答えるという働き、これが良心だと。その察知する能力のことをフランクルは「意味器官(いみきかん)」というふうに言いまして、意味というのは「生きる意味」というところの意味で、器官は感覚器官、オーガン(organ)ですね。意味を察知するオーガン、器官が本来人間にはあるのだと。
 
【山田誠浩アナ】 生きる意味を本来察知する力があるはずだと?
 
【山田邦男】ただそれは、自分の内からは出てこないので何かあって、それでその器官が働くわけですね。
 
【山田誠浩アナ】 そのように呼びかけが起ったら、察知して反応する能力、それをつまり精神的無意識と言っているのですか?
 
【山田邦男】そうです。
 
【山田誠浩アナ】 それは様々なものに反応する感覚?
 
【山田邦男】 そうです。
 
【山田誠浩アナ】 生きることの意味ということについても、それを考え、感知する何か働きかけがあったとして・・・?
 
<考える以前・主客未分>
 
【山田邦男】 考える以前ですね。
 
【山田誠浩アナ】 考えてちゃいけないんですね。考える前に察知する力があるんだと。
【山田邦男】 例えば、いま「ゴーン」という音が聞こえたとしますね。その「ゴーン」と音が聞こえているその時は、私の意識なり感覚が「ゴーン」のところへ行っているわけですね。超越しているといいますか、・・・ただ「ゴーン」と鳴っていて、そして0.0何秒かしてこれは鐘の音だとか。どこそこの寺の鐘の音だとか、これが鳴ったら何時だとか、あるいはその音を私が聞いているのだとかね・・・それが何であるか、そしてそれを聞いているのが誰であるとかね、こういうのことは全て「判断」と言いますか、考えているわけです。
 
 その考える以前、「ゴーン」となっている以前只中では、自分は「ゴーン」になっているわけです。なっていると言うとおかしいですが、我も忘れてそうしてその音が何であるのかということもまだ判断する以前のところですね。
 
 西田幾多郎の言い方ですと「主客未分」、主と客、私と鐘が未分、分かれていない。そこにあるのはただ「ゴーン」という音だけなんです。これは西田先生の場合でもそうですし、フランクルの場合でもそうなんですが、人間がものを考えたりする場合でも、その考えるというそのこと自身も考えている只中では考えられないのです。
 
 何かについて考えている場合には、その方へ自分の意識が全部行ってしまっているんです。このようにですね「ゴーン」という話から、まあ西田の言葉でいうと「色を見、音を聞く刹那」その瞬間、只中ですね。
 
 そういう只中においては、自分はそのものへ出ていってしまっているわけですね。それを自己超越というふうに呼んでいるんですけれどね。自己を超越してそちらの方へ出ていってしまっていると・・・そういうことが人間の本来のあり方なんだと・・・・。
 
 他者からの呼び求めに応じて、他者の元に出るということですね。その自分以外の他の元に出ているというその状態・・・自分以外の元にあるという・・・それを「Bei-sein(バイザイン・~の元にあること)という言い方で・・・自分以外の他の何ものかの元に「ある」というそのことを「Bei-sein」と。
 
【山田誠浩アナ】 先ほどフランクルが、収容所の中でキーワードをズーと書き綴ったという話をされてそこに専心したという話をされましたそのことも同じこととして説明可能なのですか?
 
【田中邦男】 まさに同じことでして、そうしてくれたことによって我々は、この本を通して、本当のフランクルに接することができるというふうにも言えると思います。ですからフランクルが我を忘れて原稿の執筆に専心したと、そのことの中に本当のフランクルが現れてくる・・・。
 
【山田誠浩アナ】 つまり他のものと自分が一つであるということが、人間のありようの本来・・?
 
【山田邦男】 本来ですね。
 
【山田誠浩アナ】 そのように成っているからこそ、前半にお話しいただいたように向こうからの問いかけを「どう聞くか」という、つまり視点の転回ということも、そういうところからしたら当然起るということ・・・?
 
【山田邦男】 そういうことです。ですから本来のあり方から言えば、転回した後が本来のあり方・・・ところが転回前のあり方は、普通われわれは知っている・・・これはやはり人間が自我というものを持っているということが大きいと思いますね。
 
 自我と言いますかエゴを持っているからどうしてもやっぱり自分というものを中心にして物事を見る・・・だけれどこれはかえって本来の自分が発揮されるのを妨げているとも言えるわけですね。

先ほどらいの私の申し上げたいことは、そういう・・私も人に偉そうなことを言えないんですけど。本来の自分というものが発揮されるのを妨げている。ですから本当に自分というものはどういう状態の時に発揮されるかというと、フランクルは自己超越した時、先ほど申し上げた「Bei-sein」ですが、その時に本当の自己実現ということが結果として可能になるのだと・・・。
 
 自己超越の結果として、はじめて自己実現することが可能になるということです。それはフランクルだけがいっているということではなくて、例えば西田先生の場合は、「自己を忘れたところに真の人格が現れる」という難しい言葉を使っているのですが、自分で意識しないで何かに夢中になる、専心する・・・その状態の中で本当の自分というものが現れてくるんだ、ということを言っています。これはフランクルの考え方と全く同じと言っていいという気がしますね。

・・・・・・・・・・・・・・<中略・竹林の中の散歩シーン>・・・・・・・・・・・

【山田邦男】 フランクルさんにお目にかかったお話を先ほど申しましたけれど、直接私におっしゃったのはユダヤ教を信仰しているということなんですね。実際にフランクルが書いているのはユダヤ教あるいはキリスト教的な一神論の立場で、一神論の立場が彼の著作の背後にうかがわれていたわけですね。
 
 私自身その辺が、私自身の腑に落ちないところがありましてね、そこが私のフランクル理解の限界だったのです。ズーッと何十年と限界を抱え続けてきたのですが、一番最近訳しました「医師による魂の配慮」これは日本語では『人間とは何か』という題で出版しているんですけれど、これに付したフランクルの最晩年の注の中で先ほど申しました精神的無意識というふうな人間独自の動物的ではなくてね、人間独自の無意識というものがあると。
 
 いったいそういうのは、どこから生じたのかということですね。これはまあ例えば動物学者といいますか、進化論の学者から言いますと、動物進化の過程の中で人間の心の中にそういうまあ「情」のようなものが成立してきているんだと言えるし、あるいは神学者だったらそれはまあ神が「人間をそのように作りたもうた」と言うだろうと。
 
 しかし、「私は進化とか神という言葉を使わないで自然(シゼン)」というふうに呼びたいというのですよ。ただしこの場合の自然とは言語では「Natur」・・・自然科学でいう意味での自然という言葉なんですけれども、ただフランクルの自然という言葉で「Natur」を使った場合には、自然科学でいうような自然という意味には受け取れないわけですね。
 
 むしろ私は東洋の「自然(ジネン)」というふうにま呼びならわされてきた、そういう自ずからそうなっている、自ずから然りという・・・「なぜか?」ということを問えない・・ただそう成っているという、「不思議だなあ」という感覚ですね。
 
 そういう意味での自然(シゼン)、ジネン(自然)という意味での自然(シゼン)という意味合いで、フランクルはこの言葉を使うのですよね。この場合にはフランクルはユダヤ教信仰とか一神教というものをひっこめているんですね。
 
 科学的なものの見方、宗教的な神というものの見方、両方ともひっこめて、むしろ両方を合わせるような形で「自然(ジネン)」という言葉を出してきていると、これだと腑に落ちるわけですね。
 
 それは仏教とかキリスト教やユダヤ教というふうな個々の宗教の教義の問題でじゃあなくて、このようないろいろな宗教が各地で発生して、成立して今も信じられている・・・ そういうものの一番共通の根底にある、何か普遍的な宗教性のようなものなのです。
 
 そこのところをフランクルは見ているのではないかなぁという感じなのです。

 
【山田誠浩アナ】 しかもそれは日本で考えられている考え方にとても近いと?
 
【山田邦男】 ええ。これですと私も共感できると。これを見つけた時にはうれしかったです。
 
 現代のですねニヒリズムの時代において、そういう共通の根底を見い出すということは、一番根本の重要な問題ではないかと・・・それと同時に何よりも私自身がそれを見つけ得ないと落ち着けないのですよ、私自身が・・・。
 
 ですから私は、フランクルとか西田とか禅とかをチョッとづつかじってはいますが、なぜそんなことをやっているかというと私自身がどこで安心(あんじん)できるのかというその問題なんですね。
 
【山田誠浩アナ】 山田さん。この東日本大震災以降の私たちに「どのように生きていったらよいのか」ということについてどのようなお考えなんでしょうか。
 
【山田邦男】 普通、時は無常ですべて消え去って行くというふうに考えますけど。フランクルは全く逆でしてね、一旦起ったことは二度と無くならないと。未来は不確かだけれども過去は確かだと。だからどんなことだって、ちょうどすね畑・・田んぼの稲刈りをし、脱穀をして(収穫物を)倉に積めますよね。過去は空しいというふうに思う人はその切り株畑しか見ていないからだと。
 
 過去という倉の中にはいっぱい(収穫物が)詰まっているんだと・・・全部そこに保存されているだと。ですから今、ここで自分が「為すこと」それが永遠に残ると・・・ですから時間的にも空間的にも全部つながっていると。そういう世界の中でフランクルは「意味」ということをまあ考えているということです。
 
 そうしますと今お尋ねの東北の大震災で明日の生活にも実際困ると・・・これからどう生きて行ったらいいのだろうというふうに苦しんだおられる方がおられわけですけど。私のそういう日々の最近の体験から申しますと。今ここで自分は何を成すべきかと・・・その何を為すべきかということは、自分の内からは出てこないのですね。
 
 自分にその時に問いかけてくるものがあるわけです。その問いかけ呼びかけに応(こた)えて行くと。自分の誠を尽くして応えていくというそれ以外にない。
 
 私も70歳を越えましたので時々死ぬ・・・死のことを直接考えたりすることが多いんですけど、その時にですねどうしたらいいのだろう、結局私が思いますのはね「いまここで自分が為すべきことを為す」とそれ以外のことはないんじゃないかなあ・・・それしかないんじゃないいのかなあと思うのですね。(終わり)

<以上>

>何かについて考えている場合には、その方へ自分の意識が全部行ってしまっているんです。このようにですね「ゴーン」という話から、まあ西田の言葉でいうと「色を見、音を聞く刹那」その瞬間、只中ですね。

 そういう只中においては、自分はそのものへ出ていってしまっているわけですね。それを自己超越というふうに呼んでいるんですけれどね。自己を超越してそちらの方へ出ていってしまっていると・・・そういうことが人間の本来のあり方なんだと・・・・。

 他者からの呼び求めに応じて、他者の元に出るということですね。その自分以外の他の元に出ているというその状態・・・自分以外の元にあるという・・・それを「Bei-sein(バイザイン・~の元にあること)という言い方で・・・自分以外の他の何ものかの元に「ある」というそのことを「Bei-sein」と。

という話を改めて考えると、その深さを実感するのです。

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改訂版Eテレ・こころの時代「生きる意味を求めて ヴィクトール・フランクルと共に」(前編)

2012年05月27日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 解剖学者の東京大学名誉教授養老孟司さんの「わかる」という講演会のCDを聴いていたところ、意識というものは「同じ」ということを確認している、ということを言われていました。朝目覚める。「自分は自分である」と。夢を見ていれば今ある自分が昨日と同じ現実の自分であると誰もがそう思う。意識は昨日の自分と今日の自分とは同じ者であると確認しているわけです。解剖学者という特殊な立場が、意識というものに特別な注意を向けさせるのではないかと思う。

 このことは「存在」という概念にも通じることで、非常に参考になる話です。さてこれまで、頭の片隅でくすぶっている「実存」「実在」という言葉について、昨日までに
 
 事実存在(existenz)=あるものがあるかないか=があるという存在

 本質存在(essentia)=あるものが何であるか=であるという存在
 
という言葉のギリシャ哲学から現代哲学における変遷を見てきて、事実存在=実存、本質存在=実存というものだろうかと思っているわけですが、そうなると改めて「生きる意味」を見い出す精神療法を実践した心理学者のE・V・フランクルの話しが気になります。

 「常に死と隣り合わせの極限の只中にいる人はいかに生きることができるのか」「苦悩の只中にいる生きる意味の重要性を自分の体験を通して確かめることになったフランクル」そこには「人生には生きる意味がある」という哲学が実存的精神療法家の立場から語られていて、一か月前に放送されたNHKのこころの時代で哲学者山田邦男先生が語った「生きる意味を求めて ヴィクトール・フランクルと共に」という番組を観直しました。

 一か月前の私に「実存」という言葉、「裸の実存」という考え方を語るものでとても参考になったからです。そこで番組内容を自分で起した文章を確認して番組を観たところ、文章に訂正が必要なところがあり、また改めて「実存」「実在」という問題を考える上に参考になるので再度訂正版として掲出することとしました。

 なお番組冒頭の一部を略してあります。それでも15000文字以上になりましたので、前後半に二分割しました。今後も「実存」「実在」についてこの番組内容を参考にしながら、再考したいと思います。

<死に対する恐怖とフランクルの思想との出会い>
 
【山田誠浩アナ】 フランクルの考え方を山田さんが深めて段々知って行こうとしたのはなぜなのですか。
 
【山田邦男】 いろいろございますが、私自身の個人的なことですと私が生まれて半年後に亡くなって、特にそのことを意識するということはなかったのですが、何か無意識のうちに「死」ということを気にし考えていたという機運があったと思います。
 
【山田誠浩アナ】 気にするということは?
 
【山田邦男】 死んだらどこへ行くのだろう。そして死の恐怖というものがありました。これは誰にも言っていないことですが、例えば夜中にフッと布団の上に起きて死の恐怖でゾッとするのです。死ということが絶えず気になっていました。私は教育学部に入ったのですが、ゆくゆくは教育哲学の専攻で身を立てて行こうと考えていました。
 
 教育哲学の最大のテーマは、「教育の目的は何か」ということでそれを研究するということで、一方に「死」というものがありましたから、「人間はなんのために生きるのか」と、教育の問題を根本から考えるとすると「人生はなんのためにあるのか、何のために生きるのか。死んだらすべては終わりではないか・・・そうするとどんな教育目的を立ててもそれは根拠のないものであると、そのことが気になって、教育目的論、教育哲学のようなことを本当にやろうとすると、その「死」という問題を克服しないといけない。
 
 つまりニヒリズム(虚無主義)というものを本当にのり越えないことには自分の専門である教育哲学も成り立たないということです。
 
 その問題が大学院の頃から(その思いが)起ってきまして、そのころにフランクルの『夜と霧』を読んで「人生には無条件に意味があるんだ」と、これは完全にニヒリズムの裏返しというか否定なのです。人生肯定論です。
 
 それを非常にはっきりと(フランクルは)主張していて、おそらく宗教者は別にして哲学者としてフランクルほどはっきりと人生を肯定した人物は他にはいないのではない特異な存在に思いました。
 
 そしてフランクルさんを支えにしたということもあるのですが、他方で、少し甘いのではないかという疑問をもっていました。
 
【山田誠浩アナ】 甘いということは?
 
【山田邦男】 人生を無条件に肯定するということなのですが、それは「ニヒリズムというものを本当に突っ込んで深く捉えていないのではないか」と思えた。この点は難しいのですが、例えば「私たちは人生は空しい」、「生きていくのが嫌になった」と誰しも思うことがあると思いますが、そのような考えが続くと普通は宗教に救けを求めますね。

 ところがニーチェのいっているようなニヒリズムの徹底した立場は、自分が救いとして頼り、信じている神がもう存在しない、その神さえ信じられないのだ、ということで、宗教で救われる道も断たれてしまう・・・というその先に出てくるのがニヒリズムということです。
 
 そのように考えますとフランクルは本当にニヒリズムを越えたのかなという疑問がありました。
 
 他方そういう深いニヒリズムをもう一つのり越える立場というのは、私は「禅」「禅仏教」だと思っていまして、私の先生の上田閑照(1926~宗教学者)は、禅の修行者であるとともに禅哲学の深い研究者で、その上田先生のお師匠が西谷啓治(1900-1990 宗教学者)これがすごいニヒリズムの徹底した研究者なんです。この西谷啓治の恩師が西田幾多郎(1870-1945 哲学者)なんです。ですから西田・西谷・上田といういわゆる京都学派の先生方がごく身近におられ、一方でフランクル、一方では禅思想、禅哲学のようなものを平行してきました。

【山田誠浩アナ】 フランクルの考え方が今言われましたようにニヒリズムを越えているそういう深いものかどうかということをズーッつ追ってこられたということですか?
 
【山田邦男】 そうなんです。当初私が気がつかなかったフランクル思想の深さというものが、京都学派の思想を並行して調べているうちに、フランクルの思想も実は深いものがあって、禅とか京都学派が言っているようなことと非常に、ほとんど酷似しているというところまで接近してきたのです。それはもう比較的最近のことですが。
 
【山田誠浩アナ】 最初の時点では、フランクルが「無条件に人生に意味があると言っているところに山田さんが噛みつかれた・・・飛びつかれたのか、それともフランクルのそれがガーッと山田さんを捉えたかですか?
 
【山田邦男】 同じことですが、私はそういう問題を抱えていましたから、フランクルに憑りつかれた、フランクルが私を掴んだ、という感じの方が近いかもしれません。
 
【山田誠浩ナレーション】人間の生きる哲学を探究してきた山田邦男さんはおよそ40年に渡りフランクルの思想に向き合ってきました。解放後まもなく出版された『それでも人生にイエスと言えるか』をはじめ数々の著作を翻訳、フランクルの「生きる意味」を追い続けてきました。
 
 山田さんは、昨年フランクルが収容所で練り上げ、晩年まで改定を続けたラウフワーク『人間とは何か』の翻訳を終えました。東日本大震災が起こって間もなくのことでした。
 
 深い苦悩や混乱の中にいる私たちにフランクルの思想は何を語りうるのか。今あらためて問いなおしたいと思っています。
 
【山田邦男】 フランクルの言葉で申しますと「裸の実存」ということを言っているのですが、我々は一切合切ににもかも身ぐるみ剥がれて、名誉も地位も奪われてそして裸のまま丸ごと放り出されてしまっている。これは実際にナチスの強制収容所に収容されていたときにそういう状態になった訳ですが、今度のあの震災のあの状況を見ていましたときに、愛する家族も仕事場も、持っている財産をもすべて津波に流されてしまって、やはり「裸の実存」という感じがやはりいたします。
 
 もう少し話しますとフランクが強制収容所から解放された翌年1946年、当時のウイーン市民に向って講演をおこなうんです。1946年という年は、広島と長崎に原爆が落ちた翌年ということで、その講演が『それでも人生にイエスと言えるか』なんですが、この中でその時代状況についてフランクがこういうふうなことを言っています。
 
「こころの中が爆撃を受けたと」というふうなことです。

「そういうふうにこころの中が爆撃を受けたと言えば、今日の人々の気分、心境を最も特徴付けられるのです」

あるいはこうも述べています。

「原子爆弾の発明は世界規模の破局の恐怖を育んでいますし、一種の世界滅亡の気分が我々を占領しています」

というふうなことを言っているのです。
 そして実際に、今度は原子力発電所ですね。原爆ではなくて原発で、こっちもメルトダウンしたということですね。これがいつ日本列島の場合には大地震が起こるかもわからない。これはかなり現実的な恐怖感を我々は日々抱いているといえると思うのです。
 
 私は極限状況というこでは強制収容所とよく似た状況ではないかと思いまして、そういう状況の中で多くの人々が「自分にはもう生きている望みも何もない」ということで、自ら命を絶ってゆくという・・・。高圧電流が収容所の周りに張り巡らせてあってそれに触れると感電し即死する人たちも多く出たと、言われています。

フランクルは年来、強制収容所に入れられる前から「どんなことがあっても人生には生きる意味がある」のだと、どんな苦しみの中にあっても意味があるのだということをズーッつ考えて来た人ですので、まさにその現場に直面したわけです。おそらくフランクル自身、ここで自分が今まで考え主張してきたことが、試されているのだと、十字架の試練に遇っているんだと、いう自覚をもっていたと思います。
 
 彼は実際に精神科医師でもありましたので、そういう絶望状態にある人々に励ましの言葉をかけていたわけです。ちょっとそこのところを読んでみたいと思います。これは『夜と霧』の霜山徳爾の訳で申しますと,
 
「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていないのだ。」
 
と今そういうふうに人びとが語る、それに対して
 
「人は如何に答えるべきであろうか。」
 
と、ここからが重要な所ですが、少し難しい文章であるかもわかりません。
 
「ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点の変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるか、が問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回」

これは観点を180度の転回ですね。

「転回が問題なのであると云えよう。すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくなくて、われわれ自身が問われているものとして体験されるのである。」と『夜と霧』では書いていましてその後に例えばということで二人の男性の話をしておられます。
 
※『夜と霧』
1 ここで山田先生が参照されるフランクルの著書『夜と霧』は霜山徳爾訳の旧版です。 新訳のこの部分については、22日付「生きる意味」に新版池田香代子訳を掲出してあります。旧版は1947年刊行、新版は1977年刊行でその違いについては、訳者の池田さんのサイト「池田香代子サイト」<2010年08月12日あとがき『夜と霧』>に詳しく書かれています。http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51456514.html
 
2 旧版には強制収容所関係の写真と図版やp7~p73の編集者の解説が掲載されています。ナチスの強制収容所は数多くあったのですが、この解説部には詳細に書かれています。
 
<観点の転回>
 
 二人の男性のうち一人は、地理学者で収容されるまでに何かシリーズ本を書かれておられていてそれが完結しない内に収容されてしまった。自分としてはどうしてもその仕事を完結させたいと・・・自分はその仕事から「待たれている」と・・・待っているその仕事に対して自分は答えなければいけない・・・そのような使命感のようなもの・・・それが彼の支えになっていた・・・と言うんですね。
 
 もう一人の男性は、この方は父親なのですがどこか外国で小さな子供が待っていて・・・自分はその子から待たれているというわけです。
 
 自分としては「苦しくて死んでしまいたい」と思ってもその子はどこかで待っているわけです。そのことを自分が思うと「死ぬわけにはいかない」というわけです。
 
「自分は愛されている子どもから待たれている。」
 
と・・・自分だけのことを考えれば死んでしまうということもありうるかもしれません。だけれども・・・その場合には、その苦境の中で耐え抜く勇気、使命というふうなものはなかなか出にくいと思うのです。

そこで彼は自分ということではなくて、子ども側から自分を受け取るというふうに、立場を逆転というか転回させたという・・・こういう転回ですね。だから自分以外の、フランクルの言い方ですと、自分以外の他の何か・・・人間であれ仕事であれ「他の何かから自分は待たれている」と、その期待に対して答えていくと、そういう仕方で生きる意味というものがそこに結果として生じてくる、ということなんですね。
 
 この「観点の転回」をする限りは、それをする限りは、人間は最後の一息に至るまで生きる意味は失わない、という考え方なんですね。
 
【山田誠浩】 つまり自分が生きて行く、自分がその人を愛して生きて行くのではなくて、自分を待っていてくれる者があるということが、その人をそこに向けて生かしていく・・・?
 
【山田邦男】 そうです。そういうふうに考えるわけですね。そうするとどんなに今、苦しみの只中にいても、その苦しみに意味が与えられる、そういうことですね。

<苦しみに意味が与えられる>

【山田邦男】 フランクルは精神科医でもありますから、生きる意味を見失った

<苦しみに意味に意味が与えられる>
 
山田邦男】 フランクルは精神科医でもありますから、生きる意味を見失った・・・実存的空虚感を抱いている人ですね・・・フランクルを読んでいますと神経症の20%とは、そういうことから起っているというのですけれども、そういう人々の治療をする場合に彼はアドバイスをするわけです。どういうアドバイスをするかというと「観点の転回」をするようなアドバイスをするわけです。
 
 例えば、ある老人がフランクルのクリニックに来て「自分は妻に先立たれてその悲しみから立ち直れない」と訴えるのです。その話をフランクルがジーッと聞いていてこういうんです。
 
「もし亡くなったのが奥さんではなくて、あなた自身が亡くなったと、そしてあなたが今舐めているその苦しみを奥さんが今味わっているとするならば、あなたはそれでもいいですか?」
 
 そうするとその老人は、「そうじゃないんだ。それは妻は悲しむだろう。とてもそういうことはさせたくない」・・・「そうでしょう。そうだとすればあなたは奥さまの苦しみから・・・奥さまを今救っているんですよ」・・・つまりその人が今苦しんでいるということが、そのことが言わば意味が与えられたという感じになるわけです。
 
 それでその老人は、深くうなづいて立ち去ったと・・・こういうことを言っています。フランクル的に申しますと「苦しみの意味が与えられた」と苦悩の意味というものが・・・そこで自分が苦しむということに意味があるのだと・・・ということですね。
 
 そのことでついでに申しますと、今度は西田幾多郎なんですが、「死者に対する心づくし」ということを言っています。まだ西田が若い頃に、3歳か4歳の女の子が突然亡くなるのです。

昨日まで唄ったり踊ったりしていたその子が今日、白骨になって帰ってくると、・・・これはどうしたことだろう・・・西田の苦しみを見て友人たちが、「諦めよ」と「いくら嘆いたって死んだ者は帰って来ない」と・・・それに対して西田が・・・これはまあ後に西田が書いていることですが・・・「せめて自分が生きている一生の間だけでも亡くなった子供のことを思い続けてやりたい」と「それが残された者の使命である」と「親としての心づくしである」と「親としてのまごころである」ということを言うんです。
 
<生きる意味はどこから>
 
【山田誠浩アナ】 人がやはり過酷な状況の中で「生きていく力を見い出す」、「生きていく意味を見い出す」というのは「そのように自分に問われているものがあるじゃないかというように思える時であると・・。
 
【山田邦男】 それは大事なことだと思います。「生きる意味」というものは自分の力だけでは出てこないですね。フランクルの場合にも同じことがありまして収容されるまでに自分のライフワークだと思っていた原稿がありまして、その原稿をもったまま収容所に収容されたんですが、収容された当初にそれを奪われてしまうのです。フランクルはどうしてもその仕事を仕上げたいと、いうことでナチスのメモ用紙みたいなものがありましてね、速記でポイントポイントを書きこむんですね。発疹チフスで高熱でうなされているその最中でその作業を行うわけですね。

 フランクルは自分が書いているんだけれど、その仕事を成し遂げたいんだけれども果たして仕上げられるかわからない分けですね。ギリギリの状況でやっていますからね。その時に「もしもこの仕事を成し遂げられなかったらどうだろうか」ということも考えるわけですね。回想録の中でこんなことを言っています。
 
「その後テュルクハイムで発疹チフスにかかったとき、私は死にそうになった。たえず私はもう自分の本は出版されることはないだろう、ということばかり考えていた。しかし遂にあきらめの境地に達した。私は思った---それが人生にとってどうだというのか、人生の意味が、本が出るか出ないかにかかっているとでも云うのか、と。」(『人間とは何か』(p460)
 
 この仕事が成就するかしないかは、もうすべて神の御心のままだというふうな状態、そういう状態で多分書いたと思うのです。自分が何か名誉心なんかにかられて仕事をするというよりもその仕事ですね、おそらくフランクルには、この原稿を書ける人間は自分しかいないという自信はあったと思うんだです。この原稿を残さないと逝けないという使命感をもっていたと思います。
 
 いわばその使命感、あるいはその原稿の方からと言った方がいいかもしれませんが、「生きて頑張れ」というふうに呼びかけられていると、そういう感じで書いていたと、そういう文書ですね。今の文章はね。
 
 我々のどんなことでも究極的なそういうことだと思うのです。親が子供を育てるとか、画家が絵を描くとか、作家が何かに夢中になるとか・・・すべて「専心」ということですね。自分を忘れてそのことになりきって行く・・・向こうがこちらをとらえるといってもいいわけですけど・・・本当に専心していたらそこは祈りの世界だと・・・。それはもうどんなことでも本当は“専心=実り”だと私は思っている。
 
【山田誠浩アナ】 何かお話を伺っていてそういうふうにして視点を変えてみるという大事さが分かる一方で、向こうから問いかけなり、の呼びかけなり、相手のために生きる、何か自己犠牲として生きるということと近いのかな? という気がしてしまうんですが?
 
【山田邦男】 実際にその人々のこころの中で起こった出来事を見てみますと単に自分を犠牲にしてそうしなくちゃ、ということよりも、もっと根本的に心の奥底から自分が揺り動かされてね、・・・そして結果的には、そのことによって自分がこれから生きていく勇気、生きていく喜び、というふうなものが湧いてくると・・・それもおそらく自然に湧いてくるものであって、何というか・・・他人から道徳的にいわば説教されたという感じで受けとめると、私は本当の人間の深い心の働きというものをきちんと見ていない・・・もっと人間の自然な人情、こころの働きというものは深いものであると、つまりまさに「無意識」というレベルで起るような深いことで・・・そういうことをフランクルは「精神的無意識」というふうに呼んだんだと思うんです。
 
 自分の力でということではなくて、私はそこはやはり「恵み」「恩寵」・・・神の恩寵というかどうかは別にましても、何かやはり自分を超えたものからの・・・やはり催しともうしますか、仏教では回光(えこう)ともうしますけれど、何かやはりそのような自分を超えた大きな者が自分の心の深い所で働いてくれているという・・・。

※回光:回光返照のことと思われる。
 
【山田誠浩アナ】 それが自分の喜びにもなって行くということでしょうか?
 
【山田邦男】 そういうことだと思うのですけど・・・。
 
 <以上前編>


「実存」と「実在」・ハイデガーのExistenzの訳語(2)

2012年05月27日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

さて「ハイデガーのExistenzの訳語」なのですが、ハイデガーというとナチス・ドイツとの関係が出てきます。ナチスの立場にあった哲学者、そこにはこの言葉とともに何があったのか、という大きな問題が横たわっています。

 この点に視点をおいて論ずるのが社会学者の大澤真幸先生です。大澤先生は講談社から『ナショナリズムの由来』という877頁の5cmほどの厚い著書があります。この中に「存在の思考 事実存在と本質存在」と題して次のように書かれています。

<大澤真幸著『ナショナリズムの由来』講談社から>

「存在の思考 事実存在と本質存在」

 ハイデガーは、存在忘却へと対抗する態度をナチズム(ファシズム)の内に見出しうる、と考えていたと思われる。われわれはこう論じた。存在忘却とは、存在者と存在の間の存在論的差異が見失われている状態、存在者とは区別された存在が見定められていない状態である。忘却されている存在とは何か? この点をここで確認しておこう。

 存在の中の存在、存在についての関心の中心にあるものは何か? 無論、それは、伝統的には神であった。十一世紀にアンセルムスによって提唱された、神の存在の存在論的証明と呼ばれる、有名な議論がある。それは、次のような論法である。

 「神は完全な存在者であり、それゆえ、あらゆる肯定的規定(無限である、全能である、全知である等)を含む。ところで『存在する』もまた肯定的規定である。それゆえ、神は存在する」。

この証明の要点は、(神の)本質存在の内に事実存在が合意されている、という点にある。そして、ハイデガーが 『現象学の根本問題』でカントの「存在は事象内容を示すrealな述語ではない」というテーゼ(『純粋理性批判』等)に立脚して反論しているのは、この神の存在証明が論拠とした存在概念である。

 述べたように、二つの存在概念がある。木田元がハイデガー論において明快に論じているように、本質存在essentiaは、日本語の「Xである」というときの存在(ある)に対応し、事実存在existentiaは、日本語の「Xがある」というときの存在(ある)に対応している。西洋語ではbe動詞の系列の語によって表現される本質存在は、存在するということ(esse)が、それが「何であるか」ということと、その事物の同一性と、要するにその事物の本質(エッセンス)の規定と一体化している。

それに対して、事実存在は、それが「あるかないか」ということに関係している。ハイデガーの論点は、事実存在(「神が存在する」)は本質存在(「紳は全能である」等)には還元できない、ということにある。

つまり、いくぶん厳密さを犠牲にして言えば、ハイデガーが忘却の淵から救出しようとした存在概念とは、事実存在だと-----あるいは本質存在だけではなく事実存在をも含んだ存在概念の全体だと-----見なすことができるだろう。

「存在論的差異」と言えば、いかにも深遠なものに聞こえる。だが、この問題は、今日の分析哲学の領域で、浅薄な遊戯のように論争されてきた主題と並行的な関係にある。その主題とは、固有名の本性はどこにあるか、という問題である。

伝統的な主流は、固有名とは、名指された単一の事物を一意に同定しうる、その事物の性質についての記述(の束)の代用品である、と考えてきた。

たとえば、「夏目漱石」という固有名は、「東大の英文学の教師」「明治時代の小説家」「『妨ちやん』の作者」等の連言を意味する、ということになる。だが、ソール・クリプキは、非常に緻密な議論を通じて、固有名は、性質の記述には置き換えられないことを論証した。

「夏目漱石が『妨ちゃん』を著さなかったならば」という可能世界を仮定することができる、という事実が、クリプキの反記述説を支える論拠の一つとなる。固有名の記述への還元不可能性を、本質存在と事実存在の解消できない差異の言語上への反響として解釈することができるだろう。

ある事物を他から分かつような性質を記述するということは、その事物の本質存在-----「それが何であるか」-----を言語によって規定することを意味するだろう。

だが、「これは夏目漱石である」という指示は、「これ」と指示された個体の性質を記述するものではない。それは、ただ、「夏目漱石」と名づけられた「これ」が存在しているということのみを、つまり「これ」の事実存在を指し示しているのである。固有名と記述の間に代替可能性がないということは、それゆえ、事実存在が本質存在のうちに還元しえないことを合意する。
                                                     
 ところで、事実存在を意味するラテン語「actualitas(アクトウアーリタス・現実性)」は、「働き」を合意する動詞の過去分詞形actus(アクトウス)を含んでいる。つまり、現実性を成り立たせているのは、働き-----神の創造の働き-----であると考えられていたのである。

「現実性」という概念の源は、ハイデガーによれば、ギリシア語の「energeia(アナルゲイア)である。アリストテレスの造語のひとつとして知られるこの語は、「作品(エルゴン)のうち(エン)に現れ出ている状態」つまり、制作過程が完了して安らいでいる状態を指している。
                                         木田元が実に鮮やかに要約しているように、ハイデガーは、古代の存在論が、すべて制作の概念に立脚しているものであることを、明らかにしている。すなわち、「本質存在」を表示する古代哲学の基本概念、「モルフェー」「エイドス」「イデア」「ト・ティ・エーン・エイナイ」「ホロス」「ホリスモス」といった諸概念は、制作過程に定位することによって容易に理解することができる。

たとえば、「形(エイドス)」は、アリストテレスによって「ト・ティ・エーン・エイナイ(それがそうであったところのものthe being which is what it was)」と言い換えられる。

職人は、何物かを制作する際、その完成形態(what it was)を最初に思い浮かべ、先取りする。それが現実化したものが、「形(エイドス)」なのである。

 古代ギリシア語における「制作」とは、「手の届く範囲にもちきたらすこと」、しかも「制作されたものがそれ自体で自立したものとして見出されるように、眼前におくようにもたらすこと」である。

こうした定義に、『存在と時間』における、用具的存在者Zuhandensein/客体的存在者Vorhandenseinの区別の反響を見ることができるだろう。ハイデガーによれば、すべての事物はこの二種類に分割することができる。

客体的存在者は、用具的存在者ーーーーー「手元にある存在者」ーーーーーの頽落態であり、事物への本来の関係性ーーーーー配慮Sorge-----を失ったときに立ち現れる。制作は、対象を、用具的存在者として定立する操作であると見なすことができるだろう。

ハイデガーによれば、こうした制作の概念をベースにして考えれば、アリストテレスが、「存在」を「ウーシア」と表現した理由もわかる。ウーシアとは、家・財産のことである。

存在とは、家・財産のように、制作されたことによってもたらされる使用可能性と現前のことなのである。と、同時に、われわれは、存在が、近さの内にあることーーーーー「手元にあること」-----、家の内にあること、要するに「故郷」の内にあることとして捉えられていることに、注意しておこう。

こうして、ハイデガーによれば、古代ギリシア以来の西欧哲学の伝統の中では、存在するということ、現前するということ、そして制作されてあるということ、これら三者が同一のこととして捉えられてきた。

ところで、制作にあたっては、完成において現れるべきものが先取りされている。つまり、それが何であるか、何であるべきかということは既定されており、被制作物とは、その「何であるか」が現前にもたらされたものである。この先取りされた同一性(何であるか)が、先に述べた「エイドス」であり、またプラトンの「イデア」である。

そうであるとすれば、ここに見出されている存在は、本質存在だということになるだろう。ここには、事実存在が失われている。

 だが、しかし、ハイデガーによれば、事実存在は、西洋的思考の中になかったわけではない。「ソクラテス以前の思想家たち」ーーーーー「西洋的思考の偉大な始まり」ーーーーーの中では、事実存在こそが、その思考の主題だったのである。ソクラテス以前の思想家たちは、「自然(ピュシス)」をめぐって思考した。

自然こそは、後に「事実存在」と見なされるものの本来の姿である。「ピュシス」は、「ピュエスタイ(生ずる、生える)」という動詞から派生する語である。それゆえ、万物を「自然(ピュシス)」と見なしていた初期のギリシア人にとつては、存在者の全体が、植物のように「自ずから発現・生成するもの」として現れていたということになる。

 自然としての事実存在の第一義的な意味は、ソクラテス以降の思想の中では失われる。とはいえ、ハイデガーは、自然(ピュシス)と制作(ポイエーシス)が単純に対立していたと考えていたわけではない。制作は、自然の一様態なのである。

初期のギリシア人にとって、すべての物は、無限定な混沌(伏蔵体)としての自然のうちから発現し、特定の形(エイドス)をとって立ち現れる。この関係は、固有名によって指示されている個体は、さしあたって、いかなる述語的な規定(性質の記述)も受け取りうる普遍性として潜在しており、それについて述定するときに、特定の述語を与えられて現れる、という関係と類比的である。制作は、無限定な混沌が非伏蔵体へと現れる運動のひとつの様式なのである。

 ハイデガー哲学の以上の簡単なサーヴェイによって、次のように結論することができる。忘却から救出されるべき存在とは、事実存在としての自然である、と。だが、事実存在(自然)とは何か、何を自覚したら、それを忘却していないことになるのか? ファシズムがその忘却へと対抗しうるかのように見えたのはなぜなのか?

 このように問うとともに、ここで、われわれは、ハイデガーの哲学が「忘却」していることもあるということ、あるいは、ハイデガーの哲学が構造的に記録しそびれていることがあるということ、こうしたことにあらかじめ注意をむけておこう。

ハイデガーの哲学が記録しそびれていること、その「記憶」の守備範囲に入れておくことができなかったこととは、あの「収容所」の「イスラーム教徒」(の死)である。後に述べるように、ハイデガーにとって「死」は、特別な価値をもつている。真正な死は、現存在(個々の人間)に己の有限性を自覚させ、引き受けさせるものである。真正な死の自覚とともに、現存在は、未来へと投企する本来の実存に覚醒するとされるのだ。

それに対して、死を思うことなく日常の些事に埋没している人間は、「世人Das Man」と呼ばれる。気力と体力を完全に失い、動物の生以下の生を生きる「イスラーム教徒」は、本来的な実存を生きているとはとうてい言えまい。だからといって、彼らを世人と見なすのは、なお一層、不適切である。「本来的な実存」と「世人」は、あの収容所における、「一者」と「利己主義者」にならば、大雑把にではあれ対応している、と言えるかもしれない。だが、ハイデガーの死に対する見方の中には、どこを探しても、「イスラーム教徒」が収まるべき場所がない。

<以上p721~p725>

私が解説するような話ではありませんが、話しの展開に感激しました。

事実存在(existenz)=あるものがあるかないか=があるという存在

本質存在(essentia)=あるものが何であるか=であるという存在 

実存=がある

実在=である

とします。日本語辞典で「実存」と「実在」を調べると一般的に、

実存=実際に(現実に)存在すること。

実在=実際にある(いる)こと。

となります。どうしても実存という言葉は明治の訳語「存在」が登場します。

「~が」と「~で」・・・・・・「存在」(ある)

 その思想的背景、思考の発想の現象学的なさらには深層心理的な意識的な発動、無意識的な心の働きが見えそうです。

今朝は、事実存在(existenz)と本質存在(essentia)について二人の解説を紹介しました。私自身の意見を出すようなレベルではないのでとりあえず納得のうちに幕を閉めることにします。

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「実存」と「実在」・ハイデガーのExistenzの訳語(1)

2012年05月27日 | 思考探究

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 今朝も昨日の続きでこだわりの「実存」「実在」に関する話です。

「ハイデガーのExistenzの訳語」に関するもので、哲学者の木田元先生と社会学者大澤真幸先生の両語の関する解説を紹介したいと思います。

 ハイデガーと言えば木田元と呼ばれ、木田先生の書かれた『ハイデガーの思想』(岩波新書)には、存在論における事実存在(existenz)と本質存在(essentia)の関係が語られています。

 「存在とは何か」については、中世までは山内得立先生の解説を既に書きましたが、『ハイデガーの思想』には「中世から近世へ」にかけて事実存在(existenz)と本質存在(essentia)の成立過程が説明されています(同書p76~)。さらに『現代の哲学』(講談社学術文庫)には「<実存>Existenzという概念が、今日のことばに与えられているような意味と重みをもって登場してきたのも、・・・・・・この概念をそうした意味合いで最初に使ったのは、晩年のシェリング(1774-1854年)であった」(同書p40)
と書かれており、キルケゴール(1813-1855年)より早いことが分かります。

 まず最初に「事実存在(existenz)と本質存在(essentia)」についての解説ですが、『ハイデガーの思想』では「本質存在と事実存在」と逆の見出しになりますが次のように語られています。

<木田元著『ハイデガーの思想』(岩波新書)から>

五 本質存在と事実存在

 <デアル><ガアル>
 ハイデガーの見解では、<存在=被製作性>という存在概念を、カントはデカルトから承け継いだのであり、そのデカルトはまた、それを中世のスコラ哲学から引き継いでいる。

というのも、カントは表象作用の主体である(主観性)の概念を規定する際、デカルトの<われ思う>(コーギトー)に無批判に依拠しているが、デカルトは「われ思う、われ在り(コーギトー スム」のその<在り>(エッセ)を規定するのに、明らかにスコラ哲学の影響下にあった<思考するもの>(レース・コギタンス)という概念を拠りどころにしている。

このばあいの<もの>(レース)はむろん<存在者>(エンス)の一種であるが、スコラにあっては<存在者>(エンス)は一貫して<被造的存在者>(エンス・クレアートウム)、つまり神の<創造作用>(クレアーテイオ)によって造られた被造物と解されている。ここでも<存在=被制作性)という存在概念が根底に据えられているのである。

 ハイデガーは『現象学の根本問題』第一部第二章では、中世存在論つまりスコラ哲学における<本質存在>(エッセンティア)と<事実存在>(エクシステンテイア)の区別を問題にしている。<本質存在>とは<あるものが何であるか>、つまりそれが机であるか椅子であるかというはあいの<存在>を言い、(事実存在)とは<あるものがあるかないか>、たとえばここに机があるかないかというばあいの<存在>を言う。

簡単に言えば、<デアル>という意味での存在と<ガアル>という意味での存在のことである。キリスト教神学と密着しているスコラ哲学においては、神によって創造された被造物の<本質存在>と(事実存在)の関係をどう捉えるかは、神の創造の働きをどう考えるかという問題に直接結びつくので、実に煩瑣な議論がおこなわれていた。

そしてここでも、<事実存在>を意味する<現実性>(アクトウアーリタス)には<働き>(アゲレ)という言葉が過去分詞の<actus>(アクトウス)というかたちでふくまれている。つまり現実性を成り立たせるのはやはりなんらかの<働き>だと考えられているのである。もっとも、ここではこの働きほ神の創造の働きである。

つまり、神によって創造されたものだけが<現実に>存在するとみなされるのである。創造作用も広い意味での制作作用であろうから、スコラ哲学において<存在>が<作られてあること・被制作的存在>と解されていることが、ここからも確かめられる。

 ハイデガーによれは、近代や中世のそうした<現実性>の概念の源は古代ギリシアの存在論にある。たしかに、ギリシア語で現実性を意味する<energeia>(エネルゲイア)という言葉は、<en(エン)+ergon(エルゴン)+語尾>というつくりになっており、<作品()エルゴン)のうちに現われ出ている状態>)、制作過程が完了し作品として安らっている状態という意味をこめてアリストテレスによって造語されたものである。

音の類似から容易に推測しうるように、近代の<エネルギ><エナージー>という言葉は、たしかにこの<エネルゲイア)から派生したものであるが、<現に働いているカ>というその意味は、制作が完了してその終局に安らっているという<エネルゲイア>の原義とはまったく逆になっていると、ハイデガーは指摘している。
                                         <エネルゲイア>とほとんど等価的に使われる<完成態>(エンテレケイア)という言葉があるが、これも<en>(エン)十telos(テロス)+echein(エケイン)というつくりであり、<制作過程の終局(テロス)のうち(エン)に身を置いている状態(エケイン)>という意味をこめて、アリストテレスの造ったものである。

<エネルゲイア>も<エンテレケイア>も、いずれにおいても作品の制作過程が問題になるのだが、古代ギリシアにおいては、その制作の働きはあくまで人間のそれである。ということはつまり、人間の制作行為に定位して形成された古代存在論の(エネルゲイア)の概念が意味を変えながら中世存在論の<actualitas>(アクトウアーリクス)や近代存在論の<Wirklichkeit>(ウイルクリッヒカイト)の概念に承け継がれたということである。

近代においても一般には、<現実性>を成り立たしめる<働き>は、事物が主観の感覚器官を刺激するその働きかけ、あるいは事物の他の事物に対する働きかけと解されていた。つまり、そうした働きかけの力をもつものだけが<現実に>存在するとみなされていたのである。ところが、先に見たとおり、近代の哲学者のなかでもカントだけは例外的にこの働きを判断主体の<定立作用×表象作用>と考えた。ハイデガーは、カントのこの考えが<現実性>の概念の古代ギリシア的原義をかなり的確に言い当てていると評価しているのである。

<以上p115~p118>

と書かれています。

事実存在(existenz)=あるものがあるかないか=があるという存在
本質存在(essentia)=あるものが何であるか=であるという存在 
                                          
ということになるわけです。

※ 素人の私は「実存=よってなる」にしたいのですが、軽薄なのでしょうか、この問題については今後思考を重ねて行きたいと思います。

※今朝は最終的に10657文字になってしまいましたのでに分割したいと思います。

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「実存」と「実在」・事実存在と本質存在について

2012年05月26日 | 思考探究

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 昨日のブログにこだわりの「実存」「実在」を書いたところコメントを頂きました。

 コメント内容は、

・「実存」という言葉が京都学派の九鬼周造の訳語ではないか。

・ ハイデッガーのExistenzの訳語

・ 実存」とは「事実存在」を略したものという理解が一般的。

・ 事実存在(Existenz)は、本質存在(Essentia)と対になるものです。

というものです。

 数日前のブログ、

「実存」と「実在」・歴史

の中で書きましたが、実存主義について、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では次のように解説されています。
 
 実存主義(じつぞんしゅぎ、英語: existentialism)とは、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。あるいは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想。

 全く素人の私の理解不足で、

・現実存在(existentia)=実存

・本質存在(essentia)=実在

単純にこのような等式で考えればいいものをどうもいけません。目が覚めた思いです。

 “「実存」と「実在」・歴史”の中で京都学派の内山得立先生の著書に書かれた「essentia」の歴史があります。実存という言葉が今的な意味に使われる前の概念です。その際引用文が短かったので、改めて掲出します。


<山内得立著『随眠の哲学』(岩波書店)から>
 
 existentiaという名詞はexistereという動詞から転化したものであって、sistereにexを加えて作られたものである。-----まず自己の中に存在をもたず、他のものに内在することはinsistereと言われるが、他のものから離されて出て来ることはexsistereと名づけられる、それは他のものからsistoしたものであるから。sistoというラテン語は元来、そこに置く、又は据えられる(set up, fix)の謂であり、従って他のものからそこに現われてあることが即ちex-sisto,exstoであった。それ故にエクシステンチアとはそれ自らに於いて存在をもつものではなく、他から引き出されたもの又は他から出て来たものである。
 
従ってこの名詞の中には物の性質に関する考察と物の起源に関する意味とがふくまれている。Alexander de Hales(1245年歿)は言う、「existentiaという名詞は起源の秩序を伴った本質を意味している」。
 
 第二に、existereから由来して、第二次的で非本来的なフランス語のexisterの意味にとられたexistentiaa、例えばゲビロール(Gebirol)の『生命の起源(Fons Vitae)』の中に出会われる意味がある。しかしここでは「それはそれ自身現勢的に実在する(existere)が、偶有性はそれ自身は実在(existentia)とは考えられない。esseは質料の中にある形相の実在である」という言葉にも注意せらるべきである。

ここではゲビロールはまだ率直に起源の意味をこの語に含ませているのである。

 ジルソンによれば、このようなexistentiaやexistereの意味はトマスには未だ現われていないが、彼よりも少し後れて世にあったジル・ド・ローム(Gilles de Rome)はesseとexistentiaとの間に明晰な区別を設けて次のように言っている。

「あらゆる物はそれのessentiaによってensである。しかs被造物の本質は完全な活動であるとは言い得ないで、esseに対して可能態に於いてあると言われるのは何故であるか。そのわけは、本質はこの現勢的なものが実在するに十分でない・・・・・。物は本質又は本性がエッセによって補足せられて実在する。その点からしてそれ自らうけとられた存在(ens)と実在者(existens)とがどのように違うかは明らかとなる。」

こうして存在はその本質にエッセが付け加えられるおかげで実在する(existere)。そこからactu existereということが完成するのである。とにかくesse essentiaeとesse exstentiaとの論争が烈しく起ったのはこの頃のことであり、従ってexistentiaという語が頻りに出没するようになったのは十四世紀以後のことである。

ジルソンは終わりに次の如く語る。「フランス語ではexistenceという語は遅くまで受け容れられなかった。この間の区別を記載シュビオン・デュ・プレー(Supiond du Pleix)のみであるが、フランス語にはラテン語のexistentiaとぴったり一致する語がなかったのである。デカルトはexistenceという語を何の躊躇もなく使っているが(Discours de la Methode,Ⅳ)、それは十七世紀(一六三七年)のことであって、大分後の時代に属する。」

<上記書p40~p41>

とその歴史が語られています。

さてここで昨日の西田幾多郎先生の著書『デカルト哲学について』です。上記の引用の話の中に、

<デカルトはexistenceという語を何の躊躇もなく使っているが>

と書かれています。

 次にコメントにもありましたが「本質存在」という言葉についてです。西田先生は『デカルト哲学について』の論文なかで「本質」という用語次のように使っています。

1 故に自覚においては、存在が本質であり、本質が存在である(essentia=existentia)。

2 私は古来の伝統の如く、哲学は真実在の学と考えるものである。それはオントース・オンの学、オントロギーである。そこに哲学の本質があるのである。

3 自己自身の存在に他の何物も要せない、自己自身によってある真実在は、自己自身を理解するもので、自覚するものでなければならない。スピノザの如くそれ自身によって理解せられるといっても、既に理と事とが二つになる、本質と存在とが対立する。単にそれ自身によって理解せられるものは属性である、実体ではない。無限なる属性の基体としての神は、コンポッシブルの世界の主体、事の世界の主体でなければならない。

4 而しかして神は我々の自己に神秘的原因たるを免れない。一体、デカルト哲学において原因というのは、自己自身によってあり、自己自身によって限定するものとして、スピノザのカウザ・スイという如きものであると思う。本質即存在、存在即本質の根柢という意義でなければならない。それには先ず本質と存在との関係が究明せられねばならない。

5 デカルトは「第五省察」において再び神の存在問題に触れている。そこでは認識論的である。明晰にして判明なるものが真である。神の存在ということは、少くとも数学的真理が確実であると同じ程度において自分に確実である。然るに三角形の三つの角の和が二直角であるということが、三角形の本質から離すことができない如くに、神の存在ということは、神の本質から離すことはできぬ。

6 スピノザの原因というのは、すべてカウザ・スイの意義を有もったものと考うべきであろう。本質が存在を含み、その本質が存在としてのみ理解せられるものをいうのである。絶対現在の自己限定としてあるものは、すべて表現するものが表現せられるものとして、かかる性質を有ったものでなければならない。

<以上>の6か所に使われています。1番目には明らかに「本質が存在である(essentia=existentia)」と「本質存在」という言葉が使われています。

 ドイツ語では「実在=real」すなわちリアル的な意味合いの言葉としています。「本質=exiztez」で哲学にはこの言葉が使われ、一般後の意味は植物のエキスを意味するようです。

話しは込み入っていますが、「実在論」といったときに「本質論」という意味合いが日本語の場合には強い気がします。その本質もリアルでありながらリアルの枠では測れない名詞的ではない動詞的な世界、主語も含まれる述語の世界。従って西田先生の実在にはリアルを越えた奥行きの深さを思います。

 日本語の本質という言葉には、「やまと言葉」の動的な思考で考察すると、「うつし」の言葉には「本質の移動」「本質の変わらないもの」を見ることができます。これについては過去に書きましたのでここでは書きませんが「実存」「実在」そもそも「存在」なのですが本当に奥深きものです。

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「実存」と「実在」・「私はある」は間違っている?

2012年05月25日 | 思考探究

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 「実存」と「実在」という言葉に囚われの身となって、素人の軽薄な知識に悩む日々を送っています。

 原点に立ち戻るというわけでもないのですがそもそも日本語の両者は辞書的にはどう書き表されているのかを見るとみると次のように意味解説されています。参考にするのは講談社の『日本語大辞典』です。

じつ・ざい【実在】(名・サ変自)
1 実際に存在すること。あること。entity
  対義:架空・仮象。
2 哲学で、時間空間的な外的世界に、意識から独立に存在している客観的対象。もしくは事物の本質的な存在。真実在。reality

じつ・ぞん【実存】(名・サ変自)
 哲学で、本質に対し、いま、ここに現実に存在するという個人のあり方。実存主義の中心概念。もとスコラ哲学の用語でだったが、キルケゴールが自己存在に関心をもつ人間の主体的なあり方意に用いた。existence

両者は明らかに書かれている内容が異なります。以前に書きましたがこの言葉は「存在」という言葉があるからこのような二つの表現があるように思われます。「存在」という言葉自体は、『翻訳語成立事情』(柳父 章著・岩波新書)によると明治になってからの言葉でこの本では「存在---存在する、ある、いる」という見出しで解説されています。

 視点を「存在」という言葉の翻訳事情にもどしてみると、

「存在」は哲学用語であるが、哲学辞典にもなかなか現われてこない。1881(明治14)年の、井上哲次郎等編『哲学字彙(じい)』では、
Being 実在、現体
 absolute being  純全実在
 rationnal bieng 霊心生類(れいしんしょうるい)
 sentiment being 有情物(うじょうぶつ)

などとなっている。1884の改訂版も同じである。だが1912(明治45)年版では、
Being 実在、存在、生類、有
 absolute being 絶対実在
 human being     人類
 pure being      純粋実在
  rationnal bieng 合理生類
  
などとなっている。この頃になると、あらゆる分野で、翻訳語はだいたい定着していて、今日につながっている。

・・・・・・・

と解説されています。ここには「実在」はあっても「実存」という言葉がありません。

 日本語大辞典に「実存主義の中心概念。もとスコラ哲学の用語でだったが、キルケゴールが自己存在に関心をもつ人間の主体的なあり方の意に用いた。existence」と書かれています。ここでいうキルケゴールとは、

<フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』>
 セーレン・オービエ・キェルケゴール(デンマーク語: Soren Aabye Kierkegaard、1813年5月5日 - 1855年11月11日)はデンマークの哲学者であり、今日では一般に実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されている。キェルケゴールは当時とても影響力が強かったヘーゲル哲学あるいは青年ヘーゲル派、また(彼から見て)内容を伴わず形式ばかりにこだわる当時のデンマーク教会に対する痛烈な批判者であった。

であって、宮原晃一郎という方がデンマーク語の翻訳したのが最初で、「(家庭文学全集) 憂愁の哲理 キエルケゴール 世界大思想全集 第36巻 春秋社1930」があるようです(『世界の名著』中央公論社 第40巻「キルケゴール」付録8対談椎名麟三・舛田啓三郎から)。

 1930年(昭和5年)

この年代が日本で「実存」という言葉が使われた最初なのだろうか。素人の私にはよくわかりませんがそう考えざるを得ません。

 さらに「人間の主体的なあり方の意に用いた。」とする「実存」、「あり方の意」とは何か、疑問がのこるばかりです。

 さて柳父先生の『翻訳語成立事情』に戻りますが、この「存在」に関しての解説は、以前書いたように、

1 辞書におけれ「存在」の翻訳史
2 和辻哲郎の being 翻訳論
3 「である」は翻訳で作られた
4 「存在」は「存」+「在}でない
5 「ある」と「有」は同じでない
6 「私はある」は間違っている
7 日常語の意味を切り捨ててきた翻訳語
 
について書かれており、この中の“4 「存在」は「存」+「在}でない”にはついては既に紹介しました。今朝は“6 「私はある」は間違っている”について紹介したいと思います。

<柳父章著『翻訳語成立事情』から>

六 「私はある」は間違っている

 いわゆる「存在」論の古典的な命題とされている、デカルトの『方法序説』(1637年)の一節、
 
  je pense,donc suis.

つまり英語で言えば、

  I think therefore I am.

は、日本語では、

 私は考える、だから私はある。

というように翻訳され、「ある」という表現になっている。
 これはどうもおかしい、と私は考える。私はある、ではない。私はいる、と言うべきであろう。それが日本語の正当なことば使いである。ところが、この「私は考える、だから私はある」という変な日本語の訳文は、どの哲学翻訳書を見ても書いてある。高校の教科書でもそうなっている。いったいどうして、こういう変な日本語の言い方がまかり通っているのだろうか。

 この文句は、かつて、「我思ふ、故に我あり」というように、文語体で翻訳されていた。文語体ならば、これはおかしい言い方ではない。この「あり」の影響で、口語の言い方も「ある」となった、という事情が考えられる。しかし、それにしても、口語には口語の、いわゆる共時的な構造がある。その中へ勝手に文語体を入れてはいけない。

 今日の私たちの話しことばでは、「ある」と「いる」とは、はっきりと対立し、区別して使われている。
 だが、この文語体の影響ということよりも、おそらく重要なのは、哲学用語「存在」の影響であろう。je suis を、まず「私は存在する」と訳し、それをさらに日本語でやさしく言い換えて、「私はある」としたのではないだろうか。

漢字の「存」も、「在」も、そして和辻哲郎の言う「有」も、「あ(る)」と訓読される。そして「存在する」という成語も、辞書で見れは、第一に「ある」の意味である、とされている。

 つまり、簡単に図式化すれば、
 
  Suis→存在する→ある

という、いわは二段階の翻訳の過程をたどっているのである。この矢印の方向は、一方通行であって、逆の方向の思考の働きはない。

 「ある」という一見やさしい、日常語風のことば使いは、実は日常語の文脈のルールに従って使われているのではなく、西欧語から翻訳用日本語へ、さらにその翻訳用日本語からの翻訳、という経路で天降ってきたのである。哲学の専門家にとっては、表面上「ある」とは言われていても、その頭の中では、suisなどの横文字と、その翻訳語「存在する」が働いており、そのことばで考えている。「ある」で考えているのではない。だからこそ、「私はある」ということは使いのおかしさが、これまで全く見過ごされてきたのである。

<以上>

 ここではデカルトの『方法序説』について書かれています。デカルトと言えば西田幾多郎先生には『デカルト哲学について』という論文があります。これは昭和19年(1944年)7月の『世界』に発表されたものです(『自覚について』西田幾多郎哲学論集Ⅲ 上田閑照編 解説から)。

<青空文庫西田幾多郎著『デカルト哲学について』から>

・・・・・真に自己自身によってあり、自己自身を限定するものは、それ自身に於おいてあり、それ自身によって理解せられるのみならず、自己自身を理解するもの、自覚するものでなければならない。然しからざれば、それは我々の自己に対立するもの、対象的有たるに過ぎない。コーギトー・エルゴー・スムといって、外に基体的なるものを考えた時、彼は既に否定的自覚の途みちを踏み外はずした、自覚的分析の方法の外に出たと思う。

無論それはスピノザのいう如く一つの命題としてスム・コギタンスとしても、問題はこのスムになければならない。我々の自己自身を、デカルトの如き意味において一つの実体と考えるならば、それにおいての内的事実として、いわゆる明晰めいせき判明なる真理も、主観的たるを免れない。

デカルトも明あきらかにこれを意識した。数学的真理の如きも魔の仕事かも知れないとまで考えた。彼は遂に知識の客観性を、神の完全性に、神の誠実性に求めた。デカルトのかかる考といい、ライプニッツの予定調和といい、時代性とはいえ、鋭利なる頭脳に相応ふさわしからざることである。デカルトの如く我々の自己を独立の実体と考える時、神の存在との間に矛盾を起さざるを得ない。

デカルトは「第三省察」において神の存在を論じた。これは結果による証明といわれる。一つは我々の自己に於おいてある神の観念の原因を考えることからであり、一つは我々の自己の存在の原因を求めることからである。無から何物も生ぜない。しかも有限なる自己の内に無限なる神の観念の原因は求められない。また現在の自己の内に次の瞬間への自己の存続の原因は求められない。

そこに創造的なるものが働かねばならない。かかる原因として我々は神の存在を認めねばならないという。しかし斯かく考える時、自己はそれ自身によってある実在ではない。それ自身によってある実在は、神のみでなければならない。それとともに我々の自己の独立性は失われて、我々の自覚は消されてしまわなければならない。而しかして神は我々の自己に神秘的原因たるを免れない。

一体、デカルト哲学において原因というのは、自己自身によってあり、自己自身によって限定するものとして、スピノザのカウザ・スイという如きものであると思う。本質即存在、存在即本質の根柢という意義でなければならない。それには先ず本質と存在との関係が究明せられねばならない。・・・・・・・

<以上>

この中で西田先生は、「かかる原因として我々は神の存在を認めねばならないという。しかし斯かく考える時、自己はそれ自身によってある実在ではない。それ自身によってある実在は、神のみでなければならない。それとともに我々の自己の独立性は失われて、我々の自覚は消されてしまわなければならない。而しかして神は我々の自己に神秘的原因たるを免れない。」と「自己はそれ自身によってある実在ではない」という言い方をしています。

 「実存」の意味するところの「人間の主体的なあり方」との相異はどこにあるのか。

 デカルトは、上記の通りに「かかる原因として我々は神の存在を認めねばならない」と言葉を変えれば「人間の主体的な存在の背景に“神”を想定せざるを得なかった」と言えるのではないでしょうか。

 これはその後のキルケゴールでも事情は同じで先に参考にした『世界の名著』中央公論社第40巻「キルケゴール」付録8 対談椎名麟三・舛田啓三郎から)で作家の椎名麟三は、次のような話をしています。

【椎名麟三】 ぼくは、『死に至る病』を読んで、自己が自己自身を措定(そてい)している限り、どう考えても、どんなにあがいてもだめだと思った。結局、第三者というか、キルケゴールの場合は“神”であるが、ぼくはそれを、“世界”と読みかえてみたのです。・・・・。

「自己が自分自身を措定」の意味は、「人間の主体的なあり方」として存在の根底がなければ、とも読み取れると思います。椎名さんは自己という存在のあり方を世界との関係性に以っていきますが、キルケゴールは結局デカルトのごとくに“神”に行きつくということです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 何を言いたいのか、「実存」「実在」という言葉、翻訳事情と共に時代というものが微妙にかかわっています。

 存在と言えば「現象学」があります。

 創設者   エトムント・フッサール  (1859-1938年)
 第二世代 マルティン・ハイデガー  (1889-1976年)
 第三世代 ジャンポール・サルトル  (1905-1980年)
        エマニュエル・レヴィナス (1906-1995年)
        モーリス・メルロ=ポンティー(1908-1961年)

という流れがあって「実存主義」という言葉は誰もが知るところですが「サルトル」の言葉です。

 西田先生の『デカルト哲学について』には、

「自己自身の証明を他に求めるものは、自己自身によってあるものではない。主語となって述語とならないといっても、それは自証するものではない。哲学の対象は自己自身を自証するもの、対象なき対象でなければならない。カントが形而上学として排斥したのは、推論によって外に実在を求める形而上学である。そこでは哲学は科学に堕するのである。」

「カントは主語的方向に超越的実在を否定したが、述語的方向に実在の根拠を求めたと考えることができる。カントの自覚的自己は、デカルトのそれの如く、それ自身によってある実体ではないが、私が考えるということは、私のすべての表象に伴うという。我々の判断的知識は、その綜合統一によって成立するのである。主語となって述語とならない基体が、逆に述語的に主語的なるものを包み、すべての判断を自己限定として成立せしめる述語的主体となったということができる。無論、斯かくいうのは、色々のカント学派の人々から色々の異議があるでもあろう。私は今これらの議論に入らない。とにかく、カント哲学においては、先験感覚論の始はじめにいっている如き、我々の自己が外から動かされるという如き主客の対立、相互限定ということが根柢にあり、そこに主語的論理の考え方を脱していない。」

とカント哲学を批判しています。私の個人的に思うのですが西田先生のこのような考え方は、実在的な思考法と呼んでもいいのではないでしょうか。主語-述語論ということではなく現象学的な思考の志向性に何を背景にするのか、まったく背景を持たないのか、ということです。

 「実存」からはキルケゴールにみるように罪責としての神からの眼差しがまだ捨てきれない。サルトルに至れば明らかに眼差しを受けない冷ややかな自己しかない、それでいいと思い切る私しかいない、そんな気がします。

 「思い切る」もいいのですがガラスの個人を想います。存在そのものに、実在する人物そのものがある」こと自体の背景、新緑の木々の緑に心ときめくような躍動を感じ、さらに「ある」ことに重心をもてる。それが実在の根本のように思いますし、それは「自然(じねん)」の意味に通底するかも知れません。

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恐山南直哉院代の「死ぬことと生きること」を聞いて

2012年05月24日 | 思考探究

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 BSフジLIVE「プライムニュース」の5月18日付けに「恐山院代南直哉 死ぬここと生きること」(30分)が放送されたことを知り、きょう聞いてみました。

 死と直面する立場で聞く人もあれば、私のような興味本位から聞く人もいます。それぞれの聞く立場で語ることになると思いますが、ここでは賛否両論ということで話をもっていくものではありません。

 私自身、自殺を考えたこともなく、死というものに押しつぶされるほど悩んだこともなく、南院代ではありませんが今のところ死の怖さはありません。

 過去に殺されそうになったことがありますが、走馬燈のような過去の瞬時の記憶回想の経験をし、言い慣わしはあるのだという実感を感得し、哲学的思考とは別に「やりすごす」を身の内にもっています。

 生きるときには生きるし、死ぬときには当たり前に死ぬ。

 したがって決定権を云々するは、私にはない。

と思っています。番組の一部を起しました。

<番組後半一部から>

【南直哉院代】
 今の自分のありようが切ないという人がいっぱいいますよ。もう一つね驚いちゃダメですよ。当たり前。当りまえですよ、人間一回ぐらい自殺したくならなくては、人間として駄目ですよ。

 私は自殺してほしくないし、生きる方に掛けるべきだと思うし、生きる決断をするべきだと思うし、その決断だけが人間の存在の根拠とか意味とかの価値を与えると思いますが、・・・・死にたくならないような人生を送っていなくてはダメですよ。

 「自分は死んでしまおうかな」ということを一度も考えない人生は、人生と呼んじゃダメですよ。当たり前ですよ。

【反町理キャスター】
 それはあれですか。やっぱり辛い思いと言っても半端なものでなく命懸けの辛い思いのようなものをするような場面ていうようなことも人として生きていく上には必要だとおっしゃっているんですか。

【南直哉院代】
 必要だというと余裕があるのですが、そんなことはないです。要は生きていると何か起きるんですよ。その時につくづく・・・ハッと思うことは当たり前でしょう。転んでも良いんですよ。転ばない人生はない。転んでも言いが起きられるかどうかなんですよ。

 もっと大事なのは、転んだ時に「大丈夫だよ」と言って手を出してくれる人がいるかどうかなんですよ。

 人の生に力を与えるのは、結局は別な人なんですよ。当たり前でしょう。あなたの存在は他人(ひと)から来たんだから。名前だって自分で付けたわけでもないんですし、言葉だって自分で覚えたわけでもないし、立てるようになったのは親のお蔭じゃないですか。

 他者との関係性の中で自己があるというのは当たり前で、他者との関係をどう充実させていくかということが重力を与えるんですよ。

 そうすると何度転んでもいいが、それが転んでどうしようもなかった時に、「まあ大丈夫だよ」と言ってくれる人が居るか、居ないかでしょうね。

【石田彩夏キャスター】
 だけれども実際に自殺者が増えていますよね。ということは今のことを考えると「そういうふうに言ってくれる人が少なくなってきた」というふうな社会なのでしょうか?

【南直哉院代】
 私はそう思う。じゃなければ「世界で一つの花」という歌が流行るわけがないでしょう。

【石田彩夏キャスター】
 どういう意味ですか?

【南直哉院代】
 だってああいうことを言って欲しいわけですよ。要するに「ナンバーワンでなくていい。オンリーワンだ」と「あなただけが貴い」と。あれは一番言われたいセリフですよ。誰も言ってくれないから歌手が言ってくれるんですよ。

【石田彩夏キャスター】
 だから流行ると。

【南直哉院代】
 私はあれを聴いたときに、何と悲しい歌だと思ったですよ。それ以前はナンバーワンの時代があったでしょう。ジャッパン・アズ・ナンバーワン。あれは楽ですよ、なぜならあれは序列だから、自分が56位であろうとなんだろうと、「ここ」と決まっているんだから存在価値が。ところがオンリーワンは、ありがたいって誰が決めるんです。

 たった一人であるということは価値ではないです、それ自体は。石ころだってオンリーワンなんだから。あるものが貴いということは別の誰かがそうだと言ってくれない限りはダメなんですよ。

【石田彩夏キャスター】
 その価値づけというか意味づけをしてくれるという関係性が今・・。

【南直哉院代】
 必要なんです。

【石田彩夏キャスター】
 お母さんとかお父さんとかね・・・。

【南直哉院代】
 それが普通だったら、その要するに存在自体を肯定する人間というのが親の役割なんですよ。で、私が増えていると思うのが、この時点で傷つく人がいるんですよ。うまくいかない人・・・。

【石田彩夏キャスター】
 子どもの時に。

【南直哉院代】
 そうです。非常に小さい時に親子関係で失敗してしまう人・・・失敗じゃない、失敗という言い方は良くない。こじれてしまう人が居る。それが大きなダメージを食うんですよ。

<以下省略>

 一部の話の起こしですが、前半には少々厳しい語りがありますが、大切な話に思います。自分の存在というもの認めてくれる、見守ってくれる、それは尊厳という話にもなります。

 マザー・テレサが人の尊厳、名があり存在する人の尊厳を大切にする心で人々と接することの大切さを語っていたことを以前ブログに書いたことがあります。そのような姿勢で苦悩する人々の話を聴く。話を聴くだけでも良いとも言われます。

「生命は決して自己目的ではありえない」

 その感得を呼び起こすことが、聞く側の心得です。関係性という言葉が出てくるのもその流れの中での話です。

 南直哉院代のお話は聞く側に多くのことを教えてくれます。

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「実存派」と「社会派」の二つのタイプ

2012年05月24日 | 思考探究

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 毎朝通勤の際に見る常念岳のある風景、今は田植えも終わり水面い常念岳の姿が映ります。毎年見る風景で、季節ごとに見る風景常念岳が、あって田畑や林があります。

 どう見ても同じ風景であるのに、実は異なっている風景でもあります。土地開発が進む地域での風景ならば、日ごとに異なる風景が展開されるかもしれませんが、常念岳のあるこの風景は違いを特定することに視点をおかない限り、そこに違いを見い出すことができません。

 昨年と同位置、同時間・・・「同じ」という環境の中で撮影し、重ねればその違いが分かる、と考えますが、そもそも「同じ」と言っているところに既に同じはない。

 「同じ」という言葉で思い出すのが、ギリシャのヘラクレイトスの「万物は流転する」の例として「同じ川に入ることはできない」という言葉。その弟子クラチュロスはその言葉を「同じ川には一度足りとも入れない」と言い直しました。

 「同じ」という言葉には「反復」があって「二度と」を入れないという物足りなさを感じる、つまらない話ですが確かにそう感じます。

 さて今朝はそんな話をするつもりはなかったのですが、きのうこの写真を撮ったので早速アップしたいと思い、こんな話から始めました。

 最近のこだわり「実存」と「実在」についての話です。Eテレの100分de名著という番組、昨日カフカの全4回の4回目が終わりました。この番組は昨年の4月からはじまった番組で最初がニーチェの『ツァラトゥストラ』でした。世の中便利といってよいのか、NHK出版から今年の3月にこの番組をまとめた出版されました。自分でもかなりまとめてはあるのですが、忘れないためにも身近に置くには便利な本、早速購入し追加分も含めて読んでみました。

 思考視点がそこにあると気が付くもので思考のタイプといってよいのかも知れませんが「実存派」と称する思考タイプについて西研先生が言及しているところが目に留まりました。「実存派」と「社会派」という二分類の考え方で登場していました。

<『ニーチェ ツァラトゥストラ』西研(NHK出版)から>

 そもそも人間には、「実存派」と「社会派」の二つのタイプがあるようです。自分自身の苦悩と生き方にとことんこだわり、あまり社会のことに関心をもたないタイプの人が実存派ですね。

それに対して、もちろん個々人の苦悩は大事だけれど、社会をよくするのが先ではないかと考えるタイプの人がいます。これが社会派です。不景気や悪法があればみんなが苦しむわけですから、人々の生活の「基本条件」である社会をよくすることが大切だと社会派の人は考えるのです。ヘーゲルの思想は典型的な社会派です。

それに対して、ショーペンハウアーやニーチェはまったくの実存派ですね。

 でも、ぼくは思想としては両方とも大事で、上下はつけられないと考えています。それでもあえていうなら、実存の課題のほうが第一のものだと思います。自分という人間が、自分の砲える苦悩に直面しながらどう生きていくのかが、最初の思想の課題。

その次に、自分だけでなくてみんなが幸せに生きるための社会的な条件をどうつくるかということが来る。ですから、思想の順番としては実存から社会に向かうのだと考えます。

 ただ誤解してほしくないのですが、ヘーゲル自身は実に思慮深い人で、実存的な感度もたっぷり持ち合わせた大きな人物だったのです。ニーチェもヘーゲルその人については(あまり読んではいないようですが)、罵詈雑言を浴びせたりはしていません。

しかし俗にいう「ヘーゲル主義」----個々人の生のなかにどれほどの深みや闇があるかをまったく見ることなく、社会の進歩だけを謳うような思想----には、ニーチェは大きな違和感を抱きました。この「人間の実存の深みを見ない進歩主義的な思想を破壊する」という感覚は、生涯ニーチェについて回ることになります。

<上記書p23~p24>

 「実存派」と「社会派」であって「実存派」と「実在派」ではありません。

 「実存派」と「社会派」

自分のことが先か、社会のことが先か、自分に関心を置くか、社会に関心を向けるかなのですが、西先生はこの中で、

<ぼくは思想としては両方とも大事で、上下はつけられないと考えています。それでもあえていうなら、実存の課題のほうが第一のものだと思います。自分という人間が、自分の砲える苦悩に直面しながらどう生きていくのかが、最初の思想の課題。

その次に、自分だけでなくてみんなが幸せに生きるための社会的な条件をどうつくるかということが来る。ですから、思想の順番としては実存から社会に向かうのだと考えます。>

 私も実にそう思います。「実存の課題のほうが第一のものだ」はさて置き、自分を見つめ直すことを忘れてはならい。同じ私では二度とない私です。そこには身体的にみても同じではない私がいます。他者との存在の中、間主観性がみてとれる、そんな生き方をしたいものです。

 ※「間主観性」というと宣伝ではありませんが『間主観性の現象学 その方法』(フサール)の訳本が筑摩書房から出版(2012.5.10)されました。

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時は実在する・一刹那の実在

2012年05月23日 | 思考探究

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 一昨日の金環日食、ちょうどその時間帯には松本市内にいました。部分日食という程度のものでしたが、薄暗さを体感することができました。

 日食がどうして起きるのかを知っていれば不思議なことはないのですが、その知識を全く知らない古代の人々には大変な出来事で、恐怖が襲ったことに相違ないと思いました。

 当たり前に陽がのぼり突然太陽が暗くなることがないのに1・2分の出来事とはいえ太陽が姿を消す、驚きと恐怖、天変地異の異変ではないか、悪しき出来事が起きる前兆ではないか、さまざまな憶測や風評が起きたことでしょう。

 どうして神話がつくられるのか、科学的に解明ができない古代人にとっては、理由なき恐怖心を解消するために物語るしかなかった、「人間は物語る生きものである」まさにその通りに思います。

 記紀(古事記・日本書紀)に書かれている天照大御神の岩戸隠れの神話については日食を物語るものではないかという話ががありますがうなづける話です。

 物語には、怯えを解消してくれる力があるということです。最近のブログに時間というものについての考え方を説いた、英国の哲学者ジョン・マクタガート(1866-1925)という人の話を書きました。

 時間については、A系列とB系列の二つの考え方があって、A系列とは、事象が「過去---現在---未来」という特性をもつことであり、B系列とは、二つの現象が「より前」「同時」「より後」のいずれかの関係で構成されている。内海健著『さまよえる自己』筑摩選書 p48から)。

という話です。A・B系列のどちらの考えにしても今回の金環日食は、時間の経過で元の姿にもどります。原因がなければ結果はあり得ないという因果の世界、

「過去---現在---未来」

「より前・同時・より後」

そこには間違いなく「瞬間」というものがあるように思います。移行する狭間にある瞬間です。「瞬間における亀裂の生起」それが時制的、連続的な流れの中で積み重なり時間というものが形成されていきます。

「時は実在する」「時は実在である」

 慶応大学文学部教授で哲学倫理学者の斎藤慶典(さいとう・よしみち)先生が書かれた『「実在」の形而上学』(岩波書店)の中でそのように語っています。

 この本では形而上学を実在という概念で紐解いていこうというものです。西田幾多郎先生の「論理は実在の自己表現の形式」という言葉にも解説を加え西洋哲学にはない「実在」を解説しています。

 今朝はこの本から「時と実在」についてジョン・マクタガートの話しから書かれた部分を紹介します。

<斎藤慶典著『「実在」の形而上学』(岩波書店)>

 ・・・・・その特異な時間論で知られた二〇世紀初頭の英国の哲学者、ジョン・マクタガートの議論だろうか。彼は、時間という事態の中核をなすのは、彼が「A系列」と名づける「過去・現在・未来」という時制だと考えた。何かが何かの「前に」ある(あるいは「後に」ある)という前後関係は(これを彼は「B系列」と名づけた)、必ずしも時間的なそれであるとはかぎらず、空間的なそれでも論理的なそれでもありうるからである。

前後関係が時間的な意味を帯びるためには、すでに時間という事態がB系列以外のところで成立していなければならず、それが「過去・現在-未来」というA系列だと考えたの
だ。しかし、同じ一つの事柄がこの三つの時制を併せ持つのは矛盾だという。なぜなら、過去はもはやなく、現在はあり、未来はいまだない以上、同じ一つの事柄が「あり」かつ「ない」ということになってしまうからだ。ここから彼は、この矛盾のゆえに、時間という事態は「非現実的(unreal)」であると結論した。

 しかし、本章からすれば、マクタガートのこの議論はミスリーディングである。なぜなら、そのように言うと、時間は、夢や幻や錯覚が「非現実的」と呼ばれるのと同じ意味で、「非現実的」なものとなってしまうからだ。

彼自身は、おそらくそう考えたのだろう。だが、彼が時間という事態の中核ないし本質をなすと考えた「過去ー現在-未来」というA系列に託して言わんとしたのが、本章の言う<「瞬間」における断層ないし亀裂の生起>のことだったとしたら、どうだろうか。この「瞬間」において、何かが決定的に失われ、すなわち失われたものとして姿を現わし、同時にそこに何かが、いや、いまだ「何」かとは言えない新たな次元が開かれるのだった。

この事態は「過去・現在・未来」という時制的・状態的な連続体に決定的に先立っており、一方で、この連続体のどこが「いま」(正確には「現在」)なのかを指定する、その隠れた前提をなしていた。だが、同時に、他方でこの「瞬間」は、この時制的・時間的連続体内部の特定の場所に位置を占めるものではなかった。

それは、あえて言えば、大きさ(拡がり)を持たない点であるがゆえにこの連続体の中には存在せず、むしろ逆に、この連続体のすべてがそれに服しているという意味では連続体のすべてに浸透していた。この意味では、「過去-現在-未来」のすべてが「いま」なのである。

そして、「過去-現在-未来」という時制的・時間的連続体の内部にあってこそ、つまりは「状態」として現象する世界の内部でこそ、何が現実的で何が非現実的かが測られる。したがって、それらすべてに先行する∧「瞬間」における亀裂の生起)は、何が現実的で何がそうでないかを測る尺度の埼外にあるという意味で、「非-現実的」なのだった。この意味での「時」の「非-現実性」は、残念ながらマクタガートの議論でうまく捉えられているとは言い難い。

「時」は(彼の結論が示唆するところに反して)夢や錯覚のようなものではないのだ。

 では、あらためて問おう。「時」とは何か。それは「瞬間」が生起する、その「時」である。この「瞬間」は、私たちを含めた世界のすべてに先行し、世界はそれに全面的に服するがゆえに、そしてそれに服することではじめて「いま」が定まり(このことを通して「現在」も定まり)、かくしてすべてが現にあるとおりとなるがゆえに、つまり、それの生起するところがつねに「いま=現に」であるがゆえに、それは「実在」との接触、正しくは、それに向き合うことも叶わない仕方での「遭遇ならざる遭遇」だった。つまり、本章が言う意味での「時」の「非-現実性」は、「実在」ということと矛盾しないのである。

 かくして、「時は実在する」。時は実在である。ちょうど「いま・ここで・現に」そうであるように。

<p286~p287>

私がこだわっている「実在」という仏教的な一刹那のおける実在的なものの考えにも通じる話に思います。

<「いま・ここで・現に」そうであるように。>

すべてが含まれる述語の世界が、今その瞬間に「ある」

 私は実在的な思考とは実在論に対抗するものではありませんが、実存的な思考がが主語を無くした述語の世界ならば、「実在」という言葉にリアルではない、西洋流ではない、観念論も対抗しない意味をもたせることもよいのではないかと思います。

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