紀野一義先生は、名僧列伝(角川)の「不生の仏心」の盤珪さんの話の中で
人間が生まれつき持っているのは「不生の仏心」ひとつである。それなのに人間は、我欲で迷い、機僻(きへき)で言ったり、したりする。それは仏心を念に替えることである。念に念がかさなって機僻になり、それを、生まれつきで直らないというのである。
そんなことばかりやっていると、機が下がる。「機」というのは「心のはたらき」ととっていいであろう。執念に執念をかさねていると、自分の心のはたらきに妙な癖がついてしまう。癖がつくと、その癖に合った者のことをひいきにするようになる。もともとこちらの癖そのものがよくないのであるから、それに合った人間もよくないにきまっている。よくない人間だから悪く言う。自分の気に入ったもののことを悪く言われるから腹を立て、いよいよその人間にひいきして、いい人のように言い立てる。逆に、自分のゆがんだ心のはたらきに合わぬ人間は、よい人間だから人はよく言う。そうすると、あれのどこが良うて、などと悪く言い返すのである。それというのも、念に念をかさねて機僻がついたからである。こういう機僻のある心からひょっと迷いが出るのである。
と述べている。
当然と思って何気なく行われる日常生活での行動、癖は、いつのまにかその人の人となりを形成していく。
人には生きるうえにおいて、普遍的な好ましい姿があるはずだと直感的にだれでも感じている。角のない人間、僻みをもたない人間それも好ましい姿のひとつだ。
そこで参考になるものに、中部経典114経(セーヴィタッパアセーヴィタッパ経)「親しむべきものと親しむべからざるもの」という経がある。
この経は、釈尊がが比丘たちに法語を語り、サーリープッタが詳しく解説を行うという内容で3つの法話からなっている。
第一の法話は、ある性質に親しんでいると人の不善なるものが勢いづき、善なるものが衰えると解くもので、「身体的行為」「言語的行為」「心理的行為」「心性」「表象の獲得」「見解の獲得」「個性の獲得」の7つの事柄についてである。
釈尊が人の日常生活において、親しむべきもの親しむべからざるものがありそれが善の増幅、衰退に関係することを修行僧に語り、これを確認する形で修行僧が答えている。
その中の「表象の獲得」であるが、
尊師よ、どのような類の表象の獲得になじむ人にとって、もろもろの不善なることが勢いづき、もろもろの善なることが衰えていくのでしょうか。尊師よ、世のある人々は強欲であり、強欲さを伴った表象を抱いて暮らしています。また、憎しみに燃え、憎しみを伴った表象を抱いて暮らしています。また、攻撃的であり、攻撃性を伴った表象を抱いて暮らしています。尊師よ、このような類の表象の獲得になじむ人にとっては、もろもろの不善なることが勢いづき、もろもろの善なることが衰えていくのです。
尊師よ、どのような類の表象の獲得になじむ人にとって、もろもろの善なることが勢いづき、もろもろの不善なることが衰えていくのでしょうか。尊師よ、世のある人々は強欲ではなく、強欲さを伴わない表象を抱いて暮らしています。また、憎しみがなく、憎しみを伴わない表象を抱いて暮らしています。また、攻撃的でなく、攻撃性を伴わない表象を抱いて暮らしています。尊師よ、このような類の表象の獲得になじむ人にとっては、もろもろの善なることが勢いづき、もろもろの不善なることが衰えていくのです。
と解かれている。
一般人ならば少し変であると思うことも、その人の縁(よ)って出逢う人達の中では、全てが当たりまえの思考で当たりまえの結果となる。
「親しむべきもの親しむべからざるもの」見極めて生きたいものである。
12月16日内閣府に申し入れを行ったグループがある。申し入れ内容であるが、犯罪報道における被害者の実名発表を求めるもので、被害者保護の立場から匿名発表を警察判断に委ねるという政府の犯罪被害者等基本計画案に反対する立場から行われた。
提言理由は、「実名発表でないと背景や事実確認の検証が困難で真実が伝わらない。原因究明に障害が生じ、事件の再発防止に影響を与える。捜査ミスに恣意的に使われる可能性がある。」というものである。
最近の年少者殺害事件連続発生や愉快犯など似た犯罪が連続発生すりのをみていると、テレビなどのメディアの閲覧自由は聴取する我々にあるとはいえ過剰なように思えるし、被害者の周辺での聞き込み、生前の姿が映っているビデオ使用など非常に被害者が報道機関による別な意味の被害を受けているような気がする。