理不尽な審判、誤りの裁き、横綱としてのその態度にNHKのアナウンサーは批判的な解説をしていました。弓取り式が行われようとする中、横綱白鵬は立ち続ける。
やり直しを求めるその態度に、わたしもアナウンサーと同じ心境になり白鵬のその態度に惨めささえ感じてしまう。「善しとする」態度、耐え忍ぶことを横綱ならばほかの関取とは異なるその立ち位置の視点から範を示すべきであろう。
取り返しのできない事、あとは諦めるしかないが、行司に恨みを抱く事は論外でどこまでも忍の忍で、恨むのであれば、恨むその自身の態度に視点を当てよ!
と、まぁ勝手に思ってしまいます。そのような態度形成も、個性の時代、多様化する社会においては一握りの共感態度に至っているのが現代であろうと思う。
日馬富士の暴行事件、元貴乃花の親方の顔や態度を見ていると悪相を感じてしまう。事実関係を明らかにすべきだと誰もが言うが、私個人には関りのないことで、烏合の興味本位集団の一員になっています。
良くも悪くも、日々という、日常は新しき何かを投げかけるもので、出勤帰宅とパターンは変わらないが、時の瞬間というものは同じことは一つもありません。
故池田晶子著『事象そのものへ!』を読んでいると「絶対的自己同一」という言葉が多用されている。「矛盾」という言葉が挿入されれば、これはもう西田哲学となるが矛盾は付かない。
絶対的自己同一性としての「概念」が、いたるところで繰り広げている自己認識、つまり、被措定--措定--統一、Sein--Nichts--Werden の円環的運動、その詳細な例証だけである。「概念」が自信を認識するときの運動性、つまり契機としての始原のSein、あるいは始原のNichts、知られていればよいのは、それだけだ。ただし、あくまでもどこまでもまぎれもない肉感として。これら三項がが自身の生身に観察されたとき、物質から生命へ、生理から論理へ、始原から無限へ、弁証法の律動(リトムス)が思考を導いてゆくだろう。(上記書「存在の律動」p34から)
現象における気分とか心境というものは空間と時間がなければ現れてはこないもの。過ぎれば過ぎるのであって後戻りはない。
気分とか心境を語るとき戻れない過去の軌跡になってしまいます。絶対的自己同一の概念がそこに瞬間を刻むが、過去に気分を置かない、とらわれない・・・・歳を重ねてくると執着を好まなくなっている自分に気づく。
ハイデッガー風にもの申せば「ある現象」は可能性をもつ、そこに投企という言葉を添えれば私という現実存在が何ものかを求めんとしています。そのような働きのうちに生命はあるのかもしれません。
白鵬は何を感慨し、日馬富士も然り。
モンゴル人、日本人、日本語圏
今の相撲界の現象は、他人事だが私にも「もの申している」ように思えてならない。
執着が薄れるような話をしましたが、思考にどこまでも執着している「矛盾」に気づく昨今です。