思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

昨今に執着して

2017年11月23日 | 哲学
 理不尽な審判、誤りの裁き、横綱としてのその態度にNHKのアナウンサーは批判的な解説をしていました。弓取り式が行われようとする中、横綱白鵬は立ち続ける。

 やり直しを求めるその態度に、わたしもアナウンサーと同じ心境になり白鵬のその態度に惨めささえ感じてしまう。「善しとする」態度、耐え忍ぶことを横綱ならばほかの関取とは異なるその立ち位置の視点から範を示すべきであろう。
 
 取り返しのできない事、あとは諦めるしかないが、行司に恨みを抱く事は論外でどこまでも忍の忍で、恨むのであれば、恨むその自身の態度に視点を当てよ!
 
と、まぁ勝手に思ってしまいます。そのような態度形成も、個性の時代、多様化する社会においては一握りの共感態度に至っているのが現代であろうと思う。
 
 日馬富士の暴行事件、元貴乃花の親方の顔や態度を見ていると悪相を感じてしまう。事実関係を明らかにすべきだと誰もが言うが、私個人には関りのないことで、烏合の興味本位集団の一員になっています。
 
 良くも悪くも、日々という、日常は新しき何かを投げかけるもので、出勤帰宅とパターンは変わらないが、時の瞬間というものは同じことは一つもありません。
 
 故池田晶子著『事象そのものへ!』を読んでいると「絶対的自己同一」という言葉が多用されている。「矛盾」という言葉が挿入されれば、これはもう西田哲学となるが矛盾は付かない。
 
 絶対的自己同一性としての「概念」が、いたるところで繰り広げている自己認識、つまり、被措定--措定--統一、Sein--Nichts--Werden の円環的運動、その詳細な例証だけである。「概念」が自信を認識するときの運動性、つまり契機としての始原のSein、あるいは始原のNichts、知られていればよいのは、それだけだ。ただし、あくまでもどこまでもまぎれもない肉感として。これら三項がが自身の生身に観察されたとき、物質から生命へ、生理から論理へ、始原から無限へ、弁証法の律動(リトムス)が思考を導いてゆくだろう。(上記書「存在の律動」p34から)
 
 現象における気分とか心境というものは空間と時間がなければ現れてはこないもの。過ぎれば過ぎるのであって後戻りはない。
 
気分とか心境を語るとき戻れない過去の軌跡になってしまいます。絶対的自己同一の概念がそこに瞬間を刻むが、過去に気分を置かない、とらわれない・・・・歳を重ねてくると執着を好まなくなっている自分に気づく。
 
 ハイデッガー風にもの申せば「ある現象」は可能性をもつ、そこに投企という言葉を添えれば私という現実存在が何ものかを求めんとしています。そのような働きのうちに生命はあるのかもしれません。
 
 白鵬は何を感慨し、日馬富士も然り。
 
 モンゴル人、日本人、日本語圏
 
 今の相撲界の現象は、他人事だが私にも「もの申している」ように思えてならない。
 
 執着が薄れるような話をしましたが、思考にどこまでも執着している「矛盾」に気づく昨今です。

日本語の現象学

2017年11月13日 | 哲学
 秋から冬へ。紅葉が始まったと庭先の木々の葉を眺めていたところ、木枯らしが吹きはじめいつの間にか落葉(おちば)の絨毯(じゅうたん)となっている。
 
 
 秋の深まりの中、最近日本語教育者になろうとする外国人を育成している日本語学者の金田一秀穂先生が日本語の特徴についての話をされている番組を見ました。
 
 その中で路上に千円札があった場合、日本人は千円札が「落ちている」と表現しますが、日本語以外の外国人は「千円札がある」と表現するという話をされていました。
 
 この話を聞いて、落ち葉の絨毯を見ながら実際はどうかわかりませんが、日本語では木々から落ちた葉は、「落葉」といますが、日本語圏以外の言語でこの事物を表現すると土の上に「葉がある」と表現するように思え、日本語の表現の中には。秋の木々の色の深まり、落葉(らくよう)という現象の季節という時の流れ、さらに雰囲気という空間が含まれた表現があるように感じられる。視覚の中に事物の単なる存在認識だけではなく、「ある」という事の背景が「そういうもの」という意味合いをも含めた表現ではないかと思うわけです。
 
 番組では「千円札がある」という話だけでしたが。個人的に次の話を思い出します。記紀の時代の話で、『日本書紀』の崇神天皇十月九日の条に次の文章があります。
 
 さて、天皇の姑(おば)で、聡明で叡智があり、よく行く末のことを知っていた倭迹迹日百襲姫命(やまととびももそひめのみこと)は、即座にその歌の不吉な前兆を知って、天皇に「これは武埴安彦(たけはにやすびこ)が謀反を起こそうとしている前兆です。
 わたくしは、武埴安彦の妻吾田媛(あたひま)が、ひそかにやって来て、倭の香山(かぐやま)の土を取り、領巾(ひれ)の端につつんで呪言をして、『これは、倭国の物実(ものしろ)です』と申して、すぐに帰っていったのを知っています[物実、これを望能志呂(ものしろ)という]。
 これによって、事件が起こることを察したのです。早く対策を講じなければ、きっと後れをとるでしょう」と申し上げた。(井上光貞監訳 日本書紀上 中央公論社P218から)

 これは現代文に直し『これは、倭国の物実(ものしろ)です』と書いてありますが原文は、
 
 「是倭國之物実、則反之。物実、此云 望能志呂」

と書かれています。
 
 「物実」は、「望能志呂(ものしろ)」と読み、注釈では、「物実=ものしろ」で、真実の実を「しろ」と読み、上記の内容からしても「そのもの」という内容を含んでいて、倭国という国そのものということになる、とあります。
 
 ここで、やまと言葉の「精神的に不動なるもの」「全体的な関係性の中での動的な働きで捉える思考」でみると「本質的には代わりなきもの」という意味が見いだされます。
 
 この日本書紀の内容は、土地に対する所有権の高らかな宣言で、「物実」を「望能志呂(ものしろ)」という言葉の中には、
 この土地は武埴安彦(たけはにやすびこ)の土地だったんだよ、所有物だったんだよ!

という妻吾田媛(あたひめ)の主張が歴然として主張されています。否定どころか肯定の肯定に使われているのです。
 
 少し難解な説明をしていますが支配するところの土を手にして、この土は夫の武埴安彦そのものであると宣言しているのです。
 代(か)わりのものではなく、「その人そのもの」ということです。日本人的な感覚において他人の手にした物にはその人の魂が宿るという感覚が、昔はありました。私にはその感覚がありいまだにあり父母の大切にしていたものは父母そのもののような感覚をもっています。
 
 『万葉集』の東歌に
 
信濃なる、千曲の川の、さざれ石(し)も、君し踏みてば、玉と拾はむ
 
という歌がありますが、
 
 「あなたの踏んだ石ならば、宝のように大切にします」
 
ここでいわれる「宝は」その人そのままを言い表しています。
 
宿るあなたの魂ということです。
 
 単純に石がそこにあるだけでなく「他者」が宿る現象が背景に浮かびだされているということになると思います。
 
 外国人の方々にも紅葉は美しく「ある」にちがいないのですが、日本語表現の事物(じぶつ)認識には物事(ものごと)が「ある」ように思うのです。
 
 秋も深まり我が家の庭先にも紅葉の時が現れ。葉の色の変化という自然現象が紅葉狩りという人の営みを作り出す。作り出すということには作り出されてゆく、という意味も含まれる。総体として視覚に快さが生み出されてくるのです。
 
 観照の器である「わたし」は、黄色や赤に変色した葉が事物の「ある」をも超え「物事」の理を観ているのです。
 
 落葉に悲哀を見ることもあれば、壮大な大地の営みを感じることもできる。時と空間が存在には現れていて、西洋的な現象学を日本語表現は超えているということができるように思える。