思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

槇原敬之と「私には夢がある」

2006年10月20日 | 仏教

 マーチン・ルーサー・キング牧師の有名な言葉に、「I have a dream」がある。

 私には夢がある。
 いつの日にか、ジョージアの赤土の丘の上で、かつて奴隷であった者たちの子孫と、かつて奴隷主であった者たちの子孫が、兄弟として同じテーブルに向かい腰掛ける時がくるという夢が。

と続くこの言葉にある「夢」。
 昨日のブログで言及した、

松本零士さんの「夢も時間を裏切ってはならない」
槇原敬之さんの「時間も夢を決して裏切らない」

の「夢」。これは、言葉とフレーズの後半部分である。
 この二人の「夢」に、キング牧師の「夢」をイメージする。

 キング牧師の「夢」は、信仰を基盤とした、人のもつ優しさ、愛への希望がある。
 人は善でありたいものだ。人を愛する気持ちを醸成し、他人に優しさしい人になってもらいたい。

 そのような夢は、時間が造るものではなく、一人一人の熱き信仰、慈愛の醸成にあり、したがって惜しみない努力と時間を大切にする必要がある。

 「夢も時間を裏切ってはならない」は、「争いのない平和な社会を実現したい。」という夢は、時間に期待をしてはならない。今日、ただ今という時間を大切にすることを意味する。

 時間は、ある面その経過に人を癒す力がある。この癒しの力は信仰による力ではない。 忘却と動物的、本能的な経過とともに悲しみ、痛さが軽減されることです。ことわざに

 人の噂も七十五日
 暑さ忘れれば陰忘れる

がある。過ちに対する人の批判は、時の経過とともに終息する。ある人は完全に忘れ、ある人は一生その悔いの中で生きる。

 過ちの償いの姿勢にある我が身が、人の中傷、批難にさらされている時、もしくはそのように思う時、時間の経過を期待する。

 今回の騒動は、お二人の業の完成でなければならない。

 どんな夢を持ちましょうか。その夢は、夢の実現の過程も含め「自分を豊かにするものであったほしい」と私の気持ちの中にそんな思いが浮かんだ。


時間は夢を裏切らない

2006年10月19日 | つれづれ記

 「銀河鉄道999」の作者で有名な松本零士さんの
    「時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない」
という言葉が、歌手の槇原敬之さんの新曲「約束の場所」の
    「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」
というフレーズに、似ていることから話題になっている。
 68歳と39歳の言葉とフレーズ。確かに時間と夢とを入れ替えると似ていることは事実のようだ。

 人にとって時間も夢も教訓的題材や詩的題材に使われる。まず「時間」であるが、人は時間をどのようにとらえるのであろうか。

 ここに一冊の本がある。題名は「わたしの『時間』」(上野秀恒編 クロック文化研究所)で、著名人の「時」「時間」「時計」に関する考え方を綴ったものである。
 目次をみると、人と時間の付き合い、こころと時間の関係がよく分かる。

 時間よ止まれ              新藤兼人
 東京の時間と森の時間          俵 萠子
 時間からの自由             諸井 薫
 大河のようにように漂う時間の流れの中で 山村レイコ
 「物語」を紡ぎ出す時間         C・W・ニコル
 「時間」その美しく、いとしく、壮大なもの 水野晴郎
 時間との一期一会            阿久 悠
 ニューヨークの「時間」         石川弘義
 時間有限、空間無限           吉田桂二
 機械的な時間と自然的な時間       竹内 宏

 40名の中から10名の表題を抽出したが、直観的にそこに人の心が時間をどのように感じ、人生を見つめているかが分かる。

 次に「夢」である。手元にある「夢」に関する書籍は、精神分析、心理学関係のものしかなく、上記の「時間」のように人が「夢」をどのように考えているかというものはないが、「夢」というものを慣用的に人がどのように使用するのかをみればそこに何かが見えてくるような気がする。

 「夢が覚める」
 「夢から覚めたよう」
 「夢の夢」
 「夢枕に立つ」
 「夢を描く」
 「夢を追う」
 「夢を託す」
 「夢を見る」
 「夢を結ぶ」

三省堂の辞典から抽出したが、その意は思考を働かせるまでもない。
 ここで両者の言葉、フレーズの前段を考えてみる。
 「時間は夢を裏切らない」は、直観的に努力、熱心、固きこころの一徹、堅持等が脳裏にあらわれ、云わんとしていることが理解できる。

 「夢は時間を裏切らない」はどうか。脳にうなりを生ずる。分からん。幻覚の世界である。正常な感覚では理解できない。言葉が出ない。

 では後半部分。「夢も時間を裏切ってはならない」ここでは夢を持つ主人公のこころ構えを感ずる。「時間も夢を決して裏切らない」ここでは時間が主体になっている。夢を持つ人間は、受動的に時間を受け入れるだけの存在である。

 世には盗作というものもあるが、これは盗作ではないと思う。深層に松本先生の言葉があっても、精神的な引継ぎは見出せず、単なる幻覚的な表現の創作であると思う。
 人の思考の志向性、意識の志向性とでもいうのか。
 こころの位置、向き。短い言葉、フレーズの中に人を観る。


人間性の限界と救い

2006年10月16日 | 宗教

 このところいじめにより自殺する子どもさんのニュースが多いような気がします。怒りを露わにぶつける親。ただひたすら無言で抗議を受ける教育者。被害者、加害者、その周辺の痛みを感じる人々。この苦から救う手立てはないのだろうか。とふと思う。

 小泉達人牧師のキリスト教と仏教の対比を軸とした「宗教を考える(キリスト教と仏教の対比を軸として)新教新書247」という著書を引用して以前ブログに掲出したが、今日は、宗教の救いについて考えてみたいと思う。

 実に救いこそは宗教の中心である。人生においては悩みというものは多種多様にある。病気、障害で悩む人、また家族の病人で悩む人、いじめで悩む人、経済苦で悩む人等と限りなく苦はある。そして反面、この苦からの救済を人は何ものかに求める。「救い」の相手は、病院であり、福祉行政であったりまた、いじめを解決してくれる力強い相談相手であったり、銀行であったりとその解決先も多種多様にある。

 こういうときに宗教はどうなのか、当然衆生済度を目的とするからその救済を使命とすることはあるのだが、病気や経済苦になったからといって直ぐ神頼みをするものは多分いない。

 人は、難病等で現代医学では治療のすべがない現実に襲われたり、適切な相談相手が見つからず、また相談相手が相談相手を無視したり、また金融機関に見放されたりとなると、幼少のころから宗教心、信仰があるならば神や仏に祈り、信仰心が薄い場合は、占いや霊能者にその救いを求め、そのすべを知らないと人は何故か死にたくなったり、樹海の中にさ迷ったり、定型的縊死に身を落とす。
 そのように人は造られていると言ったほうが、よいかもしれない。

 この神等への祈りに至る境を通例人間性の限界という。この人間性の限界に人間存在そのものから来る存在的限界とわたしたちの責任が問われる倫理的限界があると小泉牧師は言う。

 存在的限界とは、人間存在そのものに伴うところの、いわば運命的ともいえるものでこの限界のことを一言で「苦」という。そしてこの苦については、「仏教の考察は群を抜いている。仏教は総じて、苦の宗教、と言えると思う。」と、小泉牧師は述べている。そして小泉牧師はこの苦、すなわち人間の存在的限界を二つに分けている。

 一つは、生物的存在としての限界である。仏教では苦を分析して四苦八苦というがこの中の四苦、すなわち生老病死である。生は一切の苦の原因であり根源である。
 老は、生物である限り免れない宿命である。病気もまた人間が生物であること、遺伝子や環境等に影響される存在であることからも避けがたいものである。そして最後の死である。「これこそ人間性の限界の限界、絶対限界と言うべきであろう。」、「この四つの限界、四苦を見据えていた仏教の深さを思う。」と、小泉牧師は述べている。

 二つ目は、社会的存在としての限界である。この限界は四苦八苦の八苦のであり、愛別離苦、怨憎会苦である。愛するものと分かれる苦しみ、いやな人と一緒になる苦しみである。幼い我が子の死、自分を無視しいじめをするクラスのものに会わなければならない苦は、心痛む現実の問題として発生している。
 社会で生活している以上、こちらに落ち度のない、非のない危険に遭遇し愛するものが奪われことがある。また自由に憬れる傾向にある人間に、個性を伸ばし子どもの人権を守りとの限りなき社会的構成員としての画一教育を拒否続ける現実。それは残酷な競争社会と痛みの判らない個性豊かな人間を育て上げた。その中で愛する子は生活をするのである。

 次に倫理的限界である。性善説、性悪説は別として、わたしたちは通常、清く正しく、そして人には優しく接したいと想っている。が現実はそうは造られていない。

 「こうした中でわたくしたちは罪の意識を持つ。罪責感、または罪悪感と呼び、それをわたくしたちの内なる良心の声である。」「良心はわたくしたちの内にあって、わたくしたちを裁く声である。それは言わば第二の自己、否、むしろ第一の自己、本来的自己として、自己のうちのもっとも尊厳な部分である。この良心が、お前は友達を裏切った、お前はなすべきことをしていない、と言って絶えずわたくしたちを責めるのである。」と、小泉牧師は言う。そしてパウロのローマ人の信徒への手紙「わたしは自分のしていることが分かりません。自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・・・わたしは自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。・・・・わたしはなんと惨めな人間でしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。」 (7章15から24節)

を紹介し、「こうして人間の倫理的限界は、自分との戦いとしてわたしたちの深い苦悩の源となっている。具体的には、罪の問題、であろう。そしてこの罪の問題はキリスト教が徹底的に取り上げるところである。キリスト教はその全体がこの罪の問題に集中していると言ってよい。」そして「キリスト教は、罪の宗教、である。仏教が存在的限界を深くみつめる、苦の宗教、であるように、キリスト教は倫理的限界を中心とした罪の宗教である。仏教の中では、親鸞上人の宗教がこの問題を大きく捉えていると思う。」と閉め括っている。

 以上書籍からの引用とわたしの勝手な簡略化で書き綴りました。


こころは流れない

2006年10月14日 | 仏教

 松岡正剛氏の「松岡正剛の千夜千冊」というサイトの中に、亡中村元先生が松岡氏にいわれた話として、サンスクリット語の興味ある話が掲載されていた。
 サンスクリット語には、「流れる」という動詞がなく、静止、動向、流路、介入、流出それぞれを自分でつなげるということらしい。
 
 サンスクリット語は、どのようなものかよく分からないが、「川が流れる」などを表現するのに、水の位置、向かう先、川の存在、行く方向に対する来た方向、変化などを組み合わせて表現するのかなどと想像してしまう。
 
  中村先生は、その道の大家で「サンスクリット語に流れるという動詞がないこと」に仏教学上の特別な意味を感じていたのだろうかと思う。
 哲学的には「時間は、流れず」という話がある。日本人だけではないと思うが、時間は川のように流れている発想を持つ人が大半だ。

 縁起などを考えると過去からの時間経過で今日の縁の結果が現れているように思うが、発想としては、今のみの実相のみを考えないと仏教的な縁起がつかめないような気がする。
 一夜賢者の偈(吉祥の一夜)の教訓も、過去に囚われし縁起観で意味をなさなくなってくる。

 「こころが流れる」という表現は詩的には美しいが、仏教的にはこの際、流れるという語を使用しないで、現象を表現する思考に挑戦してみたら面白い世界が現れるような気がする。

 ※本年前半に一度掲出したが、聖賢におもねらないことを感じ再度修正掲出した。


この世の最上のわざは何?

2006年10月13日 | 風景

 上智大学のアルフォンス・デーケン牧師は、その著書「改定新版 第三の人生(あなたも老人になる)」の中で、

 老年になると、いままでになく未練を捨てることが容易になる。自分の生活環境も、所有物も、距離を置いて眺められるようになり、あらたな視野が開けてくるのである。
 こうして全体を客観的に展望するうちに、やがて事物の核心にふれる。たとえば人生と愛について、世界と神について、あるいは時間と永遠について正しく理解するようになる。

と、語っている。 

 人間の成長段階における志向性について考えていると、年齢を重ねるごとに当然な話と思うが老化という問題が出てくる。
 特に知能の老化というものは、思考を楽しみにするものにとって気になるものである。知能とは、記憶、理解、判断、計算、推理、学習能力などを含み、経験や知識に負うことが大きいといわれる。

この点について専門家は、

 加齢によって知能の各要素は一様に低下しないことが知られている。老化によって、ある能力は保持され易く、ある能力は衰退しやすい。(中略)一般的にいうと、老化の影響を受け難い知能要素は、言語数、情報量といった知識あるいは言語性知能であり、逆に衰退し易いのは速度の要素をもつ知能効率や動作性知能ということになる。したがって、知識は精神を若返らせる(Leonarud da Vinci)といわれるように、衰退し難い知識の増加につとめることを、知能の老化を制御する方法の一つとして考えることは、当をえたものであろう。(誠信書房 老いの様式 その現代的省察 第3章1節 老いの心 長谷川和夫p108)

と、語る。
 長谷川先生は、同書でドイツ人神父へルマン・ホイベルスの詩を紹介している。

 この世の最上のわざは何?
 楽しんで心で年をとり
 働きたいけれども休み
 しゃべりたいけれども黙り
 失望しそうな時に希望し
 従順に、平静に、おのれの十字架をになう
 若者が元気一杯で神の道を歩むのをみてもねたまず
 人のために働くよりも謙虚に人の世話になり
 弱ってもはや人のために役立たずとも
 親切で柔和であること
 老いの重荷は神のたまもの
 古びた心にこれで最後の磨きをかける
 まことのふるさとへ行くために
 おのれとこの世につなぐ鎖を少しずつ離してゆくのが真にえらい仕事
 こうして何もできなくなれば それを
 けんそんに承諾するのだ
 神は最後に一番よい仕事を残して下さる
 それは祈りだ
 手は何もできない
 けれども最後まで合掌できる
 愛するすべての人のうえに神の恵みを求めるために
 すべてをなし終えたら
 臨終の床の上に神の声を聴くだろう
 来たれわが友よ、我汝を見捨てじと


暗黒をも貫く光

2006年10月11日 | つれづれ記

 仏教用語に「加持」という言葉がある。

 梵語では「アディシュターナ」といい「誓い」とか「嘘いつわりのない決心」という意味があり、真実の誓いとか衷心からの呪いは、相手に必ず作用を及ぼさずにはいないという古代インドの信仰から、「呪力」「超自然的な支配力」という意味があるそうである。
 この言葉は、密教では仏の絶対の慈悲が信仰する人の心に加えられて慈悲を感得する意味になってきた。
 「加」は「仏の加被」、「持」は「衆生の摂持」で空海は「即身成仏義」で
 加持とは如来の大悲と衆生の信心とを表わす。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水能く仏日を感ずるを持と名ずく。
と解説している。
(以上中公新書 岩本裕著 日常佛教語論・新仏教辞典 中村元監修 誠信書房を参照引用)

 こういう言葉を日常生活の中で、宗教心とは別な方向から観ると、「他人」と「私」との関係や他者の理解、そして「対話」の成立などと考えたくなる。

 そこで師主善智識(よき師)、同行善智識(よき友)との出会いと対話ではなく、普通の日常生活で出会う他人との対話に視点をおく。
 「改訂 社会生活と実践と構造 夏刈康男 石井秀夫 宮本和彦共著 八千代出版」p25からp26に

 「対話」(dialogue) が成立する条件は二つある。すなわち二者が互いに相手の世界を理解するということ、および互いに独立した存在であるということである。二者が相手の世界を理解しようとせず、自分の主観的意見を主張するだけであれば二者の間のことばの交換は「言いあい」(monologue) であり、目前の相手は形式的存在であるにすぎない。対話が成立するためには、まず第一に、私が私の主観的世界からぬけ出し、他者の世界に歩み出していかなければいけない。

 しかしながら、もしもどちらか一方が自己であることを完全に放棄してしまい、ただ聞くだけに徹するならば、また対話は成立しない。というのも対話には自己と他者という極性が必要とされるからである。

 ところが、自己が自己の見方とは別の他者の見方を自分のものにすること、換言すれば自己の視点の外に立って世界を見ることができるということと、自己が自己であることとは論理的に矛盾した事柄であるとはいえまいか。対話にこうした相矛盾する事柄が同時に成立するということは、いかなることであろうか。対話に含まれるこれら二点、すなわちわれわれの他者理解とわれわれの同一性とをそれぞれについて一瞥しておく必要があろう。

と、書かれている。

 そこで重要なのは、他者理解である。人間はその内部に他人には知り得ぬその人独自の心理をもっており、他者の心理はその身体の動きと発する言語から推測するしかない。
 そして他者の心理を推測する私の心理となると自分自身では理解不能で、その理解不能の状態のわたしが他人の心理を推し測るのだから、対話というものは難しいことが分かる。

 先々週のNHK教育テレビの「こころの時代」で安城教会の武岡洋治牧師が、スーダンの盲学校生徒の少女の「私の目は何も見えないが、私の心は何でも見えます。」というスピーチを話された。そのとき武岡牧師は、自己の境遇(牧師さんも全盲に近い状態になった)、体験をあわせ「見えなくなった時に、見えてくるものがあるのではないか。」と自己の理解も示された。

 メランコリーの方と話す機会がある。日本人の場合、自分に自信があるのに、人に誉められた時、「そんなことはありませんよ。」「そんなに努力はしていませんよ。」と一段自分を卑下して会話をする人が多い。その反面、その人の心の中は、他者に「どのように評価されているのか。」「相手は喜んでいるのか、怒っているのか。」と他者の心の中に一生懸命入ろうとする人が、メランコリーになり易いという。

 「みんなそう思うのではないの」と反論する人があると思うが、なり易い人はその傾向が極端に強いということである。

 このような闇夜に陥らないために、また闇夜に落ちても「加持」に出会い、「私の目を包む暗黒をも貫く光がある。」ヘレンケラー女史に言わしめる「わたし」という確立された自己。そういうものは人間の成長段階である程度確立されていなければいけない。

 思春期から青年期(12歳から20歳)で、自分は自分であって本当によかったと言いきれる人間となりたいいう欲求(自己アイデンティティ)を培う必要がある。自己同一性と訳されるが、あまりよい訳ではなく「釈尊は、これを自灯明と言われました(法蔵館 科学文明を生きる人間 松田英毅 松田正典共著p102)。という。

 「加持」という仏教語から「自灯明」という仏教語に至ったが、自覚には階梯がある。
 若い時に感銘を受けるものも、老年期では左程でもないもの。
 共通して感銘を受けるもの。

 「加持」も今現在説法も感得することができる人でありたいと思う。

 先週のスマナサーラ長老のNHK教育テレビの「こころの時代」を見てから先日のブログに続き「自灯明」を別の角度から考えてみた。


自己を島(よりどころ)として

2006年10月08日 | 仏教

 今朝のNHK教育テレビの「こころの時代」は、「仏陀の幸福論~ダンマパダの言葉」と題し、スリランカ人のアルボムッレ・スマナサーラ氏のお話であった。
 スマナサーラ長老と呼ばれ原始仏教、テラワーダ仏教の布教に努められている方のようだ。

 スマナサーラ長老については以前このブログで書いたことがある。
 玄侑宗久氏との対談本を読んで、「般若心経」に「空即是色」は要らないと語る人という印象が強い。

 だから、「色は空である」っていうのは真理なんですが、「空は色である」と言っちゃうと、もう冗談も休み休み言って欲しっていうことなんです。

と、かなりきつく、「色即是空」を批判されていたのが印象的であった。(株式会社サンガ「なぜ悩む!」P59)

 今日は、法句経、ダンマパダの160番の話から始まった。法句経といえば日本では、友松圓諦さんの法句経講義が有名だ。

 おのれこそ
 おのれのよるべ
 おのれを措きて、
 誰によるべぞ、
 よくととのへし
 おのれにこそ
 まことえがたき
 よるべをぞ獲(え)ん

    (昭和9年版法句経講義P249)

 この経は、同経経236番の仏陀の残した臨終の遺偈「自灯の訓戒」

 アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。たとえば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように、おそらくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。しかし、向上につとめた人が一切の相を心にとどめることなく若干の感受を滅ぼしたことによって、相のない心の統一(無想の心三昧)に入ってとどまるとき、そのとき、かれらの身体は健全(快適)なのである。それゆえに、この世でみずからを島として、みずからをたよりとして、他のものをたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとするな。
           (NHKブック ブッダの人と思想 中村元・田辺祥二著から)

と内容を同じとする。

 この経は、自灯明・法灯明、自帰依・法帰依と呼ばれる釈尊の教えである。 
 中村元先生は、「自己の探求」という中で次のように語られている。

 「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか。自己をよくととのえたならば、得がたき主を得る。」Dhp160

 「みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。」Dhp165

したがって自己は自己にたよらなければならぬ。このような理想的自己は大海のなかの島のようなものである。

 「たとえば大海の波のように、生と老いとが、そなたを圧倒する。だから、そなたは自己のよき島(よりどころ)をつくれ。けだしそなたには、他のよりどころがないからである。」Therag412

 インドで洪水が起きると、田畑が一面の水びたしとなり、多数の死者が出る。丘もないし、逃げ場もないからである。そういう場合に「洲」というものが非常に大きな意味をもってくる。それは生命を救ってくれるからである。

 真実の修行者は「自己を島(よりどころ)として世間を歩み、無一物で、あらゆることに関して解説している」ととかれている。よりどころとしての洲を漢訳では仏典では灯明の意に解しているが、いずれにしても、その趣旨に相違ない。釈尊も「われは自己への帰依をなした」と説いたと伝えられている。

 ここでは、たよりにされるべき自己が問題とされている。(これをかりに自己Bと呼ぶことにしよう)
 自己Aと自己Bとは明らかに異なった性格のものである。概念としては別である。しかし、ともに自己と呼ばれるものなのであるから、人間としての自己が二つの異なった、矛盾した面をもつという複雑な構造をもっているのである。だからこそ、

 「自己によって自己を観じて(それを)認めることなく、心が等しくしずまり、身体がまっすぐで、みずから安立し、動揺することなく、心の荒みなく、疑惑のない(全き人)」Sn477

がほめたたえられている。
 しかるに愚者はこの道理を理解していない。愚者にとって自己が失われている。

 「『わたしには子がある。わたしには財産がある』と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」Dhp62

 喪失した自己の回復、自己が自己となること、これがすなわち初期仏教徒の実践理想であった。表現に関するかぎりでは、この点にはウパニシャッド的なアートマン哲学が顕著に保存されているといい得る。
      (中村元選集第15巻原始仏教の思想ⅠP537から539引用)

と述べている。

 スマナサーラ長老は、日常における今という瞬間をつかむことを話しておられた。
 私もこのような瞬間を考え追求している。その中で西嶋和夫さんに影響され、一刹那における刹那生滅の意義について自分なりの考え方をもつに至っている。
 この考え方は、釈尊の吉祥なる一夜の偈(一夜賢者の偈)に示されている教えである。

 吉祥なる一夜の偈(上記原始仏典第7巻から引用)とは、

 過去を振り返るな、
 未来を追い求めるな。
 過去となったものはすでに捨て去られたもの、
 一方、未来にあるものはいまだ到達しないもの。
 そこで、いまあるものを
 それぞれについて観察し、
 左右されずに、動揺せずに、
 それを認知して、増大させよ。
 今日の義務をこそ熱心にせよ、
 明日の死を知りえる人はないのだから。
 死神の大軍勢と
 戦わないという人はいないのだから。
 このように熱心に禅定を行う人、
 昼夜怠けぬ人、
 その人こそが「吉祥なる一夜における、
 こころしずまった聖者」として語られる。

という偈でる。
 この考えは、仏教に限る話ではなく、(マタイ伝第6章34節)

 「あしたのことを心配するな。あしたはあしたが心配する。一日の苦労はその日の分で沢山である。」 (岩波文庫 福音書)

 「あすのことは思い煩ってはならない。あすのことは、あす思い煩えばよい。その日の苦労は、その日で十分である。」 (フランシスコ会聖書) 

 「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日で十分である。」 (日本聖書教会JBS) 

と、キリスト教でも説かれる。
 
 法句経の160番については、関連する説話がある。

 あるとき仏陀のところにコーサラ国の王が訪ねてきたときに語った話で、四方から己に迫り来る巨大な岩石の話である。釈尊は、コーサラ国の王から「この世で一番大切なものは何かたずねられる。迫り来る岩石に、軍勢であろうが、金品財宝があろうがなんの役に立たない。これは自分に迫り来る老・病・死であり、「王よ、何をしなければならないか(自ら)考えなければならない。」と釈尊はお答えになり、最終的判断は己で下すことになることを教示している。

この説話にも、吉祥なる一夜の偈と同じく「軍勢」という言葉が出てくる。
 すなわち自己に迫り来る軍勢に対し、頼りになるのは最終的には自己であるということになるが、この軍勢は死神の軍勢だけではない。宿業から生ずる煩悩でありダンマの顕現に至りそこから帰り来たれば、苦・善の別がない身における現象と分かる。
 
 最後にスマナサーラ長老は、瞑想の「止」と「観」について述べられていた。
「我」は流動的で、無限大の拡大と極小の縮小の「あるもの」と思っている。
 上記の「止」と「観」の関係は、拡大となる時が「止」であり極小が「観」であるような気がする。

 今回の金光さんとの対談の最初にスマナサーラ長老は、「人間は宇宙の一員」というようなことをいっておられた。

 ドイツの精神科医J・H・シュルツが体系化した心理療法に自律訓練法がある。特に精神的に問題がない人が、この訓練法を実践するかなり早く内と外の壁面の崩壊を体現できる。 宇宙意識との一体感、気が頭頂部から体全体に抜け出るような、また闇夜に吸い込まれるような感覚に遭遇する。それはあくまでも生理的現象であり、主体は決して幽霊のように外に出たわけではない。

 現実的には、人間の存在は森羅万象の一部であることは相違ないが、それを常時感得しもちつづけることには問題がある。
 人間には、外に真理を求めたくなる傾向があり、それがしばしば争いの種となっている。

 それゆえにサーリプトラよ、高次の瞑想への到達ということは空であるから、菩薩にとって悟りの彼岸到達の知恵を活用して、個別の対象を真の存在であると信じてしまう認識上の障害を受けることなく、一人離れて高次の瞑想に入っていくことができるのである。こうした認識上の障害がなければ、菩薩には恐怖もなく、倒錯した考え方をも踏み越えて、ついに涅槃へと入っていけるのである。

と、般若心経の最後の部分をお医者さんでサンスクリット語を学び、さらに中村元、紀野一義両先生に指導を受け訳した方がおられる。(近代文芸社 伊藤公夫著 現代語で考える般若心経P20から引用)
 生理学、医学の立場から悟りの秘密を解くということは、偏狭にならないために参考となる。

吉田松陰著 講孟余話から
 経書を読むにあたって、第一に重要なことは、聖賢におもねらないことである。もし少しでもおもねるところがあると、道は明らかにならぬし、学問をしても益がなく、かえって有害である。たとえば、聖賢といわれる老子や孟子のような方も、自分の生まれた国を離れて他国に行き仕官しようとされたが、これはなんとも納得のいかぬことである。


南信州

2006年10月07日 | 歴史
 伊那史学会の機関紙「伊那」が届いた。長野県の南(信州人は南信と呼ぶ)に住んでいた頃から購読している。

 この機関紙は、歴史学だけではなく、地質学、民俗学、風俗学、生物学等地域性を知るにはとても参考になる。

 今回機関紙とともに橋都正氏の「南信州まつり」という写真展のハガキが同封されていた。ハガキには、「下条村の大山神社獅子舞」の写真が印刷されておりなつかしく思う。懐旧の情とはこういうことか。

 南信州の方言は、京言葉に近くやさしさがある。わたし自身は、東信(東信州とは不思議に言わないが、東信とは言う)で江戸に近いからあらさがある。 他人を自宅に招く時、南信では「おあがりて」というが、東信では「あがれや」という。

 南信の赤石山脈の谷間には、秋葉街道がある。南北朝時代には難を避けるため京から皇族、貴族の人々が来ていることが、伝説、史跡等から知られる。その中で祭りも重要な意味がある。特に「霜月まつり」などは、神々と人々の関係が古い形で残っており「湯立神事」は、国の重要無形民族文化財に指定されている。

 下条村の大山田神社は、式内社でその歴史についてはこのブログで2月に紹介したとおりである。
 下条村、飯田の山本地籍の海抜650メートル付近には褐鉄鉱の層がある。通称「かなくそ」と呼ぶ茶色のこぶこぶの板状の石で、古代鉄に興味のある人なら諏訪湖の「かないし小僧(葦の根元に付く鉄分の塊)」とともに知られているものである。

 古代においては、「鉄を征する者は、国家を制する」と言われるほどに鉄は貴重なものである。したがって鉄資源と製鉄技術(特にその還元方法)の解明は、古代史研究家にとって重要な問題である。

 一枚の同封されていたハガキから、今日は話が、古代史へと進んだ。

愛と気づき

2006年10月05日 | 風景

 今日は、午後に検察庁へ行く用事の他は読書と散歩、そして、ブログの閲覧をすることにした。

 そういうことで、とあるブログを訪問したところ内容に惹かれるものがあり、コメントをする衝動に駆られコメントをさせていただいた。が、どうも仏の導きか、ありがたいことに思索の機会を賜ることになった。

 心底ありがたいと思っています。

 本論ですが、どうもいわれなき苦に落ちるとか、どん底の悲しみとか、苦境にの立たないと人に響く人間性で接する(コメントも含む)ことができないようだ。だからといって我が人生において、何もなかったわけでもなくまた、今現在何もないわけではない。

 立場上、人間性の高い人から、人間性のかけらもない人までと、人間性に幅があるならば、大海の大波の上を日々小船に乗りゆられているようなもので、わたしは、一般の人よりもそういう人々と接する機会が多い。

 また、別の視点で見た場合、特殊な機会がある。
 それは、人の死というものに対して死体(医大の霊安室に保管され研修解剖を待つもの、司法解剖されるもの、自然死、事故死、不自然死を含む)を通し、あるがままの現実の姿を見る機会だ。

 懺悔を聞き、どうしても救ってやりたいがどうしてもその方法が見つけられないという友人からの相談を受け、ともに悩んだこともある。

 そういう立場で、多くの人々と接する機会があるが、わたしがブログで語るようなことを日々思っている人は少ない。だからといってその方々の人間性に問題があるわけでもなく、どちらかというと人々から尊敬される人が多い。

 それは何故か、それは深刻な状態にないからで、日々生きることに自然に対処できるからだ。それに深刻な状態を自ら招来させる生き方をしていないこともある。

 深刻な状態にあり、魂の叫びに喘いでいる人。その思索には、今のわたしは入り込まないのが得策。善智識、妙好人、宣教者でないのだから。

 すばらしい言葉を言うことはできないが、「愛がなければ、どんなにすばらしい言葉も相手の胸に響かない。」というキリスト教会の言葉があるが、どうもわたしにはそれがないようである。今日はそのことに気づかせていただいた。

 本能的に、人はどう生きるべきかという命題の中で、人間の思考に最大の興味をもつのは「何故か」、いまもって不明だ。
 今日という日、その流れの中でこのような機会に出会うことに感謝である。占いは信じないといいながら、フジテレビのめざましの占いだけは信じるわたしである。今日は2番目で的中しました。
 では、時間になったので出かけることにしよう。


捨てて拾う自然法爾と、気づきそして更なる祈り

2006年10月05日 | 宗教

 阿弥陀様の今現在説法と同じこころの動きを、積極的に探す気持ちはないのだが、薫習された何かがわたしを導くのか、コリント関係の本を読んでいたところキリスト教徒の言葉の中に次のような表現があった。

 クリスチャンであれば、一つも感謝することがない、ということはありません。根本的感謝、イエス・キリストによって受けた、神の恵みがあります。
 パウロがしているように、この根本的感謝を感謝してゆくと、次々と感謝すべきことが見つかり、気がつくと数々の神の恵みの中に私たちが置かれていることが分かります。祈りの答えは、更に祈りの答えを呼んでゆくように、感謝するところに更に感謝が呼び込まれてくる、これが信仰の法則です。

  これは、「コリント前書の学び 新教出版社 P27」の前川博彬先生の言葉だが、信仰による体感の、ある部分で重なるものを感ずる。

 捨てて拾う自然法爾と、気づきそして更なる祈りには主体の存在の有無と主体の位置に相違はあるが、人間の信仰に対する思考の動きに感動する。