眞実に実在を
愛する人にとっては自己の死は何でもない
大きな交響曲の一音が私の一生であろう
發すべき時に發すべき音を發した時
そして消えた時それで一切はいい
秋雨よ静かに降り續け
木村素衛
こういう碑文が松本市にある。前回のブログで書いた「私は生きるということが絶対のそして最高の善であるという自覚を持っている。」と語った京都学派の哲学者木村素衛の言葉です。
ある人は、たわいのないきれいごとを語るようにしか見えないかもしれませんが木村素衛という方を少しでも知っている人ならば深き響きを感応することができるように思います。最近哲学者の藤田正勝先生の講義を聞く機会がありました。『西田幾多郎----生きることと哲学』という岩波の新書版をテキストし西田哲学をさらに深く理解しようというものです。この講義の最後章でこの木村素衛先生の話があり共時的なものを感じました。
中期の「場所」から後期の行為的直観へと進み個人的にも「私と汝」を考察の事柄にしてきた流れもあり実に「ためになる講義」でした。「たわごと」「きれいごと」と感ずる直観言動まさにその個人という有機体の身体全体から働き出るものです。
「意識あって身体あるのではなく、身体あって意識があるのである。・・・・意識というのは、我々の身体を越えたもの、或いは離れたものと考えられるかも知らぬが、意識は何処までも我々の身体的自己の自己肯定でなければならない」(西田幾多郎「論理と生命」)
思惟ないし意識以前に身体があるという話で講義では脳科学の話はありませんでしたが、自由意志はあるのかという話にも広がる考察対象で興味が尽きません。
無意識段階ですでに脳は行為意志の決定を下しているわけで、これはウォルター・J・フリーマン『脳はいかにして心を創るのか』(産業図書)もとにする脳外科医の浅野孝雄先生の『こころの発見』(産業図書)にも重なる話です。さらに身体的自己という話になると臨床哲学の木村敏先生の『臨床哲学の知』(言視舎)、『生命の現実』(復刻版河出書房新社)にも通じる話でもあります。
最近では『福岡伸一、西田哲学を読む』(赤石書房)という福岡先生と池田善昭先生の対談集もあり、西田ワールドの「絶対矛盾的自己」という部分に視点を置きたい人には生物学の立場からのアプローチを知ることも深みを増すように思います。
さて話を木村素衛先生の話に戻りますが西田幾多郎先生の木村素衛宛葉書が書簡集にあります。
「『身体と精神』拝受した 木村 コノ論文ハヨイゾ 私は全く君と手を握り合ったように感じた・・・・」
というもので『身体と精神』というものの内容を知りたくなるところです。藤田先生の講義では資料に一部が紹介されていました。
「身体とは何であるのか。これを単なる自然的物質と考えることはもちろん、生物学的存在と考えても、身体の本質を把握することはできない。人間は本質的に形成的表現的な存在である。外においてかえって内をもつ存在、精神即物質的な存在である。身体とはかくの如き弁証法的存在の形成的実現を具体的に可能ならしめるそれの弁証法的契機に他ならないのである」(木村素衛「身体と精神」)
この文章は1939年の『人間学講座』第五巻に収められている論文で、現在では木村素衛著『表現愛』(こぶし文庫21・P32)で知ることができます。
さらに木村素衛という人物を知りたくなるのですが、藤田先生は大西正倫理著『木村素衛の教育思想ーー表現的生命の教育哲学ーー』(昭和堂)を薦められていました。
この本は500頁にも及ぶ大著、ざっと読むと「形成的自覚的存在」という言葉が目に入る教育哲学において木村素衛を語る人、引用する人は皆無に等しいが著者の大西先生や藤田先生もおっしゃる通りその人生が短かったことや、戦後まもなく死去されたことにも原因があるようです。
木村素衛(きむら もともり、1895年3月11日 - 1946年2月12日)は、日本の哲学者・教育学者。
個人的にブログ内で人間は形成的存在という言葉を多用したように思いますが、西田哲学に興味を持つと自然に使いたくなるように思います。
創り造られる存在。
創られ作る存在。
「つくる」という平仮名を「作る」「創る」「造る」という漢字にすると別思想が現れます。
形成的な自覚的な存在になるためには、善い思考の習慣を身につけることというところでしょうか。