思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

人間存在の時の刻み

2017年08月31日 | 哲学
 8月も今日で終わり。携帯からは北のミサイル発射を知らせる警報が鳴り、これまでは別の音色の突然集中豪雨の警報を伝える音が聞こえていました。ゲリラ豪雨とも呼ばれる天候になる日が時々あります。異常気象などと言われ地球上の二酸化炭素の増加がその原因とする説もあり、その説によれば、人の営みが環境を変えてきたということになるようです。
 
 人の異常も、今や音で知らせる時代になった、とでもいうのでしょうか。地球も悲鳴を上げ、人間も悲鳴を上げる音色の時代、穏やかなる人の営みは消えたのだろうか。
 
 と語ったところで、時の流れの中で、過ぎれば話題という過去の記憶に収斂されていくのが常です。「うつろう」ということば時に無情であり、無常でもあります。
 
 進化論のある論によれば環境に適合するように人間は進化してきたと語るものもあり、また、環境に変化を与えるのが人間だと語る人もいます。すると、今現在において人間存在を考えるならば、人間は環境に作られものから環境を作るものへの転回のただなかにあるようにも見えます。
 
 日々といったところで、デジャブではありませんから同じ日はないわけで常に変化の只中を生きていることになります。一日という時間の単位で考えると、明けない日はないのですから同じに見えますが、微分的単位で見つめるならば変化の只中が連続の中に作られているように感じます。
 
 皮膚という細胞の集合体で覆われた人間、その細胞さえ生成と消滅をくり返しながら、皮膚を構成し人なる形を表現し、脳内細胞は、その人なる人物像を構成し続けます。
 
 そのような明滅物体が、時代を構成し歴史を刻んで行き、自然環境も同様に明滅の中に時を刻みます。人間それ自体が自然物であると言いますが、細胞それ自体が自然物であり、微分の視点で考えるならば、常に原子の世界も量子の世界も止まる時を持たないのも当然です。
 
 人間は破壊的なる存在であるとともに、生成的存在でもある。
 
 自然は真に領主様、総理大臣・・・個人という傑作を作り続けるのです。


自然はいつでも傑作を作るーーーロダンの言葉より

2017年08月11日 | 哲学
 「考える人」の彫刻で有名なロダン、現在地元の碌山美術館で「ロダンの言葉」の特別展が開催されている。「ロダンの言葉」は、詩人で彫刻家でもある高村光太郎訳著『ロダンの言葉』のことで『ロダンの言葉』の刊行は碌山の死後だが、碌山がロダンの教えを受けていたことからか開催されることになったようだです。
 
 数多くの言葉が紹介されていましたが、個人的にひかれた言葉は、

 「自然はいつでも傑作を作る」

でした。時々話題にする中房川で見かける球体の自然石こともあり、自然が作り出す造形美を重ねると、ロダンの言葉に然りを感じるのです。

 この言葉ですが、実際には、

 自然は決してやり損はない。自然はいつでも傑作を作る。此こそわれわれの大きな唯一の何につけてもの学校だ。他の学校は皆本能も天才も無いものの為めに出来たものだ!
(高村光太郎編訳『ロダンの言葉』覆刻沖積舎・p107)

という言葉の一部を取り出したものですが彫刻や芸術を目指す若者に圧倒的な支持を得て、多大な影響を及ぼしたようです(大正5年9月上梓)。 

 傑作という言葉を使うとき、その言葉を表現に利用する側の評価の判断があります。

 人間も自然の一員ということが言われますから現存在それ自体に自然の造形が現れていることになります。

 失言、失態が見られ内閣改造が行われましたが、新しい沖縄担当大臣がまたも失言を繰り返しました。

 ロダンには失礼な話ですが、「自然はいつでも傑作を作る」。これを傑作とといわずして何だ、と思うのです。
 彼がそう思うからそのように言った。

というよりも、そのように言うように、彼自身があったということでしょう。

 形成的創造的人間として彼がそこに存在していた。その時その場所において存在している。

 後付けでその時にそれが正しい発言としたところに不徳の至るところを悔悟するのですが、あくまでもそのように言った、述語に表した、主語たる自己の、自ずから然りの内に、何があなたをそうさせるのかに興味を持ちます。

 意識してそのように表現していると思うのが常ですが、既に無意識の段階でそのように決定してることは脳科学で明らかにされているところです。

 表現はその人自身の身体と密接にかかわることで身体には当然頭部も含まれます。

 それが歴史的身体というものです。各自それぞれの歴史的身体がそれぞれの傑作を作り続ける。

私はどんな傑作を作りだすように存在しているのか。

 「自然はいつでも傑作を作る」

というロダンの言葉、実に意味深いものを私は感じました。

人間とは、形成的自覚的存在ー木村素衛

2017年08月05日 | 哲学
眞実に実在を
愛する人にとっては自己の死は何でもない
大きな交響曲の一音が私の一生であろう
發すべき時に發すべき音を發した時
そして消えた時それで一切はいい
秋雨よ静かに降り續け
            木村素衛

こういう碑文が松本市にある。前回のブログで書いた「私は生きるということが絶対のそして最高の善であるという自覚を持っている。」と語った京都学派の哲学者木村素衛の言葉です。

 ある人は、たわいのないきれいごとを語るようにしか見えないかもしれませんが木村素衛という方を少しでも知っている人ならば深き響きを感応することができるように思います。最近哲学者の藤田正勝先生の講義を聞く機会がありました。『西田幾多郎----生きることと哲学』という岩波の新書版をテキストし西田哲学をさらに深く理解しようというものです。この講義の最後章でこの木村素衛先生の話があり共時的なものを感じました。

 中期の「場所」から後期の行為的直観へと進み個人的にも「私と汝」を考察の事柄にしてきた流れもあり実に「ためになる講義」でした。「たわごと」「きれいごと」と感ずる直観言動まさにその個人という有機体の身体全体から働き出るものです。

 「意識あって身体あるのではなく、身体あって意識があるのである。・・・・意識というのは、我々の身体を越えたもの、或いは離れたものと考えられるかも知らぬが、意識は何処までも我々の身体的自己の自己肯定でなければならない」(西田幾多郎「論理と生命」)

 思惟ないし意識以前に身体があるという話で講義では脳科学の話はありませんでしたが、自由意志はあるのかという話にも広がる考察対象で興味が尽きません。

 無意識段階ですでに脳は行為意志の決定を下しているわけで、これはウォルター・J・フリーマン『脳はいかにして心を創るのか』(産業図書)もとにする脳外科医の浅野孝雄先生の『こころの発見』(産業図書)にも重なる話です。さらに身体的自己という話になると臨床哲学の木村敏先生の『臨床哲学の知』(言視舎)、『生命の現実』(復刻版河出書房新社)にも通じる話でもあります。
 最近では『福岡伸一、西田哲学を読む』(赤石書房)という福岡先生と池田善昭先生の対談集もあり、西田ワールドの「絶対矛盾的自己」という部分に視点を置きたい人には生物学の立場からのアプローチを知ることも深みを増すように思います。
 さて話を木村素衛先生の話に戻りますが西田幾多郎先生の木村素衛宛葉書が書簡集にあります。

「『身体と精神』拝受した 木村 コノ論文ハヨイゾ 私は全く君と手を握り合ったように感じた・・・・」

というもので『身体と精神』というものの内容を知りたくなるところです。藤田先生の講義では資料に一部が紹介されていました。

「身体とは何であるのか。これを単なる自然的物質と考えることはもちろん、生物学的存在と考えても、身体の本質を把握することはできない。人間は本質的に形成的表現的な存在である。外においてかえって内をもつ存在、精神即物質的な存在である。身体とはかくの如き弁証法的存在の形成的実現を具体的に可能ならしめるそれの弁証法的契機に他ならないのである」(木村素衛「身体と精神」)

この文章は1939年の『人間学講座』第五巻に収められている論文で、現在では木村素衛著『表現愛』(こぶし文庫21・P32)で知ることができます。

 さらに木村素衛という人物を知りたくなるのですが、藤田先生は大西正倫理著『木村素衛の教育思想ーー表現的生命の教育哲学ーー』(昭和堂)を薦められていました。

 この本は500頁にも及ぶ大著、ざっと読むと「形成的自覚的存在」という言葉が目に入る教育哲学において木村素衛を語る人、引用する人は皆無に等しいが著者の大西先生や藤田先生もおっしゃる通りその人生が短かったことや、戦後まもなく死去されたことにも原因があるようです。

 木村素衛(きむら もともり、1895年3月11日 - 1946年2月12日)は、日本の哲学者・教育学者。

 個人的にブログ内で人間は形成的存在という言葉を多用したように思いますが、西田哲学に興味を持つと自然に使いたくなるように思います。

 創り造られる存在。

 創られ作る存在。

 「つくる」という平仮名を「作る」「創る」「造る」という漢字にすると別思想が現れます。

 形成的な自覚的な存在になるためには、善い思考の習慣を身につけることというところでしょうか。