昨年の3月末に36年ほど勤めた会社を満期退職し再就職して間もなく1年が経とうとしています。前の会社でも対人関係に悩まされたことはありますが、これほど人間関係に悩まさ悩まされ続ける経験は初めてです。
上司ではないが、前の会社のOBであり66歳になる男性社員、何かにつけて「60歳になってそんなこともできないのか!」「お前には教えない」「俺はケンカパ早い!」などの罵声と完全無視の態度が続く。
その男は5月には退職するが、年金生活だけでは生活できないご時世、今の職場を去ることはいやなのはわかるが、上司も年齢的には後輩にあたり、悩まされたとのこと。
「もう少しもう少し、もうじき天国になる」と励まされ今日に至っています。
実体験をもって自身の精神分析をつづけるのですが、アドラー心理学の言うところの「他人を気にしない」が最良の解決法のように思える。
相手の枠を考え、それに適合しようとするあまり自己を見失う。
一点に集中し物事を行っているように見えても、あまりにも周囲を気にするあまり、些細な誤りをしている自分に気がつきます。
書き込む数字を間違えたり、持つべき品物を忘れたり、痴呆症になりかけているのかと心配したがそうではないらしく、心そこにあらずの自分がそこに生まれているのです。
これまで精神性を高めたくいろいろと学んできましたが、まさに実践の時到来です。しかし現実は厳しく、己は弱い。それでも後退することはできません。そんな時にいつも聞こえるのが原始仏教典の一夜賢者の偈です。時々ブログにもアップしている偈、詩です。
一夜賢者の偈はいるいろな仏教学者や僧侶が語っていますが、私がはじめてこの一夜賢者の偈を知ったのは仏教学者の増谷文雄先生の著書でした。最近ではちくま学芸文庫が増谷文雄著『阿含経典』を出されていますが、岩波書店増谷文雄著『阿含経典』現代語訳第五巻(1987年)ほか、『仏陀のことば』(角川選書・p152)などで知ることができます。
今日は岩波書店の阿含経典を使います(p195-p204)。
増谷先生は、一夜賢者の偈を掲載する前に次の概説を載せています。
釈尊が、それら五蘊(ごうん)のありようを通じて、未来のことは取り越し苦労をしないがよろしい、過ぎ去ったことは、いつまでもくよくよしないしないがよろしい、ただ、冷静に、そして力いっぱい、現存するところのものをよくよく観察して、なんの「揺らぐところがなく、動ずることもなく」して、「ただ今日まさに作すべきことを力いっぱい実践すること」がよろしい、「それが人間の最も賢明な生き方である」とといておられるのである。
「一大事とは、今日只今のことなり」とは、かの白隠禅師の師正受老人(信州飯山の正受庵主、的翁慧端(1721年80歳寂)の名言である。
と偈を語る前にこのように解説されています。
この正受老人(禅師)は、あの真田丸の主人公真田信繁(幸村)の兄で松代藩主の真田信之の実子です。今長野県では真田丸も視聴率が相当に高いとのこと、私も観ましたし歴史好きもあり、昨日は「真田一族」の講演を聞きに行きました。このことについてはブログに書きたいと思っています。
話が横道にそれましたが、この一夜賢者の偈に似た道歌もあります。
今今と 今という間に今ぞなく、
今という間に 今ぞ過ぎ行く。
覚えやすい歌です。さて一夜賢者の偈です。
< 原始仏教典南伝 中部経典131 一夜賢者経 >
かようにわたしは聞いた。
あるとき、世尊は、サーヴァッテッー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なる、アナータビンディヵ(給孤独)の園にあった。そこで、世尊は、「比丘たちよ」と仰せられた。「世尊よ」と、彼ら比丘たちは答えた。世尊はかように仰せられた。
「比丘たちよ、今日わたしは、<一夜賢者>なる偈について、また、その分別について語るであろう。よく聞いて、じっくり考えるがよろしい。では説くであろう」
「かしこまりました。世尊よ」
と彼ら比丘たちは、世尊に答えた。世尊は、つぎのように仰せられた。
「過ぎ去れるを追うことなかれ
いまだ来たらざるを念(おも)うことなかれ
過去、そはすでに捨てられたり
未来、そはいまだ到らざるなり
されば、ただ現在するところのものを
そのところにおいてよく観察すべし
揺らぐことなく、どうずることなく
そを見きわめ、そを実践すべし
ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ
たれか明日死のあることを知らんや
まことに、かの死の大軍と
逢わずというは、あることなし
よくかくのごとく見きわめたるものは
心をこめ、昼夜おこたることなく実践せん
かくのごときを、一夜賢者といい
また、心しずまれる者というなり」
以上が南伝中部経典131、一夜賢者経あるいは「吉祥(きちじょう)なる一夜」と言われる偈です。
「ただ現在するところのものを
そのところにおいてよく観察すべし
揺らぐことなく、どうずることなく
そを見きわめ、そを実践すべし」
五蘊のありようを通して展開される現実、五蘊とは、「色・受・想・行・識」のこと、
1「色」 物質的要素。すなわち肉体である。
2「受」 人間を構成する精神的要素であって、その第一は感覚である。感覚は受動的なものであるから、漢訳では受をもって訳したものと思われる。
3「想」 表象(心に像をえがくこと)である。与えられた感覚によって表象を構成する過程がそれである。
4「行」 意思(intention)もしくは意志(will)といわれる心的過程がそれである。人間の精神は、ここから対象に対して能動に転ずる。
5「識」 対象の認識を基礎として、判断を通して得られる心所である。
この解説は同書の増谷先生の者ですがとても分かりやすいと思います。
五蘊の作用により揺らぐ心とは、
色を我なりと見、あるいは我に色ありと見、あるいは我の中に色ありと見、
あるいは色の中に我ありと思う。
また、あるいは受を我なりと見、あるいは我に受ありと見、あるいは我の中に受ありと見、あるいは受の中に我ありと思う。
また、あるいは想を我なりと見、あるいは我に想ありと見、あるいは我の中に想ありと見、あるいは想の中に我ありと思う。
また、あるいは行を我なりと見、あるいは我に行ありと見、あるいは我の中に行ありと見、あるいは行の中に我ありと思う。
また、あるいは識を我なりと見、あるいは我に識ありと見、あるいは我の中に識ありと見、あるいは識の中に我ありと思う。
ということであり、「現在するところのものにおいて揺るがず」とはどういうことか、
比丘たちはすでに法を聞いた聖なる弟子であって、すでにもろもろの聖者にまみえ、すでに聖法を知り、すでに聖法に熟達し、あるいは、もろもろの善人を見、善人の法を知り、善人の法に通暁し、かくて、
色を我なりと見ず、あるいは我に色ありと見ず、あるいは我の中に色ありと見ず、あるいは色の中に我ありと思わない。
また、あるいは受を我なりと見ず、あるいは我に受ありと見ず、あるいは我の中に受ありと見ず、あるいは受の中に我ありと思わない。
また、あるいは想を我なりと見ず、あるいは我に想ありと見ず、あるいは我の中に想ありと見ず、あるいは想の中に我ありと思わない。
また、あるいは行を我なりと見ず、あるいは我に行ありと見ず、あるいは我の中に行ありと見ず、あるいは行の中に我ありと思わない。
また、あるいは識を我なりと見ず、あるいは我に識ありと見ず、あるいは我の中に識ありと見ず、あるいは識の中に我ありと思わない。
聖法を知り、聖法に熟達した者、善人を見、善人の法を知り善人の法に精通した者ならば動揺しない心、揺るぎなき心になるというはなしです。
般若心経には「照見五蘊皆空」と書かれています。大乗仏教の「空」の世界です。
自分という白布を着込んで染められ染まる。
染められ染まり続けるのは、五蘊のなせるわざ自らおのずからそうなってある、ということです。
気にしない、気にしない、ときは流れるばかり、自分が主人公であることの自覚、他者の心はわからない。
そういうこのなんです人生は、そういうものなんです人生は・・・・。