Sightsong

自縄自縛日記

オーネット・コールマン『Ornette at 12』

2015-07-18 11:39:45 | アヴァンギャルド・ジャズ

今年(2015年)の6月11日に亡くなったオーネット・コールマンへの個人的な追悼として、『Ornette at 12』(Impulse、1968年)を聴く。ジャケット右下に穴が開けられたカット盤なので自慢にもならないが、オリジナル盤である。

Ornette Coleman (as, tp, vln)
Dewey Redman (ts)
Charlie Haden (b)
Denardo Coleman (ds)

ジャケットはコールマン親子が微笑みあう姿。だが裏面は一転して強張った表情でお互いに目をそらしているのが面白い。

そのオーネットの息子デナードは、とにかく自由にというオーネットの教育あってか、鉄のごとき無邪気さでドラムスを叩きまくっている。1956年生まれだから、このとき12歳になるかならないか。この怪童はバンド仲間からどう評価されていたのだろう。

演奏の聴きどころは、もちろんデナードだけではない。チャーリー・ヘイデンの残響音とともに進むベースは、LP盤でなおさら素晴らしく聴こえる。デューイ・レッドマンの、内奥へ内奥へともぐり続けるテナーもいい。そしてオーネットが登場すると、視野が冗談のようにぱあっと開けるのだ(トランペットとヴァイオリンはいまだによくわからないが)。この人に新しいも古いもないのであって、だからこそ時代を超えた存在なのだと思う。

ふと思い出した。アオシマが『伝説巨神イデオン』のプラモデルに、関節にはめ込むプラキャップ(柔らかい樹脂)を導入したことがあった。正直言って出来のよくないアオシマのプラモながら、その動きは感動的なほどで、ロボットプラモ史において画期的な事件だった。何が言いたいかというと、オーネットのアルトはイデオンの関節のように、ヌルヌルツルツルと可動し、動きのマチエールが心のひだをくすぐるのである。

オーネットよ永遠に。

●参照
オーネット・コールマン『Waiting for You』(2008年)
オーネット・コールマン『White Church』、『Sound Grammar』(2003、2005年)
シャーリー・クラーク『Ornette: Made in America』 再見(1985年)
シャーリー・クラーク『Ornette: Made in America』 オーネット・コールマンの貴重な映像(1985年)
オーネット・コールマンの映像『David, Moffett and Ornette』と、ローランド・カークの映像『Sound?』(1966年)
スリランカの映像(6) コンラッド・ルークス『チャパクァ』(1966年)
オーネット・コールマンの最初期ライヴ(1958年)
オーネット・コールマン集2枚(2013年)


ウラジーミル・チェカシン『Nomen Nescio』

2015-07-18 10:04:05 | アヴァンギャルド・ジャズ

自分のLP棚から発見、ウラジーミル・チェカシン『Nomen Nescio』(Melodia、1987年)。こんなの持ってたっけ。

Vladimir Chekasin (sax, bcl, syn)
Sergey Kuryokhin (samp, comp, syn)
Oleg Molokoyedov (syn)
Sergey Belichenko (ds)

原題はラテン語であり、「名前を知らない」という意味のようである。それが当てこすりになっているのかどうか判らないが、名前という名のイディオムや対位は、真意を図りかねるエネルギーで軽く否定され、笑い飛ばされている。ペレストロイカが始まろうとしていた時期とはいえ、文字通りの地下からこんなものが生まれていたのである。

チェカシンのサックスはえらく自由だ。おそらくは2本同時に吹いたり、多重録音を同時に試してみたり。何にしても文脈などあって無きがごとくだ。そして、偉大なセルゲイ・クリョーヒンの参加。ロシア民謡のような抒情的なメロディーを弾き、獣の嘶きを挿入する。ジャック・デリダはオーネット・コールマンをではなく、ソ連のジャズを脱構築の観点から分析すべきではなかったか。

●参照
セルゲイ・クリョーヒンの映画『クリョーヒン』
ロシア・ジャズ再考―セルゲイ・クリョーヒン特集
現代ジャズ文化研究会 セルゲイ・レートフ


保阪正康『日本原爆開発秘録』

2015-07-18 03:33:16 | 環境・自然

保阪正康『日本原爆開発秘録』(新潮文庫、原著2012年)を読む。

あまり知られていないことだが、日本では、戦中に原爆の開発が進められていた(山本義隆『原子・原子核・原子力』でも言及されている)。しかし、それは開発と言えるような水準のものではなかった。むしろ、工学の領域に入る前段階の基礎研究といったものに近かった。ウラン235の濃縮も中性子の生成もうまくいかなかった。

開発に関わった科学者たちの水準が低かったのではない。陸軍が抱えた理化学研究所では、仁科芳雄をリーダーとして、湯川秀樹、朝永振一郎らが在籍し、東京帝大の嵯峨根遼吉らと連携した(長崎への原爆投下後、アメリカの科学者たちから嵯峨根宛てに戦争を止めるよう書いたメッセージが投下されたことは有名である)。また、海軍が抱えた京都帝大にはやはり湯川秀樹が在籍し長岡半太郎や仁科芳雄らと連携した。重なるメンバーもいるが、基本的には、仲の悪い陸軍・海軍それぞれで予算を付けて研究を進めさせた。

このように世界的にもトップ水準の頭脳がいても、もっと資本を投入し、国家を挙げたプロジェクトチームを作らなければ、理学から工学へと突き進み、「悪魔の兵器」を製造することなどできなかった。それが可能なのはアメリカだけであった(マンハッタン計画)。

しかし、仁科らは、日本軍が期待するような短期間で原爆の開発を行うことなど不可能だと知っていた。それを認識しながら、自由な研究活動と予算を確保できる体制を選んだということだ。広島への原爆投下後、仁科はすぐにそれを原爆であると悟ったという。しかし、陸軍に対し、このまま戦争を続けていてはさらに原爆が投下される可能性があることを、進言することはなかった。

理化学研究所には、陸軍から、国内でウラン鉱石を探索するよう指示があった。福島県の石川町では、ウラン鉱がある可能性など限りなく低いにも関わらず、中学生(現在の高校生)が足を血だらけにしながら、敗戦まで、採掘した石を運び続けたという。胸が痛くなる史実だ。

科学者たちは、原爆製造など日本では不可能と知りながら体制を利用して研究を続け、一方では、将来のエネルギー源としての可能性を口にしていたという。戦後の「原子力の平和利用」につながる芽を、ここに見ることができる。実態を理解できない日本軍は、とにかく敵国にダメージを与える大量破壊兵器の完成を切望し、さらに噂となって(マッチ箱程度のもので大都市を殲滅しうる、というような)、不利な戦局打開を望む世論とも同調した。そして、戦後、「原子力の平和利用」の名のもとに、実に奇妙な政治主導が行われた。「平和」という曖昧なイメージによって個々の問題を糊塗するあり方は、「大東亜共栄圏」と本質的に同じだというのが、著者の見立てである。

すなわち、戦前から戦後の原子力技術開発の変遷を見ていくことで、科学者、市民、軍の倫理意識が垣間見えるわけである。

●参照
山本義隆『原子・原子核・原子力』
有馬哲夫『原発・正力・CIA』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
太田昌克『日米<核>同盟』