原貴美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点 ―アジア太平洋地域の冷戦と「戦後未解決の諸問題」―』(渓水社、2005年)を読む。
サンフランシスコ平和条約(講和条約)(1951年署名、1952年発効)は、言うまでもなく、全面講和ではない。これをもって敗戦国・日本は再び国としての主権を得た。しかし、ソ連がその内容への不満から参加せず、中国は国のかたちを変えたために議論を受け継ぐことができておらず(それまでの当事者は、敗北した国民党=中華民国であった)、韓国は交戦国でなかったために参加の希望を叶えられなかった。
したがって、ここには、結果的にアメリカの意向が色濃く反映されている。すなわち、急激に最大の課題と化した冷戦対応。社会主義陣営に渡すものを最小化すること、そのために日本を寛大に扱うこと。これによる甘えが、日本国内にいまだ巣食う歴史修正主義という怪物を生み出すとは、当時予想できなかったことに違いない。
カイロ会談(1943年)、ヤルタ会談(1945年)、ポツダム宣言(1945年)を経ての成果であるとしても、そのバイアスが原因となって、いまだ解決できない大きな問題が生み出されたのだということが、本書での検証を追っていくことでよくわかる。竹島、北方領土、尖閣諸島、沖縄、台湾という場所のすべてが、相手なき解決策として、敢えて曖昧な「楔」となったのである。これらの場所については、交渉段階から所属を明確化すべきとの主張がなされていたにも関わらず、国際動向に応じて便利に使えるような形となった。実際に、1956年には、北方領土二島返還という妥結が日ソ間でなされかけていたところ、ならば沖縄は戻さないとの脅しがアメリカから日本に伝えられ、破談に追い込まれている。日ソ間で仲良くされては困るからである。
そのようなオフショア・バランシングにやすやすと乗せられて、ナショナリズムを暴発させることが如何に愚かなことか、問われ続けているわけである。
●参照
孫崎享『日本の国境問題』
孫崎享・編『検証 尖閣問題』
豊下楢彦『「尖閣問題」とは何か』
豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』
吉次公介『日米同盟はいかに作られたか』
水島朝穂「オキナワと憲法―その原点と現点」 琉球・沖縄研