琉球新報社・新垣毅編著『沖縄の自己決定権 その歴史的根拠と近未来の展望』(高文研、2015年)を読む。
1879年、琉球王国はついに沖縄県とされ、日本に強引に編入された。 この「琉球処分」については、これまで、琉球、日本、中国(清国)という三角関係によって説明されることが支配的だった。すなわち、1609年の島津藩による侵攻(上里隆史『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』に詳しい)以来、琉球王国は日本と清国の両国にファジーに属する国家として存続していた。そのバランスを強引に破壊した事件であったというわけである。
一方、列強諸国も琉球をその版図に入れんと狙っていた。19世紀前半の江戸末期より、英仏米の船が界隈をうろうろし、ついにペリー率いるアメリカ東インド艦隊が強圧的に琉球に関係を迫るに至る。アメリカが琉球=沖縄を便利に使える場所として欲しがった歴史の第一幕であり、これが現在まで続いているという見立ては、最近では、石川真生『大琉球写真絵巻』でも、ジャン・ユンカーマン『沖縄うりずんの雨』でも前面に押し出されている。
アメリカと琉球との間には、1854年に琉米修好条約が結ばれる。それだけでなく、翌1855年にはフランスとの間で琉仏修好条約、1859年にはオランダとの間で琉蘭修好条約が締結される(フランスとオランダは国内で批准していない)。すなわち、ここから明らかになることは、当時の琉球王国は独立国家であって、日本に併合されることが当然視できるような関係ではなかったということだ。
当時は「征服」が国際法上認められていた。一方、「琉球処分」は、日本による琉球国王・尚泰王に対する強制であり、「征服」とは異なっていた。それは、琉球が日本の一部であるという物語が破綻することを対外的に示すことになってしまい、対清国、対列強諸国のどちらにしてもまずい選択肢であったからだ。この「国の代表者への強制」という行為は、当時の慣習国際法が禁じており、それを成文化したウィーン条約は、過去に遡って適用できるのだという。
なぜ日本がこうまでして琉球を手に入れようとしたかといえば、南側の防衛拠点として使いたかったからに他ならない。アメリカにとっての琉球=沖縄と同様に、日本が琉球を使いたがった歴史も、現在まで続いている。しかし、現在の研究成果は、その正当性に根本的な疑いを投げかけているということである。
●参照
上里隆史『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』
上里隆史『海の王国・琉球』
本郷義明『徐葆光が見た琉球』
西銘圭蔵『沖縄をめぐる百年の思想』
石川真生『大琉球写真絵巻』
島袋純さん講演会「"アイデンティティ"をめぐる戦い―沖縄知事選とその後の展望―」
グローバリゼーションの中の沖縄
押しつけられた常識を覆す