松岡哲平『沖縄と核』(新潮社、2019年)を読む。
施政権返還前の沖縄に核兵器が持ち込まれていたことは今ではよく知られている。しかし、ここまで大規模で、かつ広島・長崎後の核戦争を現実的に想定したものであったとは知らなかった。ピーク時の1967年には1,300発の核兵器が沖縄に置かれていたという。
朝鮮戦争が休戦となり、1953年ないし54年から、沖縄に核兵器が持ち込まれはじめた。たとえば小型のものであり、超低空からひょいとアクロバティックに放り投げるようにしてすぐに離脱する類のもの(LABS:低高度爆撃法)。つまり戦略核から戦術核へのシフトである。この訓練場として伊江島が選ばれた。戦後強制的に米軍に多くの土地が奪い取られた場所だが、それはここまで直接的に核戦争という文脈の中に置かれていたのだ。難しい爆撃方法であり、的から外れるため、広い場所を必要としたわけである。
沖縄本島の米軍基地面積が急に増えたのは1950年代後半である。日本の「本土」より置きやすいために海兵隊が移駐してきたわけだが、その理由も「核」であった。台湾海峡に近いなどという地政学的な理由、安いという経済的な理由だけではなかったのである。アメリカ政府は、日本人の反基地感情のもととなるものが反核感情にあると認識していた。
1958年に中国人民解放軍による台湾金門島砲撃があった(第二次台湾海峡危機)。このとき米軍による中国への核攻撃の可能性がかなり高まっていた。歴史の中に位置付けられるべき潜在的な核戦争のトリガーは、キューバ危機(1962年)の前にあった。
おそるべきことに、沖縄への核配備は攻撃のためだけではなかった。基地が敵の手に落ちるくらいなら、海兵隊は核兵器で自基地を破壊するという原理があった。沖縄を物理的に「捨て石」にするのは、なにも沖縄戦までのことではなかったのである。
1960年の日米安保条約および1972年の施政権返還に際して、いくつかの「密約」が日米政府間で交された。そのひとつは、返還後も有事の際には事前協議なしで核を沖縄に持ち込んでよいというものであった。半分表向きは核抜きでも沖縄の自由使用を維持しようとしたわけだが、それも実のところ意図的な抜け穴だらけだった。そして「密約」を含め、政府間の合意が曖昧なことは、核兵器の有無に関して「肯定も否定もしない」というアメリカの政策に沿ったものであった。
もちろんこれは単なる昔話ではない。事前協議はいちども実施されたことがない(オスプレイ導入時を含め)。核に限ってみても、日本の核燃サイクルへの固執はどう評価されるべきものか。太田昌克『日米<核>同盟』においては、アメリカへの忖度ではなく日本独自の示威能力のために核ポテンシャルを手放すべきではないという考えを持つ者もある、との指摘がある。
●参照
山本昭宏『核と日本人』
徐京植、高橋哲哉、韓洪九『フクシマ以後の思想をもとめて』
太田昌克『日米<核>同盟』
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』
前田哲男『フクシマと沖縄』
鎌田慧『六ヶ所村の記録』
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
有馬哲夫『原発・正力・CIA』
マルグリット・デュラス『ヒロシマ・モナムール』
アラン・レネ『ヒロシマ・モナムール』