Sightsong

自縄自縛日記

『封印~沖縄戦に秘められた鉄道事故~』

2020-06-26 07:17:32 | 沖縄

NNNドキュメント'20の『封印~沖縄戦に秘められた鉄道事故~』(2020/6/21放送)を観る。

この鉄道とは、1914年から44年まで運営されたケービンこと沖縄県営鉄道の軽便鉄道である(番組では日本語読みを意識したのか主に「けいべん」と発音されていた)。起点はいまの県庁前の那覇バスターミナルにあり、北への嘉手納線、東への与那原線、南への糸満線の3本が走っていた。当時からあった「仲島の大石」は5年前のバスターミナル改築時に撤去されているのだが、その工事の際に、鉄道の向きを回転して変える「転車台」跡が出てきたという。ここで当時を知る方として登場するのが金城功さん。『ケービンの跡を歩く』(ひるぎ社おきなわ文庫、1997年)の著者である(なぜ金城さんも「けいべん」と発音するのだろう)。

ここから何人もの方が登場し、1944年12月11日に起きた鉄道爆発事故について貴重な記憶を証言する。公式な記録は『那覇市史』にしか残されておらず(新聞にも書かれなかった)、それは事故直後から日本軍によって箝口令が敷かれたからだった。同年8月に対馬丸が、また前年12月に湖南丸が米軍により撃沈され、戦争遂行のため情報が出ないよう強制されたように(大城立裕『対馬丸』)。

このドキュメンタリーによれば事故は以下の通りであった。

○犠牲者は221人(『那覇市史』)。うち軍人210人、女学生8人(生存2人)、県鉄職員3人(生存1人)。これは過去最多の犠牲者を出した鉄道事故とみなされてきた西成線脱線火災事故(1940年)の189人を上回る。
○軽便は1943年頃から軍事利用が優先され、一般人はほとんど乗ることができなかった。
○事故が起きた場所は糸満線の稲嶺駅近く、1944年12月11日の15時半~16時半頃。
○6両編成で150人の兵隊を乗せ、嘉手納駅を出発して嘉手納線で南下。那覇駅近くの古波蔵駅で2両が追加され、糸満線に乗り入れてさらに南下する途中のこと。
○煙突から火の粉が出て、それが無蓋車のドラム缶のガソリンに引火し、それが弾薬にも燃え移り、一気に爆発が連鎖した。沿線のさとうきび畑には沖縄戦に備えて弾薬が野積みしてあり、それらも爆発した。積んであった医療品は吹き飛ばされ、巨樹が真っ白になった。なお無蓋車に弾薬を積むことは軍の規制に違反していた。
○100メートルほど先の集落(南風原町神里地区)に人の肉や骨が吹き飛んできた。「戦争が始まった」と勘違いした住民もいた。なお同集落の駐車場には今にいたるまで錆びたレールが放置してあった。
○事故により弾薬等が激減し、「玉砕する他はなき現状」と言った軍の司令官がいた。だがかれも牛島中将と同時(1945年6月22日または23日)に自決した。
○1944年8月の対馬丸撃沈、10月の10・10空襲、1945年4月からの沖縄戦(地上戦)の間に起きた事故であった。
○1983年7月に工事現場から軽便の台車が発見された(説明はなされないが宜野湾市立博物館に展示してあるものだろう)。嘉手納線は今も米空軍嘉手納基地の地下にある。

事実が明らかにされていれば、戦争の行方も世論も変わったかもしれない事故である。このことは今に通じる側面を持っている。

●軽便鉄道
辻真先『沖縄軽便鉄道は死せず』(2005年)
金城功『ケービンの跡を歩く』(1997年)

●NNNドキュメント
『南京事件 II』(2018年)
『南京事件 兵士たちの遺言』(2015年)
『ガマフヤー 遺骨を家族に 沖縄戦を掘る』(2015年)
『9条を抱きしめて ~元米海兵隊員が語る戦争と平和~』(2015年)
『“じいちゃん”の戦争 孫と歩いた激戦地ペリリュー』(2015年)
『100歳、叫ぶ 元従軍記者の戦争反対』(2015年)
『日本地図から消えた島 奄美 無血の復帰から60年』(2014年)
大島渚『忘れられた皇軍』(2014年)
『ルル、ラン どこに帰ろうか タンチョウ相次ぐ衝突死』(2013年)
『狂気の正体 連合赤軍兵士41年目の証言』(2013年)
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』(2013年)
『沖縄からの手紙』(2012年)
『八ッ場 長すぎる翻弄』(2012年)
『鉄条網とアメとムチ』、『基地の町に生きて』(2008、11年)
『沖縄・43年目のクラス会』(2010年)
『風の民、練塀の街』(2010年)
『証言 集団自決』(2008年)
『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』(1979、80年)
『毒ガスは去ったが』、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』(1971、79年)
『沖縄の十八歳』、『一幕一場・沖縄人類館』、『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』 (1966、78、1983年)


佐野眞一『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』

2020-06-25 10:39:21 | 沖縄

佐野眞一『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(上下巻)(集英社文庫、2008/11年)。出てからかなりの時間が経ってしまったが、ようやく読んだ。

沖縄ヤクザの戦後史も、それが沖縄空手や実業家たちとかなり密接にかかわっていたことも、ほとんど知られていない。また、沖縄現代史といえば沖縄戦や施政権復帰や基地負担に偏っており、「沖縄財界四天王」(大城組の大城鎌吉、國場組の国場幸太郎、琉球セメントの宮城仁四郎、オリオンビールの具志堅宗精)について「本土」の者が言及することが少ないのもその通りである。知らないことが多く勉強になった。

「大文字」ではなく「小文字」で語る歴史を重視することは良い。また「清濁併せ吞む」ように立場の異なる者との関係を深めていった者たちに「人間らしさ」を見出すのも良い。だが、その結果、なんであれ談合的な政治を行ってきた者たちばかりを評価していることはダメだろう。辺野古についていま読んでみると、著者の見立てが実に甘かったことがよくわかる。

●佐野眞一
佐野眞一『僕の島は戦場だった 封印された沖縄戦の記憶』(2013年)


松岡哲平『沖縄と核』

2020-04-22 07:52:19 | 沖縄

松岡哲平『沖縄と核』(新潮社、2019年)を読む。

施政権返還前の沖縄に核兵器が持ち込まれていたことは今ではよく知られている。しかし、ここまで大規模で、かつ広島・長崎後の核戦争を現実的に想定したものであったとは知らなかった。ピーク時の1967年には1,300発の核兵器が沖縄に置かれていたという。

朝鮮戦争が休戦となり、1953年ないし54年から、沖縄に核兵器が持ち込まれはじめた。たとえば小型のものであり、超低空からひょいとアクロバティックに放り投げるようにしてすぐに離脱する類のもの(LABS:低高度爆撃法)。つまり戦略核から戦術核へのシフトである。この訓練場として伊江島が選ばれた。戦後強制的に米軍に多くの土地が奪い取られた場所だが、それはここまで直接的に核戦争という文脈の中に置かれていたのだ。難しい爆撃方法であり、的から外れるため、広い場所を必要としたわけである。

沖縄本島の米軍基地面積が急に増えたのは1950年代後半である。日本の「本土」より置きやすいために海兵隊が移駐してきたわけだが、その理由も「核」であった。台湾海峡に近いなどという地政学的な理由、安いという経済的な理由だけではなかったのである。アメリカ政府は、日本人の反基地感情のもととなるものが反核感情にあると認識していた。

1958年に中国人民解放軍による台湾金門島砲撃があった(第二次台湾海峡危機)。このとき米軍による中国への核攻撃の可能性がかなり高まっていた。歴史の中に位置付けられるべき潜在的な核戦争のトリガーは、キューバ危機(1962年)の前にあった。

おそるべきことに、沖縄への核配備は攻撃のためだけではなかった。基地が敵の手に落ちるくらいなら、海兵隊は核兵器で自基地を破壊するという原理があった。沖縄を物理的に「捨て石」にするのは、なにも沖縄戦までのことではなかったのである。

1960年の日米安保条約および1972年の施政権返還に際して、いくつかの「密約」が日米政府間で交された。そのひとつは、返還後も有事の際には事前協議なしで核を沖縄に持ち込んでよいというものであった。半分表向きは核抜きでも沖縄の自由使用を維持しようとしたわけだが、それも実のところ意図的な抜け穴だらけだった。そして「密約」を含め、政府間の合意が曖昧なことは、核兵器の有無に関して「肯定も否定もしない」というアメリカの政策に沿ったものであった。

もちろんこれは単なる昔話ではない。事前協議はいちども実施されたことがない(オスプレイ導入時を含め)。核に限ってみても、日本の核燃サイクルへの固執はどう評価されるべきものか。太田昌克『日米<核>同盟』においては、アメリカへの忖度ではなく日本独自の示威能力のために核ポテンシャルを手放すべきではないという考えを持つ者もある、との指摘がある。

●参照
山本昭宏『核と日本人』
徐京植、高橋哲哉、韓洪九『フクシマ以後の思想をもとめて』
太田昌克『日米<核>同盟』
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』
前田哲男『フクシマと沖縄』
鎌田慧『六ヶ所村の記録』
『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
有馬哲夫『原発・正力・CIA』
マルグリット・デュラス『ヒロシマ・モナムール』
アラン・レネ『ヒロシマ・モナムール』


森口豁さんを囲む『紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人・池宮城秀意の反骨』出版記念会

2019-09-28 08:50:20 | 沖縄

森口豁さんの『紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人・池宮城秀意の反骨』の出版を記念した会に出た(2019/9/27、高円寺Grain)。

悪性リンパ腫も治癒の結果消えたとのこと、本当によかった(下の永田浩三さんの映画には闘病中と出てくる)。

永田浩三さんによるドキュメンタリー映画『森口豁 沖縄を生きる』のダイジェスト版の上映もあった。森口さんは、同じ高校(玉川学園)の金城哲夫に誘われて沖縄に行き、実状を知り、玉川大学を中退して琉球新報に入る。日テレ時代には素晴らしい多くのドキュメンタリーを撮り、そして現在も沖縄に通っている。その姿を追いかけた作品である。

宮森小学校の米軍機墜落事故(1959年)。近田洋一さん。久高島を撮った『乾いた沖縄』(1963年)。『沖縄の十八歳』、『一幕一場・沖縄人類館』(1966、78年)に登場する内間安男さんの現在の姿。『ひめゆり戦史』(1979年)に関連して、亡くなった女学生たちの写真を森口さんが集めたこと。昭和天皇が亡くなったとき、沖縄の二紙は「崩御」という言葉を使わなかったこと。知花昌一さんの現在とチビチリガマ。『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』(1979年)にも登場する金城実さんは、2016年に高江で機動隊員が沖縄人を「土人」と罵ったことから「琉球土人の像」を作った。国会議事堂正門にバイクで突撃し亡くなった上原安隆さん。金城哲夫さんの南風原町の実家と、2階から転落して亡くなったこと。三上智恵さん。金城実さんのハーモニカ。

いいドキュメンタリーである。完成したら改めて観に行きたい。

俳優の津嘉山正種さんや佐々木愛さん、作家の木村紅美さん、ノンフィクション作家の下嶋哲朗さん、ルポライターの鎌田慧さん、キャスターの金平茂紀さんたちが森口さんに向けて面白い話をした。良い会だった。

Fuji X-E2、XF35mmF1.4

●森口豁
『紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人・池宮城秀意の反骨』(1995/2019年)
『アメリカ世の記憶』(2010年)
『最後の学徒兵』(1993年)
『沖縄 こころの軌跡 1958~1987』
『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』(1979、80年)
『毒ガスは去ったが』、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』(1971、79年)
『沖縄の十八歳』、『一幕一場・沖縄人類館』、『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』 (1966、78、83年)
『乾いた沖縄』(1963年)

●永田浩三
永田浩三『NHKと政治権力』(2014年)
金平茂紀・永田浩三・水島宏明・五十嵐仁『テレビはなぜおかしくなったのか』(2013年)
永田浩三さん講演会「3・11までなぜ書けなかったのか メディアの責任とフクシマ原発事故」(2012年)


山田健太『沖縄報道』

2019-08-29 23:13:42 | 沖縄

山田健太『沖縄報道―日本のジャーナリズムの現在』(ちくま新書、2018年)を読む。

戦後現在に至るまでの沖縄におけるひどい事件と状況を追いかけている者にとっては、本書で整理されている情報は言ってみれば復習である。しかし復習であっても、いかにひどいかをあらためて思い知らされる。沖縄は日本にとってそのような場所であり続けてきた。

では報道はどうか。数字で事件ごとの報道量を示されると一目瞭然である。日本、とくに産経や読売は、都合の悪いことをほとんど報道せず、都合のよいことが起きると急に情報量を増やしている。政府がメディアへの介入のタテマエに使う公平で客観的な報道など、最初からないのである。もっと広く言えば、「数量平等原理」が報道においても教育においても悪用されている。

そのような中で、沖縄において琉球新報と沖縄タイムスという二大紙が存在することが如何に健全なことか、よくわかる。そしてそれゆえに、沖縄のメディアはおかしな政府の動きに極めて敏感であり続けている。

「沖縄が「闘っている」ものは、かつては米軍であり、国民の無関心であったといえようが、いまは日本政府であり、本土の偏見であり、そして県民の亀裂にかわってきている。」

「ジャーナリズム倫理として、「公正さ」は大切な基準であるといえ、その公正さとは、真ん中をさすのでも中庸をさすのでもなく、むしろ社会に埋もれがちな小さな声を拾うことや、弱い者の側に立つことを指す概念だからだ。これからすると、沖縄二紙の紙面編集方針が、公正さを実践する報道であることがわかるのであって、「偏向」報道批判は誤った解釈に基づくものといえる。」

●参照
森口豁『紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人・池宮城秀意の反骨』(1995/2019年)
島洋子『女性記者が見る基地・沖縄』(2016年)
三上智恵・島洋子『女子力で読み解く基地神話』(2016年)
島洋子さん・宮城栄作さん講演「沖縄県紙への権力の圧力と本土メディア」(2014年)


森口豁『紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人・池宮城秀意の反骨』

2019-08-15 08:05:29 | 沖縄

森口豁『紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人・池宮城秀意の反骨』(彩流社、1995/2019年)を読む。

沖縄には「紙ハブ」と呼ぶ慣わしがあった。新聞で噛みつく人という意味である。そして本書初版時の題名は『ヤマト嫌い』であった。すなわち、池宮城秀意という人は、明治から戦前までの抑圧された沖縄、捨て石にされた沖縄戦での沖縄、施政権返還の前も後も米軍基地を押し付けられる沖縄に生き、ヤマト(日本)の醜さを見出し続けた言論人なのだった。

ジャーナリストがジャーナリストを対象とする書物はさほど多くはないだろう。しかしそれだけに、池宮城の功績も、弱く汚い部分も、隠すところなく描いている。本書を読む者は森口豁というふたりの眼をもって沖縄を視ることになる。(いや、さらに高校時代から豁さんと付き合いのあった金城哲夫の眼もある。)

今回わたしにとって発見がふたつあった。

ひとつは、戦前、「アカ狩り」と並行して「ユタ狩り」も行われていたことだ。ユタたちは、天皇制に支えられた国家主義的な精神統制に対して批判的であった。もとよりユタも琉球王国において聞得大君を頂点とする宗教的・精神的ネットワークの中に位置付けられる存在なのだと思うが、国家との関連であっても、ユタは民間信仰に支えられていたということである。

もうひとつは、「琉球新報」がアメリカ・日本の影響のもとかなり保守的だった時代もあったのだということだ。池宮城はいちどはそのために追放され、戻って社長になってから「沖縄タイムス」との統合話を進めている(頓挫)。また大学を中退し沖縄に渡った豁さんをあたたかく受け入れてもいる。この人がいなければ、沖縄をめぐるジャーナリズムもまた違う形になっていたのかもしれない。

●森口豁
『アメリカ世の記憶』(2010年)
『最後の学徒兵』(1993年)
『沖縄 こころの軌跡 1958~1987』
『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』(1979、80年)
『毒ガスは去ったが』、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』(1971、79年)
『沖縄の十八歳』、『一幕一場・沖縄人類館』、『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』 (1966、78、83年)
『乾いた沖縄』(1963年)


『けーし風』読者の集い(38) 法と沖縄

2019-08-04 09:34:22 | 沖縄

『けーし風』第103号(2019.7、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した(2019/8/3、池袋の会議室)。参加者は5人。

話題は以下のようなもの。

●辺野古の埋立に対する裁判。沖縄防衛局が私人になりすまし、それに応じて国交大臣が沖縄県の埋立承認撤回を違法とする採決があった。これに対して、沖縄県は、沖縄防衛局が私人ではないとして、関与取消訴訟を提起(高裁)。また、県、住民側それぞれから、その採決自体を取り消す訴訟を提起(地裁)。いずれも国が敗訴すれば埋立を進めることはできない。
●デニー知事は県の各部局に対し、裁判の判決が出るまで判断も手続きも行わないよう指示。一方の国は埋立を中止していない現状がある。
●ただし、埋立自体は実質的に進んではいない(軟弱地盤の問題)。工期も予算もわからない工事。
●埋立を行う土砂については、いまだ、外来種対策がなされていない。それに加え、海砂を入れる方針となった(瀬戸内や熊本は条例で不可能、となると玄界灘や沖縄か)。鉱滓を入れる可能性もある。こんなことをろくな環境影響評価もなく強行しようとしている。
●埋立用土砂の岩ズリについては、沖縄防衛局が入札を行い、琉球セメント1社のみが応札・落札した。通常の単価よりかなり高く、1社入札になったことの不透明が指摘された(>>リンク)。しかし、「本土」で報道したメディアはほとんどなかった。これが判明したのも、 沖縄平和市民連絡会・北上田毅さんの情報公開請求など地道な取り組みがあったからである。
●新城郁夫氏は、先の県民投票について、力を持つのは少数者の妨害であるという理由で違和感があったと書いている。しかし両者は別の話であり論旨がおかしいのではないか。
●米軍が行うことについては、日本の司法では、米軍という第三者に法的な規制をする判決ができないとしている(「第三者行為論」)。しかしそうだとすると、基地が作られてしまうと、騒音や安全上の問題などについて住民が米軍や国に提訴しても却下されることになってしまう。この点からも、日本の司法は独立していない。
●普天間の跡地利用について、伊波洋一市長時代の宜野湾市において委員会も設置し、素案を作っている。というのは、読谷村の「象のオリ」も、多数の地主がいてどうにもならず、返還されても有効利用されていない事例がある。それを踏まえ、個々の地主の調整も考慮しているはずである。
●その一方で、吉本興業がここに一枚噛んでいるとの報道があった。国際通りの三越跡でも若手芸人の発表の場を作るなどしており、沖縄にかなり入り込んでいるとのこと。さてどうなるか。

映画・本など
藤井道人『新聞記者』
吉浜忍、林博史、吉川由紀『沖縄戦を知る事典』(吉川弘文館)
森口豁『紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人・池宮城秀意の反骨』(彩流社)
井上清『元号制批判』(明石書店)※入手困難

参照
『けーし風』 


与那原恵『美麗島まで』

2019-06-26 23:46:46 | 沖縄

与那原恵『美麗島まで』(文芸春秋、2002年)を読む。(現在はちくま文庫から出ている。)

沖縄出身の著者が、祖先の生きた跡を辿りながら、台湾や東京を歩く。

わたしは今年はじめて台北を旅したが、すこし空気が濃密ですこし開かれた場の雰囲気に、那覇と似たものを感じた。本書の時間旅行に付き合っていると、それは当然のことに思える。地理的な近さだけによるものではない。台湾と沖縄との間は多くの人が行き来していたという。息遣いを介した空気の共有によっても、感覚的な距離はとても近い。

いろいろな発見がある。与那国島や石垣島は台湾からとても近く、戦後まもなくは密貿易が活発な場所だった(奥野修司『ナツコ 沖縄密貿易の女王』石原昌家『戦後沖縄の社会史―軍作業・戦果・大密貿易の時代―』)。それ以前には、後藤新平の開発独裁(佐谷眞木人『民俗学・台湾・国際連盟』)により製糖やパイナップルの小規模農家が支援対象から外れ、台湾から沖縄にやってきた人たちも多かった。金城功『近代沖縄の糖業』にあるように、構造的に台湾での製糖産業がうまくいったからといって、それはすべての人にとってのことではなかった。また、なんと終戦直後の与那国では、住民たちの署名が集められ、台湾に帰属したいと蒋介石に陳情があったのだという。

そして、池袋モンパルナスにおける大嶺政寛(東京⇄沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村@板橋区立美術館)、同じ池袋の「おもろ」に出入りしていた山之口貘(山之口貘のドキュメンタリー)。すべてはコミュニティにおいてつながってくる。それはきっと今も同じである。

●与那原恵
与那原恵『まれびとたちの沖縄』


日本ドキュメンタリストユニオン『沖縄エロス外伝 モトシンカカランヌー』

2019-05-21 00:26:34 | 沖縄

国分寺gieeにて、日本ドキュメンタリストユニオン『沖縄エロス外伝 モトシンカカランヌー』(1971年)を観る。

コザ暴動(1970年12月)前の沖縄を生々しくとらえた作品である。竹中労が『琉球共和国』で書いていて、ずっと観たいと思っていた。

上映前に、森美千代さんによる唄三線が2曲。「十九の春」は映画に登場するアケミが唄っていて、また、「海のチンボーラ―」は嘉手苅林昌による唄三線が挿入されていたからだろう。

売春婦のアケミは若い時の性暴力やいまの生活を、まるで夢の中にいるかのように語る。黒人兵の一部は軍隊や差別の問題を認識し、ブラックパンサー党に入って、場所を見つけて議論をしている(ここでオーネット・コールマン『ジャズ来るべきもの』の「Lonely Woman」がかぶせられているが、まあ、大したことではない)。堅気の市民は、コザの吉原なんかのことについて他人事のように語る。中城湾の石油備蓄基地建設への反対運動、それに関する琉球石油(現・りゅうせき)社長であった稲嶺一郎(稲嶺知事の父)による綺麗ごとの演説。

上映後に、日本ドキュメタリストユニオン(N.D.U)の井上修さんが登壇し、興味深いことを話した。

竹中労とは撮影中には会ったことがなかったこと。ビザを3か月おきに更新しなければならず、何人かで入れ替わりたちかわり沖縄に行ったこと。制作予算は社会党と羽仁五郎が援助したこと(N.D.Uの最初の作品『親に似ぬ子は鬼っ子』を羽仁氏が気に入り、『都市の論理』の印税収入を出した)。N.D.Uは早大のカメラルポルタージュ研究会と放送研究会のメンバーが集まってできたがやがて分裂したこと。メンバーは井上氏の他、布川徹郎、コザ暴動プロジェクト in 東京(2016年)にも登壇した今郁義、村瀬春樹(『誰か沖縄を知らないか』)ら。アケミと知り合ったのは、彼女が、六軒長屋を溜まり場にしていたやくざ(山原派に関係)の「スケ」であったのが縁だったこと。みんなハイミナールでラリッていたこと。録音はアカイのオープンリールを使ったこと(同録でない時代のドキュメンタリーは味があるものだ)。「十九の春」はアケミが歌ったが、後ろのほうが録れていなくて、吉田日出子に歌ってもらったこと。アケミを探しに行ったが、源氏名として多いこともあり見つからなかったこと(藤井誠二『沖縄アンダーグラウンド』に書かれている通りだ、と)。売春街の歴史をドキュメンタリーとして残すことの意義(今でも栄町や吉原の一部は残っているから、と)。

その後もライヴがあったが、事情があって聴けなかった。申し訳ない。


『けーし風』読者の集い(37) ハラスメントに社会はどう取り組むか

2019-05-12 00:10:19 | 沖縄

『けーし風』第102号(2019.4、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した(2019/5/11、高田馬場の貸部屋)。参加者は5人。

話題は以下のようなもの。

●奄美での土砂シンポジウム(辺野古土砂全協、2019/5/25、26)。もちろん辺野古埋立に使われる土砂の採石について。
新崎盛暉さんの業績を振り返り引き継ぐ会2019/3/16)。「本土」では新崎氏の思想が十分に引き継がれていないのではないか。会でも思い出話が多かった。それを中心にされては困る。
●辺野古の軟弱地盤の問題。北上田毅氏(土木技師)による検証がすばらしい。このような活動がなければもっと埋立が強行されていただろう。それにしても、仮に技術的問題がクリアできたとして、二兆円以上をかけて建設するのか。また、関空や羽田のように地盤沈下し続ける基地のメンテ費をどうするのか。
●ジュゴン。生育したあとはさほど広くは回遊しないだろう。一方、防衛省は、基地建設があっても別の場所に行けばいいのだろうと決めつけている。
●運動にハラスメントは付いてまわる。大きな運動においては小さな運動の細かなことをひとつひとつ取り上げてはいられない。一方、このような運動は小さな運動こそが重視されるものであり、上意下達の組織とは異なる。従って常にフリクションがある。
●基地からの解放と、人間性や身体性との関係。
●反戦・反基地という共通項で「本土」側が沖縄との連帯を求めることが多い。しかしこの際には、沖縄の歴史的・社会的な位置づけを十分に理解せず、ただ普遍的な問題としてとらえるのみでは、深い連帯など不可能。

参照
『けーし風』 


新崎盛暉さんの業績を振り返り引き継ぐ会

2019-03-20 18:12:27 | 沖縄

法政大学において、「新崎盛暉さんの業績を振り返り引き継ぐ会」(2019/3/16)。

法政大学の沖縄文化研究所は、1960年代に中野好夫が新崎盛暉とともに運営していた沖縄資料センターを母体とするという。ここに法大総長であった中村哲と文学部教授であった外間守善が助力してできた。最初に、会を主催する同研究所から、いまも沖縄大学のウェブサイトに残る新崎氏のモットー「戦略的な原則堅持と限りなく柔軟な現実対応」が紹介された(http://www.okinawa-u.ac.jp/faculty/teachers/273)。

糸数慶子さん(参議院議員)は、先日の県民投票を受けての県民大会が同じ日に開かれたため、ヴィデオでの参加となった。新崎さんとのつながりは、糸数さんが沖縄で平和教育のバスガイドをしていた時代に遡るという。このことが、のちに沖縄大学の講師を経て、沖縄社会大衆党から県議会に出馬することに影響しているようだ。

岡本厚さん(岩波書店)は、1960年代からの新崎さんと「世界」誌との関わりについて話した。これが沖縄の実態を日本に発信する大きな役割を果たした。施政権返還後しばらくは登場しなかったものの、1985年の新川明との対談では「沖縄にとって復帰とは何だったか」という問題意識を示している。復帰は問題の解決ではなかったのではないか、ということだ。そして、「構造的沖縄差別」、すなわち従属的日米関係のしわよせだというとらえかたに、多くの人が共感したと話した。基地の縮小は大いにあり得たはずだったが、日本政府こそがこれを維持しようとした。このことを新崎さんは問い続けた。

屋嘉宗彦さん(前沖縄文化研究所所長)は、新崎さんは復帰の総括が十分ではなかったと考えていたと話した。「本土並み」という言葉に象徴されるように、関心とオカネが安易に本土との格差是正に流れ込んだ。しかしそれは批判されるべきものだった。それを踏まえて新崎さんは「脱北入南」を主張した。すなわち、北の端っこに参加することに夢中になる共同覇権主義ではなく、また安泰と安定と収奪を伴う先進工業国の平和ではなく、自然環境を大切にし、限られた富を大事に分かち合い、異なった価値観を認めるという南の思想である。屋嘉さんは、その上で新崎さんが掲げた目標は、決して抽象的なものではなく、基地や日米安保の解消という具体的なものだったと評価した。

第2部では多くの方々が短いスピーチを行った。

●参照
『けーし風』読者の集い(35) 沖縄戦非体験者として伝える戦争/追悼・新崎盛暉先生
新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』
新崎盛暉『沖縄現代史』、シンポジウム『アジアの中で沖縄現代史を問い直す』
『けーし風』 


塩田潮『内閣総理大臣の沖縄問題』

2019-03-12 00:11:09 | 沖縄

塩田潮『内閣総理大臣の沖縄問題』(平凡社新書、2019年)を読む。

なるほど政治ものに長けた人だけに、手際よくまとめてある。SACO合意での普天間・辺野古パッケージが沖縄の頭越しに決められたことも、確かにおさえてある。小泉以降、日本政府が沖縄の意向を考慮しなくなったことも書かれている。

しかし軽いのだ。まるで決められる政治と地方に配慮する政治との二項対立のようにも読めてしまう。こんなものではダメだと思う。 

●参照
辺野古


『けーし風』読者の集い(36) 沖縄のタネと農の行方

2019-02-16 20:52:12 | 沖縄

『けーし風』第101号(2019.1、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した(2019/2/9、秋葉原/御茶ノ水レンタルスペース会議室)。参加者は7人。

話題は以下のようなもの。

●種子法の廃止。農家は自前のものを使えず、毎年企業からタネを買わなければならない。それが大問題だとして、しかし一方では、自前のタネを準備することの大変さがある(時間、土地)。
●対象の「種子」には畜産まで含まれる。本誌にはさらりとしか書かれていないが(p.41)、本当ならば大問題。
●沖縄の在来種。ヤギ、鶏チャーン、今帰仁の健堅ゴーヤー、アグー(あぐーとは異なる)、ナーベーラー、オクラ、島大根(海辺の砂地で育つもので10kgくらいあるとか)、島バナナ。
●サトウキビ等のモノカルチャーの問題。琉球王国時代に遡る日本からの強制という歴史があり、これまで米国によるものだという雑な言説。
●日本は欧米でダメだしがされたものを無理に導入することが多い。遺伝子組み換え作物、原発、水道民営化。
●岸信介は周知のようにCIAのエージェントだったが、意外にも、アイゼンハワー大統領に対し、復帰に際し沖縄の基地を撤去してほしいと要請した史実がある。しかし拒否された。
●嘉手納弾薬庫からジョンストン島への毒ガス輸送(レッドハット作戦、1971年)(>> 
森口豁『毒ガスは去ったが』)。このとき枯葉剤も同時に運ばれていたのだが、最近のジョン・ミッチェルの取材により、米軍は枯葉剤を沖縄近海に投棄した可能性がある。
●沖縄での事故や犯罪はひんぱんに隠蔽される(選挙への影響回避等のため)。読谷村で米兵が住居侵入し、女子高生が妹を抱え窓から逃げた事件(2018/9/7)も、知事選への影響を懸念してか、当初は隠されていた。
●米軍は津堅島でパラシュート降下訓練を実施した(2018/11/20)。本来は伊江島に限られるはずの訓練であり、日米合意がはなから守られていない。
●糸数慶子引退。一方で社大党は参院選に向けて高良鉄美(琉大)に一本化。もとより党内での軋轢があったのでは。また「オール沖縄」が瓦解しつつあるのでは。
●衆院補選(2019/4/21)への屋良朝博の集票は、今後に向けた試金石になるだろう。しかしバックについている鳩山由紀夫が沖縄でのイメージを非常に悪くしており(外務官僚に騙されたと毎回言うのも自己防衛のようだ、と)、また、鳩山一郎による沖縄の捨て石発言も、高齢者の記憶に残っている。
●辺野古の県民投票。結局、三択になってしまった。「どちらでもない」に票が集まり、それが「声なき声」のように都合よく利用されることが懸念される。自民党の戦略は諦めムードの醸成であり、若い人は事実シニカルになっている傾向がある。
●辺野古の弱い地盤の問題。政府は杭を8万本打つと言うが、神戸空港は120万本。関空も同程度。また環境アセス法にも抵触(桜井国俊氏もそのように発言している)。
●マティス国防長官が辞任したが(2019/1/1)、次の候補のひとりは辺野古について「やめたほうがいい」と発言している模様。建設を急ぐのにはこの背景もあるのでは。
●辺野古埋立の土砂から放射性物質が検知されたとの報道。県は採石業者の立ち入り検査を要請しているが、土砂条例ではそれは命令ではない。福島から来たものである可能性はないのか。

参照
『けーし風』 


藤井誠二『沖縄アンダーグラウンド』

2018-12-05 00:57:31 | 沖縄

藤井誠二『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』(講談社、2018年)を読む。

戦後、生きていくために、沖縄において多くの人たちが売春をせざるを得なかったことはよく知られた史実である。その名残が、那覇市の辻や栄町社交街、宜野湾市の真栄原新町、コザ市(沖縄市)に見られたこともよく知られている。しかし、それが現在までどのように変貌してきたかを知る者は極めて少ないに違いない(特に、「本土」の者にとっては)。本書は、その実態をとらえようとしたものである。

沖縄の施政権返還を直前にした1969年、売春人口の比率は約3%にものぼったという。復帰後に売春禁止法が施行されてからも、その「機能」は存続した。一方では米兵によるレイプも多発し続けた。そのため、「特飲街」を市民の安全確保のために必要な機能(「性の防波堤」)と考える者も少なからずいた(その言説を外部に居ながら使う醜悪さについては言うまでもない)。

だが、2010年頃から、「浄化」の名のもとに、「特飲街」を潰す市民運動と自治体の動きが激しくなり、まずは真栄原新町が壊滅し、業者らはコザの吉原などに流れていった。その吉原でも同じような展開があった。街はゴーストタウンと化した。実際のところ、そのような場では、「本土」から借金に困り流れてくる女性たちが少なからずいた。そしてその仲介役はやくざが担ったと推察されるが、沖縄では、組織的な活動ではなく個人が「勝手にやった」のだとされているようだ。

「浄化」という言葉や、売春を行う者の生活態度などについては、多くの見方があるだろう。しかし著者は、敢えてどちらの立場を取ることもなく、共同体から排除された女性たちを、ひとりひとり異なる個人として接し、調査している。女性の側も、自分たちが生きてきた場の実態を誰かに知ってもらいたいがために、調査に応じている。この声の積み重ねには圧倒される。著者はこのように書いている。「個別の問題を切り捨てて、既成の価値観でひと色に決めつけてしまっては、それこそ「浄化運動」と同じ次元になってしまうだろう」と。

本書では沖縄やくざの歴史についても追っている。中島貞夫『沖縄やくざ戦争』松尾昭典『沖縄10年戦争』でも描かれながら、それらがあまりにも現実に沿っているため、沖縄で上映できなかったということを考えると、このルポは外部者の著者だからこそできたのではないかと思えてくる。

そしてまた、『モトシンカカランヌー』を撮ったNDUと撮られたアケミ、売春の現場をルポし続けた佐木隆三、二重の差別構造・格差構造に晒された奄美人たち。さまざまな人たちが登場する。とても興味深い。


大工哲弘、神谷幸一、徳原清文、金城恵子『唄綵』

2018-09-25 08:14:59 | 沖縄

大工哲弘、神谷幸一、徳原清文、金城恵子『唄綵』 (ディスクアカバナー、2018年)を聴く。

この大ヴェテランたちが持ち寄った41曲、沖縄本島から八重山まで。

大工哲弘の鼻にかかったような癖のある歌声はもちろん絶品であるし、金城恵子の潤いも、神谷幸一の少しモダンな感じも、井戸の中を覗き込むような徳原清文の深い声もまた良い。なんども繰り返してはうっとりする。

大工さん以外は実際のライヴを観たことがない。2016年には徳原清文の「歌の道50周年コンサート」に行こうと予定していたのに、テヘランで帰国便に乗り遅れた影響で断念したのだ。神谷さんも先日の東京でのコンサートに行けなかったし・・・。まあ、そのうち機会もあるだろう。

●大工哲弘
大工哲弘一人唄会@浅草木馬亭(2017年)
唖蝉坊と沖縄@韓国YMCA(2017年)
大工哲弘@みやら製麺(2017年)
板橋文夫『うちちゅーめー お月さま』(1997年)
大工哲弘『八重山民謡集』(1970年代?)

●金城恵子
「生活の柄」を国歌にしよう