Sightsong

自縄自縛日記

山田健太『沖縄報道』

2019-08-29 23:13:42 | 沖縄

山田健太『沖縄報道―日本のジャーナリズムの現在』(ちくま新書、2018年)を読む。

戦後現在に至るまでの沖縄におけるひどい事件と状況を追いかけている者にとっては、本書で整理されている情報は言ってみれば復習である。しかし復習であっても、いかにひどいかをあらためて思い知らされる。沖縄は日本にとってそのような場所であり続けてきた。

では報道はどうか。数字で事件ごとの報道量を示されると一目瞭然である。日本、とくに産経や読売は、都合の悪いことをほとんど報道せず、都合のよいことが起きると急に情報量を増やしている。政府がメディアへの介入のタテマエに使う公平で客観的な報道など、最初からないのである。もっと広く言えば、「数量平等原理」が報道においても教育においても悪用されている。

そのような中で、沖縄において琉球新報と沖縄タイムスという二大紙が存在することが如何に健全なことか、よくわかる。そしてそれゆえに、沖縄のメディアはおかしな政府の動きに極めて敏感であり続けている。

「沖縄が「闘っている」ものは、かつては米軍であり、国民の無関心であったといえようが、いまは日本政府であり、本土の偏見であり、そして県民の亀裂にかわってきている。」

「ジャーナリズム倫理として、「公正さ」は大切な基準であるといえ、その公正さとは、真ん中をさすのでも中庸をさすのでもなく、むしろ社会に埋もれがちな小さな声を拾うことや、弱い者の側に立つことを指す概念だからだ。これからすると、沖縄二紙の紙面編集方針が、公正さを実践する報道であることがわかるのであって、「偏向」報道批判は誤った解釈に基づくものといえる。」

●参照
森口豁『紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人・池宮城秀意の反骨』(1995/2019年)
島洋子『女性記者が見る基地・沖縄』(2016年)
三上智恵・島洋子『女子力で読み解く基地神話』(2016年)
島洋子さん・宮城栄作さん講演「沖縄県紙への権力の圧力と本土メディア」(2014年)


森口豁『紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人・池宮城秀意の反骨』

2019-08-15 08:05:29 | 沖縄

森口豁『紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人・池宮城秀意の反骨』(彩流社、1995/2019年)を読む。

沖縄には「紙ハブ」と呼ぶ慣わしがあった。新聞で噛みつく人という意味である。そして本書初版時の題名は『ヤマト嫌い』であった。すなわち、池宮城秀意という人は、明治から戦前までの抑圧された沖縄、捨て石にされた沖縄戦での沖縄、施政権返還の前も後も米軍基地を押し付けられる沖縄に生き、ヤマト(日本)の醜さを見出し続けた言論人なのだった。

ジャーナリストがジャーナリストを対象とする書物はさほど多くはないだろう。しかしそれだけに、池宮城の功績も、弱く汚い部分も、隠すところなく描いている。本書を読む者は森口豁というふたりの眼をもって沖縄を視ることになる。(いや、さらに高校時代から豁さんと付き合いのあった金城哲夫の眼もある。)

今回わたしにとって発見がふたつあった。

ひとつは、戦前、「アカ狩り」と並行して「ユタ狩り」も行われていたことだ。ユタたちは、天皇制に支えられた国家主義的な精神統制に対して批判的であった。もとよりユタも琉球王国において聞得大君を頂点とする宗教的・精神的ネットワークの中に位置付けられる存在なのだと思うが、国家との関連であっても、ユタは民間信仰に支えられていたということである。

もうひとつは、「琉球新報」がアメリカ・日本の影響のもとかなり保守的だった時代もあったのだということだ。池宮城はいちどはそのために追放され、戻って社長になってから「沖縄タイムス」との統合話を進めている(頓挫)。また大学を中退し沖縄に渡った豁さんをあたたかく受け入れてもいる。この人がいなければ、沖縄をめぐるジャーナリズムもまた違う形になっていたのかもしれない。

●森口豁
『アメリカ世の記憶』(2010年)
『最後の学徒兵』(1993年)
『沖縄 こころの軌跡 1958~1987』
『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』(1979、80年)
『毒ガスは去ったが』、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』(1971、79年)
『沖縄の十八歳』、『一幕一場・沖縄人類館』、『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』 (1966、78、83年)
『乾いた沖縄』(1963年)


『けーし風』読者の集い(38) 法と沖縄

2019-08-04 09:34:22 | 沖縄

『けーし風』第103号(2019.7、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した(2019/8/3、池袋の会議室)。参加者は5人。

話題は以下のようなもの。

●辺野古の埋立に対する裁判。沖縄防衛局が私人になりすまし、それに応じて国交大臣が沖縄県の埋立承認撤回を違法とする採決があった。これに対して、沖縄県は、沖縄防衛局が私人ではないとして、関与取消訴訟を提起(高裁)。また、県、住民側それぞれから、その採決自体を取り消す訴訟を提起(地裁)。いずれも国が敗訴すれば埋立を進めることはできない。
●デニー知事は県の各部局に対し、裁判の判決が出るまで判断も手続きも行わないよう指示。一方の国は埋立を中止していない現状がある。
●ただし、埋立自体は実質的に進んではいない(軟弱地盤の問題)。工期も予算もわからない工事。
●埋立を行う土砂については、いまだ、外来種対策がなされていない。それに加え、海砂を入れる方針となった(瀬戸内や熊本は条例で不可能、となると玄界灘や沖縄か)。鉱滓を入れる可能性もある。こんなことをろくな環境影響評価もなく強行しようとしている。
●埋立用土砂の岩ズリについては、沖縄防衛局が入札を行い、琉球セメント1社のみが応札・落札した。通常の単価よりかなり高く、1社入札になったことの不透明が指摘された(>>リンク)。しかし、「本土」で報道したメディアはほとんどなかった。これが判明したのも、 沖縄平和市民連絡会・北上田毅さんの情報公開請求など地道な取り組みがあったからである。
●新城郁夫氏は、先の県民投票について、力を持つのは少数者の妨害であるという理由で違和感があったと書いている。しかし両者は別の話であり論旨がおかしいのではないか。
●米軍が行うことについては、日本の司法では、米軍という第三者に法的な規制をする判決ができないとしている(「第三者行為論」)。しかしそうだとすると、基地が作られてしまうと、騒音や安全上の問題などについて住民が米軍や国に提訴しても却下されることになってしまう。この点からも、日本の司法は独立していない。
●普天間の跡地利用について、伊波洋一市長時代の宜野湾市において委員会も設置し、素案を作っている。というのは、読谷村の「象のオリ」も、多数の地主がいてどうにもならず、返還されても有効利用されていない事例がある。それを踏まえ、個々の地主の調整も考慮しているはずである。
●その一方で、吉本興業がここに一枚噛んでいるとの報道があった。国際通りの三越跡でも若手芸人の発表の場を作るなどしており、沖縄にかなり入り込んでいるとのこと。さてどうなるか。

映画・本など
藤井道人『新聞記者』
吉浜忍、林博史、吉川由紀『沖縄戦を知る事典』(吉川弘文館)
森口豁『紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人・池宮城秀意の反骨』(彩流社)
井上清『元号制批判』(明石書店)※入手困難

参照
『けーし風』 


与那原恵『美麗島まで』

2019-06-26 23:46:46 | 沖縄

与那原恵『美麗島まで』(文芸春秋、2002年)を読む。(現在はちくま文庫から出ている。)

沖縄出身の著者が、祖先の生きた跡を辿りながら、台湾や東京を歩く。

わたしは今年はじめて台北を旅したが、すこし空気が濃密ですこし開かれた場の雰囲気に、那覇と似たものを感じた。本書の時間旅行に付き合っていると、それは当然のことに思える。地理的な近さだけによるものではない。台湾と沖縄との間は多くの人が行き来していたという。息遣いを介した空気の共有によっても、感覚的な距離はとても近い。

いろいろな発見がある。与那国島や石垣島は台湾からとても近く、戦後まもなくは密貿易が活発な場所だった(奥野修司『ナツコ 沖縄密貿易の女王』石原昌家『戦後沖縄の社会史―軍作業・戦果・大密貿易の時代―』)。それ以前には、後藤新平の開発独裁(佐谷眞木人『民俗学・台湾・国際連盟』)により製糖やパイナップルの小規模農家が支援対象から外れ、台湾から沖縄にやってきた人たちも多かった。金城功『近代沖縄の糖業』にあるように、構造的に台湾での製糖産業がうまくいったからといって、それはすべての人にとってのことではなかった。また、なんと終戦直後の与那国では、住民たちの署名が集められ、台湾に帰属したいと蒋介石に陳情があったのだという。

そして、池袋モンパルナスにおける大嶺政寛(東京⇄沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村@板橋区立美術館)、同じ池袋の「おもろ」に出入りしていた山之口貘(山之口貘のドキュメンタリー)。すべてはコミュニティにおいてつながってくる。それはきっと今も同じである。

●与那原恵
与那原恵『まれびとたちの沖縄』


日本ドキュメンタリストユニオン『沖縄エロス外伝 モトシンカカランヌー』

2019-05-21 00:26:34 | 沖縄

国分寺gieeにて、日本ドキュメンタリストユニオン『沖縄エロス外伝 モトシンカカランヌー』(1971年)を観る。

コザ暴動(1970年12月)前の沖縄を生々しくとらえた作品である。竹中労が『琉球共和国』で書いていて、ずっと観たいと思っていた。

上映前に、森美千代さんによる唄三線が2曲。「十九の春」は映画に登場するアケミが唄っていて、また、「海のチンボーラ―」は嘉手苅林昌による唄三線が挿入されていたからだろう。

売春婦のアケミは若い時の性暴力やいまの生活を、まるで夢の中にいるかのように語る。黒人兵の一部は軍隊や差別の問題を認識し、ブラックパンサー党に入って、場所を見つけて議論をしている(ここでオーネット・コールマン『ジャズ来るべきもの』の「Lonely Woman」がかぶせられているが、まあ、大したことではない)。堅気の市民は、コザの吉原なんかのことについて他人事のように語る。中城湾の石油備蓄基地建設への反対運動、それに関する琉球石油(現・りゅうせき)社長であった稲嶺一郎(稲嶺知事の父)による綺麗ごとの演説。

上映後に、日本ドキュメタリストユニオン(N.D.U)の井上修さんが登壇し、興味深いことを話した。

竹中労とは撮影中には会ったことがなかったこと。ビザを3か月おきに更新しなければならず、何人かで入れ替わりたちかわり沖縄に行ったこと。制作予算は社会党と羽仁五郎が援助したこと(N.D.Uの最初の作品『親に似ぬ子は鬼っ子』を羽仁氏が気に入り、『都市の論理』の印税収入を出した)。N.D.Uは早大のカメラルポルタージュ研究会と放送研究会のメンバーが集まってできたがやがて分裂したこと。メンバーは井上氏の他、布川徹郎、コザ暴動プロジェクト in 東京(2016年)にも登壇した今郁義、村瀬春樹(『誰か沖縄を知らないか』)ら。アケミと知り合ったのは、彼女が、六軒長屋を溜まり場にしていたやくざ(山原派に関係)の「スケ」であったのが縁だったこと。みんなハイミナールでラリッていたこと。録音はアカイのオープンリールを使ったこと(同録でない時代のドキュメンタリーは味があるものだ)。「十九の春」はアケミが歌ったが、後ろのほうが録れていなくて、吉田日出子に歌ってもらったこと。アケミを探しに行ったが、源氏名として多いこともあり見つからなかったこと(藤井誠二『沖縄アンダーグラウンド』に書かれている通りだ、と)。売春街の歴史をドキュメンタリーとして残すことの意義(今でも栄町や吉原の一部は残っているから、と)。

その後もライヴがあったが、事情があって聴けなかった。申し訳ない。


『けーし風』読者の集い(37) ハラスメントに社会はどう取り組むか

2019-05-12 00:10:19 | 沖縄

『けーし風』第102号(2019.4、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した(2019/5/11、高田馬場の貸部屋)。参加者は5人。

話題は以下のようなもの。

●奄美での土砂シンポジウム(辺野古土砂全協、2019/5/25、26)。もちろん辺野古埋立に使われる土砂の採石について。
新崎盛暉さんの業績を振り返り引き継ぐ会2019/3/16)。「本土」では新崎氏の思想が十分に引き継がれていないのではないか。会でも思い出話が多かった。それを中心にされては困る。
●辺野古の軟弱地盤の問題。北上田毅氏(土木技師)による検証がすばらしい。このような活動がなければもっと埋立が強行されていただろう。それにしても、仮に技術的問題がクリアできたとして、二兆円以上をかけて建設するのか。また、関空や羽田のように地盤沈下し続ける基地のメンテ費をどうするのか。
●ジュゴン。生育したあとはさほど広くは回遊しないだろう。一方、防衛省は、基地建設があっても別の場所に行けばいいのだろうと決めつけている。
●運動にハラスメントは付いてまわる。大きな運動においては小さな運動の細かなことをひとつひとつ取り上げてはいられない。一方、このような運動は小さな運動こそが重視されるものであり、上意下達の組織とは異なる。従って常にフリクションがある。
●基地からの解放と、人間性や身体性との関係。
●反戦・反基地という共通項で「本土」側が沖縄との連帯を求めることが多い。しかしこの際には、沖縄の歴史的・社会的な位置づけを十分に理解せず、ただ普遍的な問題としてとらえるのみでは、深い連帯など不可能。

参照
『けーし風』 


新崎盛暉さんの業績を振り返り引き継ぐ会

2019-03-20 18:12:27 | 沖縄

法政大学において、「新崎盛暉さんの業績を振り返り引き継ぐ会」(2019/3/16)。

法政大学の沖縄文化研究所は、1960年代に中野好夫が新崎盛暉とともに運営していた沖縄資料センターを母体とするという。ここに法大総長であった中村哲と文学部教授であった外間守善が助力してできた。最初に、会を主催する同研究所から、いまも沖縄大学のウェブサイトに残る新崎氏のモットー「戦略的な原則堅持と限りなく柔軟な現実対応」が紹介された(http://www.okinawa-u.ac.jp/faculty/teachers/273)。

糸数慶子さん(参議院議員)は、先日の県民投票を受けての県民大会が同じ日に開かれたため、ヴィデオでの参加となった。新崎さんとのつながりは、糸数さんが沖縄で平和教育のバスガイドをしていた時代に遡るという。このことが、のちに沖縄大学の講師を経て、沖縄社会大衆党から県議会に出馬することに影響しているようだ。

岡本厚さん(岩波書店)は、1960年代からの新崎さんと「世界」誌との関わりについて話した。これが沖縄の実態を日本に発信する大きな役割を果たした。施政権返還後しばらくは登場しなかったものの、1985年の新川明との対談では「沖縄にとって復帰とは何だったか」という問題意識を示している。復帰は問題の解決ではなかったのではないか、ということだ。そして、「構造的沖縄差別」、すなわち従属的日米関係のしわよせだというとらえかたに、多くの人が共感したと話した。基地の縮小は大いにあり得たはずだったが、日本政府こそがこれを維持しようとした。このことを新崎さんは問い続けた。

屋嘉宗彦さん(前沖縄文化研究所所長)は、新崎さんは復帰の総括が十分ではなかったと考えていたと話した。「本土並み」という言葉に象徴されるように、関心とオカネが安易に本土との格差是正に流れ込んだ。しかしそれは批判されるべきものだった。それを踏まえて新崎さんは「脱北入南」を主張した。すなわち、北の端っこに参加することに夢中になる共同覇権主義ではなく、また安泰と安定と収奪を伴う先進工業国の平和ではなく、自然環境を大切にし、限られた富を大事に分かち合い、異なった価値観を認めるという南の思想である。屋嘉さんは、その上で新崎さんが掲げた目標は、決して抽象的なものではなく、基地や日米安保の解消という具体的なものだったと評価した。

第2部では多くの方々が短いスピーチを行った。

●参照
『けーし風』読者の集い(35) 沖縄戦非体験者として伝える戦争/追悼・新崎盛暉先生
新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』
新崎盛暉『沖縄現代史』、シンポジウム『アジアの中で沖縄現代史を問い直す』
『けーし風』 


塩田潮『内閣総理大臣の沖縄問題』

2019-03-12 00:11:09 | 沖縄

塩田潮『内閣総理大臣の沖縄問題』(平凡社新書、2019年)を読む。

なるほど政治ものに長けた人だけに、手際よくまとめてある。SACO合意での普天間・辺野古パッケージが沖縄の頭越しに決められたことも、確かにおさえてある。小泉以降、日本政府が沖縄の意向を考慮しなくなったことも書かれている。

しかし軽いのだ。まるで決められる政治と地方に配慮する政治との二項対立のようにも読めてしまう。こんなものではダメだと思う。 

●参照
辺野古


『けーし風』読者の集い(36) 沖縄のタネと農の行方

2019-02-16 20:52:12 | 沖縄

『けーし風』第101号(2019.1、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した(2019/2/9、秋葉原/御茶ノ水レンタルスペース会議室)。参加者は7人。

話題は以下のようなもの。

●種子法の廃止。農家は自前のものを使えず、毎年企業からタネを買わなければならない。それが大問題だとして、しかし一方では、自前のタネを準備することの大変さがある(時間、土地)。
●対象の「種子」には畜産まで含まれる。本誌にはさらりとしか書かれていないが(p.41)、本当ならば大問題。
●沖縄の在来種。ヤギ、鶏チャーン、今帰仁の健堅ゴーヤー、アグー(あぐーとは異なる)、ナーベーラー、オクラ、島大根(海辺の砂地で育つもので10kgくらいあるとか)、島バナナ。
●サトウキビ等のモノカルチャーの問題。琉球王国時代に遡る日本からの強制という歴史があり、これまで米国によるものだという雑な言説。
●日本は欧米でダメだしがされたものを無理に導入することが多い。遺伝子組み換え作物、原発、水道民営化。
●岸信介は周知のようにCIAのエージェントだったが、意外にも、アイゼンハワー大統領に対し、復帰に際し沖縄の基地を撤去してほしいと要請した史実がある。しかし拒否された。
●嘉手納弾薬庫からジョンストン島への毒ガス輸送(レッドハット作戦、1971年)(>> 
森口豁『毒ガスは去ったが』)。このとき枯葉剤も同時に運ばれていたのだが、最近のジョン・ミッチェルの取材により、米軍は枯葉剤を沖縄近海に投棄した可能性がある。
●沖縄での事故や犯罪はひんぱんに隠蔽される(選挙への影響回避等のため)。読谷村で米兵が住居侵入し、女子高生が妹を抱え窓から逃げた事件(2018/9/7)も、知事選への影響を懸念してか、当初は隠されていた。
●米軍は津堅島でパラシュート降下訓練を実施した(2018/11/20)。本来は伊江島に限られるはずの訓練であり、日米合意がはなから守られていない。
●糸数慶子引退。一方で社大党は参院選に向けて高良鉄美(琉大)に一本化。もとより党内での軋轢があったのでは。また「オール沖縄」が瓦解しつつあるのでは。
●衆院補選(2019/4/21)への屋良朝博の集票は、今後に向けた試金石になるだろう。しかしバックについている鳩山由紀夫が沖縄でのイメージを非常に悪くしており(外務官僚に騙されたと毎回言うのも自己防衛のようだ、と)、また、鳩山一郎による沖縄の捨て石発言も、高齢者の記憶に残っている。
●辺野古の県民投票。結局、三択になってしまった。「どちらでもない」に票が集まり、それが「声なき声」のように都合よく利用されることが懸念される。自民党の戦略は諦めムードの醸成であり、若い人は事実シニカルになっている傾向がある。
●辺野古の弱い地盤の問題。政府は杭を8万本打つと言うが、神戸空港は120万本。関空も同程度。また環境アセス法にも抵触(桜井国俊氏もそのように発言している)。
●マティス国防長官が辞任したが(2019/1/1)、次の候補のひとりは辺野古について「やめたほうがいい」と発言している模様。建設を急ぐのにはこの背景もあるのでは。
●辺野古埋立の土砂から放射性物質が検知されたとの報道。県は採石業者の立ち入り検査を要請しているが、土砂条例ではそれは命令ではない。福島から来たものである可能性はないのか。

参照
『けーし風』 


藤井誠二『沖縄アンダーグラウンド』

2018-12-05 00:57:31 | 沖縄

藤井誠二『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』(講談社、2018年)を読む。

戦後、生きていくために、沖縄において多くの人たちが売春をせざるを得なかったことはよく知られた史実である。その名残が、那覇市の辻や栄町社交街、宜野湾市の真栄原新町、コザ市(沖縄市)に見られたこともよく知られている。しかし、それが現在までどのように変貌してきたかを知る者は極めて少ないに違いない(特に、「本土」の者にとっては)。本書は、その実態をとらえようとしたものである。

沖縄の施政権返還を直前にした1969年、売春人口の比率は約3%にものぼったという。復帰後に売春禁止法が施行されてからも、その「機能」は存続した。一方では米兵によるレイプも多発し続けた。そのため、「特飲街」を市民の安全確保のために必要な機能(「性の防波堤」)と考える者も少なからずいた(その言説を外部に居ながら使う醜悪さについては言うまでもない)。

だが、2010年頃から、「浄化」の名のもとに、「特飲街」を潰す市民運動と自治体の動きが激しくなり、まずは真栄原新町が壊滅し、業者らはコザの吉原などに流れていった。その吉原でも同じような展開があった。街はゴーストタウンと化した。実際のところ、そのような場では、「本土」から借金に困り流れてくる女性たちが少なからずいた。そしてその仲介役はやくざが担ったと推察されるが、沖縄では、組織的な活動ではなく個人が「勝手にやった」のだとされているようだ。

「浄化」という言葉や、売春を行う者の生活態度などについては、多くの見方があるだろう。しかし著者は、敢えてどちらの立場を取ることもなく、共同体から排除された女性たちを、ひとりひとり異なる個人として接し、調査している。女性の側も、自分たちが生きてきた場の実態を誰かに知ってもらいたいがために、調査に応じている。この声の積み重ねには圧倒される。著者はこのように書いている。「個別の問題を切り捨てて、既成の価値観でひと色に決めつけてしまっては、それこそ「浄化運動」と同じ次元になってしまうだろう」と。

本書では沖縄やくざの歴史についても追っている。中島貞夫『沖縄やくざ戦争』松尾昭典『沖縄10年戦争』でも描かれながら、それらがあまりにも現実に沿っているため、沖縄で上映できなかったということを考えると、このルポは外部者の著者だからこそできたのではないかと思えてくる。

そしてまた、『モトシンカカランヌー』を撮ったNDUと撮られたアケミ、売春の現場をルポし続けた佐木隆三、二重の差別構造・格差構造に晒された奄美人たち。さまざまな人たちが登場する。とても興味深い。


大工哲弘、神谷幸一、徳原清文、金城恵子『唄綵』

2018-09-25 08:14:59 | 沖縄

大工哲弘、神谷幸一、徳原清文、金城恵子『唄綵』 (ディスクアカバナー、2018年)を聴く。

この大ヴェテランたちが持ち寄った41曲、沖縄本島から八重山まで。

大工哲弘の鼻にかかったような癖のある歌声はもちろん絶品であるし、金城恵子の潤いも、神谷幸一の少しモダンな感じも、井戸の中を覗き込むような徳原清文の深い声もまた良い。なんども繰り返してはうっとりする。

大工さん以外は実際のライヴを観たことがない。2016年には徳原清文の「歌の道50周年コンサート」に行こうと予定していたのに、テヘランで帰国便に乗り遅れた影響で断念したのだ。神谷さんも先日の東京でのコンサートに行けなかったし・・・。まあ、そのうち機会もあるだろう。

●大工哲弘
大工哲弘一人唄会@浅草木馬亭(2017年)
唖蝉坊と沖縄@韓国YMCA(2017年)
大工哲弘@みやら製麺(2017年)
板橋文夫『うちちゅーめー お月さま』(1997年)
大工哲弘『八重山民謡集』(1970年代?)

●金城恵子
「生活の柄」を国歌にしよう


『けーし風』読者の集い(35) 沖縄戦非体験者として伝える戦争/追悼・新崎盛暉先生

2018-08-12 08:54:17 | 沖縄

『けーし風』第99号(2018.7、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した(2018/8/11、秋葉原/御茶ノ水レンタルスペース会議室)。参加者は5人+1人(懇親会)。

特集は「沖縄戦非体験者として伝える戦争」、「追悼・新崎盛暉先生」。さらにこの3日前に亡くなった翁長雄志沖縄県知事のこと。

沖縄現代史のアーカイブ

●県・市町村の歴史資料保管に対する予算不足という大きな問題。
●村岡敬明さん(明治大学)は沖教組(沖縄県教職員組合)が読谷村に寄贈した約8万点の写真等の資料をデジタルアーカイブ化するにあたって、自治体予算ではなく、クラウドファンディングを用いた。
●特に、資料の分散、保管状態の悪さ(8ミリフィルムがどんどん劣化していくなど)、人員不足といった問題が挙げられる。貴重なはずの資料の内容が把握されないと予算もつかないという悪循環がある。
●故・大田昌秀元知事の沖縄国際平和研究所の資料は、数か所に分けられて保管されるという話がある。
●沖縄県が運営する「沖縄平和学習デジタルアーカイブ」がこの4月に突然見られなくなった問題。渡邉英徳さん(東京大学大学院教授)が中心となって5千万円の予算を投じて作成されたもの。県からの反応は遅く、ようやく最近になって、150万円ほどの運営費が不足しているためとの回答があった。再開の方向だが経緯には不可解なところがある。

記憶の継承

●歴史の記憶を継承しようとする運動も、生活が大変な沖縄においては困難。(数十年前に「公務員年金が安定しているからできるんだろう」と言われたことがあるとの発言。)
●小中高校に平和学習専門の人がいない。県内の大学には沖縄戦や沖縄近代史の研究者もいない(少ない)。
●県・市町村で戦争遺跡の整備予算がほとんどついていない。首里の32軍司令部壕さえ未指定の「ほらあな」。
●「日の丸」の問題。新崎盛暉『沖縄現代史』にあるように、1987年海邦国体の前後に、大きな中央からの圧力によって、「日の丸」掲揚率が全国平均を追いぬいた。もとは「復帰」のシンボルだった。その87年国体では知花昌一氏が「日の丸」を焼いた事件があった(ドキュメンタリー映画『ゆんたんざ沖縄』で描かれている)。
●一方、この頃、沖教祖が「日の丸」について総括しようとする動きがあったが、それは頓挫した。「日の丸」や天皇制に対する視線が一貫性をもたなかったことが、その背景にあった。なお、昭和天皇がアメリカ側に沖縄の長期占領の希望を伝えた「天皇メッセージ」が表に出てきたのは1979年だった。
●海邦国体の「日の丸」事件により、右翼がチビチリガマの平和の像(金城実)を壊した。2017年9月12日に少年4人が像を壊したのは2回目ということになる。このときかれらはチビチリガマの中も徹底的に荒らした。誰のどのような意向かはともかく、平和教育と記憶の継承がうまくいかなくなってきたことを象徴するものだった。
●チビチリガマは「霊感スポット」として語られることがある。歴史に対する深い考察よりも、スピリチュアリズムやダークツーリズムが持て囃される浅薄さにも共通するものがある。
●読谷村は2018年6月に「世界遺産座喜味城跡ユンタンザミュージアム」を開いた。その中にはチビチリガマのジオラマがあり、子が母に首を切られる「集団自決」の場面が展示されている。稲嶺知事時代に、平和祈念資料館で住民に銃口を向ける日本兵の像の向きが変えられた事件を思い出すがどうか。 
●記憶の継承を「学びなおし」として示した屋嘉比収『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』の視点。

新崎盛暉さん

●CTC闘争を中心とした『琉球弧の住民運動』(~1990年)から『けーし風』(1993年~)への動きが明確。
●『琉球弧の住民運動』は2014年に復刻(『けーし風』読者会がきっかけになった)。原典はほとんど残っていなかったが沖縄大学にあった。
『沖縄現代史』などが韓国語、中国語に翻訳され出版されたことの効果は大きい。研究者、メディア、運動家、アーティストなどの間で新崎さんの知名度は高い。新崎さんははじめから国境を越えた社会のあり方を考えていた。

沖縄県知事選

●名護市長選(2018/2/4、稲嶺進市長が敗北)は、知的な展望が先走り、市民の暮らし目線が足りなかったとの指摘。
●オール沖縄からは金秀グループ、かりゆしグループが離脱。若い人の間には政治への諦めが蔓延している(つまり、どちらにも付きうる)。
●そのような状況下で翁長知事が亡くなり、果たして知事選(9月末?)はどうなるか。
●候補者として出てきている名前。自民は、佐喜眞淳(宜野湾市長)が軸、あるいは安里繁信(実業家)。県政与党の翁長後継者としては、謝花喜一郎(副知事)、糸数慶子(参議院議員)、城間幹子(那覇市長)、前泊博盛(沖縄国際大学)。
●沖縄の政治を保革の切り口で分析しようとする研究者もいるが、それは間違っている。

その他
●戦後、沖縄戦で破壊された土地における緑化運動が、米国の意向により民政府を通じて進められた(緑の学園運動)。表彰制度もあった。米軍機が墜落した宮森小学校も表彰されたことがある。
●その宮森小学校については、戦時中に民間の「石川学園」として発足し、戦後、宮森小学校、城前小学校に分校し公立の小学校となった経緯がある。

紹介された本
●乗松聡子編著『沖縄は孤立していない』(金曜日)
●ジョン・ミッチェル『日米地位協定と基地公害』(岩波書店)
●林博史『沖縄からの本土爆撃』(吉川弘文館)
●『世界』2018年9月号、特集「人びとの沖縄」(岩波書店)
櫻澤誠『沖縄現代史』(中公新書)

参照
『けーし風』 


山田實写真展『きよら生まり島―おきなわ』@ニコンプラザ新宿

2018-07-29 11:30:06 | 沖縄

ニコンプラザ新宿にて、昨年(2017年)に亡くなった山田實さんの写真展『きよら生まり島―おきなわ』。

どの写真も素晴らしいことは観る前からわかっているし、実際に観ても、歴史的な一コマが絶妙に切り取られていて感銘を受ける。

山田實という写真家は、(まさにニコンを通じて)オーソライズされた沖縄の写真界を代表する存在であったし、「本土」の写真家を受け入れる窓口的な人でもあった。であるから、たとえば、「水汲みの姉妹」(那覇市安里、1958年)に「軍用地」と書かれた看板が写っていたり、「水浴び」(奥武島、1966年)で少女が使う容器がコカ・コーラの大きな缶であったり、「おとなしく待つ」(豊見城、1966年)において農作業に連れてこられた幼児が「EXPORT STANDARD」と書かれた木箱に入れられていたりと、当時の沖縄の歴史的・社会的な位置づけを「説明」するような写真が少なくない。また構図などについても、ああうまい、というシニカルな見方も可能ではある。

しかしそのような表層的な視線など無化してしまうほどの力がある。「バスを待つ」(南風原、1962年)なんてじわじわくる良さがある。来てよかった。(なお、写真撮影もSNSも自由である。)

会場には垂涎モノのニコンSPが展示されている。ペイントがかなり剥げていて、フェティシズムを激しく喚起する。欲しい。

「バスを待つ」(南風原、1962年)

ニコンSP+35mmF1.8

●山田實
『山田實が見た戦後沖縄』
仲里効『眼は巡歴する』
コザ暴動プロジェクト in 東京


三木健『西表炭坑概史』

2018-05-23 19:36:20 | 沖縄

三木健『西表炭坑概史』(ひるぎ社おきなわ文庫、1983年)を読む。

よく知られているように、西表島には炭鉱があった(ざっくり言えば、炭鉱は石炭の鉱山を、炭坑はそれを掘りだす坑道を意味する)。その構造や日本との関係については、北海道や筑豊のそれと共通している面も特殊な面もあった。

沖縄に最初に石炭を求めたのはペリーだった。というのも、船の燃料を補給する場所として重要であり、これは現在の根拠希薄な地政学的な観点とはまったく異なる。かれらが可能性ありとした場所はなんと塩屋湾(大宜味村)であった。一方、琉球でも西表に炭鉱があることが知られてはいたが、島津には気付かれないようにしていた。しかし、明治の半ばには、日本の資源として狙われることとなった。

最初は国策として、三井物産が採炭を開始した。視察もした山形有朋の意向により、端から囚人を使う計画であり、これは北海道と同じであった。その多くがマラリアで死んだ(死んでもいい存在だった、ということである)。1895年からの台湾領有後からは、労働者として台湾人も増え、その後も、日本の他の炭鉱とは異なって朝鮮人の強制労働は比較的少なかったようである。やがて直接的な国策事業から多くの下請け業者による遂行に形が変わり、全体の事業規模も大きくなっていった。

坑道が狭く、男女一組で採炭にあたり、労賃はかつかつ(というより業者が握っていて労賃がわからない)、尻を割ることができない。筑豊の炭鉱に似たところがある。植民地支配を行った場所の出身者を除けば、労働者は沖縄ではなく日本出身者が多かったという。異なる特徴はここである。すなわち、あくまで日本のための事業であり、「炭坑切符」という支払い手段のために経済で地元が潤うことはなく、労働者を慰撫するためのお祭りでさえも日本人だけのためのものだった。このことを、著者は、「本土から集った坑夫の集団は、島の社会と隔絶した一種独特な社会を形成していた」と書いている。

三井三池炭鉱では、与論島出身者が差別的な扱いを受けたことが知られている(熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』)。これもまた差別構造を意図的に作り出した歴史だが、著者は、ここに、日本との関わりという点での共通点を見出している。

「与論の場合は、島を出た人たちが九州の社会と接触していった歴史だが、西表の場合は逆に本土の集団が島の共同体社会に割り込む形でできた歴史である。いずれにしろ資本を媒介にした異集団間の接触という点ではかわりなく、両者の間にある種の軋轢が生じていた点でも共通している。」

西表に関してはまさに地元の「搾取」という言葉があてはまりそうなものだが、このことは、戦後の建設業や基地における「ザル経済」(利益が地元を通過して日本へと流れる)と類似すると言ってもよいだろう。

「そして戦争で炭坑が崩壊するや、島の経済は大きな打撃を受けざるを得なかった。基幹産業が根付かぬまま、西表の既存村落は戦後を迎えた。戦後になって、同島が過疎化していく下地がすでにあったのである。」

●炭鉱
上野英信『追われゆく坑夫たち』
上野英信『眉屋私記』
『上野英信展 闇の声をきざむ』
伊藤智永『忘却された支配』
西嶋真治『抗い 記録作家 林えいだい』
奈賀悟『閉山 三井三池炭坑1889-1997』
熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』
熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』
山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』
本橋成一『炭鉱』
勅使河原宏『おとし穴』(北九州の炭鉱)
友田義行『戦後前衛映画と文学 安部公房×勅使河原宏』
本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(九州の仮想的な炭鉱)
佐藤仁『「持たざる国」の資源論』
石井寛治『日本の産業革命』

●ひるぎ社おきなわ文庫
石原昌家『戦後沖縄の社会史―軍作業・戦果・大密貿易の時代―』
郭承敏『秋霜五〇年―台湾・東京・北京・沖縄―』
加治順人『沖縄の神社』
金城功『近代沖縄の糖業』
金城功『ケービンの跡を歩く』
保坂廣志『戦争動員とジャーナリズム』
宮里一夫『沖縄「韓国レポート」』
望月雅彦『ボルネオ・サラワク王国の沖縄移民』 


石原昌家『戦後沖縄の社会史―軍作業・戦果・大密貿易の時代―』

2018-05-21 17:13:30 | 沖縄

石原昌家『戦後沖縄の社会史―軍作業・戦果・大密貿易の時代―』(ひるぎ社おきなわ文庫、1995年)を読む。

本書は大きく2部で構成されている。前半は敗戦直後の沖縄における軍作業の実態、後半は1952年までの大密貿易の姿について。

敗戦直後とはいえ、沖縄においては、その時期に戦前、戦中、戦後が混沌として入り混じるという状況が生まれていた。すなわち、周知のように、1945年6月23日(22日説もあり)の牛島中将自決による組織的戦闘の終結を境に、すべてが説明できるわけではない。単純に言うとしても、本島の読谷付近では4月1日に米軍が上陸し、そのときから多かれ少なかれ沖縄住民たちにとっては米軍支配のもとで新たな労働が生まれた。

労働にはさまざまなものがあった。米軍の物資を持ちだす「戦果」は生きていくための手段でもあり、抵抗の手段でもあった。ここでの聴き取りからは、なかには米国人の側に立ち、コザ暴動の際にも抵抗する沖縄人としてのシンパシーを抱けなかった者や、大学で英語教育を受けていたがために米軍のスパイ活動にスカウトされそうになった者など、労働が非常に多岐にわたっていたことがわかる。その全貌はいまも明確でないに違いない。なぜなら、沖縄タイムス中部支社編集部『基地で働く』には、旧知念村にCIAの設備があったことが書かれており、それまで知られざる事実だった。

「戦果」は大変大きな経済的価値を持っていた。それは、台湾、中国、日本との間で、統制化にも関わらず密貿易の形で取引された。そうしなければ建物ひとつ建たず、食糧さえも入ってこなかった。従って、1952年に琉球政府が機能しはじめるまでは、警察もそれを積極的に黙認した。

ここで台湾がやはり重要である。ジャン・ユンカーマンの映画『老人と海』でも直接的に描かれているように、与那国島と台湾とは目に見えるほど近い。もとより台湾の住民は、沖縄の住民に強い親近感を持っていたという。交流もあった。だが、敗戦により線が引かれた。また大陸の外省人(1947年には二・二八事件が起きる)に取ってみれば、沖縄人はあくまで皇民化教育を受けた日本人でしかなかった、ともいう。

密貿易は、奥野修司『ナツコ 沖縄密貿易の女王』にも描かれているように、非常にハイリスク・ハイリターンの活動だった。1日に公務員1か月分の宿代を払い、その桁がひとつ増えるほどの金額を1日で稼ぐようなものであり、皆が利ザヤに群がった。2か月もあればひと財産が出来た。

そのハブは、与那国であり、台湾であり、中国との間では香港・マカオであり、日本との間では口之島(1946-52年の米国統治の北端)であった。驚くべきことは、薬莢などの物資が中国に渡り、場合によっては、共産党軍が国民党軍を攻撃するために用いられたということであった。

また先島における自衛隊の強化が進められているいま、国境のやわらかいあり方を想像するためのものとして、密貿易を生み出した背景は共有されるべきものである。

●参照
ナツコ
『老人と海』 与那国島の映像

●ひるぎ社おきなわ文庫
郭承敏『秋霜五〇年―台湾・東京・北京・沖縄―』
加治順人『沖縄の神社』
金城功『近代沖縄の糖業』
金城功『ケービンの跡を歩く』
保坂廣志『戦争動員とジャーナリズム』
宮里一夫『沖縄「韓国レポート」』
望月雅彦『ボルネオ・サラワク王国の沖縄移民』