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自縄自縛日記

石原昌家『戦後沖縄の社会史―軍作業・戦果・大密貿易の時代―』

2018-05-21 17:13:30 | 沖縄

石原昌家『戦後沖縄の社会史―軍作業・戦果・大密貿易の時代―』(ひるぎ社おきなわ文庫、1995年)を読む。

本書は大きく2部で構成されている。前半は敗戦直後の沖縄における軍作業の実態、後半は1952年までの大密貿易の姿について。

敗戦直後とはいえ、沖縄においては、その時期に戦前、戦中、戦後が混沌として入り混じるという状況が生まれていた。すなわち、周知のように、1945年6月23日(22日説もあり)の牛島中将自決による組織的戦闘の終結を境に、すべてが説明できるわけではない。単純に言うとしても、本島の読谷付近では4月1日に米軍が上陸し、そのときから多かれ少なかれ沖縄住民たちにとっては米軍支配のもとで新たな労働が生まれた。

労働にはさまざまなものがあった。米軍の物資を持ちだす「戦果」は生きていくための手段でもあり、抵抗の手段でもあった。ここでの聴き取りからは、なかには米国人の側に立ち、コザ暴動の際にも抵抗する沖縄人としてのシンパシーを抱けなかった者や、大学で英語教育を受けていたがために米軍のスパイ活動にスカウトされそうになった者など、労働が非常に多岐にわたっていたことがわかる。その全貌はいまも明確でないに違いない。なぜなら、沖縄タイムス中部支社編集部『基地で働く』には、旧知念村にCIAの設備があったことが書かれており、それまで知られざる事実だった。

「戦果」は大変大きな経済的価値を持っていた。それは、台湾、中国、日本との間で、統制化にも関わらず密貿易の形で取引された。そうしなければ建物ひとつ建たず、食糧さえも入ってこなかった。従って、1952年に琉球政府が機能しはじめるまでは、警察もそれを積極的に黙認した。

ここで台湾がやはり重要である。ジャン・ユンカーマンの映画『老人と海』でも直接的に描かれているように、与那国島と台湾とは目に見えるほど近い。もとより台湾の住民は、沖縄の住民に強い親近感を持っていたという。交流もあった。だが、敗戦により線が引かれた。また大陸の外省人(1947年には二・二八事件が起きる)に取ってみれば、沖縄人はあくまで皇民化教育を受けた日本人でしかなかった、ともいう。

密貿易は、奥野修司『ナツコ 沖縄密貿易の女王』にも描かれているように、非常にハイリスク・ハイリターンの活動だった。1日に公務員1か月分の宿代を払い、その桁がひとつ増えるほどの金額を1日で稼ぐようなものであり、皆が利ザヤに群がった。2か月もあればひと財産が出来た。

そのハブは、与那国であり、台湾であり、中国との間では香港・マカオであり、日本との間では口之島(1946-52年の米国統治の北端)であった。驚くべきことは、薬莢などの物資が中国に渡り、場合によっては、共産党軍が国民党軍を攻撃するために用いられたということであった。

また先島における自衛隊の強化が進められているいま、国境のやわらかいあり方を想像するためのものとして、密貿易を生み出した背景は共有されるべきものである。

●参照
ナツコ
『老人と海』 与那国島の映像

●ひるぎ社おきなわ文庫
郭承敏『秋霜五〇年―台湾・東京・北京・沖縄―』
加治順人『沖縄の神社』
金城功『近代沖縄の糖業』
金城功『ケービンの跡を歩く』
保坂廣志『戦争動員とジャーナリズム』
宮里一夫『沖縄「韓国レポート」』
望月雅彦『ボルネオ・サラワク王国の沖縄移民』


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