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自縄自縛日記

村瀬春樹『誰か沖縄を知らないか』

2016-05-19 00:14:48 | 沖縄

村瀬春樹『誰か沖縄を知らないか ≪第三世界≫私論』(三一新書、1970年)を読む。

先日明治大学で行われた「コザ暴動プロジェクト in 東京」(2016/4/29)でのこと。シンポジウムのあと、客席から、当時のコザにおいて配られていたという黒人兵士による反戦ビラを持っているという方が発言した。そのことは、後日(2016/5/15)、朝日新聞において詳しく報じられた。おそらくは嘉手納基地の黒人米兵によって撒かれたものであり、「基地内の黒人から沖縄の人びとへのアピール」と題されていたという。そこにあった視点は、「沖縄がヤマトに支配されてきたのと同様の、米国での黒人差別の歴史」なのであった。

「コザ暴動」の直前に書かれた本書においても、その動きが生々しくとらえられている。黒人兵たちは自分自身を「ブラック・ピープル」であると称し、リロイ・ジョーンズ(のちのアミリ・バラカ)を、カシアス・クレイを、マルコムXを、ブラック・パンサーを語り、社会の構造矛盾に対する怒りを露わにし、そして「第三社会」への共感を示すのだった。「コザ暴動」を前にして、既に、かれらは同じ米軍のMPのパトカーを標的にしてもいた。こうなると、沖縄人たちの溜め込まれた怒りにより起こるべくして起きた「コザ暴動」について、黒人差別という観点からの併行した共感・共鳴や、その同時代史も複眼的に視るべきだと思える。

本書の後半は、当時の沖縄が、構造的に売春を生み出さざるを得なかった状況についてのルポである。その状況に相対する著者自身は、まるで敗北感にまみれているようだ。「僕」が「売春」を視るときの姿はどのようなものか。「僕」にとっての「沖縄」とは何か。そこには、手段として沖縄ーヤマトという二分法に近づいていくあやうさがあり、だからこその敗北感である。どうやっても当事者になれないもどかしさ、とでもいうのか。この少しあと、沖縄返還の直前に、「沖縄のために、ぼくにできることは何か。」と、ナイーヴに、意識的に書いた東松照明とも重なってくる。

著者が沖縄入りしていた目的は、「NDU」の一員として、映画『沖縄エロス外伝 モトシンカカランヌー』を撮るためでもあった。「モトシンカカランヌー」とは元手がかからぬ商売、すなわち売春婦などを指すことばだったという。本書が出されたよりもあと、1971年に映画は完成している。まだ機会がなくて観ていないのだが、どのような作品になったのだろう。なお、「コザ暴動」シンポには、やはり「NDU」に属していた今郁義氏も登壇している。

●参照
コザ暴動プロジェクト in 東京
比嘉豊光『赤いゴーヤー』(「コザ暴動」の写真を所収)
三上寛『YAMAMOTO』(「十九の春」において「コザ暴動!コザ暴動!」と叫ぶ)
森崎東『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』(主人公たちは「コザ暴動」を経験している)
高嶺剛『夢幻琉球・つるヘンリー』 けだるいクロスボーダー(「コザ暴動」のエピソードが入っている)
比嘉豊光『光るナナムイの神々』『骨の戦世』
仲里効『眼は巡歴する』
仲里効『フォトネシア』


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