鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その5

2010-12-09 06:41:01 | Weblog
文政8年(1825年)の6月29日(旧暦)午前、船でこの新川を通過し、下総の行徳河岸(ぎょうとくがし─「新河岸」)を目指していた一人の武士がいる。その武士は下僕を含め同行者2人を連れており、船は日本橋小網町三丁目行徳河岸船問屋加田屋長左衛門の小舟を借り切っていました。船は日本橋川から隅田川を経由して、万年橋を潜って小名木川に入り、中川船番所の前を通過して中川を横断、そしてすぐに新川に入りました。新川から江戸川へと入り、江戸川を遡って行徳河岸(新河岸)に到着したのはその日のお昼頃。その行徳河岸で昼食を摂り、陸路、八幡宿を経て鎌ヶ谷宿の鹿島屋で夕食。さらに道を進んでその日は、白井宿の旅籠屋藤屋八右衛門方に泊まっています。その武士は誰かと言えば、三州田原藩士の渡辺登(崋山)。崋山は寛政5年(1793年)に生まれているから、この時32歳(満年齢)。この崋山が描いた『四州真景図』の一枚(中川船番所を描いたもの)を、私は中川船番所資料館の展示品の中に見ました。それには、「渡辺崋山画 文政8年(1825)江戸から利根川を利用して、銚子・上総海岸までを旅した際に描いたもの」という解説文が付されており、崋山が小名木川や新川を船で航行したことがあることを初めて知りました。広重が描く「中川口」とほぼ同じ光景の中を、中川船番所を左手に見て中川を横断し、新川に入って江戸川へと向かっていった崋山がいたわけです。それは文政8年(1825年)6月29日の午前のことでした。 . . . 本文を読む