鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その最終回

2010-12-19 06:28:57 | Weblog
『青べか物語』の各物語の中でも、とくに私にとって印象的な一篇「芦の中の一夜」では、「芦の中」に浮かぶ「ぶっくれの十七号船」という、かつて高橋~行徳間を往き来した通船が登場します。「ぶっくれ」とは、底に穴が開き、ペンキが剥(はが)れていた「青べか」が「ぶっくれ舟」と記されているように、「ぶっこわれた」という意味であり、したがって「ぶっくれの十七号船」とは、蒸気エンジンが動かなくなって老朽化した、かつては「十七号」という番号であった通船という意味。この「十七号」は、「蒸気河岸の先生」が購入した「青べか」がそうであったように、ほかの船とはやや趣きを異にしていました。「もと外輪船」で、「他の通船のそれより幾らか広いように感じられ」「左右は硝子を嵌めた窓、うしろは機関部と仕切られた板壁、前方は腰掛のある広い船室」で、窓には「障子」があり、「床には畳が四帖敷いて」ありました。この「ぶっくれの十七号船」がもとは「外輪船」であったという記述から私がすぐに想起したことは、これは「通運丸」の1隻のなれの果てではなかったか、ということでした。そう思って、山本鉱太郎さんの『新編 川蒸気通運丸物語』をひもといてみると、一番最後のところに、次のような記述が出てきます。「そのほか古老たちの幾つかの証言を考えあわせると、通運丸はどうやら昭和四、五年頃まで気息えんえんのていでも、とにかく江戸川や利根川を走っていたようである。…通運丸は、東京通船に身売りした後も、同じマークをつけたまま内国通運とほぼ同じコースを走っていたものと想像される。」同書によると、「内国通運」の通運丸の航路や船舶は、大正8年(1919年)に「東京通船」に譲渡されたとあり、また、「東京通船というのは、当時高橋から小名木川、新川を通って行徳に至る航路を持っていた船会社で、昭和19年に廃止されている」とありました。荒川放水路の建設が大正2年(1913年)に始まって、それが完成したのが昭和5年(1930年)のことであったから、その大工事の影響のため、途中で小名木川全線利用ではなく、高橋から大横川や竪川などを利用して、それから新川に入って江戸川経由で行徳に至る路線になったものと思われる。「ぶっくれの十七号船」は、その「内国通運」および「東京通船」で長い間使用されてきた通運丸の、ある1隻のなれの果てではなかったかと私には思われてきました。 . . . 本文を読む