鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その4

2010-12-08 07:08:40 | Weblog
江戸地廻り経済の発展により、関東地方の諸河川では新河岸が各地に出来ていきました。この江戸地廻り経済の発展を象徴する産物の一つが醤油。その醤油は銚子や野田が代表的な産地でした。この銚子や野田の醤油の江戸への出荷量が増大したのは18世紀半ば以降のことであるという。林玲子さんの『関東の醤油と織物』によれば、銚子醤油の代表的存在であるヤマサ(広屋)は、醤油を運ぶための専属船を所有しており(それを「手船」という)、佐助船・長四郎船・弥七船が江戸への醤油輸送を専門に行っていました。江戸日本橋小網町の広屋吉右衛門商店がその目指す先でした。幕末期になると、江戸ばかりでなく、江戸以外の利根川筋の醤油販売も盛んになっていきました。醤油の原料は大豆・小麦・塩。醤油を運ぶための容器は樽。燃料は薪。それら醤油の生産販売に必要なものはほとんど川船によって運ばれ、そして出来上がった醤油も川船(「手船」という専属船)によって運ばれたのです。林さんは、以上のことを踏まえて、銚子の醤油の醸造・流通は、「利根川水系および霞ヶ浦・北浦の水運により支えられたといってよい」と結論づけています。しかしその銚子も、江戸への輸送という点では、野田に較べると圧倒的に不利でした。なぜなら、野田の場合、新川口へは船で5時間余で到着し、そこから新川→小名木川→隅田川→日本橋川を経由して小網町河岸までおよそ3時間、つまり8時間余で醤油を江戸に運ぶことができたからです。いずれにしろ、江戸地廻り経済の発展を象徴する野田や銚子などの醤油が、利根川→江戸川→新川→小名木川を利用して、江戸に運ばれたいったことは疑いなく、醤油の入った樽を満載した川船が、この新川をひっきりなしに江戸小網町へと向かっていったのです。もちろん醤油だけでなく、様々な物資を積載した川船や、人々を乗せた船がここを行き交っていた時代があったのです。 . . . 本文を読む