鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その11

2010-12-16 06:23:31 | Weblog
かつて東京から浦安方面に来る場合(逆に浦安方面から東京に出る場合)、人々は「通船」と呼ばれる蒸気船をもっぱら利用していました。それは『青べか物語』によると、「二つの船会社が運航」するものであり、「浦粕」では、「これらの発着するところを『蒸気河岸』と呼び、隣りあっている両桟橋の前にそれぞれの切符売り場」がありました。その「二つの船会社」とは、「葛西汽船」と「東湾汽船」でしたが、これは実際には「葛飾汽船」と「東京通船」のことでした。主人公の「蒸気河岸の先生」は、この「蒸気河岸」の近くに住んでいたから、そう地元の人たちから呼ばれていましたが、この「先生」が炉辺に集まった人々からいろいろな話を聞いたところは、「東湾汽船」の発着場を経営する「高品家」でした。この「高品家」は「浦粕第一の旦那衆」であり、その「高品さんの本家は十代島という小さな小字にある深い樹立に囲まれた、一町四方もあるような邸宅」であり、その先祖は「浦粕町の開拓者だそう」と「蒸気河岸の先生」は聞いています。「高品家」は「東湾汽船」の「主要な出資者」すなわち「大株主」であって、長男の「征三(まさぞう)」さんが「浦粕」の「蒸気河岸」の、「東湾汽船の発着場を経営」していました。この「高品さんの家の炉端」には、「常連の蒸気乗りや船頭たちが集」まり、いろいろな会話が交わされました。この「東湾汽船も葛西汽船も、徳行町が終点」でしたが、「遊ぶ場所の揃っている浦粕泊り」の「通船」もあり、自然、そこの「蒸気河岸」の「高品さんの家の炉端」には、「東湾汽船」関係の「蒸気乗り」や船頭たちが多数集まってきたのです。この「通船」は、「今日は竪川で伝馬が詰っちまってな、高橋まで五時間もかかっちまっただよ」という台詞から察すれば、小名木川の「高橋(たかばし)」から竪川を経由して、新川─江戸川─浦安─行徳を結ぶものであったらしい。「東湾汽船」と「葛西汽船」は、利用客の獲得に競合していました。さて「高品征三」とは誰かというと、それは当時「中外商業新報」の家庭部記者であった「高梨正三(まさみ)」のことであり、当時山本周五郎は京橋区桜橋際の「日本魂社」に勤めていて、何かとお世話になっていた人でした。山本周五郎は、浦安の蒸気河岸から「通船」と市電を利用して、京橋区桜橋際の「日本魂社」に通勤していましたが、遅刻や欠勤が多かったという。 . . . 本文を読む