堤防上の遊歩道から、船が接岸する川縁の遊歩道へと下り、左手に旧江戸川の流れを見晴るかしながら水門、つまり新川が旧江戸川に入り込んでいたあたりへと歩いていきました。その遊歩道は水門の手前で行き止まりとなり、開いた水門の向こうに新川口橋下に接岸している船が見えています。そこから南側対岸に「月島食品」と書かれた工場か倉庫らしきものが見えますが、その右手からへと奥へと入っていく水路があるようです。
「月島食品」の工場らしきものがあるところは、旧江戸川の中洲のようになっているように思われます。
水門には、「新川東水門」とあり、ということはあの黒い櫓があったところにある水門は「新川西水門」ということになるのでしょう。しかし、「新川西水門」は新川とそのまま続いていたのに対して、この「新川東水門」は新川との間に「新川口児童遊園」があってそのままつながってはいないようだ。屋形船や漁船などが碇泊できるスペース(水面)は新川口橋から水門との間にありますが、「新川口児童公園」で全く閉ざされているのか、それともその下に何らかの水路が通っているのかは、歩いてみた限りよくわからない。
いずれにしろ、水門から船で新川へと入っていき、そのまま荒川まで行くことは不可能な状態になっています。「新川西水門」の場合はそのまま新川につながっているのに、「新川東水門」のところは土盛り(現在は公園となっている)で新川と隔てられている理由はわからない。
旧江戸川の水面と新川の水面には、高低差があるのかも知れません。つまり新川の水面が旧江戸川の水面よりもかなり低いということが考えられるのですが、実際のところはよくわかりません。
水門の新川出口付近(かつてはもっと新川の幅は広かったことでしょう)を確認して、川縁の遊歩道を戻り、堤防の上に上がって、そこからの景色を数枚撮影した後、道を戻りました。途中、「岡田屋丸乗船場 →乗船入口はこちらです」という看板がありました。
新川口橋を渡り、すぐに左折。左手に新川の出口付近と「新川東水門」を見ることになります。旧江戸川べりに出る手前に「新川東水門監視所」があり、そこからふたたび堤防上の遊歩道に出て、今度は水門の南側から旧江戸川と新川の出口付近を眺めました。この出口から川を遡っていくと、右手にかつての行徳河岸が現れることになる。
遊歩道をそこから南へと進んでいくことにしました。
「月島食品」などがある中洲と、堤防との間に水路があり、堤防上からは川縁にそって延びる遊歩道と川縁に接岸する船が見える。「屋形船あみ武」という看板が見えるから、その船は大型の屋形船であると思われます。川幅は20mほどでしょうか。
5分ほど歩くと、防潮堤建設工事現場にぶつかりました。看板を見ると、「妙見島防潮堤建設工事(その10)のお知らせ」とあり、「東京都では、高潮対策の一環として、高潮を防御し地震にも強い耐震性能を有する防潮堤の建設を行っております」と記されています。既設護岸の前面に、鋼管杭、鋼矢板を打ち込み、河床の一部に地盤改良と根固めを行うものであるらしい。
掲載されている地図を見ると、この水路は「旧江戸川」であり、対岸の中洲は「妙見島」、「月島食品」とあったのは「月島食品工業東京工場」であったこと、そしてその妙見島の中央に「妙見神社」があることがわかります。
この川は旧江戸川であったのです。川縁には多数の屋形船が停泊しており、それが何がしかのかつての江戸川の風情を醸し出しています。川に接岸する多数の船と、妙見島の工場群、川の下流方向に見える橋と、典型的な東京水辺の下町風景が広がっていました。
続く
○参考文献
・『河岸に生きる人びと 利根川水運の社会史』川名登(平凡社)
・『日本洋学人名事典』(柏書房)
「月島食品」の工場らしきものがあるところは、旧江戸川の中洲のようになっているように思われます。
水門には、「新川東水門」とあり、ということはあの黒い櫓があったところにある水門は「新川西水門」ということになるのでしょう。しかし、「新川西水門」は新川とそのまま続いていたのに対して、この「新川東水門」は新川との間に「新川口児童遊園」があってそのままつながってはいないようだ。屋形船や漁船などが碇泊できるスペース(水面)は新川口橋から水門との間にありますが、「新川口児童公園」で全く閉ざされているのか、それともその下に何らかの水路が通っているのかは、歩いてみた限りよくわからない。
いずれにしろ、水門から船で新川へと入っていき、そのまま荒川まで行くことは不可能な状態になっています。「新川西水門」の場合はそのまま新川につながっているのに、「新川東水門」のところは土盛り(現在は公園となっている)で新川と隔てられている理由はわからない。
旧江戸川の水面と新川の水面には、高低差があるのかも知れません。つまり新川の水面が旧江戸川の水面よりもかなり低いということが考えられるのですが、実際のところはよくわかりません。
水門の新川出口付近(かつてはもっと新川の幅は広かったことでしょう)を確認して、川縁の遊歩道を戻り、堤防の上に上がって、そこからの景色を数枚撮影した後、道を戻りました。途中、「岡田屋丸乗船場 →乗船入口はこちらです」という看板がありました。
新川口橋を渡り、すぐに左折。左手に新川の出口付近と「新川東水門」を見ることになります。旧江戸川べりに出る手前に「新川東水門監視所」があり、そこからふたたび堤防上の遊歩道に出て、今度は水門の南側から旧江戸川と新川の出口付近を眺めました。この出口から川を遡っていくと、右手にかつての行徳河岸が現れることになる。
遊歩道をそこから南へと進んでいくことにしました。
「月島食品」などがある中洲と、堤防との間に水路があり、堤防上からは川縁にそって延びる遊歩道と川縁に接岸する船が見える。「屋形船あみ武」という看板が見えるから、その船は大型の屋形船であると思われます。川幅は20mほどでしょうか。
5分ほど歩くと、防潮堤建設工事現場にぶつかりました。看板を見ると、「妙見島防潮堤建設工事(その10)のお知らせ」とあり、「東京都では、高潮対策の一環として、高潮を防御し地震にも強い耐震性能を有する防潮堤の建設を行っております」と記されています。既設護岸の前面に、鋼管杭、鋼矢板を打ち込み、河床の一部に地盤改良と根固めを行うものであるらしい。
掲載されている地図を見ると、この水路は「旧江戸川」であり、対岸の中洲は「妙見島」、「月島食品」とあったのは「月島食品工業東京工場」であったこと、そしてその妙見島の中央に「妙見神社」があることがわかります。
この川は旧江戸川であったのです。川縁には多数の屋形船が停泊しており、それが何がしかのかつての江戸川の風情を醸し出しています。川に接岸する多数の船と、妙見島の工場群、川の下流方向に見える橋と、典型的な東京水辺の下町風景が広がっていました。
続く
○参考文献
・『河岸に生きる人びと 利根川水運の社会史』川名登(平凡社)
・『日本洋学人名事典』(柏書房)
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