鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その2

2010-12-06 06:51:01 | Weblog
広重の「中川口」には中川の向こうに新川が流れており、小名木川からはいったん中川に入り、そこから新川へと船は航行できるようになっていることがわかります。しかし現在は、中川の対岸には都立大島小松川公園の「風の広場」があって、新川が流れていたところはやや小高い台地になっています。この新川を埋め立てて高台を造成した膨大な土はいったいどこから運ばれたのか、という疑問が浮かびますが、考えられるのは荒川放水路の開削によって生まれた大量の土砂が用いられたのではないかということ。岩淵水門から荒川放水路と隅田川は分かれていますが、この荒川放水路の開削工事は大正2年(1913年)から昭和5年(1930年)にかけて17年間の歳月をかけて行われました。その間には関東大震災や、第一次世界大戦による深刻な不況などもありました。南葛飾郡の大木村・平井村・船堀村の3村が廃村となり、1300戸もの人家が開削工事のために立ち退いたという。この荒川放水路の完成により、現在の隅田川を下流の河道としていた荒川は東京の市街地を通らずに東京湾に注ぐようになり、台風や集中豪雨などによる隅田川流域の水害は大幅に減少することになりました。この川幅が500mもある人口河川荒川放水路を開削した時の大量の土砂は、両岸の堤防の建設はもちろんのこと、現在の大島小松川公園がある台地の盛土にも使われたのではないかと推測されますが、そのあたりはまだ確認はできていません。 . . . 本文を読む