1回目に新川の遊歩道を歩いた時、北岸に「新川」と書かれた案内板を見つけました。それによると新川はかつては船堀川と呼ばれ、川筋は旧江戸川から中川(旧中川)へと通じるものでした。
寛永6年(1629年)、三角(さんかく)から新川口までが新たに開削されて、全長約3kmの今の新川が生まれ、銚子・行徳方面から年貢米・味噌・醤油などを江戸に運ぶ重要な水運路として利用され、また成田詣などの人々を乗せた行徳船が行き交いました。
明治時代になると外輪型蒸気船である「通運丸」が運航し、大正になると小型の定期船である「通船」が運航しますが、昭和19年(1944年)にはその「通船」も廃止され、輸送路としての役割を終えた、といったことが記してありました。かつての新川には白魚が群れをなし、子供たちが泳ぎまわる時代もあったようです。
その案内板の近くには、「通運丸」と「通船」、そして「荷船」のモニュメントがありました。
川沿いの遊歩道を進み、宇喜田橋から左折し、都営新宿線の船堀駅から帰途に就いたのが、新川遊歩の第1回目。
第2回目は、ふたたび船堀橋で旧中川・荒川・中川を渡り、櫓のところまで行って、そこから新川を江戸川(旧江戸川)に向かって歩くことにしました。
都営新宿線の東大島駅の改札口を出たのは8:21。天気は昨日午前の暴風雨が嘘のように快晴で、空には雲一つありません。さっそく船堀橋へ上がる階段へと取り付くと、そこには「この歩道は荒川を渡っていません」と記された看板が立っています。この歩道は、旧中川を渡る歩道であり、いったん階段を上がって船堀橋と平行して歩いた後、いったん下って、突き当りの荒川(荒川放水路)の堤防の上に上がらなければなりません。
堤防のコンクリート階段を上がると、荒川の流れが広がりました。左折して船堀橋へと向かい、そこで右折して船堀橋を渡ります。
荒川は昨日の豪雨で増水しているかと思いきや、前回と同様にいたって静かに流れ、川面が濁っていることもありません。下流には都営新宿線の鉄道橋が見え、その上を電車が音を立てて通過しています。その鉄道橋の向こうに、かつて「新川」は東西に流れていたことになります。鉄道橋の右手には中川船番所資料館の隣に建っている高層マンションやその他のマンション群も見える。
よく見ると、その鉄道橋の上部から雪をかぶった富士山の頂きが、その三角錐の姿を見せています。前回、船堀橋を渡った時には気付かなかったことでした。鉄道橋もなく高層ビルがなかった頃は、晴れて大気が澄み切っている時には、富士山の上半分がくっきりと見えていたことになります。
中川(新中川)を渡りきったところで、歩道右手の階段を下り、中川の高い堤防に沿った道へと出ます。堤防のブロック壁には、水色の帯に「満潮位」、黄色の帯に「キティ台風潮位」と記されており、このあたり一帯がこの高い堤防によって守られていることがわかります。
この堤防に沿って車道と、その一段下の歩道(車も通る)とが走っているのですが、この歩いている通りから堤防へと上がる階段は、いくら進んでもありません。右手の車道との間にはコンクリート壁とガードレールがあるから、堤防への通行は事実上遮断されています。堤防の上は自転車が走っているから遊歩道があることがわかりますが、この堤防下の地域の人々がその堤防上へ上がるのはよほど遠回りをしなくてはいけないようです。堤防は高いから、2階の窓から中川や荒川の流れを見ることはできず、ましてや今日、その白い山容をくっきりと見せている富士山を望むことはできません。
都営地下鉄新宿線の高架の下を潜ってしばらくして、ようやく堤防へと上がることができる階段を見つけました。
ということで、車道を渡り、その水色の手すりのある階段を上がってみました。堤防に上がるとその上は遊歩道が延びており、その中川に接する下の川岸では釣り糸を垂れている人たちの姿が見えました。
南(下流方向)を眺めると、堤防上の歩道は行き止まりとなっていて、その行き止まりの奥やや左手に、前回その上に登った黒い櫓と取り残された古い橋脚のようなものが建っています。その奥には高層ビルが聳え立っています。
行き止まりになっているところでスロープを下っていくと、何のことはない、先ほどの階段の登り口のところに戻りました。
つまり櫓のある広場には、この堤防上の遊歩道から直接には行けないようになっているのです。
櫓の下に出たのは8:55。東大島駅からは歩いて30分少々の距離ということになる。
開放時間は10時からということで、櫓の中には入ることはできません。やってきた親子が櫓の上に登れないことを残念がっていました。あと1時間少々待たなくてはいけません。
私はすでに前回ここへやってきた時、その展望台に登っているので、すぐに新川沿いの遊歩道を歩いていくことにしました。櫓前からの出発時刻は、8:56でした。
続く
○参考文献
・『広重「名所江戸百景」の世界』(川崎市市民ミュージアム)
・Wikipedia「荒川」の項
寛永6年(1629年)、三角(さんかく)から新川口までが新たに開削されて、全長約3kmの今の新川が生まれ、銚子・行徳方面から年貢米・味噌・醤油などを江戸に運ぶ重要な水運路として利用され、また成田詣などの人々を乗せた行徳船が行き交いました。
明治時代になると外輪型蒸気船である「通運丸」が運航し、大正になると小型の定期船である「通船」が運航しますが、昭和19年(1944年)にはその「通船」も廃止され、輸送路としての役割を終えた、といったことが記してありました。かつての新川には白魚が群れをなし、子供たちが泳ぎまわる時代もあったようです。
その案内板の近くには、「通運丸」と「通船」、そして「荷船」のモニュメントがありました。
川沿いの遊歩道を進み、宇喜田橋から左折し、都営新宿線の船堀駅から帰途に就いたのが、新川遊歩の第1回目。
第2回目は、ふたたび船堀橋で旧中川・荒川・中川を渡り、櫓のところまで行って、そこから新川を江戸川(旧江戸川)に向かって歩くことにしました。
都営新宿線の東大島駅の改札口を出たのは8:21。天気は昨日午前の暴風雨が嘘のように快晴で、空には雲一つありません。さっそく船堀橋へ上がる階段へと取り付くと、そこには「この歩道は荒川を渡っていません」と記された看板が立っています。この歩道は、旧中川を渡る歩道であり、いったん階段を上がって船堀橋と平行して歩いた後、いったん下って、突き当りの荒川(荒川放水路)の堤防の上に上がらなければなりません。
堤防のコンクリート階段を上がると、荒川の流れが広がりました。左折して船堀橋へと向かい、そこで右折して船堀橋を渡ります。
荒川は昨日の豪雨で増水しているかと思いきや、前回と同様にいたって静かに流れ、川面が濁っていることもありません。下流には都営新宿線の鉄道橋が見え、その上を電車が音を立てて通過しています。その鉄道橋の向こうに、かつて「新川」は東西に流れていたことになります。鉄道橋の右手には中川船番所資料館の隣に建っている高層マンションやその他のマンション群も見える。
よく見ると、その鉄道橋の上部から雪をかぶった富士山の頂きが、その三角錐の姿を見せています。前回、船堀橋を渡った時には気付かなかったことでした。鉄道橋もなく高層ビルがなかった頃は、晴れて大気が澄み切っている時には、富士山の上半分がくっきりと見えていたことになります。
中川(新中川)を渡りきったところで、歩道右手の階段を下り、中川の高い堤防に沿った道へと出ます。堤防のブロック壁には、水色の帯に「満潮位」、黄色の帯に「キティ台風潮位」と記されており、このあたり一帯がこの高い堤防によって守られていることがわかります。
この堤防に沿って車道と、その一段下の歩道(車も通る)とが走っているのですが、この歩いている通りから堤防へと上がる階段は、いくら進んでもありません。右手の車道との間にはコンクリート壁とガードレールがあるから、堤防への通行は事実上遮断されています。堤防の上は自転車が走っているから遊歩道があることがわかりますが、この堤防下の地域の人々がその堤防上へ上がるのはよほど遠回りをしなくてはいけないようです。堤防は高いから、2階の窓から中川や荒川の流れを見ることはできず、ましてや今日、その白い山容をくっきりと見せている富士山を望むことはできません。
都営地下鉄新宿線の高架の下を潜ってしばらくして、ようやく堤防へと上がることができる階段を見つけました。
ということで、車道を渡り、その水色の手すりのある階段を上がってみました。堤防に上がるとその上は遊歩道が延びており、その中川に接する下の川岸では釣り糸を垂れている人たちの姿が見えました。
南(下流方向)を眺めると、堤防上の歩道は行き止まりとなっていて、その行き止まりの奥やや左手に、前回その上に登った黒い櫓と取り残された古い橋脚のようなものが建っています。その奥には高層ビルが聳え立っています。
行き止まりになっているところでスロープを下っていくと、何のことはない、先ほどの階段の登り口のところに戻りました。
つまり櫓のある広場には、この堤防上の遊歩道から直接には行けないようになっているのです。
櫓の下に出たのは8:55。東大島駅からは歩いて30分少々の距離ということになる。
開放時間は10時からということで、櫓の中には入ることはできません。やってきた親子が櫓の上に登れないことを残念がっていました。あと1時間少々待たなくてはいけません。
私はすでに前回ここへやってきた時、その展望台に登っているので、すぐに新川沿いの遊歩道を歩いていくことにしました。櫓前からの出発時刻は、8:56でした。
続く
○参考文献
・『広重「名所江戸百景」の世界』(川崎市市民ミュージアム)
・Wikipedia「荒川」の項
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