山と自然の雑学ノート

山歩き&散歩道で出会った植物などの記録

山頭火

2012-08-22 22:51:30 | Weblog

漂泊の自由律俳人、山頭火の句碑は全国に500基以上あると言われています。

その一つが、宇治市内の小さなお寺「皆演寺」にもありました。














花いばら ここの土とならうよ(なろうよ) 

 

山頭火は防府市の大地主の家に生まれ、11歳の時に母が投身自殺、父は放蕩三昧・・・

と悲惨な少年時代を過ごしました。

その後、中学を主席で卒業し、早稲田大学文学部へと進みますが、在学中から運命の糸に

引きずられるように酒に溺れ、神経衰弱のため二年で中退、故郷へと戻ります。

結婚して一児をもうけますが、働いていた実家の作り酒屋が倒産、その後も職業を転々と

しますが、何事もうまくいかず、とうとう出家、43歳の時に妻子を捨てて行乞流転の旅に出る

ことになります。

人生の前半を見る限り、かなりの秀才であった彼が、小利口に世間と折り合っていれば

それなりの成功と幸福を得られたであろうはず?

しかし、そうした生き方ができず、酒に溺れ、どうしょうもない人生を送ってしまった彼には

母の自殺に始まる”生”そのものへの深刻な懐疑が根底にあったのではないでしょうか?

「風の中おのれを責めつつ歩く」「どうしようもないわたしがあるいている」

よく「何ものにも束縛されず、足の向くまま、気の向くままに歩いた山頭火は… 」と書かれること

の多い山頭火ですが、私にはどうも、この「どうしようもないわたし」を背負い、苦悩しながら

放浪する山頭火の姿しか浮かんできません。

彼はこの旅について後に「行乞記」を書くにあたって、冒頭の一節でこの様に述べています。

私はまた旅に出た━

所詮、乞食坊主以外の何物でもない私だつた、愚かな旅人として一生流転せずにはゐられない私だつた、

浮草のやうに、あの岸からこの岸へ、みじめなやすらかさを享楽してゐる私をあはれみ且つよろこぶ。

水は流れる、雲は動いて止まない、風が吹けば木の葉が散る、魚ゆいて魚の如く、鳥とんで鳥に似たり、

それでは、二本の足よ、歩けるだけ歩け、行けるところまで行け。

旅のあけくれ、かれに触れこれに触れて、うつりゆく心の影をありのまゝに写さう。

私の生涯の記録としてこの行乞記を作る。

 

 

 

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