平塚市中原、県道61号(平塚伊勢原線)と旧道の間に徳川家代々崇敬の厚い「日枝神社」は鎮座している。昔は「天王様」と言われていた。相模国平塚中原に江戸時代初期、徳川家康公が鷹狩等の際の宿泊所&別荘の「中原御殿」(雲雀野御殿)があった。文禄年間に徳川家康公が中原御殿を中原に建築の際当社は御殿の鬼門に当たることから方除鎮護のため幾度となく修営され、寛永17年(1640)に現在の地に遷座された。祭神は大山咋命、徳川家康である。平塚伊勢原線から一本道を隔てた住宅街の一画に構えられた鳥居を抜けると正面に「拝殿・本殿」がある。明治42年雑社東照宮を合祀した。境内地は約9百坪、現在の社殿は昭和37年改築されたものである。訪拝した日はおりしも平塚七夕祭りの初日で鳥居前には短冊が付けられた竹飾りが取り付けられていた。また9月開催の「奉祝祭」は朝から中原中を「神輿」が渡御し、5台の「山車」が後をつき旧伊勢原街道を巡行する盛大な祭りである。(2207)
平塚市富士見町2-1、平塚総合公園近く61号線左側に1998年に完成した教会らしく、また地域に溶け込むようなデザインとなっている日本基督教団「平塚富士見町教会」の会堂が視界に入ってくる。シンプルだがいかにも聖堂らしい外観である。当教会は日本基督教団に属する、改革長老教会の伝統を持つ、プロテスタントのキリスト教会である。「植村正久」が創立以来38年間に亘り牧師をつとめ、富士見町教会の基礎を築いた。はじめは麹町一番町にあった教会は明治39年(1906)に富士見町に移り名前も変わった。「植村正久」は1858(安政4)年-1925(大正14)幕臣に生まれキリスト教へ。「1500石の旗本」だった植村家は大政奉還で没落。少年正久は父母と共に横浜に移り英学を学ぶために入った塾でキリスト教に触れ、1873年(15歳)、生まれたばかりの日本最初のプロテスタント教会・日本基督公会で宣教師J.H.バラから受洗の経緯を持つ。外庭は夾竹桃が咲き白の赤の均整の取れた会堂である。(2207)