菊池のぶひろの議会だより

日本共産党 桜川市議会議員 菊池のぶひろの活動報告です

金田一京助の借金を「踏み倒した」石川啄木を、孫はどう思っているか

2021年11月12日 09時38分29秒 | 日々の雑感
 私の子どもの頃、小・中学校では、国語の時間には、「はたらけけど はたらけど わが暮らし 楽にならざる じっと手をみる」などの短歌をならった。「一握の砂」の歌人・石川啄木は教科書に載る「立派な人」であった。
 ところが、大人になってから、石川啄木は、国語辞典おなじみの金田一京助、アイヌ語研究で有名な金田一京助にずいぶん迷惑をかけていたという話を知った。
 啄木と京助は、岩手の同郷の人である。石川啄木は、同郷の先輩、金田一京助、を頼って上京し、借金をしたが、踏み倒してしまった。京助に、金銭的には迷惑ばかりかけていた、「だらしない人」だと知った。もちろん、歌は、貧しい生活、故郷を思うもので、好きであったが、石川啄木の人間性には、いささか幻滅を感じていた。

 そんなとき、今日のしんぶん赤旗に、孫の秀穂(ひでほ)さんが「金田一京助没後50年」と題して書いている。一部を抜き書きして、紹介したい。

 天才と出会いすがしい挫折
  金田一秀穂

 私は「偉人」の孫なのだ。死んで50年たった今でも、京助がらみの仕事がある。現にこの原稿を書いているのもそうなのだが。名前が忘れられていないようなのだ。
 たとえば、啄木について何か話してほしい、という仕事がある。私自身は啄木について、普通の人以上に知っていることなどほとんどないのだが、もとめられて語ることがある。恥ずかしい。啄木は京助に借金してほとんど返さなかった、京助は損ばかりしていたいうけれど、その孫にまで及ぼした恩沢を考えれば十二分に元を取っている。
 岩手県の盛岡では文士劇が1年に1度開催されて、私もここ数年、高橋克彦さんをはじめとする盛岡在住の作家さんたちに交じって舞台に立たせてもらっている。言うまでもなく、京助が盛岡出身でだからである。

 つくづく思うのだが、京助は運のいい人だった。若い時『明星』に投稿したりしていた。か彼は文学青年であった。若い時『明星』に投稿したりしていた。田舎の青年として、経済的に豊だったのだ。それで後輩の啄木が彼を慕って、上京していた京助の下宿に転がりこんだ。
 京助は卒業間もない時期で、英語の中学教師として働き始めたばかり。仕事から帰ってくると、啄木は留守番をしていて、そこらの新聞に無数の短歌の草稿が書かれていたという。
 啄木のような天才と知り合えるのは、僥倖以外の何物でもない。文学に進みたいと思う凡人のすぐそばに、とんでもない才能が現れて、毎日のように否応なしにその詩魂を見せつけられる。遠く及ばない。京助は早々と文学の道を諦めることができた。

 それは京助にとって、いっそとてもすがすがしい挫折だったのではなかろうか。そして京助はアイヌ語研究の道に進むことになる。啄木がいなければ、春彦も出てこられらなかったではなかろうか。もちろん私も。
 その後、京助はアイヌ語研究に熱中することになる。アイヌ語研究は当時の日本にあって、そんなにはかばかしいものではなかった。しかしごく一部の良質な知己に恵まれて、研究を続けることができた。京助は援助で得た金と時間のすべてをアイヌ語研究に注ぎ込んでしまった。
 (以下略)
 
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