和光幼稚園まで引き返し、国道2号線に通じる広い道を山手に向かう。
周南緑地公園の西緑地は季節の花が楽しめる市民憩いの公園、中央緑地には陸上競技場
やフレンドパーク、東緑地はスポーツセンターやサッカー場などの運動広場となっている。
季節の花が楽しめる公園とのことだが、この時期は花を見ることはできない。鮮やかな
紅色の実をつけた常緑のトキワサンザシ(常盤山査子)が見られるが、西アジア原産の帰化
植物だそうだ。
正門(大内側入口)の案内板を見るとクモの巣状に散策路が設けてあるので、歩くポイン
トを目に焼き付けて出発する。(目的は戦争遺跡)
東山砲台の砲側弾薬庫へ弾薬搬入のために作られた道。看板右の道ではなく「←すぐそ
こ」の道が運搬道のようだ。
この道は案内板には記載されていないが、上がれそうなので進むことにする。
防空指揮所前の道に合わす。(指揮所は15m下る)
防空指揮所の説明によると、コンクリートのトンネル型で、縦横25m奥行18mの広
さである。1945(昭和20)年5月10日の空襲で徳山警備本部は機能喪失し、慶万町の
電話中継所内に指揮所を応急設置し、新設の防空指揮所をこの東山に設置することになり、
隧道作業が行われたが運用されたかどうかは不明とのこと。
塀に沿う。
防空砲台跡入口。
1944年(昭和19)年に設置された砲台で、東山には12.7センチ連装高射砲2基が設
置されていたという。士官1人、準士官2人、下士官・兵71人の陣容で何度か射撃した
が、戦果はなかったとされる。(標高85m)
発電機の冷却用に使用するコンクリート製水槽が設置されていた。囲ってある場所に水
槽があったと思われる。
引き返して舗装路を進むと次の案内がある。待機所跡に行けるかどうかわからないが上
がることにする。
登って行くとコンクリート敷の平地に出る。「旅する蝶 アサギマダラを呼ぼう」の看
板方向へ進むと三角点分岐に出る。
標高62.3mを示す三等三角点。(地形図山名なし)
探照灯を制御する「管制器」の台座が残されている。仕組みはよくわからないが、管制
器というので探照灯を遠隔操作する装置と思われる。音を察知する設備がないようなので
聴音機の役目も担っていたのだろうか。
探照灯と管制器との間に待機所が置かれていた。
徳山桜は毎年4月初旬に13枚の花びらが品よく重なり、山桜には珍しい八重咲きの桜
花が整うという。
ここに110mmの探照灯が設置されていた。戦争末期の1944(昭和19)年に連装高
角砲の探照灯として敵機を照射していた。(有効照射5,000m)
地元の方から下って行けば西出口に行けると教えていただく。
周囲は京都大学の演習林で、大学の柴田信男氏が観音堂を築造されたもので、徳山試験
地には最後まで責任者として在任され、観音信仰の厚い人だったという。現在は徳山西国
三十三観音霊場の札所とされている。
満開の桜が1本の木に描かれているマンホール蓋。
市内で見かけたサルビアの花のデザインが違うマンホール蓋。
万葉の森茶室前の池には、縄文時代に咲いていたという大賀ハス(7月中旬から8月上旬
頃開花)がある。
大賀一郎博士が開花に成功したもので、博士の郷里である岡山から万葉の森造園を機会
に譲り受け、1976(昭和51)年5月この池に移植されたという。
徳山毛利家墓所には、初代就隆から12代元靖までの歴代藩主と妻子の墓96基が祀ら
れている。
藩祖の就隆(№1)と公室の墓には、唐破風付き本瓦葺方形造りの覆屋が設置されている。
墓石の上に覆屋が設置される事例は少なく珍しいとのこと。藩祖の就隆(1602-1677)は、1
674(延宝2)年に大成寺を開いて菩提寺とした。
7代藩主の就馴(なりよし)は藩校鳴鳳館を創設するなど、文教興隆の基礎を築いた。
9代藩主の元蕃(もとみつ)は徳山藩最後の藩主で、幕末維新に際しては本藩に橋梁して活
躍する。元蕃は広鎮(ひろしげ)の七男で、禁門の変の責任者として自刃を命ぜられた本藩家
老福原越後の弟、藩主毛利敬親公の嗣子となった毛利元徳の兄である。
右隣には8代藩主であった広鎮の墓である。41年間の治績により幕府から城主格を与
えられて4万石が認められる。
手前から2基目の墓が3代藩主の元次で、明敏で好学の聞こえ高く、文化面で治績を上
げたが、本藩との争い(万役山事件)によって改易の憂き目に遭う。
大成寺(臨済宗)は、1670(寛文10)年富田村(現周南市富田)にあった観音寺を移転し、
1674(延宝2)年初代藩主が徳山毛利家の菩提寺とした。境内には「百万一心」の碑があ
る。
現周南市長公舎は、1826(大正15)年海軍燃料廠の廠長官舎として建てられ、終戦を
迎えるまで歴代の廠長が使用した。2度にわたる空襲を免れた木造公舎は、戦後、徳山市
に払い下げられて市長公舎として使われた。洋館と和舘の2棟があるようだが、公開日以
外は門扉前からの見学となる。(国登録有形文化財)
緑地公園まではポイントにトイレがあったが、その先はないので御弓町公園に立ち寄っ
て東川を下る。河岸は桜並木通りで花見時期は大勢の人が訪れる場所でもある。
下松の「お満佐(まさ)」と「お加屋(かや)」、徳山の「お米(よね)」が都濃の三孝女とされ
る。
お米は、1791(寛政3)年に徳山(現周南市)橋本町に生まれ、6歳の時に母を喪ったの
で父親の足手まといとなるため母方に引き取られる。1802(享和2)年お米が12歳の時、
父親が病にかかり、看護のため帰宅して父親の孝養にその一生を尽くす。
時の藩主より数回にわたって褒美をいただいたが、孝養を尽くすこと31年、お米42
歳のときに父親がこの世を去る。後年には病にかかり、父母の墓の傍らに埋めるように頼
んだという。(墓は徳応寺)
駅までは近いのだが、歩き疲れたので揚柳橋バス停よりJR徳山駅に戻る。