ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周南市の周南緑地西公園に戦争遺構 ②

2023年11月26日 | 山口県周南市

        
         和光幼稚園まで引き返し、国道2号線に通じる広い道を山手に向かう。

        
         周南緑地公園の西緑地は季節の花が楽しめる市民憩いの公園、中央緑地には陸上競技場
        やフレンドパーク、東緑地はスポーツセンターやサッカー場などの運動広場となっている。 

        
         季節の花が楽しめる公園とのことだが、この時期は花を見ることはできない。鮮やかな
        紅色の実をつけた常緑のトキワサンザシ(常盤山査子)が見られるが、西アジア原産の帰化
        植物だそうだ。

        
         正門(大内側入口)の案内板を見るとクモの巣状に散策路が設けてあるので、歩くポイン
        トを目に焼き付けて出発する。(目的は戦争遺跡)

        
         東山砲台の砲側弾薬庫へ弾薬搬入のために作られた道。看板右の道ではなく「←すぐそ
        こ」の道が運搬道のようだ。

        
         この道は案内板には記載されていないが、上がれそうなので進むことにする。

        
         防空指揮所前の道に合わす。(指揮所は15m下る)

        
         防空指揮所の説明によると、コンクリートのトンネル型で、縦横25m奥行18mの広
        さである。1945(昭和20)年5月10日の空襲で徳山警備本部は機能喪失し、慶万町の
        電話中継所内に指揮所を応急設置し、新設の防空指揮所をこの東山に設置することになり、
        隧道作業が行われたが運用されたかどうかは不明とのこと。

        
         塀に沿う。

        
         防空砲台跡入口。

        
                 1944年(昭和19)年に設置された砲台で、東山には12.7センチ連装高射砲2基が設
        置されていたという。士官1人、準士官2人、下士官・兵71人の陣容で何度か射撃した
        が、戦果はなかったとされる。(標高85m) 

        
        
         発電機の冷却用に使用するコンクリート製水槽が設置されていた。囲ってある場所に水
        槽があったと思われる。

        
         引き返して舗装路を進むと次の案内がある。待機所跡に行けるかどうかわからないが上
        がることにする。

        
         登って行くとコンクリート敷の平地に出る。「旅する蝶 アサギマダラを呼ぼう」の看
        板方向へ進むと三角点分岐に出る。 

        
         標高62.3mを示す三等三角点。(地形図山名なし) 

        
        
         探照灯を制御する「管制器」の台座が残されている。仕組みはよくわからないが、管制
        器というので探照灯を遠隔操作する装置と思われる。音を察知する設備がないようなので
        聴音機の役目も担っていたのだろうか。

        
        
         探照灯と管制器との間に待機所が置かれていた。 

        
         徳山桜は毎年4月初旬に13枚の花びらが品よく重なり、山桜には珍しい八重咲きの桜
        花が整うという。 

        
         ここに110mmの探照灯が設置されていた。戦争末期の1944(昭和19)年に連装高
        角砲の探照灯として敵機を照射していた。(有効照射5,000m)

        
         地元の方から下って行けば西出口に行けると教えていただく。

        
         周囲は京都大学の演習林で、大学の柴田信男氏が観音堂を築造されたもので、徳山試験
        地には最後まで責任者として在任され、観音信仰の厚い人だったという。現在は徳山西国
        三十三観音霊場の札所とされている。

        
         満開の桜が1本の木に描かれているマンホール蓋。

        
         市内で見かけたサルビアの花のデザインが違うマンホール蓋。

        
         万葉の森茶室前の池には、縄文時代に咲いていたという大賀ハス(7月中旬から8月上旬
        頃開花)がある。
         大賀一郎博士が開花に成功したもので、博士の郷里である岡山から万葉の森造園を機会
        に譲り受け、1976(昭和51)年5月この池に移植されたという。

        
        
         徳山毛利家墓所には、初代就隆から12代元靖までの歴代藩主と妻子の墓96基が祀ら
        れている。

        
        
         藩祖の就隆(№1)と公室の墓には、唐破風付き本瓦葺方形造りの覆屋が設置されている。
        墓石の上に覆屋が設置される事例は少なく珍しいとのこと。藩祖の就隆(1602-1677)は、1
        674(延宝2)年に大成寺を開いて菩提寺とした。

        
         7代藩主の就馴(なりよし)は藩校鳴鳳館を創設するなど、文教興隆の基礎を築いた。 

        
         9代藩主の元蕃(もとみつ)は徳山藩最後の藩主で、幕末維新に際しては本藩に橋梁して活
        躍する。元蕃は広鎮(ひろしげ)の七男で、禁門の変の責任者として自刃を命ぜられた本藩家
        老福原越後の弟、藩主毛利敬親公の嗣子となった毛利元徳の兄である。
         右隣には8代藩主であった広鎮の墓である。41年間の治績により幕府から城主格を与
        えられて4万石が認められる。

        
         手前から2基目の墓が3代藩主の元次で、明敏で好学の聞こえ高く、文化面で治績を上
        げたが、本藩との争い(万役山事件)によって改易の憂き目に遭う。

        
         大成寺(臨済宗)は、1670(寛文10)年富田村(現周南市富田)にあった観音寺を移転し、
        1674(延宝2)年初代藩主が徳山毛利家の菩提寺とした。境内には「百万一心」の碑があ
        る。

        
        
         現周南市長公舎は、1826(大正15)年海軍燃料廠の廠長官舎として建てられ、終戦を
        迎えるまで歴代の廠長が使用した。2度にわたる空襲を免れた木造公舎は、戦後、徳山市
        に払い下げられて市長公舎として使われた。洋館と和舘の2棟があるようだが、公開日以
        外は門扉前からの見学となる。(国登録有形文化財)

        
        
         緑地公園まではポイントにトイレがあったが、その先はないので御弓町公園に立ち寄っ
        て東川を下る。河岸は桜並木通りで花見時期は大勢の人が訪れる場所でもある。

        
        
         下松の「お満佐(まさ)」と「お加屋(かや)」、徳山の「お米(よね)」が都濃の三孝女とされ
        る。
         お米は、1791(寛政3)年に徳山(現周南市)橋本町に生まれ、6歳の時に母を喪ったの
        で父親の足手まといとなるため母方に引き取られる。1802(享和2)年お米が12歳の時、
        父親が病にかかり、看護のため帰宅して父親の孝養にその一生を尽くす。
         時の藩主より数回にわたって褒美をいただいたが、孝養を尽くすこと31年、お米42
        歳のときに父親がこの世を去る。後年には病にかかり、父母の墓の傍らに埋めるように頼
        んだという。(墓は徳応寺)
         駅までは近いのだが、歩き疲れたので揚柳橋バス停よりJR徳山駅に戻る。


周南市の周南緑地西公園に戦争遺構 ①

2023年11月26日 | 山口県周南市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千の1地形図を複製加工したものである。
         遠石(といし)および周南緑地周辺は東川下流の東、梅花川流域に位置する。
         遠石の地名由来について地下(じげ)上申は、往古、磯浜の影向石(ようごういし)という大
        岩があって、遠国から宇佐八幡宮神がこの石に飛んできたことで遠石となったと伝える。
        (歩行約9㎞)

        
         JR櫛ヶ浜駅で下車する。

        
         原江寺(曹洞宗)は、1871(明治4)年に原始院とその末寺であった吸江庵とが合併し、
        両寺名の1字を取って現寺号に改称する。
         原始院は室町期の1496(明応5)年に創建され、久米の他地にあった。この地にあった
        のが吸江庵で、開山当時は東西には松が茂って松声高く、南を望めば海波遠く望み沖を島
        に囲まれた徳山湾が、あたかも中国湖南省にある洞庭湖の風景に似ていることから寺名を
        吸江庵にしたという。(本堂は改修中)

        
         村井七之助は明治期に櫛ヶ浜防波堤を建設し、漁港を完成させるなど地元の功労者であ
        る。1853(嘉永6)年に櫛ヶ浜に生まれ、1884(明治17)年戸長になり、その後、太華
        村長を16年間務める。

        
         左手に櫛ヶ浜駅構内を見ながら横浜緑地公園へ向かう。

        
         横浜大師堂は周南八十八ヶ所36番札所で、弘法大師像ほか3体が祀られている。建立
        年月日などは不明とのことだが、大師堂のおかげで横浜町(旧舟方かこ町)は火災の発生が
        なかったという。
         ここにあった家々は、公害防止事業団により緩衝緑地として整備されたため、周南団地
        に集団移住して、その跡は横浜緑地公園となっている。

        
         この地は仲小路廉(なかしょうじれん)の屋敷跡で、1865(慶応元)年徳山藩士の子として
        生まれ、司法省法律学校に学ぶ。東京地方裁判所検事、後に逓信次官となり、桂内閣、寺
                内内閣では農商務大臣を歴任などする。

        
         公園内だが車の通行は可能である。

        
         「舊藩舟方跡」は遠石八幡宮の宮前にある。1683(天和3)年徳山藩は御船手(海軍)を
        創設し、下松にあった御船倉を遠石町東端(長浜)の地に移転した。ここが当時の海岸線で
        あった。

        
         宮前の県道347号線(下松新南陽線)。

        
         遠石八幡宮前が旧山陽道。

        
         八幡宮の参道に入ると、右手に「千日寺四国88ヶ所札所」「福寿庵西国33番札所」
        の石柱がある。
         説明板は薄れているが、この奥に千日寺(千日庵)が安土桃山期に建立されたといわれ、
        山口県風土誌に「阿弥陀堂(無量寺末庵)もと千日寺の古跡なり」とある。境内に早乙女之
        碑、不動明王石仏、四国八十八ヶ所石仏、徳山西国三十三観音石仏等があると微かに読め
        る。

        
         寺跡へ上がって行くと更地化されていた。ここにあった石仏はどこへ行ってしまったの
        だろうか。

        
         境内には、江戸時代に山陽道を通る若い飛脚が地元女性の評判となり、丁度田植え時期
        に通りかかった飛脚を五月女たちがとり囲んだところ、短刀で斬りつけたとされる。(他説
        もあり)
         この時に死亡した早乙女を供養するため、事件のあった久米ヶ瀬戸に塚(のちに石碑)が
        建てられたとのことだが、何らかの事情で移転させられたものと思われる。(2020年撮
        影)

        
         四国八十八ヶ所石仏など。(2020年撮影)

        
         この鐘は鎌倉時代の技法をよく表している銅造の洪鐘とのこと。1184(元暦元)年壇ノ
        浦合戦直前の戦いの際に流れ矢が当たり鐘声が悪くなった。新たに造り直したが思わしく
        なく2つの鐘を合わせて、1320(元応2)年に造り直したことが銘文に記されているとい
        う。

        
         洪鐘の裏丘に句碑が並ぶ。1859(安政6)年原田曲斎は「七草吟社」を創立し、曲斎以
        後徳山の俳壇は、七草吟社と鼓吟社(句碑は熊野神社)との対立が持続されたという。遠石
        八幡宮との関係やその後の経緯は知り得なかった。
                「澄む月や雲らぬ空のます鏡」 3代・翰斎張芝

        
               「真こころをうつすや月のかゝみ山」 2代・麦園瓢慮

        
                右の句「遠近の樹々に闇あり雪の山」
                左の句「鎮ます影やかつらの男山」 初代・原田曲斎

        
                「牛の啼く隣は遠し秋の暮」 7代・曲園我律  

        
               「花ちりてまとふ色なし峰の雲」 6代・六瓢園含翠

        
               「いつる日も入る日も遠き枯野かな」5代・穴倉瓢斎

        
               「人の世を忘れて雪のあしたかな」 4代・麦屋瓢仙 

        
         一対の献灯は櫛ケ浜の漁民・村井喜右衛門と弟の亀治郎が、1795(寛政7)年6月に奉
        納したものである。
         1798(寛政10)年10月オランダがチャーターした米国船籍が長崎港外で沈没した際、
        潮力と風力を利用して34日間を要して浮上させたとある。現在のサルベージの先がけ的
        な仕事をした人物である。

        
         「寄進 凱旋紀念」と刻字されているが、1906(明治39)年の日露戦争役の碑のよう
        だ。

        
         右から「見ざる・言わざる・聞かざる」が並ぶが、「自分に都合の悪いことや人の欠点
        や過ちなどは、見ない・聞かない・言わないのが良い」という。
         この言葉は、中国の思想家・孔子(紀元前552-479)の「論語」に由来するという説がある。   
        4つの戒めを人々にわかりやすく伝えるために、猿を使って3つを表現したと考えられる。

        
        
         遠石八幡宮の社伝によると、飛鳥期の622(推古天皇30)年頃宇佐八幡宮の分霊を祀り、
        708(和銅元)年に社殿を造営した。平安期には石清水八幡宮別宮で本朝四所八幡(豊前の
        宇佐、山城の男山、相模の鶴岡、周防の遠石)の1つと称された。
         神門の軒は一間で、門扉は桟唐戸両開きである。左右袖塀は各三間で中央を脇門とし、
        脇間に連子窓をたてている。

        
         拝殿は左右に翼部をのばし、正背面に構える向拝屋根の拝み部分を両翼の棟に重ねてい
        る。

        
         神門を潜ると右手に大きな「シャコ貝」が置かれている。石には「奉寄進 武運長久 
        南洋西カロリン群島パラオ島産」とあるが、寄進年などは読み取れなかった。
         1914(大正3)年日本はパラオを含むミクロネシアの島々を占領し、1945(昭和20)
         
年まで統治を続けた。

        
         拝殿の右奥に建つ祭器庫は平屋建て銅板葺きで、外側面は透塀に合わせた連子窓形の板
        壁である。両翼の位置にある神饌所と形式は同じである。 

        
         拝殿翼部両端から本殿背後を囲む透塀で、祭器庫と神饌所の妻に取り付いている。軒は
        一間で腰は竪板張で、連子窓には横長六角形断面の連子子(れんじこ)を並べる。

        
         遠石八幡宮裏手から下って行くと地蔵堂がある。昔、いつも詣でに来ていた大河内の人
        が、この地蔵様を大河内にお連れしようと、背中に背負って歩いていると遠石の人に出会
        った。そこに地蔵様を下ろして話をし、再び背負って歩こうとしたが動けなくなった。大
        河内の人は、この遠石の地は居心地が良いのだろうとお連れするのをあきらめたと‥。そ
        の場所が現在の地だそうだ。

        
         灯籠と違って火口のない六地蔵を彫った六角の石幢(せきどう)がある。

        
         遠石東町には吉田・福原といった醤油屋が並ぶ。(福原醤油) 

        
         梅花川の渡ると右手に鳥居と灯籠のある場所に影向石がある。遠石八幡宮縁起によると、
        宇佐八幡大神が神馬にまたがり、この磯浜に降臨し、この大石に降り立ったという伝説の
        岩である。

        
        
         居蔵造に連子格子造りの旧家がある。

        
         和光幼稚園と宝性寺(真宗)先の坂入口に、「出雲国いつばたやくしかんじょうの地」と
        刻まれた石柱が立っている。

        
         坂に一畑薬師堂があったことから、「なみあみだぶつ」と唱えながら通ったので念仏坂
        と呼ばれていたという。

        
         下り坂坂に入ると「明治42年」の道標がある。「古(こ)のうへ丹(に)いちば多(た)やく
        しあり」と刻まれている。

        
         旧山陽道は、この先徳山城下に入って行く。