ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

徳山毛利家時代の生誕地碑などを巡る ① (周南市) 

2023年11月24日 | 山口県周南市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         徳山は東川河口一帯の平地と金剛山南麓の丘陵山地に位置し、南は周防灘に面する。萩
        藩の支藩・徳山藩の城下町であり、城下の南側を旧山陽道が東西に走る。
         1945(昭和20)年5月と7月の徳山大空襲でほとんどが焼失して、城下町の面影を見
        ることはできない。
         徳山の地名について、近世に改名されたものは出目がはっきりしているが、この徳山に
        ついては諸説あって明らかでない。「増補周防記」のなかにある「得徳如山」の語からと
        いう説もある。(歩行約11㎞)

        
         JR徳山駅は、1897(明治30)年山陽鉄道㈱の駅として開業する。1969(昭和44)
        年9月に駅ビルが完成し、1975(昭和50)年に山陽新幹線の停車駅となる。老朽化と駅
        構造上から新たな駅舎(橋上駅)に建て替えられ、駅南北の自由通路と駅北口(みゆき口)の
        駅ビルには図書館など交流施設が併設されている。
         ホームに降り立つと、当地出身の童謡詩人・まどみちお(1909-2014)の代表作である「ぞ
        うさん」(1番ホーム)の到着メロディ―が流れる。ちなみに3・4番ホームは「一年生に
        なったら」の到着メロディ―である。

        
         御幸通りの両側は銀杏並木。この通りで年に1度の周南冬のツリーまつりが行われる。

        
        
         狛犬の台座には「徳山燃工会解消記念 昭和17年(1942)2月建立」と刻まれている。
        徳山燃工会とは、当時徳山の地にあった海軍燃料廠内の職工をもって組織された労働組合
        であった。1926(大正15)年10月に設立され、千名の従業員のうち約650名が加入
        したという。
         ところが、1931(昭和6)年の満州事変を契機に軍国主義が台頭、戦時体制が強化され
        て自主解散させられて戦時体制に統合される。会の解散時期ははっきりしないが、台座に
        は大東亜戦争開戦後の1942(昭和17)年2月建立とあるので、その前後に解散させられ
        たと思われる。

        
         桜馬場と御幸通りの銀杏。

        
         徳山藩家中の屋敷図。萩藩の支藩である徳山藩は、毛利輝元の次男である就隆が、16
        17(元和3)年に周防国都濃郡を中心に3万石を分地され立藩する。幕府より藩として正式
        に認められたのは、1634(寛永11)年のことである。
         当初は下松に館を構えたが、山陽道から隔たるなど不便なため野上村に居館を移し、1
        650(慶安3)年に地名を徳山と改め徳山藩とした。

        
         山口銀行徳山支店の地が奈古屋蔵人(くらんど・1758-1793)の屋敷跡とされる。徳山藩の
        家老として30余年にわたり、2人の藩主に仕えたが、学問を好み、特に藩校「鳴鳳館」
        の創設に尽力する。

        
         児玉家は源太郎が5歳の時に父・半九郎が死去したため、浅見栄三郎の次男である厳之
        丞(のち次郎彦)が源太郎の姉・久子と婚姻して児玉家の家督を相続した。
         次郎彦は藩の大目付などを務めたが、正義派の一人として活躍したため、1864(元治
          元)
年に旧屋敷地の玄関で非業の最期を遂げた。これにより児玉家は藩の命令で家名断絶と
        なり屋敷は没収されたが、「正義派」が政権を取ると、1865(慶応元)年源太郎が家名を
        相続し、この神社地に新しい屋敷が与えられた。

        
         児玉源太郎の功績を称える記念樹として、1925(大正14)年にタイワンゴヨウ(マツ
        科)の苗木数本が台湾から取り寄せられて児玉神社に植えられる。
         1962(昭和37)年都市計画による道路改修が行われる際に、伐採話もあったがそのま
        ま残されたという。

        
         鳥居の右手前方には、1918(大正7)年の13回忌に後藤新平が揮ごうした「徳足以懐
        遠(徳足りるを以って遠くを懐かしむ)」の碑が建立される。児玉源太郎は台湾総督時代(18
        98-1906)に後藤新平を民政長官に抜擢し、ともに民政に力を注いだ。
         後藤新平(1857-1929)は現奥州市水沢で生まれ、医師であったが内務省に入り、台湾民政
        長官、南満州鉄道初代総裁などを務め、以後、逓相、内相、外相などを歴任する。

        
         児玉神社は、1922(大正11)年11月前田蕃穂外52名の有志が、神社設立の許可願
        いを内務大臣に提出する。翌年に許可されて屋敷跡に流造(ながれづくり)の社殿が建立さ
れる。
         社殿傍には元台湾総統の李登輝氏が揮ごうした「浩気長存(浩然の気は永遠不滅である)」
        の石碑がある。(浩気とは生気)

        
         1864(元治元)年禁門の変後に、徳山藩でも恭順派と正義派が激しく対立する。この年
        の8月9日夜、正義派の10数人は恭順派の藩士宅を襲い、これをきっかけとして恭順派
        は正義派を捕え処刑する。これを徳山藩の殉難七士という。
         七士とは河田佳蔵、児玉次郎彦、本城清、江村彦之進、浅見安之丞、信田作太夫、井上
        唯一で、七士殉難の後、徳山藩では恭順派の勢力が衰えると正義派の時代になり、やがて
        殉難七士の家は復興される。(もとは遠石にあったものが現在地に移される)

        
         桜馬場は藩士の調馬場として、旧三番丁の南端から西本町にかけて馬場をつくり、数百
        本の桜が植えられた。これ以来、桜馬場と呼ばれるようになる。(徳山小学校界隈)

        
         徳山藩の藩校は、1785(天明5)年に藩主の館邸近くに鳴鳳館(めいほうかん)として創立
        された。
         しかし、敷地が狭かったため、1831(天保2)年徳山城下の中央部(現在の徳山小学校)
        に新築移転する。1852(嘉永5)年に鳴鳳館名を廃して興譲館に改める。「鳴鳳館」名は、
        奈古屋蔵人と親交のあった儒学者・亀井南冥に依頼し、「詩経」の大雅の巻・阿の章から
        「鳳凰は鳴く」の2字を取って命名された。

        
         毛利町1丁目にある徳山カトリック教会。

        
         毛利町2丁目の桜並木通り。県総合庁舎がある地に徳山高等学校の前身である徳山高等
        女学校があったとされる。1911(明治45)年都濃郡立都濃高等女学校が開校し、県立化
        されると徳山高等女学校に名称変更する。
         1945(昭和20)年7月の徳山大空襲で校舎が全焼し、戦後の学制改革で徳山女子高等
        学校となり、のちに徳山東高等学校(女子高)と校名変更する。1950年(昭和25)年徳山
        西高等学校(男子校)と合併して、現在の徳山高等学校へ引き継がれる。

        
         岐山(きさん)通り2丁目付近の銀杏並木。

        
         井上唯一は奇兵隊の一員として活躍し、七卿都落ちの時にはその護衛の役を務める。幕
        末における徳山藩の内訌(うちわもめ)の際には、正義派の一員として活躍したため恭順派に
        捕えられて浜崎の獄舎入れられ、1864(元治元)年に処刑される。(享年23歳)
         処刑後に家名断絶とこの地にあった屋敷が没収されたが、藩論回復後に復興する。(弥生
        町2丁目のアプロース弥生傍)

        
         福原越後元僴(もとたけ)は徳山藩8代藩主・広鎮の子で、萩藩の家老であった福原家を継
        ぐ。1863(文久3)年の政変で京都を追われた長州藩は、翌年に京都へ攻めのぼるが、そ
        の際の長州藩の総大将を務める。
         しかし、禁門の変で敗退すると責任を負わされ、1864(元治元)年8月7日この付近に
        あった衣笠伊織宅に幽閉される。同年11月11日に岩国へ護送されて清泰院で自刃させ
        られる。(享年50歳)

        
        
         児玉源太郎は、1852(嘉永5)年2月25日この地にあった児玉家の屋敷で生まれる。
        屋敷は家名断絶の際に没収されたままとなっていた。
         明治になって源太郎が買い戻し、当時の屋敷地の一部を残して近代的な児玉文庫を創設
        するが、1945(昭和20)年7月の大空襲で焼失する。 

        
         「産湯の井戸」とされる井戸が現存する。

        
         井戸の傍に「贈 従四位児玉次郎彦君遭難之跡」がある。

        
         旧徳山市時代の市花であるサルビアがデザインされたマンホール蓋。(現在もサルビアが
        市花) 

        
         本城三儒とは、紫巌・太華・素堂である。その本城家の屋敷跡がこの辺りあったとされ
        る。
         紫厳(1737-1803)は鳴鳳館が創立されると、初代学頭として発展に尽力する。
         太華(1775-1844)は紫厳の子で、九州の亀井南冥に学び、帰藩して鳴鳳館の助教となり、
        世子広篤(後の藩主・元蕃(もとみつ))の字読となる
         素堂(1825-1865)は、通称・清と呼ばれ、江村氏の出で本城家を継ぐ。藩主の元蕃の近侍
        になったほか、興譲館の教授となる。(碑は岐山通り中央の緑地帯) 

        
         岐山通りを見返り花畠町に入る。(進行方向の左手に徳山高校)

        
        
         初代藩主就隆は、1650(慶安3)年に地名を徳山と定め、城下町を整備する。1658
        (万治元)年には鐘撞堂をつくり、以来廃藩まで220余年にわたって城下に時を告げるとと
        もに、有事の際に利用されてきた。
         廃藩後、徳応寺の所有となった時鐘は、先の大戦で銘文のみを残して供出される。(碑は
        新堀自治会館前) 

        
         桜並木通りに出ると市美術博物館前に、藩の居館やその外諸臣の邸宅などを管理する作
        事方があったとされる。

        
         毛利町3丁目付近の桜並木。

        
         作事方の向い側に祐綏(ゆうすい)神社への道しるべがある。昔はここから北に桜、南に松
        並木があったとされ、指の指す方向が東を指し、50mばかり行って左折すると、公園に
        至る道が参道であった。現在は国道を渡る道がないので、北の文化会館方向を指している。

        
         道しるべから北へ向かうと旧藩武方跡碑がある。藩の武具一切を管理していたのが武方
        であった。(現在の美術博物館付近)

        
                 徳山藩は一国一城制度のもとで、堀というものもない「御館」で政務を行なった。藩の
        改易、再興を経て、1871(明治4)年まで9代・約220年間にわたり城下町として栄え
        る。現在は跡地に文化会館が建設されている。

        
         藩邸跡には遺構らしきものは残されていないが、片隅に庭園の一部と思われるようなも
        のがある。
         娘の麗子をモデルにした作品などで知られる洋画家・岸田劉生(1891-1929)は、1929
        (昭和4)年11月満州旅行の帰途に同伴の画商・田島一郎に伴われ、田島の郷里である徳山
        に立ち寄る。3週間滞在するが12月20日病のため、当地で38年の生涯を閉じる。

        
         徳川幕府は、1620(元和6)年から10年間にわたり外様大名に大坂城の石垣を修築さ
        せる。1624(寛永元)年毛利家は大津島の石98個を切り出し、その際に毛利氏の家紋を          
        略したものを刻んで船で大坂に運ぶ。これはその時の残石とされる。

        
         祐綏神社は、1811(文化8)年に徳山藩初代藩主・毛利就隆を祭神として建てられた。
        現在の徳山動物園の中にあったが徳山空襲で焼失し、1960(昭和35)年に現在の場所に
        再建される。名の由来ついては、「神道辨」の中にある「護神祐以綏萬民」という文から
        引用された。

        
         徳山藩初代藩主・毛利就隆が下松より野上に居館を移し、改称から250年を記念して、
        1901(明治34)年に東舩町中と東浜崎町中の有志が建立する。 
 
        
        
         徳山動物園の入口にはD51式蒸気機関車が展示されているが、1936(昭和11)年か
        ら1945(昭和20)年までに1,115両製造された。この機関車は標準形といわれるもの
        で、1940(昭和15)年に製造され、仙台、厚狭や広島などの機関区で約118万㎞を走
        る。 

        
         徳山動物園前庭にある種田山頭火句碑
                  「新しい 法衣いっぱいの陽か あたゝかい」
         久保白船の夫人・清子さんに法衣を仕立ててもらった時の句とされる。

        
                   「踞(うづくま)ればふきのたう 白船」
         久保白船(本名、周一)は、1884(明治17)年に熊毛郡平生町佐合島に生まれる。萩原
        井泉水の自由律俳句誌「層雲」の同人となり、選者として活躍する。1916(大正5)年に
        子女の教育のため徳山の佐渡町(現本町)に移住し、文房具と書籍の店を開業するかたわら、
        「雑草の会」を主宰する。1940(昭和15)年親友の種田山頭火が急死すると松山に渡り、
        遺体を荼毘に付すが翌年には白船も急逝する。(享年58歳) 

        
         岩井勝次郎(1863-1935)は京都に生まれ、大阪で創業した岩井商店㈱(日商岩井)の経営者
        で、1916(大正5)年に徳山に進出して日本曹達工業株式会社(現在のトクヤマ)、現在の
        日新製鋼㈱を創業する。工業都市周南の発展に寄与した氏の功績を称え、1937(昭和12)
        年遠石三丁目の薬師堂上に碑が建てられたが、1942(昭和17)年徳山公園(動物園前)に
        移設された。

        
         室町期の1555(弘治元)年陶晴賢が厳島での戦いに敗れ、この地を治めていた野上氏も
        運命をともにする。
         野上氏に代わって杉元相が野上を支配すると、元相は見晴らしのよいこの地に居館を構
        え毛利氏に仕える。その子元宣は、1589(天正17)年野上庄沖ある大島で不慮の死を遂
        げる。杉氏はわずか20数年で断絶してしまう。


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