この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
呼坂(よびさか)は島田川の支流である中村川の上流域に位置する。地名の由来は、町が東
西にV字形の坂上にあって、坂下へは呼び声が手近く、よく聞こえることによるという。
また、坂が海老のように曲がっていることから海老坂と呼び、これが転訛して呼坂となっ
たという説もある。
勝間は笠野川の支流である中村川流域の盆地に位置する。地名の由来を地下(じげ)上申は、
天竺の昆首羯摩という人が作った仏像があることから、羯摩(かつま)村と呼び、豊臣秀吉が
寄宿したことにより勝間に改めたという。(歩行約3.6㎞・🚻は高水駅、勝間駅のみ)
JR徳山駅から防長バスゆめプラザ熊毛行き約55分、原バス停で下車する。今回は3
6停留所を経由するが、車では凡そ通ることのない場所を巡るバス旅は楽しい。
バス停から引き返し交差点を右折すると、左手に寺嶋忠三郎誕生の地を示す案内板があ
る。
西原集会所には寺嶋忠三郎生誕地碑と辞世の句碑、76番札所および刀山寺嶋先生碑(裏
側に靖国神社に合祀、正四位を贈らる)と刻まれた石碑がある。
1843(天保14)年寺嶋忠三郎は呼坂で生まれ、16歳で吉田松陰の門下生となり尊攘
運動に身を投じる。1864(元治元)年7月の蛤御門の変で敗れ、鷹司邸で久坂玄瑞と刺し
違えて自害する。享年21歳。
辞世の句
賊勢 潮の如く砲雨飛ぶ
快なるかな我が死心と達す
日向草木秋まさに残(そこなわ)れ
首養なお期す晩暉(ばんき)を留めんことを
狭い里道を抜けると旧山陽道の緩やかな下り坂に合わす。ここに街道らしい町並みがあ
り、右手の屋敷はかって西原庄屋であったK宅とされる。
左手に兜造りの大きな民家。
旧熊毛町章の周りにナベヅルが描かれたマンホール蓋。
過去に路地を入って行くとT家の方がおられて快く家前を通していただいたことがある。
生誕地の経緯についてお聞きすると、この地が寺島忠三郎の生誕の地であって、集会所は
碑が設けられただけとお聞きしたことがある。
今回は声掛けしたが不在のようで、畦道を利用して墓地のある場所へ上がる。
崩れかけた石段を上がると、この付近に寺があったようで坊主墓と寺嶋家と刻まれた墓
がある。
墓は閉眼供養を終えているとのこと。左が忠三郎の髪の毛が納められていた墓で、右手
が弟の直道の墓。忠三郎の墓は京都にあるという。
街道はV字型になっている。
時に古民家が見られる。
交差点から中村川までは下り坂。
右手にある橿原(かしはら)神社は、平安期の811(弘仁2)年9月に紀伊国熊野神社より勧
請し、初め関屋の森重山に鎮座する。その後に呼坂市の西端に移動し、年代は不詳だが当
地に遷座したという。
鳥居の周辺には金毘羅権現の他、八十八ヶ所札所などが祀られ、向い側には日清凱旋記
念碑がある。
社伝によると王子権現と称していたが、明治になると大権現は仏道であるので解消すべ
しとされる。神武天皇が呼坂に一泊した故事にちなんで、1873(明治6)年に橿原神社と
改める。
参道入口にある古民家。
中村川に架かる橋が見えてくる。
河内家は代々庄屋・大庄屋であり、家業として酒造業を営む。天明年間(1781-1789)
頃に本陣を引き受け、江戸末期まで続いたという。
呼坂宿は人足49人、馬15疋が置かれ、不足の時は原集落などより調達されていた。
大名・公家などが宿泊する本陣であったが、宿泊は少なく休憩所にあてられた。
中村川の先からは上りとなっている。川を挟んで西側が西町、東側が本町である。
正式な宿場町として発展したのは近世に入ってからで、初めは西側丘陵の場所(古市)に
あり、やがて現在の場所に移転してきたそうで、大きな町家も現存する。(かって漢方薬店
を営んでいK家)
藩政時代には呼坂御米蔵の余剰米が大坂市場で売却されていた。運搬経路は呼坂橋の袂
から川に沿って枝往還が南の安田に通じ、ここから島田川の川舟で光市浅江の河口に送り、
本船に積み替えて室積の米倉庫へ運ばれていた。
橋左手の二軒目に、木戸孝允の祖父で町医者の藤本玄盛(げんしょう)の旧宅があったよう
だが解体されていた。
右手には吉田松陰・寺嶋忠三郎訣別の碑がある。1859(安政6)年に江戸送りとなった
吉田松陰が、6月3日に呼坂宿へ到着する。見送るため橋の袂まで出向いたが、人垣の中
から師を見送るだけであったとされる。
手前の石碑には
かりそめの 今日の別れは幸なりき
ものをも言はば 思いましなん 松陰
よそに見て 別れゆくだに 悲しさを
言にも出でば 思いみだれん 忠三郎 とある。
呼坂宿西市の松屋小路入口に市戎があったが、往還改修の際に山田屋の裏庭に遷した。
小路に入ると塀越しに銅板葺きの屋根が見えるが、これが市戎のようだ。
山田屋さん隣の立派な門構えは、地主だった石光家だが現在は無住とのこと。
右手の門構えは旧庄屋宅で屋号を松屋という。(木村家)
手前から門構えのH家、元ミシン商会、玩具店と続く。
旧山陽道は直進して古市へ向かう。
西善寺(真宗)は本陣が宿泊にあてられた際、脇本陣として宿泊の用を承る。
1831(天保2)年防長全域にわたる大一揆では、9月21日から24日にかけて呼坂村
ほか7ヶ村の農民300余名が同寺に集まり、呼坂村と大河内村の庄屋・富農宅を打ち壊
した。
要因は、藩が財政難打開のため安い値段で特産物を買い上げる「御内用産物方」を設置
した。この制度は専売制の強化策であったことや、吉敷郡小鯖村の皮番所で、産物方用達
が禁忌を犯して動物の皮を持ち歩いたことも契機となった。
交通の難所の1つとされた坂道は、距離は短いが大変な急カーブ(通称コックリ曲り)が
ある。上がれば呼坂が一望できる。
古くは古市に宿駅があったが坂の下に町屋が移り、江戸中期頃に坂の下が宿駅と定まっ
た。(右手に一等水準点・標高71.1m)
古市の西端に火伏地蔵。
国道2号線を横断する用水路。
下って行くと国道2号線に合わすが、岩徳線は古市トンネルで古市の下を通り抜けてい
る。街道は線路の左側を通っている。
岩徳線のトンネル上を越えると「トンネルの強度不足につき車両通り抜け禁止」とあり。
街道は鉄道敷設により寸断されて遠回りしなくてならない。
岩徳線大江踏切を過ごすと呼坂大江地区に入る。
少し国道歩きとなる。
歩道橋がある所で街道筋の勝間集落に入る。
勝間は亀甲模様に旧熊毛町の町章が入ったマンホール蓋である。
国道2号線の裏道になったためか寂しい通りとなっている。
四差路から右手を見ると、こんもりとした森に熊毛神社が鎮座する。
国道2号線から灯籠の並ぶ参道を進む。
熊毛神社の創建年代は不詳であるが、奈良期の738(天平10)年の周防国正税帳に「熊
毛神社に稲四十束の臨時祭祀料奉献」とある。延喜式神名帳には熊毛郡では石城神社とと
もに式内社として記載されているが、その後の変遷はつまびやかでない。
鎌倉期の1245(寛元3)年の大内弘貞社領安堵状には勝間八幡社とみえ、これ以前に勝
間八幡社とよばれていたと思われる。
内藤氏や毛利氏などの厚い崇敬を受け、1870(明治3)年熊毛神社と社号を改める。現
在の社殿は明治期に再建されたものである。
JR勝間駅は盛土上にあって、勝間の町並みを眺めることができる。
1934(昭和9)年に周防花岡駅と高水駅の開通と同時に開業する。ホームは徳山に向か
って右側に単式1面1線であるが、左側にもホームのようなものが残されている。