国道2号線の地下道は、入口に大きな「にじいろカバさん」が出迎え、地下道に入ると
ZOO内にいる動物たちが描かれ、「ぞうさん」のメロディが流れる。
弁財天はこの地より東方100mの所にあったが、1974(昭和49)年の都市整備に伴
って移転する。
毛利就隆が武家屋敷に設けた4ヶ所の関門のうち、この石は一番丁北上に設けられた北
の関門の片方の石で、戦災で焼けた跡にあったものを地元の人が発見し、弁財天の所に運
んで保管する。
1869(明治2)年の箱館の戦いを最後として、戊辰戦争に参加した徳山藩の山崎隊や献
功隊は徳山に凱旋する。そこで徳山藩政府は、翌年の11月この花畠に兵塾を建設して練
兵場を創設する。
しかし、1871(明治4)年徳山藩は山口藩と合併することとなったため、諸隊は解散さ
せられて一部は山口藩へ移管された。(長州藩に脱退騒動が起こる)
長州藩三家老の一人である益田親施(ちかのぶ)も禁門の変の責任者として、ここより東寄
りの位置にあった惣持院(1871年に廃寺)に幽閉されて、1864(元治元)年11月12
日に切腹させられる。(享年32歳)
徳山藩の庶務や会計などの行政を担った「御蔵本(おくらもと)」があった地。徳山大空襲
で90%が焼け野原となったが、敷地をめぐる土塀は難を免れて残されていたが取り壊さ
れた。
毛利町2丁目(県総合庁舎前)の銀杏並木。足元にはたくさんの銀杏の実が落下している。
三番町2丁目(県総合庁舎東側筋)に浅見安之丞と児玉次郎彦の生誕地碑。
安之丞は興譲館の句読師となり、槍術の指南役を務め、1861(文久元)年藩主に従って
江戸に赴き、翌年京都に入り尊皇攘夷のために活動する。1864(元治元)年8月に恭順派
に捕らえられ、本城清、信田作太夫らと共に浜崎の獄につながれ、翌年の1月に新宮の海
辺で縊殺される。
歩道橋で県道徳山港線を横断する。
「大日本野(や)史」291巻の著者・飯田忠彦の生家跡。野史とは民間で編纂した歴史で、
1392年以降の420年間を30年余りをかけて刊行する。
忠彦は尊王の大義を唱えたため、安政の大獄のとき留置の身となり、1860(万延元)年
5月に自殺する。(享年63歳)
県道下松新南陽線に合わして大成寺への道に入る。茶系のビル下に本城清生誕地・江村
彦之進屋敷跡の碑がある。
本城清は江村忠韶の第2子で、本城家を継ぎ興譲館教授を務める。1864(元治元)年の
恭順派との争いの際、浅見安之丞と信田作太夫とともに浜崎の牢獄に入獄され、1865
(慶応元)年正月14日に新宮の海辺で縊殺される。
江村彦之進は本城清の弟で、興譲館訓導役を務めていたが、1864(慶応元)年に暗殺さ
れる。
御弓町公園には元海軍集会所があった所とされ、門扉にヒンジ(ちょうつがい)が見られ
る。
国司親相(くにし ちかすけ)は幽閉されていた澄泉寺で、1864(元治元)年11月12日切
腹する。(享年23歳)
寺は公園より西方100mほどの場所にあったが、1871(明治4)年に廃寺となり、碑
は開発のために公園内に移設された。
東川左岸を上流に向かう。
角場というのは射撃の練習場(試し撃ちをする所)のことで、徳山藩では、元禄から享保
にかけて銃器は軍制上、足軽の所用とされ、武士はその技を修めなかった。
1810(文化7)年に稽古料として、毎年銀200匁を修業者に支給したことで、武士の
砲術が始まったとされる。
「毬つくや 岐陽山河の 数へ唄」
「今日の日を 包みて了(お)へぬ 花芙容」
兼崎地橙孫(本名は理蔵)は徳山藩士・昌司(号・橙堂)を祖父に持ち、父は茂樹(号・地外)
で、地橙孫という俳号は、父と祖父の号から一字をとり、それに孫をつけた。
1910(明治43)年に河東碧梧桐と出会い、弁護士活動の傍ら県俳句会の指導者として
後進の指導にあたる。
東川筋を下る。
川端町1丁目に藩校「興譲館」の教授を務めた島田蕃根屋敷跡。
徳応寺(浄土真宗)は、もと播磨国の武士であった宗覚法師によって遠石の地に開基され
る。1617(元和3)年に現寺号とし、1685(貞亨2)年2代藩主・元賢より寺領を拝して
現在地に移転する。(現川端町2丁目)
都濃三孝女の一人、阿米(およね)の墓がある。阿米の孝養は徳山藩主の耳にも届き、たび
たび表彰されたという。
赤松安子(1865-1913)は与謝野照幢(しょうどう・1862-1921)と結婚し、1886(明治
19)年徳応寺本堂で「徳山婦人講習会」を開設する。この会は翌年に「私立白蓮女学校」
に発展し、1890(明治23)年同寺の門前に校舎を新築して「私立徳山女学校」と改称す
る。
しかし、1913(大正2)年安子の死没ともに募集を止め、1916(大正5)年に閉校する。
照幢の弟である京都出身の歌人・詩人である与謝野鉄幹(1873-1935)は、兄の照幢に招か
れて徳山女学校の教師を務めるが、後に上京して雑誌「明星」を創刊する。
「貧山の釜霜に鳴聲寒し」(霜釜塚)
1681(延宝9/天和元)年松尾芭蕉38歳の句。貧山は貧しい寺のことで貧乏寺を訪れた
とき、そこの茶釜が音をたてて湯が沸いていた。霜の降りる寒い日の句のようだ。
「登る程遠のく雲や山さくら」(二世可律坊)
昭和町2丁目から糀町界隈を歩いてフェリー乗り場へ向かう。
晴海埠頭への跨線橋からJR徳山駅。
この石灯台は、1893(明治26)年に当時の蒸気船問屋の「共栄社」によって建立され
た。当初は東浜崎に建てられてランプによって点滅していたが、その役目を終えて戦後の
都市計画でフェリーボート乗り場に移設されたが、2002(平成14)年3月に徳山湾頭の
晴海親水公園に移設される。
この公園の対岸には、工場群やクレーンなどが立ち並ぶ周南コンビナートが広がってお
り、工場夜景の鑑賞スポットにもなっている。(日本夜景遺産に認定)
1863(文久3)年8月18日の政変後、勤王派の7公卿は京都を追われ、3隻の船に分
乗して兵庫を船出して長州へ向かう。1番船には三条実美、2番船には三条西季知・壬生
基修・四条隆謌・錦小路頼徳、3番船には東久世通禧・沢宣嘉が乗り込む。
3隻とも三田尻まで直行する予定であったが、嵐のため1番船と2番船は笠戸に1泊し、
翌日に徳山の東浜崎に上陸して三田尻へ向かった。
五卿が東浜崎に上陸したことを記念し、1913(大正2)年上陸地点(旧東浜崎)に「五卿
登陸處」の石碑が建立されたが、徳山港の整備により晴海親水公園の一画に移転する。
1904(明治37)年海軍煉炭製造所(後の海軍燃料廠)が設けられたことをきっかけに、
日本曹達工業(現トクヤマ)など様々な企業が進出する。これを受けて、1922(大正11)
年に徳山港が開港し、特別輸出入港に指定される。(昨年が開港百周年)
第一次世界大戦(1914-1918)後の軍艦は、燃料を煉炭から重油への転化が進み、これを
受けて煉炭製造所は、1921(大正10)年海軍燃料廠に改組する。
みなと会館の敷地内に「開港記念碑」が設置されているが、特別輸出入港の指定を受け
たが、当時の港湾施設は海軍や各工場の専用で、公共用の船溜まりや防波堤がある程度で
あった。そこで民間資本による開港会社を設立し、公有水面の埋立て、灯台の設置、税関
支署や水上警察派出署の敷地造成が行われた。
1927(昭和2)年この地に門司税関徳山支署が置かれ、開港記念碑が建立される。
幕末にアメリカの黒船が浦賀に来航し、開国か攘夷かの論議が高まり、1863(文久3)
年4月に幕府が奏上した5月10日を期限として外国船を打ち払うこととなる。そこで徳
山藩は海岸防衛のため、熊野権現社付近に砲台場を築造する。(攘夷論を主唱したのは長州
藩)
熊野神社の創建などは知り得なかったが、1945(昭和20)年の徳山大空襲で社殿は全
焼したが、その後現地に復興されたという。
大野直輔(1842-1922)の報徳之碑で、徳山藩士の三男として生まれ、藩校の興譲館や萩
の明倫館で学び、徳山藩のひとつであった山崎隊の初代総督を務める。
1868(明治元)年に毛利元功(もといさ)のイギリス留学に随行し、帰国してからは造幣局
長や銀行局長を歴任する。(右手の碑は不詳)
熊野神社から江田ヶ薮(えだがや)第一踏切で、みゆき口側に移動して駅に戻る。