ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

防府市向島の小田港から運動公園と旧道歩き

2023年06月20日 | 山口県防府市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         向島(むこうしま)は防府平野の南に位置する瀬戸内海の島。江戸期までは三田尻湾頭の島
        であったが、元禄年間(1688-1704)の大開作により、わずかな水道を挟んで新田村と向か
        い合う形になった。
         地名の由来について風土注進案は、国府の向こうにある島であることによると記す。島
        内には小田、本村、中村、郷ヶ崎の集落があるが、郷ヶ崎を除いた集落を散歩する。(歩行
        約6.2㎞、🚻運動公園)

        
         JR防府駅から防長バス小田(こだ)港行き20分、終点の小田港バス停で下車する。

        
         海岸道路ができるまでは主要な生活道だった。

        
                 漁港近くなると路地っぽくなる。

        
         通りには空家も目立つが、49世帯97人が暮らす。

        
         参道案内の先が石段だったので近距離と思ったが、旧観音堂時代の参道のようで遠回り
        をする羽目になる。

        
         擁壁と板壁の間を上がって行くと民家があり、その先で車道に合わす。

        
         海岸線に沿う小田集落。

        
         車道を上がって行くと櫛ヶ峯観音堂入口。

        
         由来によると、1783(天明3)年当地の仁左衛門という人が沖合の海で漁をしていた時、
        観世音尊像が網にかかり、像を安養寺において供養した。1ヶ月におよぶ供養の夜、夢の
        中で小田浦に安置して供養すればみんなの者に家業安泰、福徳長寿をもたらすであろうと
        のお告げがあった。有志の方から寄付をいただき、観音堂を小田浦櫛ヶ峰に建立したと伝
        える。
         1979(昭和54)年の大雨で境内の一部が崩壊したため、100m東方に再建されたと
        ある。

        
         対岸の中関港では商船三井の自動車運搬船が繋留中。

        
         豊漁を願う恵比寿さん。

        
         小田集落内を巡ってバス路線(県道)を引き返す。1915(大正4)年に県道が開通したが、
        小田集落へ行くには船が利用されたが、徒歩の場合は洗川から高山の中腹を横に造られた
        巾半間(約91㎝)足らずの狭い人道、または峯を歩くか、干潮時に波打ち際を通る以外に
        方法がなかったという。今でも県道脇の斜面が崩落すると、陸の孤島になりかねない集落
        である。

        
         向島は古くから漁業・農業を中心とした第一次産業が主体であった。(小田港)

        
         向島運動公園となっている地は、第一次世界大戦後に化学工業の急速な発展とともに、
        工業用塩の需要が増し、供給不足が生じるようになり、1918(大正7)年「製塩再生工場」
        が建設された。島の経済に大きく貢献したが、安い外国塩の輸入などもあって、1960
        (昭和35)年廃止された。
         テニスコートなどを取り巻くように桜並木があって、桜の咲く春は運動以外に楽しむこ
        とができる。

        
         運動公園北口の旧道沿いに並ぶ石仏。

        
         厳島神社の御旅所のようだ。 

        
         本村集落に入ると猫が出迎えてくれる。

        
         ミニ霊場でもあったのか石仏が3ヶ所に集約されている。

        
         島の中央にそびえる標高345mの錦山。

        
         路傍でなく人麿神社入口の民地に立っている幸神塚。

        
         右手の山裾に鳥居が見え、うっそうとした中に人麿神社参道がある。倒竹が参道を塞い
        で社殿まで行くことができない。

        
         昔から人々は「人麿」に神の力があると信じて、疫病や災難、海上風波の難などが起こ
        らないよう神にお願いしてきた。こうした願いを込めて人麿神社が建立されたと思われる。
         万葉歌人の柿本人麻呂は、「人麿」とも表記されたが、平安期からは「人丸」と表記さ
        れることが多く、柿本神社、人麿神社、人丸神社など名称に違いがあるが、歌の神として
        崇められ、学問はもちろん夫婦和合、多くの災難が起きないように祀ってきた。
         「人丸さん」の愛称があり、「火、止まる」に通じることに起因して防火の神も併せ持
        つようになった。(2020年撮影)

        

        
         本村自治会館隅にタヌキの碑。

        
         江戸期は島中央部の本村に御米蔵があったようだが、痕跡もなく場所を特定することは
        できないという。(西福寺入口)

        
        
         西福寺(さいふくじ・真宗)は、1682(天和2)年明覚寺の僧の隠居寺とされたが、詳細な
        寺歴は知り得ず。

        
         児童数25名の向島小学校は、1875(明治8)年佐波郡第九小学区風間小学として西福
        寺に創立される。1883(明治16)年に現在地に移転し、風間小学校(風避けの島という意
        味で風間島と呼ばれていた)、華南小学校風間分校、向島尋常小学校などを経て現在に至る。
         正面にある寒桜は、3月上旬から中旬に開花する。「蓬莱桜」と呼ばれているが、この島
        が蓬莱島とも呼ばれていたことに由来するそうだ。

        
         向島小学校の校庭に同町常蔵翁之碑がある。常蔵翁(1803-1905)は若い時、熊野孫左衛門
        より揚心流柔術を習得し、没するまでの約50年間、長州藩柔道師範として活躍する。藩
        内各所及び向島本村の自宅に道場開き、多くの弟子を育てた。
         碑は、1921(大正10)年陸軍大臣田中義一書で防府市の満願寺に建立されたが、のち
        防府市車塚町にあった防府警察署へ移転し、警察署の移転に伴いこの地へ再移転された。

        
         島の主要な道路だったが、海側に県道防府停車場向島線ができたことで車の往来は少な
        い。

        
         上段に越苦難講和條約、中段に鳴呼快児御手洗鷹一先生彰徳碑とあるが、説明がないの
        で何かはわからず。

        
         向島のタヌキは1926(大正15)年国の天然記念物に指定され、多くのタヌキが生息し
        ていたが、架橋によって野犬の侵入とタヌキの好物である餌(雑食でネズミ、ミミズ、農作
        物、柿などの果実など)が農薬使用されたことでその多くが死滅したともいわれる。すでに
        絶滅したともいわれるが、その実態は明らかでない。

        
         島と問屋口を結ぶ交通機関は、1750(昭和25)年錦橋ができるまでは渡し船があり、
        渡し船のことを「役船(やくせん)」と呼んでいた。渡し船は東と西の2ヶ所(問屋口~郷ヶ崎、
        浜方~本村)あったという。
         支所前バス停(12:44)より駅に戻るが、立岩観音までは距離があるので後日に先送りする。


この記事についてブログを書く
« 山口市小郡下郷の山手周辺を巡る | トップ | 防府市向島は狸の里と狐の立... »