ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市小郡は明治からの元号がそろう町

2023年06月03日 | 山口県山口市

               
                  この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を加工・複製したものである。
         この地域は椹野川流域に位置し、河岸段丘に立地する。江戸期には山陽道の要所であり、
        山口を経て石見国に向かう石州街道の分岐点でもあった。津市には宿駅として御茶屋など
        が置かれて繁栄した。

         1889(明治22)年の町村制施行により、小郡上郷村と小郡下郷村が合併して小郡村と
        なった。現在も駅名を含めて当時の地名が一部残されている。(歩行約4.2㎞、ふれあい
        センター🚻)
 

        
         JR周防下郷駅は、新山口駅から山口線の1つ先にある駅で、1935(昭和10)年小郡
        ~上郷間の開通と同時に開業したが、途中で営業が休止された歴史を持つ。

        
         椹野川の東津橋西詰より西に伸びる道が旧山陽道の東津通りで、津市の東に当たること
        からこの名がついたという。 

        
        
         通りは商店が主をなしていたようで、今もそのような構えの家屋を見ることができる。

        
         屋根が少し湾曲した構造の「むくり屋根」になっているのが久光家で、明治期には酒造
        を生業にされたが、その歴史は短かったようである。その後は地元の医院として、195
        5(昭和30)年頃まで使用されたという。

        
         正福寺東側の用水路傍に旧上水道共同水道栓が残されており、鉄製で頭部に花のような
        飾りが施してある。1923(大正12)年現在のような各戸に水道を配することができなか
        ったため、共用の水道栓(無料)が旧市街地に設置されたという。現存しているのはここだ
        けのようだ。

        
         街道筋左側の正福寺(しょうふくじ)は、南北朝期の守護大名大内弘世が建立。創建当時は
        椹野川左岸の百谷(ももだに)にあったが、大内氏滅亡によって荒れ、1594(文禄3)年今の
        地に小堂を建てて本尊を移したことに始まる。

        
         観音堂に安置されている聖(しょう)観世音菩薩は平安期作と伝えられ、昔、山手で山崩れ
        があった際、樹木に引っ掛かっていたのが発見された。山手の観福寺に安置されたが、後
        に転々としたようで、1908(明治41)年山手上からこの地へ移る。

        
         境内の左手奥に秋本新蔵(1812-1877)の墓がある。幕末には林勇蔵らとともに豪農商の
        一人として諸隊を支援し、自らも東津隊を組織して維新変革の先頭に立った。呉服商や醤
        油業を営む傍ら、村内の子弟のため自宅に剣道場を開いている。

        
                 「炎天をいただいて乞い歩く」(山頭火の句碑)
         1926(大正15)年1回目の放浪の旅は、熊本から高千穂、宮崎、日向灘を経て大分を
        行乞しているが、その途上の句とされる。炎天は与えられた試練、じりじりと照り続ける
        太陽の下、汗みどろで軒先を乞い歩いたと思われる。普通であれば「炎天を受けて」とな
        るが、見つめる眼が違うようだ。

        
         立派な看板建築を見ると、山口線踏切で東津から新丁に入る。

        
         広い道(ふれあい通り)の角に厚母家がある、毛利一族で豊浦郡厚母郷を領し、毛利輝元
        の頃に姓を毛利から厚母に改めた。その後、美祢郡から小郡に出て薬種業などを営み、戦
        後は薬局も経営されていた。
         文化文政(1804-1830)頃に建てられた家の2階には、連子窓が残されているが、そこから
        通行人の見張りをしていたともいわれている。

        
         この一帯に小郡宰判の勘場と御茶屋があった。勘場とは藩を代表する代官の執務所で、
        公用の宿泊所である御茶屋がセットになっていた。
         1865(慶応元)年1月7日に倒幕の諸隊(御楯隊ら50名)が、代官に軍資金の用立てを
        要求し、大庄屋の林勇蔵がこれに応ずる決断をし、維新変革に貢献した場所でもある。
         建物は後に小郡村(町)役場として利用されたが、移転により土地は分割されて道路も新
        設され、当時の建物位置などを知ることはできない。新丁公民館内に説明板があるが、遺
        構と思われる大きなクスノキは伐採されていた。

        
         精肉店の地には、1897(明治30)年宮市銀行小郡支店が設置されたが、1925(大正
          15)
年華浦銀行に吸収された。その華浦銀行も、1944(昭和19)年1県1行(戦時統合)
        の政策を受けて解散して山口銀行へ移行する。玄関の構えが当時の名残りをとどめている
        という。

        
        
         1868(明治元)年創業の藤本金物店は、入母屋造平入りの純和風建築だが、一部赤煉瓦
        造りの防火壁が設けられている。1918(大正7)年に建築された県立図書館の倉庫(現在
        のクリエイティブ・スペース赤れんが)に使用された残りの煉瓦とのこと。(この地に高札
        場があった)

        
         厨子(つし)二階建ての民家が見られるが、この付近の向い側に、天下御物送場御番所があ
        ったというが遺構は残っていない。公用の書状・荷物を宿場から宿場へ送る任務などを担
        ったという。

        
         古くは三差路で正面付近に、1913(大正2)年築の和風3階建ての料亭・末次楼があっ
        た。下関の春帆楼、山口の菜香亭と並び称されるほどであったというが、1944(昭和1
          9)
年戦時中に料亭をやっていては申し訳ないと廃業された。
                 戦後一時期、国鉄の寄宿舎になったこともあったようだが、後に小郡町が買い取り「

        館」として利用されたが、1983(昭和58)年老朽化により解体されてしまう。

        
         山陽道と石州(山口)道の分岐点に道標が設置され、駐車場となっている場所に寿座とい
        う映画館があった。当初は防府市中関にあり、1902(明治35)年白髭社(大正上)の境内
        に移転する。火災で全焼したため現在地に移転したが、1970(昭和45)年代に閉館して
        解体された。

        
         道標には「右 京江戸」「左 萩山口石見」とあり、裏面に「牛馬繋事無用」とある。
         現地に建つものは複製物で、道標隣にあった劇場寿座が解体されるときに破損したとい
                う。実物は近くの中村家前庭に保存されている。

        
         古くは真言宗であった信光寺(真宗)は、大内義興の招きで伊予権介・越智通清が来山し、
        済波の地に領地を賜っていたが、山口で戦死する。その子・西了が出家して真宗に帰依し
        て古院を修復して真宗寺院とする。
         本堂は寺記に1736(元文元)年上棟とあり、江戸中期を代表する真宗本堂のひとつとさ
        れる。幕末には境内で諸隊・農兵隊が銃陣稽古を行い、1923(大正12)年5月には山口
        県水平社結成大会の会場にもなった。

        
         (有)フクヤマは江戸期後半の建物で、宮市屋利兵衛が1859(安政6)年に建てたという。
             宮市屋は旅館として幕末から明治にかけ諸有志が活躍する舞台にもなった。

        
         「フードセンターつしま」の地には、明治から大正にかけて、小郡を代表する実業家の
        一人といわれた江村利兵衛が呉服店を開いていた。

        
         現加藤歯科付近には幕末期、大田屋という旅館があった。旅宿が建ち並んだ通りの中で
        もひときわ大きな旅館だったようだ。1867(慶応3)年木戸孝允が大山格之助と会見した
        場所でもある。
         その他、1875(明治8)年最初の小郡郵便局、1900(明治33)年には小郡銀行が設立
        され、1908(明治41)年に辰野金吾設計によるネオ・ルネッサンス様式を取り入れた洋
        風建築の本店があったという。
         のち百十銀行に買収され、1県1行政策により山口銀行の支店となるが、その後の沿革
        については知り得なかった。 

        
         この建物は消滅してしまったが、ここに福田屋という旅館兼料亭があった。1863(文
          久3)
年8月、幕府使者として中祢市之丞ら一行が長州藩に到着して本陣の三原屋に宿泊す
        る。その一行を襲撃して3名を殺害した刺客が、この宿を拠点とした。(2016年撮影)

        
         津市通りは旅籠などがあり、もっとも栄えた通りだったという。共同水道栓とは関係な
        いと思われるが、通りの片隅に手押しポンプが残る。

        
         交差点の左前方にある西中国信用金庫の地には、小郡宿の本陣・三原屋があった。長州
        藩の外国船砲撃事件(下関事件)を詰問するため、幕府使者として中祢市之丞ら一行が下関
        に急航する。奇兵隊隊士らと激論となり、軍艦朝陽丸を奪い取られ、藩の帆船で小郡に上
        陸して三原屋に入った。藩主に会見を求め、藩からの返事を待っていた8月19日の夜、
        一部過激な諸隊士が襲撃し、3名を殺害すという出来事が起こる。難を逃れた中祢らも藩
        が手配した船で江戸へ戻ろうとしたが中関沖で殺害され、これが後の「長州征伐」要因の
        1つにもなった。

        
         1927(昭和2)年椹野川に「昭和橋」が新設され、西詰から南本町の三差路交差点まで
        が「昭和通り」名付けられた。1932(昭和7)年国道2号線に指定されたが、現在は駅南
        側のバイパスが国道である。

        
         昭和通りと大正通りが交差する角に、昭和初期頃に開業した「一富士」という木造3階
        建ての建物があった。食堂、宴会場、夏は屋上にビアガーデンが開設されるなど歓楽地で
        あった。

        
         明治通りに入る手前の小郡明治1丁目に、「ばん屋はし」と刻まれた橋の親柱が残され
        ている。今では想像もできないが、この一帯は「番屋」と称されて田園地帯であったとい
        う。この付近に水路が流れ番屋橋が設けられたが、後年に開発が進み、橋や水路は姿を消
        してしまう。

        
         旧国道に戻ると正面に三角屋根の洋風建物、隣の2階は六角体をなしたような建物が見
        られる。同一所有者かどうかはわからないが、三角屋根は、1917(大正6)年築の旧淺川
        邸で当時は写真館だったという。後に歯科医院、小料理屋などに使用されたという。

               
         旧国道から新山口駅に至る道が明治通り(古林通り)である。1900(明治30)年山陽鉄
        道が開通する際、駅を含めて駅舎及び道路用地は古林家の所有であり、その寄贈により駅
        及び道路が完成したという。

        
         「くぐり門」が見られる。

        
         門内部の屋根には明り取りが設けてある。 

        
         1940(昭和15)年頃協和銀行小郡支店として建てられ、後に小郡商工会議所として2
        021(令和3)年3月まで使用された。

               
         最初の小郡郵便局は旧山陽道筋の津市あったが、1954(昭和29)年この地に移転する。
        1978(昭和53)年老朽化により国道9号線沿いに移転すると、局舎は解体されて駐車場
                 となったが、片隅に「郵政省敷地」の標柱が残されている。

        
         一つ東に通りを変えると大正通りで、小郡に鉄道が開通すると、1913(大正2)年町役
        場から駅に通じる基幹道として大正通りが設けられる。昭和の時代には100軒もの商店
        が並んでいたという。

        
         山頭火の句とSLやまぐち号、オゴオリザクラがデザインされたマンホール蓋。

        
         大正通りに入ると山口銀行大正町支店(後に出張所)の建物があったが、2019(平成3
          1)年3月に解体される。

         長周銀行小郡出張所として1926(大正15)年に建築され、一見鉄筋コンクリート石造
        風に見えるが、実は外壁に目地を切ったモルタル塗りの木造2階建てであった。(2016
        年撮影。跡地にはAP)

        
         熊野神社お旅所には高さ2m70㎝、半径50㎝にも及ぶ門柱が建っている。
         この石柱は、1887(明治20)年に東津橋が架け替えられたときに橋脚となったもので、
        1933(昭和8)年鉄筋コンクリート橋になるまで橋を支えてきた。お旅所創建の際に運ば
        れ、現在も黙々と立ち続けている。

        
         唐破風のある建物は、1934(昭和9)年熊野神社のお旅所として建てられた。これが公
        会堂となったのは戦後で、大正上・中・下3区共同の集会所であったが、現在は中区専用
        となる。

        
         三田尻(現防府市)にあった機関庫が小郡駅構内に移転し、小郡機関区などの名称変更を
        経て、現在は下関総合車両所新山口支所である。転車台などが現存するが、構内には入る
        ことができないので遠くからの眺めとなる。

        
                  「そばの花にも 少年の日がなつかしい」
         大正町の蕎麦屋・ふしの屋さんの山頭火句碑だが、1930(昭和5)年10月3回目の放
        浪の旅は宮崎県鵜戸、飫肥、油津などを行乞している。一人で歩くのだから、様々な追憶
        が甦ったのであろう。ふと見かけた蕎麦の花もその一つと思われる。 

        
         列車が並ぶ通りから山口駅に戻るが、平日はSLやまぐち号の客車も並んでいるようだ
        が、今日は土曜日なのでご出勤のようだ。

        
         新山口駅前と山口宇部道路の長谷ICを結ぶ新道が、令和通りの愛称で使用され、その
        一部が小郡令和町と住居表示される。
         その他、新幹線口側に小郡平成町もあって、まさに「元号の町」である。


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