ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

広島市中区の縮景園・平和公園を巡る

2023年04月18日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         広島は太田川河口部のデルタ地帯に位置する。地名は広い中州に由来する説と、毛利輝
        元が広島城築城に際し、城地選定を担当した土豪・福島元長の「島」と毛利氏始祖の大江
        広元の「広」と合わせ、「広島」とした説がある。 (歩行約6.9㎞)


        
         JR広島駅南口広場は新たな複合駅ビル建設のため、迷路のように迂回路が設けてあっ
        て、しばらくはどこに出たのかわからなかった。(完成は2025年3月)

        
         城北通りに出て栄橋を渡る。

        
         幟町中学校校内に「折り鶴の碑」が
建立されているが、碑文によると「1955(昭和3
          0)
年幟町中学校1年生だった佐々木禎子さんが、原爆による白血病のため12歳で短い生
        涯を閉じた。級友たちはその死を悲しみ、全国の子どもたちに呼びかけて平和記念公園に
        「原爆の子の像」を建てた。病床で生き抜く希望を折り鶴に託した禎子さんの物語は、や
        がて国内外に広がり、多くの折り鶴がヒロシマに届けられるようになった。
         それら折り鶴の一羽ずつに込められた願いを大切に受け継ぎ、禎子さんの命日である1
        0月25日には碑に折り鶴を置き、世界平和を築く決意を明らかにする」とある。

        
         幟町中学校筋に「雪椿の乙女」というタイトルの像が建っている。建てられた理由は定
        かではないそうだが、「平和」に関係するものだろうか。

        
         縮景とは各地の景勝を聚(あつ)め縮めて表したことを意味するそうで、この庭園は中国浙
        江省の西湖周辺の風景が縮景されたといわれる。門は冠木(かぶき)門形式で、冠木を2柱の
        上方に渡した屋根のない構造である。

        
         縮景園は、1620(元和6)年広島藩初代藩主浅野長晟(ながあきら)が、別邸の庭園として
        築成したもので、作庭者には茶人として知られる家老の上田重安(号は宗箇)が起用された
        という。

        
         池泉回遊式庭園の中央に「濯纓池(たくえいち)」と呼ばれる池を配し、「跨虹橋(ここうき
          ょう)
」で東西を二分している。

             
         跨虹橋は天明の頃(1781-1789)に架けられた石製アーチ橋と陸橋で、戦前からある建造
        物だという。地上と天上を結ぶ虹に例えられているため、橋が大きく反った形になってい
        る。

        
         左前方に悠々亭を見ながら石橋の映波橋、昇仙橋、望春橋を渡る。悠々亭は木造平屋建
        て茅葺きの東屋で、古くは茶会や歌会に使用されたという。

        
         迎暉峰(げいきほう)は標高約10mの小丘で、かっては頂上から広島湾の島々が眺められ
        たという。

        
         悠々亭前は水面が開けて烟霞島(えんかとう)・緑亀島(りょくきとう)が浮かぶ。

        
         正面の清風館は数寄屋造りの茶室で、園のほぼ中央に位置し、これを基準に他の建物が
        配置されているという。
         日清戦争の際に大本営が広島に移され、縮景園は大本営の副営となり、明治天皇の居所
        として清風館があてられた。

        
         池の面積が8,020㎡あって、園内をぐるり一周すると1時間を要する。(日本の庭園
        100選)

        
         県立美術館前からの直進道には国の機関などが並ぶ。

        
         護国神社の鳥居を潜って広島城裏御門跡から城内に入る。

        
        
         裏御門は本丸の東に位置する城門で、櫓台石垣の間に門扉があり、その上に渡櫓が築か
        れていたという。

        
        
         1877(明治10)年広島鎮台司令部として2階建ての木造洋館が建てられ、のちに第5
        師団司令部庁舎となる。
         日清戦争(1894-1895)の際、大本営が東京から広島に移されたが、戦場だった朝鮮半島に
        近く、鉄道が整備され、宇品港(現広島港)に大型船舶が着岸できることが大本営移転の理
        由とされる。大本営の建物は原爆により倒壊し、現在は礎石のみが残る。(大本営とは天皇
        が戦争を指揮する機関)

        
         1957(昭和32)年天守再建工事の時、撤去された旧天守の礎石をそのまま移したもの
        で、一段低い石は現在も天守台に埋もれている石の位置を示しているという。

        
         旧広島城は、1599(慶長4)年毛利輝元が築城したもので、大天守から渡櫓で2つの小
        天守を連結する複合式の天守で、望楼型の大坂城を模したといわれる。
         1945年の原爆により小天守は一瞬にして倒壊したが、大天守は爆風による衝撃波と
        圧力で下部2層が上部の重さに耐えきれず自壊したという。現在の大天守は、1958(昭
          和33)
年広島復興大博覧会開催に際し、鉄筋鉄骨コンクリートで修復された。(日本100
                名城)

        
         天守閣からは広島市内が一望できる。

        
         広島護国神社は旧市民球場近くにあったが、原爆により焼失ため小祠を設けて祭祀を続
        けてきたという。広島復興に際して移転を余儀なくされ、広島城再建時に移転再建された。
        堀は中堀が埋め立てられて内堀だけとなる。 

        
         多門櫓は平櫓と太鼓櫓を結ぶ長い櫓で約63mもあり、左奥が太鼓櫓で二の丸唯一の2
        階建てである。かっては太鼓で時を知らせて城門開閉の合図をしていた。

        
         表御門は櫓門形式の門で、戦前まで残されていたが原爆により焼失したが復元される。
        右手に平櫓、堀にかかる橋が御門橋で広島城入口である。 

        
         城南通りから旧広島市民球場跡地への道を進む。

        
         旧市民球場跡地は公園化されたようで、道路の向い側に地上14階の複合商業施設「お
        りづるタワー」が建つ。

        
         原爆ドームとされる建物は、1915(大正4)年広島県物産陳列館として建てられ、煉瓦
        造3階建てで正面中央部分を5階建てとし、その上に楕円形のドームが載っていた。
         その後、広島県産業奨励館と名称変更されたが、1944(昭和19)からは内務省中国
        四国土木出張所など官公庁の事務所として使用される。 

        
         原子爆弾は広島市中心部の上空約600mで爆発し、建物は倒壊しおびただしい生命が
        奪われた。産業奨励館は爆風と熱線を浴びて天井から火を吹いて全焼し、建物内にいた全
        員が即死する。残骸は円盤状の鉄骨の形から、いつしか「原爆ドーム」と呼ばれるように
        なる。

        
         鈴木三重吉(1882-1936)はこの地に生まれ、1918(大正7)年に小年少女の雑誌「赤い       
        鳥」を創刊するなど、わが国の児童文学の父ともいわれている。赤い鳥文学碑は、被爆地
        ヒロシマの文化復興のシンボルとして、原爆ドーム近くに建立された。
         隣の碑には「 私は永久に夢を持つ たゞ年少時のことく ために悩むこと浅きのみ 三
        重吉」とある。

        
         初代相生橋の親柱(右側)と、1940(昭和15)年に建立された旧相生橋碑(左側)は被爆
        遺構の1つである。

        
         ドーム内部。 

        
         動員学徒慰霊碑は第2次世界大戦中、増産協力、建物疎開作業などの勤労奉仕に動員さ
        れて亡くなった学徒(原爆の犠牲者6,000余人を含む)約1万余人の霊を慰めるため建立
        された。塔の高さは12m、有田焼陶板張り仕上げで、平和の女神像と8羽の鳩を配した
        末広がりの5層の塔で、中心柱に慰霊の灯明がつけられている。

        
         元安橋東詰北側に広島市道路元標あるが、この辺りは陸上交通の主要街道が交差し、太
        田川の水運の利もあって広島城下の中心となっていた。江戸期には高札場があり、付近に
        は馬継場や藩公式の宿舎である御客屋などがあったという。
         広島からの里程はすべてこの地点から起算されていた。明治以後の県制施行にともない、
        ここに木柱で「広島県里程元標」が建てられたが、1889(明治22)年市制施行後は、現
        在の石柱に改められた。

        
         元安川では原爆投下後、熱線や放射線、爆風で傷ついた多数の被爆者が水を求めてこの
        川まで来て亡くなったという。
         資料館本館前の広場には、「水を、水を」と言いながら死んでいった犠牲者の霊に捧げ
        る噴水「祈りの泉」が設けてある。

        
         元安川右岸から見るドーム。

        
         すべての核兵器と戦争のない、平和共存を達成することを目的に設置された「平和の鐘」
        の表面には、「世界は1つ」を象徴する国境のない世界地図が浮彫りされている。

        
         1946(昭和21)年無数の死体を焼いたこの地に仮の供養塔が建てられ、1955(昭和
          30)
年に現在の姿となった。土盛りの内部には、原爆犠牲者約7万人の遺骨が納められて
        いる。名前不詳が大多数であるが名前の分かる遺骨もあり、現在でも遺族が分かり次第手
        渡されている。

        
         韓国人原爆犠牲者慰霊碑は、亀を象った大きな台座の上に碑柱が立ち、頂部に双竜の図
        柄を刻んだ冠がかぶさっている。原爆投下により2万余の韓国人が軍人、軍属、徴用工、
        動員学徒などで尊い人命を奪われた。
         碑は平和記念公園の外の本川橋西詰の河岸緑地にあったため、「民族差別」ではないか
        との声が出されていた。このため、広島市長は1998(平成10)年公園内への移設を許可
        する方針を表明したというが、日本のために犠牲となった人々に差別を設けた悲しい出来
        事でもある。

                
         三脚型ドームの頂上にある金色の折り鶴を捧げ持つ少女のモデルは、白血病で亡くなっ
        た佐々木禎子さんとされる。原爆で亡くなった多くの子どもたちを慰霊し、平和を守るた
        めの記念像を造ろうと、禎子さんの同級生らが募金を呼びかけて、1958(昭和33)年5
        月5日の子どもの日に建立された。

        
         1964(昭和39)年に建立された平和の灯(ともしび)の火種は、全国12宗派からの「宗
        教の火」、全国の工場地帯からの「産業の火」と宮島弥山の「消えずの霊火」が用いられ
        ている。
         以来、燃え続けているが、地球上に核爆弾がなくなり、核の脅威がなくなるまで消える
        ことはないという。

        
         碑文には安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」とあるが、今でも愚
        かな人間による悲しい出来事が繰り返されていることに、ただ頭を下げるのみであった。

        
         悲惨な現実のすべてがここ広島平和記念資料館に集約されている。2006(平成18)
        資料館の本館部分が、戦後建築のものとしては初めて国登録重要文化財に指定される。

        
         「嵐の中の母子像」は、右手で乳飲み子を抱え、左手でもう一人の幼児をかばいながら、
        苦しみに耐え生き抜こうとする母親の姿を表す像である。
         1959(昭和34)年に開催された第5回原水爆禁止世界大会を記念して、彫刻家本郷新
        氏の石膏像が広島市に寄贈されたが、この原型を広島市婦人会連合会がブロンズ像にする
        ための募金活動が行われて建立された。 

        
         1936(昭和11)年に竣工した旧日本銀行広島支店は、鉄骨鉄筋コンクリート造3階建
        てで、外観は中央を花崗岩、その他を人造石ブロックで仕上げられている。
         爆心地から約380mの距離にあり、原爆投下により外形は残ったものの内部は破壊さ
        れて42名が犠牲となった。市内金融機関のほとんどが壊滅したため、各銀行は内部を仕
        切って窓口を設け、8月8日から業務を開始したという。

        
         広島電鉄でJR広島駅へ戻るが、時間の関係で本川小学校と袋町小学校の資料館を訪れ
        ることができなかった。 


東広島市の白市は坂の上に町並み 

2023年04月18日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         白市(しらいち)は高屋盆地の東端に位置する。地名の由来は平賀氏が白山に城を築き、高
        屋東村の内を城下として分けて白市としたという。(歩行約5.3㎞)

        
         JR白市駅は、1895(明治28)年河内ー西条間の開通と同時に設置される。設置当時
            は小谷村で、白市は東高屋村であったが、白市の住民が出資して開業させたので白市駅と
        なったという。もともとは白市の方が賑わっていたので、こちらに敷設されてもおかしく
        はないが、機関車の音で牛馬が暴れるので離れた位置に設置されたという逸話もある。

        
         タクシーに乗車する予定はなかったのだが、運転手さんに距離を確認すると「すぐそこ
        が町並みなので歩かれた方が‥」との返事。

        
         県道59号線に合わすと西条方面に引き返し、次の小谷交差点を右折すると長い上り坂
                である。

        
         地元の方によると、木原家住宅前の道が県道(造賀田万里線)であったが、幅員狭小を解
        消するため御土居付近に県道が新設されたという。(右手の山が城山) 

        
         小祠の先に修路碑があるが、1928(昭和3)年道路の改修が行われた記念碑のようだ。

        
         浄土宗の西福寺(さいふくじ)は、平安期の1100(康和2)年代に安芸国賀茂郡溝口村(現
        ・広島県山県郡)に大福寺として創建された。1584(天正12)年当時の住僧・西蓮法師
        が現在地に移転させ、その名の一字をとって西福寺に改称したという。

        
         本堂に向って右手の石灯籠には、天明6年(1786)と刻まれているという。 

        
         平坦地でなく坂に沿って石州瓦の民家が並ぶ。

        
        
         道路の両側に大正期の建物であろう袖卯建を備えた民家がある。

        
         勝田家は江戸後期から末期頃の建物とされ、醤油醸造を生業にされていたという。 

        
         路地にも素敵な空間がある。

        
         重満家も江戸末期から明治初期の建物で、酒造業を生業されていたようで通りには跳ね
        上げの大戸が設けられている。

        
         郵便局の向い側は厨子(つし)2階建ての建物だが、構造上に違いがあるのか1階の屋根が
        長い。

        
         中央から四方向にペンと鉛筆が描かれ、その中に東広島市の「ひ」2つが鳥で表現され
        た市章があり、4つの輪には市の花「つつじ」と市木である「松」がデザインされたマン
        ホール蓋。

        
         酒店だそうだ。

        
         旧木原家は酒造業や竹原で塩田などを営んでいたという。(入館料@150-)

        
         1665(寛文5)年の鬼瓦があることから、江戸初期に建てられた商家と推測される。

        
         中の間と次の間(板間)

        
         下店と厨子2階部分。

        
         旧木原住宅の傍にある恵比須神社だが創建年などは不詳。

        
         恵比須神社側から見ると急坂である。

        
         T字路を左折すると伊原総十郎邸。明治期の特徴を持つ豪壮な造りで、町家の大型化を
        よく示した貴重な事例とのこと。伊原惣十郎は鋳物製造業を営み、京都御所や厳島神社の
        灯籠を手掛けるなど幅広く活躍したという。

        
         伊原八郎家住宅は、1915(大正4)年から2年かけて建築されたもので、玄関の熨斗
          (のし)瓦、鯱(しゃち)、格子窓など豪華な造りとなっている。

        
         稲荷神社の建立年代は不詳だが、1915(大正4)年建立の鳥居と、境内にはサイレンス
        ピーカーが置かれている。近くに火の見櫓があったようだが消滅していた。

        
         室町期の1503(文亀3)年平賀弘保は自領の中心に位置する高屋東村に白山城を築くが、
        大内氏と尼子の戦いの中に巻き込まれて衰退する。のち毛利氏に属する国衆となり、毛利
        氏の防長2州移封に随行して、その後は毛利氏の家臣として続いたという。

        
         舛木家は明治後期の建物とされ、奥行きが制限されているためか入母屋造の平入りであ
        る。 

        
         1503(文亀3)年平賀弘保によって牛馬市が始められたというが、本格的に行われ始め
        たのは1617(元和3)年といわれている。明治以降の白市は伯耆大山、備後久井と並ぶ牛
        馬の三大市と称された。(傍のお好み焼き「のむら」で昼食休憩) 

        
         西福寺からのT字路に至る南北の通りを本町、この東西の通りを西町といい、江戸初期
        には現在の町並みが形成されていたという。 

        
         養国寺(真宗)は平安期の元暦年間(1184-1185)創建とされ、当時は真言宗の法乗院という
        寺号であったが、1673(延宝元)年改宗して養国寺と称す。境内には江戸期の石灯籠や手
        水鉢などがある。

          
         本堂、山門(鐘楼門)ともに江戸期に建立された。

        
         土宮(つちのみや)神社は養国寺の隣に鎮座する。由緒がないのではっきりしないが、江戸
        期に伊勢神宮外宮の別宮である土宮(地主の神)を勧請したとされる。 

        
         石段を下ってくると明神鳥居の下にブロック状の石で山が描かれ、灯籠下の石段は鳥居
        の笠木が用いられている。

        
         光政寺への筋だが、牛馬市の期間中には上方から歌舞伎役者を招き、長栄座という劇場
        で歌舞伎が上演されたという。芝居小屋「長栄座」は戦後まであったというが痕跡は残さ
        れていない。

        
         旧木原住宅は主屋のほか蔵、井戸、庭園の一部が残されている。

        
         東町しろやま公園から見る白市の町並み。

        
         光政寺(こうしょうじ)は白山城跡の西麓にあり、城主の平賀弘保が1505(永正2)年に菩
        提寺として建立したという。本堂横には木原家の墓所があり、境内には1734(享保19)
        年の年号がある木原家寄進の宝篋印塔、石灯籠などの石造物がある。現在は無住のお寺の
        ようだが、荒廃している感じは見受けられない。

        
         寺入口に「六地蔵・うぐいす塚」が案内されており、70m程の山道を進むと右手に六
        地蔵がある。建立年代はわからなかったが、どうも木原保満寄進の石造物のようだ。 

        
         山道をさらに奥へ進むと鶯塚がある。多賀屋風律(1698-1781)は江戸前期の俳諧師で、風
        律13回忌(1793)に白市の弟子達が建立した追慕の碑とのこと。風律の句「鶯やとなりな
        れとも この地の枝」にちなんで「鶯塚」と刻まれた。

        
         西福寺から白市の町並みを見て白市駅に戻る。

        
         JR白市駅は広島シティネットワークの東端駅に位置して終始発駅になっているようだ。
        広島市と広島市のベッドタウンを結んでいる通勤・通学路線で、ローカルな地方に住む者
        にとっては羨ましいほどの運行本数である。