ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市徳地の堀に旧石州街道筋と周防二の宮

2023年04月22日 | 山口県山口市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         二の宮・庄方(しょうがた)は、中国山地に源を発する佐波川が南北に流れる右岸にあり、
        川と山地に挟まれた長い平地に立地する。これらの集落は行政上では山口市徳地堀の一部
        である。(歩行約6.6㎞) 

        
         防府~徳地の旧道歩きは、JR防府駅から防長バス中山経由堀行き約30分、徳行(とく
          ぎょう)
バス停で下車する。

             
          防府市右田から山口市徳地、山口市阿東に至る旧石州街道があったというが、資料を得
        ていないので民家のある旧道歩きとなる。バス停からバス進行方向に進むと、田屋川の左
        手に旧道が見えてくる。

        
         こんな所を一人歩きする他者はいないのか、野良仕事をされている方々が手を休めて挨
        拶してくれる。

        
        
         左手に1892(明治25)年建立の石灯籠と、奥に鳥居が見えたので立ち寄ると、西大津
        公民館の表札が掲げてあった。この集落は山口市徳地伊賀地である。

        
         「希望の桜」と銘打った土手下を歩いて行くと、花見用なのか「さくら小屋」が設けて
        ある。広い敷地に威勢よく鯉のぼりが風に乗っているが、旧伊賀地小学校は佐波川の左岸
        にあったようで、何の跡地かわからないままとなる。

        
         一旦県道に出ると歩車分離でないため、車とすれ違うたびに避けなければならない。こ
        の先が伊賀地と堀の境のようだ。

        
         二の宮集落が見えてくる。 

        
         長い堰が設けてあるが、河川の流水を制御し用水路などへ取水を容易にするために設け
        られたが、一方で河道が樹林化する要因の1つとも考えられている。

        
         二の宮集落だが概ね人家は更新されている。

        
         出雲神社参道入口に田中翁之碑があり、裏面に碑文があったが風化して読めず。

        
        
         二の宮の石風呂。

        
         石風呂の隣にある祠は布で覆われており、中を覗くと人の顔をした座像が安置されてい
        た。

        
         出雲神社の由緒によると、鎮座は奈良期の715(霊亀元)年と伝えられ、737(天平9)
        年周防国二宮として勅許を受け、平安初期の延喜式神名帳にも周防国出雲神社として式内
        に勅撰されている。以降、延喜式内社として摂政藤原氏をはじめ大内・毛利氏等歴代の領
        主、藩主の祈願所として厚い崇敬のもとに、徳地地方の総氏神として護持されてきたとあ
        る。 

        
         かつて日本には国毎に一宮から五宮と呼ばれる神社があり、奈良時代の国司は朝廷から
        派遣されると着任挨拶を兼ねて宮巡りをしたという。

                
         二の宮の大杉は出雲神社の境内にあって、説明には樹齢は記されていないが、根元の周
        囲12.5m、樹高43mの老樹とある。いつ頃からか高杉大明神とも呼ばれ、御神木と
        されている。他に国指定天然記念物の「ツルマンリョウ」の自生地と紹介されている。

        
         神社前の廃屋は製縫工場跡のようだ。

        
         路傍の地蔵尊は大切に祀られている。

        
         再び県道に出て佐波川を見ながら北上する。

        
         幕末に藩庁が萩から山口に移されると、山代地方から萩を結ぶ山代街道は、鹿野から島
        地村、堀村に至る鹿野道と、石州街道の八坂から引谷、仁保を通る道に変更されたようだ。
        この道も引谷に通じる道だが、後年になって開かれたものと思われる。

        
         漆尾内を過ごして見返る。

        
         注連縄は神道の神祭具であるので、何らかの神が祀られているのだろう。

        
         沖の原橋の赤い杭は国交省の「流量観測見通杭」とある。

        
         鎌倉期には周防の国司となった重源上人が東大寺再建のため、徳地の杣地から用材を切
        り出し、佐波川を流下させて瀬戸内海から奈良へ搬送したという。
         時は下って1767(明和4)年炭や木材など運ぶため、野谷村から防府まで通船が始まっ
        たが、増水時以外はまったく船が通らず中止された。幕末の1858(安政5)年徳地代官が
        通船を開始したが、いつ頃まで行われたかはわからないが、道路の改修などにより消滅し
        たものと思われる。

        
         1883(明治16)年防府市新橋から鈴屋、奈美及び二の宮から堀に至る石州街道の改修
        に着工、翌年に竣工された。 

        
         庄方集落。

        
         小さな祠と石柱が建つが風化して文字は読めず。 

        
        
         地元の方にお尋ねすると、中国自動車道により参道が付け替えられて急階段となってし
        まった。秋葉社と人丸社は一緒にされたと聞いているとのこと。 

        
         茅葺き屋根に金属を被せた古民家も少なくなった。 

        
         田園の中に1本道。

        
         庄方八幡宮は、もと吉敷郡の真光院地にあり、室町期の応永年間(1394-1428)大内盛見
        が宇佐八幡宮より勧請したと伝える。1870(明治3)年10月庄方の現在地に引社して、
        のち社号を庄方神社に改称したという。

        
         下庄方と上庄方の境なのか庚申塚と舟形地蔵が祀られている。

        
         最近は山羊を見る機会が少なくなったが、法華寺の道に入ると山羊牧場。大小合わせて
        23頭ほど飼育されているという。

        
         山門に「大内菱」 

        
         奈良期の723(天平11)年聖武天皇が国分寺・国分尼寺(こくぶんにじ)建立の詔(みことの
          り)
を発し、諸国に創建された。長門国の法華寺は豊浦郡豊浦村にあったが、1873(明治
          6)
年8月赤間関(現下関市)東南部(ひがしなべ)に移り、更に1897(明治30)年5月この
        地にあった金徳寺址に移転してきた。現在は無住で防府市の国分寺が管理されているとか。

        
         金徳寺(のち萩の満願寺に合併)は、天武天皇の勅願と伝え、重源上人を中興とする。そ
        の草創時期の真偽はわからないが、修験道の霊場であったと思われる。(寺前から見る堀の
        町並み)

        
         法華寺への入口であるが、その背後にある山は、古くには観音嶽といい、国土地理院の
        地形図は狗留孫山と記してある。中腹に(廃)金徳寺があって山号を狗留孫山と称していた
        ことに由来するようだが、現在は奥の院観音堂と三十三観音霊場が残されているという。
         さきほどお会いした方は観音嶽に登られましたかと聞かれたが、地元では観音嶽と呼ん
        でいるようだ。法華寺には行基作と伝わる聖観音菩薩が安置され、庄方観音として知られ
        毎年2月18日に縁日が開かれる。

        
         佐波川に架かる出雲出合橋は、1951(昭和26)年7月の水害により流失し、1954
        年約50m上流に架け替えられたが、堀の商店街北を通ることになった。


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