この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
吉敷(よしき)は山口盆地の西北部、椹野川の支流である吉敷川流域に位置する。古代、周
防国吉敷郡の郡家(こおげ:律令制下の郡の役所)の所在地ともいわれる。(歩行約5.7㎞、
🚻赤田神社、玄済寺)
JR山口駅(10:00)からJRバス秋吉行き35分、四ノ宮バス停前で下車する(@410)。
(見える山は東鳳翩山)
赤田神社(周防四宮)は、弥生期の139(成務天皇9)年出雲国の杵築大社(現在の出雲大社)
より勧請し、古(ふる)四の宮に創建されて良城大神宮と称した。
奈良期の717(養老元)年現在地に遷座し、赤田大神宮に改称したという。かつて日本に
は国毎に一宮から五宮と呼ばれる神社があり、奈良時代の国司は朝廷から派遣されると、
着任挨拶を兼ねて宮巡りをしたという。周防国では防府の玉祖神社(一の宮)、徳地の出雲
神社(二の宮)、宮野の仁壁神社(三の宮)、大歳の朝田神社(五の宮)と共に周防五社に数えら
れ、「四の宮さん」として親しまれている神社である。
現在の社殿は江戸後期に建立されたもので、拝殿の天井には内藤鳳岳(1804-1871)作の
龍が描かれ、社殿の彫刻は、内海忠勝の実兄・吉田岩亀の作といわれている。
参道前は大内氏の拠点であった山口と、豊北町神田の肥中を結ぶ67㎞の「肥中街道」
である。
吉敷川は丸岳西麓を源とし、南下しながら寺領(じりょう)川、沓掛川と合流して椹野川に
合わす。
肥中街道「関屋の一里塚」が構築されており、塚木には肥中浦より14里、山口の道場
門前より1里23町とある。萩藩の一里塚は石盛りで塚を作り、上に里程を記した塚木が
立てられた。
石碑は風化して判読できないが「矢田義溝碑」のようだ。矢田太兵衛は吉敷の四ノ宮下
から水を赤田、佐畑、中村などの水田に灌漑用水路を設け、これにより耕地の枯渇被害が
救われたという。この功績を後世に伝えるため建立されたという。
赤田の地蔵堂はもとから肥中街道に面していたといわれるが、道路の拡張により位置は
変えられたという。隣の庚申塚は、古来、集落の境や辻に置かれたが、もともとここにあ
ったかどうかはわからない。
国道435号線のコンビニ付近に、成瀬仁蔵誕生地を示す案内がある。湯田側から来れ
ば、ここで左折すると成瀬公園である。
成瀬仁蔵(1858-1919)は吉敷毛利家の家臣・成瀬小左衛門の長男としてこの地に生まれ
る。少年時代は憲章館に学び、1876(明治9)年山口県教員養成所を卒業し、しばらく小
学校の教師をしていた。アメリカから帰国した郷土の先輩・澤山保羅(ぼうろ)に導かれてキ
リスト教に入信する。
後に上阪して、沢山保羅が創設した梅花女学校の教師を務めた後、「新潟女学校」を創
設する。その後、渡米して女子教育について学び、帰国後日本に女子大学を創ることを計
画し、官・財界の協力を得て、1901(明治34)年日本初の女子大学校(現日本女子大学)
を創設し、女子教育の発展と向上にその生涯を捧げた。
成瀬家の遺品として残る手水鉢。
地蔵菩薩は玄済寺で祀られてきたが、明治期に当地区の守護仏としてこの地に遷座した
という。従来の地蔵尊は厨子の中に収め、8月24日の地蔵盆に開帳されるという。
良城小学校から龍蔵寺へ向かう途中の左手、長楽寺墓地の一角に天神山古墳がある。1
962(昭和37)年墓地の造成中に発見されたもので、古墳時代中期頃の地方豪族墳墓とさ
れる。(竪穴式石室)
天神山公園には宣徳社、百万一心の碑、英霊之碑、名和道一の墓、内海忠勝顕彰碑など
がある。
内海忠勝(1843-1905)は吉敷毛利家臣・吉田治助の4男として生まれ、内海家の養子と
なる。幕末には服部哲二郎らと宣徳隊を組織し、蛤御門の変、内訌戦、幕長戦争に参加す
るも重傷を負う。
明治期に岩倉使節団に随行して欧米を視察、大阪などの知事を歴任し、内務大臣となっ
たが病を得て辞職する。(享年63歳)
名和道一(どういち)は名井(みょうい)弾右衛門の次男で名井守介の実弟。のち母方の家を継
いで服部哲二郎と名乗る。
宣徳隊を結成して禁門の変に参加して終身禁固の刑を受けたが、解かれた後に名を改め、
名和緩(縄ゆるむの意)とする。さらに改名して名和道一と名乗り、幕末には内海忠勝らと
幕長戦争などに出陣する。
1871(明治4)年民法研究のため渡米、将来を嘱望されていたが、ボストンにおいて3
6年の生涯を閉じる。
1845(弘化2)年吉敷毛利家13代・元潔が、領国の繁栄を祈願して宣徳社を建立する。
玄済寺(曹洞宗)は吉敷毛利氏の菩提寺。毛利元就の末子で吉敷毛利家の始祖である秀包
(ひでかね)が、阿川村(現下関市豊北町)に創建する。1625(寛永2)年の知行地替えにより、
孫の元包が現在地に移したとされる。
山門から本堂との間に「幽石大田翁壽蔵碑」があり、右手の碑に翁のあらましが刻まれ
ている。大田報助は豊後国日田の咸宜園で学び、憲章館の学頭となった人物で、幕長戦争
では良城隊の総司令官として芸州口に出陣した。維新後は京都府などに勤め、1894(明
治27)年毛利家から請われて「毛利家編纂所」に入り、「毛利11代史」の編纂にあたっ
た。
入母屋造りの本堂は、寺の構えからするとシンプルである。
毘沙門堂にある毘沙門天は、大内義隆が念持仏として信仰したもので、堂内には義隆の
霊牌が祀られている。山口市中尾にあった凌雲寺(廃寺)に伝わった仏像を移し、1956
(昭和31)年に堂が建立された。毘沙門天像は平安期のものが1基、鎌倉期のものが2基安
置されている。
13代福原広俊(1567-1623)が祀られているが、福原家は萩藩の永代家老であり吉敷の
給領主であった。1622(元和8)年家督を嫡男・元俊に譲るが、1625(寛永2)年家臣団
の知行地再編により宇部村へ知行地替えとなった。
初代秀包公の正室・引地の君(洗礼名、マセンシア)を表したエンジェルと伝えられてい
る。
吉敷毛利家墓所には墓が整然と並ぶ。初代秀包の墓は豊北町滝部、2代元鎮の墓は豊田
町殿居にあって、この墓所には供養塔が建立されている。5代~7代と10代は別の墓所
とのこと。
旧吉敷毛利家の居館跡は病院となり、池が昔を語るだけとなっている。(右手の建物に邸
跡碑)
良城小学校校内に名井守介の頌徳碑があるが、1873(明治6)年圓正寺を借りて新町小
学校を開設。校長として良城小学校の基礎を確立する。
学校名の由来について、開墾されたこの地は荒城(あらき)と呼ばれたが、荒の字が開墾地
にふさわしくないとして「吉城」「良城」とした。読み方が「よしき」となり、吉敷の字
が当てられたが、学校名に「良城」を残し、読みを「りょうじょう」とした。
郷校・憲章館は服部傅厳(ふがん)の建言により、1805(文化2)年2月に創設された。
現在の良城小学校敷地の一部にあり、名称は「仲尼は堯舜を祖述し、文武を憲章す」(儒教
の四書「中庸」)による。(章蔵は曽孫)
長楽寺(浄土宗)の寺伝によると、1600(慶長5)年創建と伝えられ、中原家(中也)の菩
提寺とされる。
1852(嘉永5)年澤山保羅(ぼうろ)はこの地で生まれ、憲章館で学び、幕長戦争では良
城隊の最年少鼓手として芸州口に出陣する。18歳の時に神戸でアメリカ宣教師から英語
を学び渡米する。アメリカの教会で洗礼を受けてクリスチャンとなり、帰国後の1876
(明治9)年大坂で浪花公会(教会)が設立されると、日本で最初の牧師となる。女子教育にも
携わり、1878(明治11)年梅花女学校(現在の梅花学園)を創設する。
再び肥中街道に戻って東進する。
服部章蔵(1848-1916)は、青年期には同志と共に倒幕運動に参加し、幕長戦争では良城
隊の司令として幕軍と戦う。兵学を大村益次郎に学び、維新後、海軍兵学校の教官となっ
たが、その後、キリスト教に入信して伝道者の道を選び、山陽地方の各地に教会を設立す
るため奔走する。
日本キリスト教団山口教会の初代牧師となり、山口市に光塩学校を開設する。後に広島
の広陵女学校と合併し、校名を光城(こうじょう)女学院として女子教育にも尽力する。19
14(大正3)年下関の梅香崎女学校と光城女学院が合併し、下関梅光女学院が誕生する。
圓正寺(真宗)の寺伝によると、美濃国宇留馬城主・大澤治郎左衛門の子である佐渡守が、
顕如上人の弟子となり、天正年間に西国を巡行中、当地を訪れ一宇を建立したといわれて
いる。1700(元禄13)年頃現在地に移転し、1873(明治6)年には良城小学校の前身で
ある新町小学校が置かれた。本堂裏に「曼荼羅の庭」があるようだが拝見することができ
ず。
山口市のマンホール蓋。
吉敷川の袂に古四之宮社があるが、社伝によると出雲国杵築神社(出雲大社)より勧請し、
良城大神宮と呼ばれていた。奈良期の717(養老元)年託宣により、北方20町(2.18㎞)
に神社を遷座させ、地名にちなんで赤田大神宮と改称したとある。現在は赤田神社から分
霊を勧請して祀っているという。
野村勇は、中村、木崎の水田に水が乏しいのを憂い、誹謗を意に介さず日夜努力して吉
敷川の水を田に注ぐ。また、米倉を設けて飢饉に備えるなど、その功績を後世に伝えるた
め「溝倉設施表徳之碑(こうそうせっしひょうとくのひ)」が古四之宮境内に建立される。
旧肥中街道筋には吉敷川があって、現在の吉敷大橋はコンクリート橋であるが、当時は
水の流れのある所だけに橋が架けられていたのではないかと推測される。
中原家はもともと吉敷の出で、湯田温泉で中原医院を開業。中也はそこで生まれ、山口
中学から立命館中学校に転校する。叙情詩人として脚光を浴びたが、1937(昭和12)年
死去。
経塚にある「中原家累代之墓」の字は、中也中学2年の時の書とされる。
ホタル塚は元々湯田大橋の袂にあったもので、歌人の吉井勇が湯田大橋のホタルを称賛
し、塚の建設を勧めたといわれている。
吉井勇の歌碑
「うつくしき 蛍の群れのかがやきを
このうつし世の光ともかな」
1996(平成10)年良城橋が完成し、周辺も整備されて、ホタルの放流が行われるよう
になったため碑が移転された。
良城橋の袂にはホタル塚の他に「刀匠二王之碑」がある。始祖は清平で、鎌倉時代に大
和から山口に来たとされ、その子孫である守綱・正綱らが活躍する。二王の刀剣は美術的
色彩が濃く、刀は大内氏の中国貿易の貴重な輸出品とされた。
旧良城橋の親柱4基が記念として残されている。その先の吉敷バス停よりJRバス防府
行き13分、湯田温泉バス停で下車する。