この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
直方は遠賀川中流の左岸に位置し、もとは東蓮寺と称していたが江戸前期に直方と改め
る。
地名由来について、新入村のうちの小村名に拠ったと伝えられるが、他にも易断による
方角に基づいて近隣の直方村の名を採り、その直方村は中泉村と改称させられたとか。(歩
行約3.6㎞)
JR筑豊本線直方駅は、かって石炭の集荷・輸送の中核を担った駅である。
駅前には当市出身の元大相撲力士で、大関となった魁皇関の銅像が設置されている。
圓徳寺(真宗)は、1624(寛永元)年黒田高政が東蓮寺藩を立藩し、城下町建設の折に鞍
手郡植木町より移転して、城下町北の出入口「植木口」を守る要として建てられた。
現在の本堂は、1908(明治41)年貝島炭鉱の創始者貝島太助らが発起して建立された
が、幼い頃に境内で遊び、父母を供養し、貧困時代から励ましてくれた寺への感謝の表れ
といい、本堂には貝島家の仏間が移設されている。
なお、山門は直方藩主の居館門を移築したものという伝承がある。
直方は飯塚、田川と並んで筑豊3都市の1つで、旧長崎街道沿いに連なる歴史的な商店
街だけあって、意外と長いアーケードが続く。どの地方の商店街もそうであるように、古
町商店街もシャッター街となっている。
この辺りが古町南端で「西構口」があったと案内されている。陣屋城下町として整備さ
れたが、東蓮寺藩5代藩主・長好が福岡藩本藩の継子となったため、1720(享保5)年4
代藩主長清の逝去をもって廃藩となる。
廃藩後、藩士はすべて福岡に転出したため、町の衰退を懸念した直方の町人は、藩に願
い出て遠賀川の西岸を通行していた長崎街道を誘致して在郷町として発展する。
旧十七銀行直方支店(現直方市美術館別館で通称アートスペース谷尾)は、1913(大正
2)年に建てられた2階建ての木造建築である。マンサード式の屋根(腰折屋根)を持ち、赤
茶色のタイルと白い石の組み合わせが町に映える。
多賀町公園は、炭鉱王・貝島太助の旧宅跡で、木造3階建ての豪華な建物であったとい
う。園内には貝島太助の銅像(長崎平和記念像の作者・北村西望作)が建ち、貝島邸に宿泊
した森鴎外の文学碑、郷土の俳画家・阿部王樹の句碑「炭鉱王がいさおしとはに陽炎す」
がある。
直方市の木とされるタイサンボクの花と、周囲はよくわからないが特徴的な模様が描か
れているマンホール蓋。
殿町商店街を抜ける。
1922(大正11)年建てられた旧讃井病院(現向野堅一記念館)は、木造2階建て桟瓦(さ
んがわら)葺きモルタル造りである。北東の隅に3階建ての塔屋を配したセセッション風で、
モダンなデザインの玄関上部はバルコニーとなっている。
病院は内科・胃腸科・歯科(後に小児科)を備えていたようだが、のちに郷土出身の実業
家であった向野記念館となる。
石原商店(上)と前田園本店(下)は、1926(大正15)年に相次いで建てられた町家であ
る。いずれも主屋の2階部分に銅板の装飾をふんだんに用いた平入りの建物である。
1901(明治34)年に建てられた木造板張り2階建ての江浦医院。洋風の外壁とは対照
的に玄関前には切妻風の屋根が張り出すなど和洋折衷の建築様式である。
1813(大正2)年旧奥野医院は皮膚科として開業するが、当初の建物は火災で焼失した
ため昭和初期に再建されたが、1990(平成2)年に閉院となる。木造2階建ての洋館は、
装飾帯を配した大きな庇を持つ玄関や、縦線を強調し連続的に配置した1・2階の窓が印
象的である。
1992(平成4)年に故谷尾欽也氏が美術館として公開したが、のちに美術館と作品が市
に寄贈されて「直方谷尾美術館」となる。
1915(大正4)年に建てられた旧篠原邸(直方谷尾美術館収蔵庫)は、平入りの2階部分
は軒裏まで漆喰で塗り込め、くり型を付した窓を3ヶ所設けている。以前は米屋だったと
いう。
須賀神社の社叢が見えてくる。
主屋の向きとは異にして、道路に並行するよう店構えが施してある。細長いものが看板
だったようで、たばこ販売以外に何を生業にされていたのだろうか。
須賀神社の由緒書きがないため創建年などは不明であるが、祇園信仰の神社である。平
安期の861(貞観3)年境内に隕石が落ちてきたといい、5年に1度の御神幸大祭時に公開
されるという。
直方歳時館は炭鉱開発に尽力した堀三太郎の居宅として、1898(明治31)年に建設さ
れた。約1,100坪の敷地に日本庭園と土蔵、木造平屋の純和風建物がある。現在は生涯
学習施設として利用されているため、見学は無料であるが使用されている部屋は見学がで
きない。
堀三太郎(1866-1958)は、明治から昭和前期にマルチな手腕を発揮した実業家で、貝島・
麻生・伊藤・安川と共に筑豊5炭鉱王の一人であった。大正期に衆議院員議員を1期在任
したが、1941(昭和16)年子孫に事業を残さず一切の事業を整理し、邸宅を市に寄贈し
て現福津市福間の別荘に移り隠棲する。
邸宅は直方の町を見下ろす高台にあって、直方の西方に位置する福智山を借景とした枯
山水庭園である。
築年からすると堀三太郎が31歳の時に建てたことになるが、築100年の建物は老朽
化にともない、1998(平成10)年に改築復元される。
1623(元和9)年福岡藩初代藩主・黒田長政が没し、その遺言により4男の高政に4万
石が分知され、支藩の東蓮寺藩が成立する。1626(寛永3)年に城下町が形成され、藩主
の御館(陣屋)は殿町(現在の双林院付近)に置かれた。1675(延宝3)年3代藩主・長寛の
代に東蓮寺を直方と改める。
長寛が本藩を継ぐことになり、一時廃藩となるが、長寛の弟・長清が5万石で入封すると、
直方体育館がある丘に直方御館(陣屋)を移した。(「史跡直方城址」の碑が建つ)
歳時館から多賀神社への道(旧長崎街道)。
石炭記念館と多賀神社の上り口。
参道から見る直方の町並み。
多賀神社は直方の鎮守、産土神であり、寿命の神・鎮魂・厄除の神として信仰されてい
る。
創建年代などについては不詳とされるが、奈良期には妙見大明神と称したという。また、
現在地より南の妙見山にあり「妙見社」とも呼ばれていた。妙見山に御館を築造する際、
現在地に遷座し、1692(元禄5)年に現社号である多賀神社に改めたという。
拝殿前の幕にある御神紋は「向鶺鴒(むかいせきれい)」で、これは夫婦のセキレイの仲睦
ましい姿にならって諸々の神を生んだ古事によるという。
「桃の花招福稲荷祭」に因み、社務所前や回廊にひな人形やさげもんが展示されていた。
多賀神社に隣接する直方市石炭記念館は、1910(明治43)年に建設された筑豊石炭鉱
業組合会議所の建物である。本部事務所は石炭の積出港である若松に置かれていたが、筑
豊地区に多く居住する炭坑経営者の利便を考えて開設された。
階下が事務室、階上が会議室で総会や常議員会などが開催された。
筑豊炭田は、1872(明治5)年鉱山解放令公布の頃から1976(昭和51)年までの約
100年間日本の産業発展に寄与してきた。筑豊炭田の歴史を伝える資料館として活用さ
れ、写真や壁画資料、使用された機材などが展示されている。
1965(昭和40)年日鉄嘉穂炭坑上穂波坑から掘り出された2tもある石炭塊。
記念館の裏手には、ガス爆発や落盤事故などの炭坑災害に備えて筑豊石炭鉱業組合に
より、1912(明治45)年から1923(大正12)年に建造された救護訓練所模擬坑道であ
る。ドイツから輸入された実践即応の救命器具を使用した訓練が行われた。(1968年閉
所)
1925(大正14)年貝島炭鉱が資材運搬用としてドイツから輸入し、貝島炭鉱専用線で
使用された蒸気機関車コッペル32号。水、石炭を機関車本体に積載するタンク機関車で、
1976(昭和51)年の閉山まで走り続けた。
記念館にはもう1台蒸気機関車「C11 131」が保存されているが、後ろに石炭車
セム1号を従えている。
庚申社。
1673(延宝元)年開基とされる隋泉寺(浄土宗)は、門前の案内板によると、古くは「瑞
泉寺」と書き、一体は湧水の豊富なところだったという。
本堂裏の小山には、江戸期の俳人・有井浮風(うふう)と諸九尼(しょきゅうに)の比翼塚があ
る。比翼塚とは相愛の男女を同じ場所に葬った塚のことで、俳句の師である浮風を追い、
庄屋の妻だった弟子・諸九尼(本名なみ)が駆け落ちした恋物語である。浮風死後、諸九は
剃髪して各地を行脚、晩年は直方に戻り、草庵を結んで浮風の菩提を弔ったという。
雲心寺(臨済宗)は初代藩主高政が父・長政の菩提を弔うために、1625(寛永2)年に建
立した。境内には高政、2代之勝などの墓塔がある。
西徳寺(真宗)は筑前名島城主小早川秀秋の家老・篠田次郎兵衛重英が、関ケ原後に出家
してこの地で草庵を結ぶ。初代藩主・黒田高政が本堂を建立し、準菩提寺として手厚く保
護したという。山門は直方藩廃藩の際、藩主館の横門を移築したものである。
鐘楼の床置きの梵鐘は、福岡城で時を告げていた鐘が縁あって辿り着いたという。ひび
が入り今は音が出ないそうである。
鐘楼の奥に「林芙美子滞在記念碑」がある。碑の裏面の説明によれば、1915(大正4)
年芙美子が12歳の頃、直方の入口屋という商人宿に父母ともども滞在し、手甲脚絆姿で
木屋瀬・中間方面に辻占を売り歩いていたという。
寺境内から見る直方駅。