ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

広島市の草津は旧山陽道の宿場町 

2023年03月08日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         草津は古くには久曽津とも称した。西方に鈴ヶ峰、鬼ヶ城山があり、南東は広島湾に面
        する。地名の由来は、神武天皇・神功皇后の営陣の地と伝えることから軍津(いくさつ)と称
        し、これが転訛したものという。(歩行約4.8㎞)

        
         JR新井口駅から広島電鉄に乗り換えて約3分、草津駅で下車する。

        
         草津駅から路地を抜けると慈光寺、鷺森神社筋が旧山陽道である。
         室町期の1447年(文安4)年禅宗寺院として慈光寺が創建されたが、1703(元禄16)
        年に日蓮宗に改宗する。寺なのに境内に神仏習合時代の鳥居がある。
                 広島市は爆心地から5㎞以内に現存する建物などを被爆建造物とし、同寺の山門が登録
        されている。

        
         鷺森神社の由緒によると、平安期の960年(天徳4)年に勧請されたと伝え、御祭神が女
        神なので弁天社と称して豊漁と海の安全を祈った。往古、この一帯は海辺であり、近世に
        なると干拓が進むに伴い内陸の神社となってしまう。(本殿が被爆建物)

        
         祭神は猿田彦之神で庚申さんから現在の幸(こう)神社に改名した。1897(明治30)
        鉄道開通のため、庚申を取り除くことになり現在地に遷座したという。
         小さな境内に大きくそそり立つ銀杏の大木は、樹齢は不明だが400年以上といわれて
        いる。

        
         海蔵寺は小高い所にあって、参道の途中には山陽本線が横断している。(力剪(りきぜん)
        第1踏切)

        
         室町期の応永年間(1394-1428)に中国の僧・慈眼禅師が創建したといわれる海蔵寺(曹洞
        宗)は、1558(弘治元)年厳島合戦では毛利方の陣中に用いられた。
         広島藩の時代になると東城浅野家の菩提寺として明治元年まで続き、幕末の禁門の変で
        は、広島藩の仲裁により幕府と長州藩の談判が開かれたという。
         1840(天保11)年に建立された本堂が被爆建物だそうで、のちに屋根部分など一部が
        補強補修されている。

        
         本堂裏には元禄期(1688-1704)に築庭されたという石組庭園がある。池泉鑑賞式で山畔
        が急であるため土留めを兼ねて、池泉護岸から上部にかけて多数の石を組み、西寄りの谷
        部分は滝石組みとなっている。

        
        
         草津八幡宮は見上げるような位置に社がある。189段の石段は段数から「189(ひや
          く)
の石段」とされ、飛躍(さらなる発展)・避厄(災厄をさける)に通じる石段とされている。
        一歩一歩踏みしめて元気よく登って御神徳をいただいてくださいと案内されている。

        
         飛鳥期の625年に海路の守護神として多紀理姫乃命(たぎりひめのみこと)を祀ったのが創
        祀と云われている。
         八幡神を奉斎した時期は諸説あるようだが、鎌倉期に宇佐八幡宮より勧請して当地に祀
        られていた「多紀理の宮」を合祀して、後に力箭八幡宮と称した。現社号になった時期に
        ついて、由緒書きには書かれていないが、本殿と拝殿が被爆建物であるとのこと。

        
         こんもりとした小丘が草津城跡。

        
         境内から草津の町並みが一望できる。(山陽本線と小泉家) 

        
         中央にある「三」は広島市の市章で、旧芸州藩の旗印であった「三つ引」(三)にヒント
        を得て、これに川の流れを表現するカーブをつけて、水都広島を象徴したものとされる。
        草津ではこのマンホール蓋を多く見かける。

        
         城山への道は道路で削り取られたのか急階段が設置されている。

        
         戦国時代には西は廿日市、厳島、南は能美島、江田島、東は五箇庄(広島)、海田市も見
        渡せる重要な場所とされた。
         草津城がいつ頃築城されたかは、はっきりしないようであるが、室町期の1456(康正
          2)
年竹田信賢が草津城を攻め落とし、その後、改築して城としての形が整ったといわれて
        いる。のち新里式部少輔(大内氏)、羽仁有繁(陶氏)と城代が変わり、児玉氏が毛利氏の防
        長移封まで3代にわたり城代として当地を支配した。関ケ原の戦い後、福島正則が広島城
        主になると、草津城下の山陽道に大門を設けて西の関所とし、草津城を壊したといわれて
        いる。

        
         草津八幡宮の参道筋と小泉本店。

        
         天保年間(1830-1844)創業の小泉本店は、宮島厳島神社の御神酒を醸造する造り酒屋であ
        る。店構えは「つし2階」で屋根には煙り出しを備えている。 

        
         旧山陽道を挟んで小泉家の向かい側に、1885(明治18)年明治天皇が広島、山口など
        を行幸され、小泉家で休憩されたことを記念して碑が建てられた。「置鳳輦止處」(鳳輦(ほ
        うれん)を置きしところ)と刻まれているが、鳳輦とは天皇の乗り物を意味する。

        
         御幸川に架かる御幸橋を渡ると交流広場がある。寛保・延亨年間(1741-1748)頃に旧山陽
        道のほとり(現広電宮島線踏切付近)で餅売りをはじめたのが大石餅とされる。店の近くに
        大石があることから「おいしい」とかけられ、「大石餅」と命名されて草津の名物となっ
        た。1998(平成10)年大石餅は長い歴史の幕を閉じたが、本店で使われていた臼と灯籠
        が移設されている。

        
         広電宮島線の踏切を横断して右折すると浄教寺(真宗)がある。境内には臥龍松と名付け
        られた黒松が、人の背丈ほどの高さから枝が3方向に伸びており、どこから撮っても1つ
        に収まらないほど長い。
         臥龍とは地上に伏した龍が今から飛ばんとする姿のようで、名に値するほどの松である。
        (本堂、山門、南門、経堂が被爆建物) 

        
         教専寺(真宗)の本堂は、1936(昭和11)年に建て替えられたが、特徴として向拝部の
        柱は2本が多いが、4本の柱で支えられている。(本堂が被爆建物)

        
         薬師如来堂は廃寺になった阿弥陀寺の薬師如来堂をこの地に移した。「おやっくさん」
        と呼ばれ、今でも眼病に効く「薬師」として参拝が多いという。

        
         幸福稲荷神社の祭神は穀物を司る神倉稲魂神とされ、昔、草津では大火や災害に苦しん
        だので、神頼みとして建立されたという。この付近に三次支藩の役所と、幕府巡検使の宿
        所である御茶屋があったという。

        
        
         旧山陽道に沿うと右手に西楽寺(真宗)がある。1889(明治22)年の町村制施行により、
        草津村と新たに埋め立て造成された庚午新開村が合併して改めて草津村となる。のち町制
        に移行したが、1929(昭和4)年広島市に編入されて今日に至る。(寺の本堂は被爆建物)

        
          西国街道(山陽道)沿いの町並み(旧山口酒店)

        
         三嶋邸は「厨子(つし)二階建て」ならぬ「厨子三階建て」の町屋であったが拝見するこ
        とができず。(2009年撮影)

        
         昔、この辺りは海岸線で、1821(文政4)年の頃に旧草津港を抱くようにして埋立て、
        記念に1本の松が植えられた。ここを通称「御場所」といい船役人の番所があり、船はこ
        の松を目印に出入りしていたという。
         石碑には「文政4年辛巳新地波止場築造」と、「萬代(よろずよ)に多(た)かき功績(いさお)
        を残しおき繁る草津のはれをこそ見禮(みれ)」という歌が刻まれている。(松枯れしたので
        伐採された)

        
         旧魚市場北にあった井久田家の屋敷に福満稲荷(左)があったが、長州征伐の時に前線指
        令所として草津港が選ばれ、屋敷の明け渡しを命じられて疎開。稲荷社はその後転々とし
        たが、終戦後に現在地に移転したという。
         地蔵尊(右)のルーツは不明だが、宮島にいたお相撲さんの守り本尊であったとの伝承が
        あるとのこと。

        
         草津南の西部埋立第八公園の中にある住吉神社は、室町期の享禄年間(1528-1532)毛利家
        の児玉周防守が草津城主であった時、海上安全と城の鎮守として創建したと伝わる。
         1821(文政2)年草津港が築造されると、その堤防上に遷座したが、さらに干拓が進み
        海から遠退いてしまう。

        
         漁民会館内に「安芸国養蠣(ようれい)之碑」があるが、延宝年間(1673-1681)に草津の小林
        五郎左衛門が「ひび立て」に牡蠣養殖法を考えた。1897(明治30)年神戸での水産博覧
        会で、その功績が認められて表彰され、翌年に牡蠣の仲間が碑を建立したもので、192
        3(大正12)年現在の碑に改められた。

        
         1945(昭和20)年8月6日軍の至上命令にもとづき広島市長が出勤を要請した、か弱
        い女子100名を含む草津南町国民義勇隊は、市内小網町付近の建物疎開作業中に被爆す
        る。全員が傷つき焼けただれ悲惨きわまる苦悶の果て次々と倒れていった。
         遺族は痛恨のうちに逝った肉身の無念を想い、「このむごたらしい戦禍を再び繰り返す
        ことない平和への祈りを込めて、157名の尊い犠牲を永久に伝へ残すべく追悼の碑を建
        立する」とある。

        
         雁木とは瀬戸内海沿岸に多く見られる石を積んだ階段で、潮の満ち引きによる海面の移
        動に関係なく船を着岸できるように工夫されたものである。
         1966(昭和41)年旧草津港は再開発事業の一環として埋め立てられ、今では港であっ
        た面影を見ることはできないが、雁木と船止め石の一部が移設されている。

        
         1822(文政5)年蛭子神社は本固新開ができたので大漁を祈るために、えびす屋孫八と
       佐久間三右衛門宅にあった祭神を現在地に遷座させたものという。(被爆建物) 

       
        津浜町にある望月家(空家状態) 

       
        通りには古民家が数軒存在する。

       
        船溜まりに出ると遠くに安芸の小富士の山容が見える。

       
        龍宮神社の由緒によると、1622(寛文元)年以後草津村に浜田藩船屋敷が設けられたが、
       その鎮守神として住吉神を祀った。この住吉社が龍宮神社の前身とされ、埋立てが進み海
       浜より遠くなったので、1871(明治4)年現在地に遷座させたとある。(被爆建物)

       
        廃船になった舟の板を外壁に利用した家が点在していたようだが、今は残り少なくなっ
       たという。(小畑家) 

       
        草津の町には「袖うだつ」があってベンガラを塗った格子構えの古い建築物が残ってい
       る。
        また、町は入り組んでいて、遠くが見渡せないようになっているのが特徴で、これが「
       遠見遮断」と説明されている。

       
        御幸川に沿って広電草津駅に戻るが、大釣井と地蔵尊を見落としてしまう。


廿日市市の地御前は神の島遥拝地

2023年03月08日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         地御前(じごぜん)の東は瀬戸内海に面して厳島と相対する。地名の由来は厳島神社が島方
        にあるのに対し、地之御前と呼ばれたことによるという。(歩行約2.5㎞) 

        
         広島電鉄地御前駅で下車する。

        
         屋根の低い厨子(つし)2階建てで、軒裏や軒下に設けてある袖卯建、虫籠窓は漆喰で塗り
        込まれている。(佐伯邸) 

        
         観音堂の開基は定かでないが、平安期の地御前神社絵図に描かれており、梵鐘には観音
        堂と記されている。伝承によると宮島には産場(お産婆)がなく、観音堂の周りに集まるよ
        うになったとか。

        
         1625(寛永2)年開基と伝えられる西向寺(真宗)は、もとは真言宗か天台宗であったと
        され、貞亨年間(1684-1688)頃に改宗したとされる。本堂、鐘楼門などは明治期に建立され
        ている。

        
         境内を覆う「天井松」は、樹齢300年を超すともいわれ、晴れた日には木陰を作り、
        地面に本堂の格天井のような影を落とすという。

              
         旧山陽道は難所越えの道程のため往還道(新国道)が造られることになる。広島元安川か
        ら地御前入口までが完成し、1880(明治13)年地御前の御手洗橋から大竹の栄橋までが
        完成する。

        
         特産の牡蠣と牡蠣筏、水揚げ風景が描かれた廿日市市のマンホール蓋。

        
        
         袖卯建を配しているが、卯建と違って風切・目隠し・日返しの機能を持っている。

        
         通りでは目立つ町家(村上邸) 

        
         小林千古(本名:花吉)は、1970(明治3)年この地に生まれ、25歳から35歳にかけ
        てアメリカやヨーロッパで伝統的な絵画を学び、日本画壇に新風を吹き込む。
         黒田清輝の推薦により学習院女学部助教授の職にあったが結核を患い、1911(明治44)
        年41歳の若さでこの世を去る。 

        
         地御前小学校は渡り廊下で繋がっている。

        
         何の碑なのかわからないままとなる。

        
         釈迦堂の創建は定かでないようだが、丈六の釈迦如来座像で高さ230㎝という巨像が
        祀られているそうだ。廃寺となった神宮寺のものではないかと推定されており、釈迦堂と
        して移設されたものと思われる。

        
         地御前の氏神で農業の神を祀る大歳神社は別の所に鎮座していたが、1789(寛政元)
        現在地に遷座する。氏神は各集落を見渡せる高台にあるが、神が見守ってくれることを念
        じて場所が選定されている。

        
         地御前神社の東側に、1887(明治20)年国道開鑿(かいさく)碑が建立されている。石碑
        の上には「地平天成」(地平線はどこまでも天とつながる)と刻まれているが、この四篆字
        は、先の元号「平成」の由来の1つとされる。
         碑文は「明治時代中期、佐伯郡廿日市の住民は地域を挙げて新道を建設するために大運
        動を展開した。結果、神社前の国道が完成した」と伝え、裏面には工事に携わった510
        名の芳名が刻まれている。

        
         地御前神社は、通称桃山を背にして明神ヶ浜を前面に鎮座する。厳島神社と同じ時期で
        ある飛鳥期の593年に外宮社として、佐伯鞍職により創建された後、平清盛の絶大なる
        支援によってほぼ現在の姿に造営された。

        
         もともと地御前神社は、神の島として上陸できなかった宮島の対岸で遥拝するために造
        られたともいわれている。

        
         鳥居前まで海だったようで御座船が神社横まで寄せることはできたという。今は神社と
        明神ヶ浜の間には広島電鉄宮島線と国道2号が横断している。

        
         厳島神社管絃祭は、海上神事のため潮の干満を考慮して旧暦6月17日の大潮の日に、
        御神体を海上渡御させる海の祭りである。
         厳島神社を出発した御座船は、対岸の地御前神社で祭典が行われた後、長浜神社、大元
        神社を廻って本社社殿へ還御される。

        
         御前神社西側に「皇威輝八紘」の碑が建立されているが、西南・日清・日露の戦役で亡
        くなった村民の名前が刻まれている。 1913(大正2)年に建立されたものだが、日本が
        戦争をはじめて近隣諸国の人々や自国民を犠牲したことを忘れてはならない碑である。

        
         有府川に架かる外宮橋の先で国道2号と合わす。

        
         正行寺(真宗)は天台宗であったが、1624(寛永元)年に改宗したと伝えられる。

        
        
         市民センター側の通りにも町家が見られる。

        
         地御前今市にある今市稲荷社の開基は定かでないが、京都伏見稲荷の分霊ともいわれる。

        
         広電地御前駅から宮島駅に出る。