この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
大里(だいり)は企救(きく)半島の中部、戸ノ上山の西麓に位置し、西は関門海峡に臨む。
1891(明治24)年九州鉄道門司(現門司港)~黒崎間の開通により、海岸地区は内陸部
と遮断され、その間の小森江~新町間の広大な田畑の地域を鉄道院総裁の後藤新平が買収
する。
1903(明治36)年神戸の合名会社鈴木商店が買収地に大里製糖所(現関門製糖)を設置
する。その後、大里製粉所(現ニップン)、帝国麦酒(もとサッポロビール工場)、大里酒精
製造所(現ニッカウイスキー工場)などが設立された。(歩行約5.8㎞)
JR門司駅は九州鉄道の大里駅として開業したが、1942(昭和17)年関門トンネルの
取付口に駅があったため、約400m小倉側に移設されて駅名を門司駅とする。2004(平
成16)年には跨線橋と駅舎を一体化した橋上駅舎が完成する。
駅北側から関門海峡に向うと右手に赤煉瓦の建物が見えてくる。
大里の地名由来について、平安時代に安徳天皇を伴った平家一行が「柳の御所」を設け
たことにより「内裏(だいり)」と呼ばれるようになる。
享保年間(1716-1736)頃異国族船を平定するよう命を受けた藩主は、内裏の海で血を流す
のは畏れ多いとして「大里」に書き改めたといわれている。
1913(大正2)年4月帝国麦酒㈱の工場が完成して醸造を開始され、第一次大戦後の不
況と関東大震災の影響を受けたが存続した。その後は合併・分割を繰り返し、社名も桜・
大日本・日本・サッポロと変更し、2000(平成12)年日田工場へ移転するまで九州工場
として稼働した。
事務所棟と違って赤煉瓦を使用した建物は見応えがあるが、内部は年2回の公開日のみ
見学ができる。
1913(大正2)年に完成した煉瓦造倉庫で、ここから見ると切妻部分は続き棟のようだ
が独立した構造である。
1799(寛政11)年幕府(長崎奉行所)は、大里浦出張所(長崎番所)をこの地に設置する。
当時、玄界灘に出没する密貿易船の取り締まりと、対唐貿易の代物を長崎に送るため、保
管・中継基地の役割を担う。
醸造棟傍の事務所棟は、1913(大正2)年築の鉱滓煉瓦造2階建てで、ドイツ・ゴシッ
ク様式に近いデザインが特徴となっている。正面中央玄関部を突出させ塔状に2階高まで
立ち上げ、1階・2階ともに左右対称の意匠として中心性を強調している。
江戸期には大里宿から手向山辺りまでの街道筋に松並木が続いていたとされる。旧サッ
ポロビール事務所棟前に樹齢350年以上といわれる街道松が残る。
門司往還道の大里宿は5町52間(約646m)の町並みで、本陣、脇本陣などが建ち並
び宿場町として繁栄した。幕末の幕長戦争で焼失して現存するものはないが、このように
跡地には石碑が建てられている。
1887(明治20)年5ヶ村が合併して柳ヶ浦村が発足し、町村制施行時にはそのまま移
行して村名を継承する。1908(明治41)年町制を施行して大里町となり、駅も大里駅と
なる。
隣の文字ヶ関村は鉄道敷設や内外の中継貿易港と発展し、門司町から門司市へと移行す
る。1923(大正12)年大里町は門司市に編入されて町制を閉じる。
問屋場ともいい、輸送を担当する宿場の主要施設で、人足や馬が常備されており、旅人
のために必要な人馬の手配や飛脚が運ぶ荷物なども取り扱っていた。
1902(明治35)年明治天皇が熊本での陸軍大演習統監のため、柳ヶ浦に上陸された記
念として、天皇が馬車に乗られた付近に松を植え「明治天皇記念之松」の石碑を建てられ
た。のちに松は枯れ、石碑も元の場所から離れた突堤に移されて現在に至っている。
海岸線から眺める門司港近くの風師山と矢筈山。
この地には幕府及び藩の通達を掲示した高札場が設けられ、隣接する南部屋で藩役人が
各村庄屋への通達と打ち合わせを行ったという。
脇本陣の重松彦之丞宅は、柳河藩、薩摩藩、幕府及び公卿の御用商人などが利用し、1
810(文化7)年には日本全国を測量した伊能忠敬一行が止宿している。向い側には肥前屋
(脇本陣)があったという。
佛願寺(真宗)は慶長年間(1596-1615)現在地に創建されたとされ、幕末期の幕長戦争(小
倉と長州の戦い)で本堂等を焼失したが明治期に再建された。
地元の方が史跡ウオーキング中。
この道路の右側に浜郡屋、左側に御在番役宅、突き当りに御番所があった。浜郡屋では
湊出入者及び船泊の検問、取り締まり等を役人や在屋などが協議した場所とされる。
ここに大里宿湊口の御番所(関所)があった。湊を出入りする船舶・人馬の切手改め、抜
荷の取締りを行った。また、参勤大名の渡海の拠点でもあった。
鳥居左手一帯に小倉藩の施設である本陣(御茶屋)があったとされ、九州の諸大名、長崎・
日田代官、オランダ使節等が江戸への往復の途中に休泊した。
八坂神社は大里村の守護神であり、近代になって町の開発が進んだ際に住吉神社が合祀
された。
境内には大里村各所にあった道祖神が集められているが、都市開発で無用の長物となっ
たようだ。3本あった桜の木のうち、1本は倒れてしまったそうだが、地区民の花見場所
のようでテーブルなどがセットされていた。
北九州市の市花である向日葵がデザインされたマンホール蓋。
門司往還筋には町家らしきものは存在しない。1866(慶応2)年7月3日の幕長戦争大
里の戦いによる戦禍や、先の大戦による空襲が影響しているのであろう。
鈴木商店大里製糖所が製糖原料としてジャワ糖の輸入を進め、保税原糖の取扱いを行う
ため「大里倉庫」が設立され、1920(大正9)年その倉庫として建設された。大里倉庫の
その後の経緯は分からないが、現在は地元企業に活用されている。
石原宗祐(そうゆう)は28歳という若さで大里村の庄屋となり、1757(宝暦7)年48歳
の時に庄屋職を辞したが、その間、村民は相次ぐ飢饉にあえいでいたため、自力で大里村
六本松の荒地を開墾する。その後、弟と猿喰(さるはみ)新田の開作工事に私財を投げ打って
着手する。
工事は困難をきわめたが「後世の為になる一大事業なり。これを成し遂げずんば一歩も
退かず。」と諦めることなく、約2年後に約33.3町(33ha)の新田を得ることができた。
その後、藩から曽根の開作を命じられて、8年の歳月をかけて完成させる。
大専寺(真宗) は禅宗で柳村風呂(現門司区不老)にあったが、慶長年間(1596-1615)この
地へ移転し真宗道場となる。この寺も幕長戦争大里の戦いで焼失したため、1878(明治
11)年に再建された。
西生寺(さいしょうじ)は、室町期の1456(康正2)年に創建された浄土宗の寺院。167
0(寛文10)年代まで大里宿の現八坂神社の前にあったが、本陣が置かれることになりこの
地に移転してきた。
江戸時代には宗門改めの政策により、判行寺(はんぎょうじ)として絵踏みが行われた。こ
こも幕長戦争大里の戦いで焼失し、1883(明治16)年に再建された。
石原通り踏切から関門製糖㈱(旧鈴木商店大里製糖所)の一部を見て、国道を小倉方面へ
歩く。
国道3号線と鹿児島本線の間の路地に佇む銭湯「やなぎ湯」さん。
路地に入ると通りとは違った大里の町が見られる。
平安期の1183(寿永2)年木曽義仲に都を追われた平家一門は、安徳天皇を奉じて西に
逃れ、太宰府に落ちていった。
しかし、ここでも地元豪族の不穏な動きを察して、遠賀郡山鹿の城を経て、豊前国柳ヶ
浦にたどり着いた。この柳ヶ浦が現在の大里のことで、古い記録に「内裏」と書かれてい
るのは、しばらくの間、仮の御所があったからである。
現在、戸上神社のお旅所となっているこの地が、仮御所の跡であろうと伝えられて「柳
の御所」と呼ばれている。(解説板より)
同年9月の13夜に歌宴が開かれ、栄華を極めた都の生活を偲んで武将たちが詠じた歌
である。ここでは5名の歌が紹介されている。
説明板には
都なる 九重の内 恋しくは 柳の御所を 立寄りてみよ
平忠度(だだのり)(平清盛の異母弟)
石碑には
分けてきし 野辺の露とも 消へずして 思はぬ里の 月をみるかな
平経正(経盛の長男・平清盛の甥)
君住まば ここも雲井の 月なるを なほ恋しきは 都なりけり
平時忠(清盛の継室・平時子の同母弟)
看板には
打解けて 寝られざりけり 楫枕 今宵の月の 行方清むまで
平宗盛(平清盛の3男・母は時子)
恋しとよ 去年の今宵の 終夜 月みる友の 思ひ出られて
平経盛(清盛の異母弟)
この社殿は、1902(明治35)年明治天皇が熊本に行幸された際、当時の大里駅構内に
新設された休憩所の建物を柳の御所拝殿として移築造営されたものである。このため拝殿
正面屋根に「菊の紋章」があり、内部左側には「玉座の間」があるとされる。
この石室には、文化2年(1805)9月建立の銘があり、木舟社をキリメン様と呼び親しん
でいた村人たちが、神様を保護するため石室を建立したものとされる。
戸ノ上通りにある杉の湯(廃業?)と背後に戸ノ上山。
戸上神社参道の上を北九州都市高速道路が走り、県道71号線が関門海峡に向って真っ
直ぐに延びる。
戸上(とのえ)神社は戸ノ上山の山頂に上宮、麓に本宮があり同一祭神を祀っている。平安
期の寛平年間(889-898)柳ヶ浦の漁夫が海中から玉を引き揚げたが、その後、神が夢に出て
きて「鶏の声がしないところに祀るように」とお告げがあり、枝折戸(しおりど)に載せて山
頂に祀ったのが起こりとされる。山を戸ノ上山、神社を戸上神社と呼ぶようになったとい
う。
参道の右側にある満隆寺(まんりゅうじ)は、平安期の806(大同元)年弘法大師が唐から帰
朝の折、戸ノ上山を礼賛して下船して霊峰に登り密法を修め、山麓に一宇を建立し、観音
像を安置したのが起源とされる。
昔は6坊を抱えた大寺であったが、大友宗麟の配下によって堂宇・僧坊がことごとく焼
失する。今の境内には満隆寺の遺構とされる大師堂と日切地蔵堂が並ぶ。
戸ノ上1丁目交差点を左折して不老通りを目指すと、その手前の右手に「風呂の井戸」
の石碑がある。
この地に夏でも涸れず名水といわれた鏡ヶ池があった。源氏に追われた平家一行が、芦
屋から海路この柳ヶ浦に着いた時、安徳天皇をはじめ一行が旅の疲れを癒すため、この池
の水を風呂の水として使われたことから、この池のまわりを整えて「風呂の井戸」といわ
れるようになる。付近は「風呂」という地名で呼ばれるようになるが、大正末期頃に「不
老」に改名される。
平家が一ノ谷で敗れ壇の浦の戦いで藻屑と消えたのが、1185(文治元)年3月であった。
平家一門の霊を祀った風呂禅院西光山大専寺があったが、慶長年間(1596-1615)に改宗して
街道筋に移され、地蔵堂だけが風呂の一角に残された。
不老通りの1つ手前の道を歩いて駅に戻る。