ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市湯田の維新史跡と中原中也

2023年03月05日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         湯田は山口市街地の南、椹野川中流域の右岸に位置し、中心部に湯田温泉がある。
         江戸中期の地下(じげ)上申では朝倉村・湯田村の2村で記載されるが、明治期は下宇野令
        村となり、1915(大正4)年山口町と合併する。湯田温泉の起源は定かでないとのことだ
        が、南北朝期の1372年明国の趙鉄が作ったとされる山口十境詩の中に「温泉の春色」
        がある。(ルート約8㎞、🚻井上公園と中央公園)

        
         1913(大正2)年山口線の小郡ー山口間が開通すると同時に湯田駅として開業する。1
        961(昭和36)年湯田温泉駅に改称し、のち駅前に高さ8mの白狐「ゆう太」のモニュメ
        ントが設置される。

        
         2021(令和3)年白狐をモチーフした「ゆう太」の顔がラッピング化される。(駅前と
        湯田郵便局前で見かける)

        
         駅通りを直進するとT字路で旧石州街道に合わす。

        
         左折すると旅館前で街道は右手の細い道に入る。途中、山口大学通り(県道陶湯田線)が
        横断しているため少し遠回りをしなくてはならない。

        
         石州街道の大曲りと呼ばれた場所に周布公園があり、一帯は周布町という町名になって
        いる。1931(昭和6)年に「嗚呼長藩柱石周布政之助君碑」が船田墓地の隣に建立される。

        
         1862(文久2)年11月周布政之助は酒に酔って発した土佐藩主・山内容堂に対する暴
        言で、藩は周布が死亡したことで事を収め、謹慎と氏名を「麻田公輔」と改めさせて政務
        に復帰させる。
         禁門の変などで俗論派に主導権が移ると責任をとって自刃する。周布の遺骸は遺言によ
        って石州街道傍に埋葬されたが、その後、遺骸は郷里の長門市三隅の浅田地区山中に移さ
        れた。

        
         大きく湾曲した道は「大曲り」と呼ばれ、椹野川が大きく蛇行してこの辺りを流れてい
        たため、それに沿って街道がつけられた名残りだといわれている。蔵は「置き屋根造り」
        と呼ばれる構造のようで、左右の水路はこの先でそれぞれの目的地に向かって流れを変え
        る。

        
         吉富藤兵衛(簡一)は山口の大庄屋で井上馨とは幼馴染でもあった。高杉晋作の奇兵隊に
        資金援助、鴻城軍を組織し井上を総裁に据えるなど討幕運動を陰で支援する。
         第1次幕長戦争後に萩藩内部は幕府に恭順する俗論派が威をふるい、急進派の志士をけ
        ん責し、周布政之助も謹慎を命じられ吉富家の離れに軟禁された。1864(元治元)年9月
        26日の早朝に吉富家で自害する。(享年42歳)

        
          くぐり門ではないが旅館の通路下を潜る。

        
         井上公園(旧高田公園)は井上馨の生誕地で、七卿の一人・三条実美は、井上光遠(馨の兄)
        の家を借りていたため、土地の者は土地の字をとって高田御殿と呼んだ。(トイレはあるが
        駐車場はない)

        
         京を追われ山口に落ち延びた七卿、三条実美(さねとみ)・三条西季知(すえとも)・壬生基修
        (みぶもとなが)・四条隆謌(たかうた)・錦小路頼徳・沢宣嘉(のぶよし)・東久世通禧(ひがしくぜ
          みちとみ)
らの忠誠を偲び、建立された七卿の遺蹟之碑である。

        
         1907(明治40)年井上馨は静岡県興津で79年の生涯を閉じるが、銅像の顎部分には、
        刺客に襲われた傷跡が再現され、井上像の傍には一命を救った所郁太郎の顕彰碑もある。 
         長州ファイブのひとり井上馨は、1835(天保6)年に上級武士であった井上光亨(みつゆ
           き)
の次男として、周防国吉敷郡湯田村に生まれる。21歳の時に志道(しじ)家の養子とな
        るが、密航する際に迷惑がかからないようにと縁切りをする。

        
         中原中也の詩集「山羊の歌」の中にある帰郷という詩の一部分が紹介されている。
            これが私の故里だ
            さやかに風も吹いている
            あゝおまえは何をしてきたのだと
            吹き来る風が私に云ふ 

        
         1962(昭和37)年11月3日文化の日を記念して種田山頭火の句碑が建立された。
                  「ほろほろ酔うて木の葉ふる」  
         広島県三次から庄原という静かな山の町を行乞し、そこから東城の方へ行く途中、雑木
        紅葉が降ってくる中を、わたしは一人で歩いた。造り酒屋の店先に腰かけて2つや3つや
        ったので、とてもいい気分になり、歩きながらできた句であると語っている。温泉町と酒
        が似合うことから選定されたのであろう。

        
         三条実美は井上家へ滞在場所を移すが、井上家も建物が不足していたため、新たに離れ
        が増築される。
         何遠亭(かえんてい)と命名された離れは、「何の遠きことか之れ有らん」より出たる語で、
        「公等が、青天白日の身となって都に帰ること何ぞ遠きにあらん」という慰籍の意を寓し
        たものである。 (1864年5月1日から11月15日まで滞在。何遠亭は当時の図面に
        より復元される) 

        
         1907(明治40)年4月29日中原中也は、吉敷郡山口町の中原病院で父・柏村謙助(陸
        軍軍医)、母・ふくの長男として生まれる。1915(大正4)年一家は中原家と養子縁組をす
        る。 

        
         生家は火災で失われたが、1994(平成6)年旧中原病院跡地に中原中也記念館として建
        設され、建物は公共建物百選にも選ばれている。

        
         この道は湯田郵便局前の石州街道から分かれ、北浦の肥中に通じる肥中街道であった。

             
         1863(文久3)年10月末に長州藩は三条実美を湯田に迎え、藩士・草刈藤太郎邸に滞
        在させる。
         しかし、草刈は保守派のため居心地が悪く(屋敷はのち攘夷派により放火され焼失)、ま
        た、手狭のため井上馨の実家へ移る。(場所は写真の右手辺りとされる)

        
         袖卯建(そでうだつ)が多い地域にあって、卯建に瓦を載せた古民家がある。

        
         真木和泉は久留米の水天宮宮司でありながら攘夷運動に参加する。10年間の幽閉生活
        を過ごし、1862(文久2)年に脱藩し、翌年の8月18日における政変で七卿とともに長
        州へ下り、小野屋勝兵衛宅に滞在する。その後、蛤御門の変に参加するも敗れ、山崎天王
        山の宝積寺で自刃する。

        
         1864(元治元)年5月1日東久世通禧と四條隆謌は真光院(現山口市大内御堀)から湯田
        の龍泉寺へ転居する。
         七卿の一人であった錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)は、下関視察の際に宿泊先の白石正
        一郎宅で没し、同年5月8日、遺骸が龍泉寺に運ばれて藩主・毛利敬親が喪主を務める。
                (享年30歳) 

        
         1938(昭和13)年11月28日種田山頭火は小郡の其中庵が崩れ、山口湯田前町の龍
        泉寺上隣、徳重家の離れ4畳1間に移り住み「風来居」と名付ける。10ヶ月余住んだが
        現在ではその建物は存在しない。

        
         法務省矯正局に属する山口刑務所は、執行刑期が10年未満で犯罪傾向が進んでいない
        男性を収容し、総合職業訓練が行われている。
         井上聞多(馨)が襲撃で瀕死の重傷を負い、負傷後に潜伏して死を免れた桑原七右衛門宅
        は刑務所構内にあった。

        
         井上馨遭難之地の近くに袖解橋(そでときばし)がある。大内氏が栄えていた頃、御上使道
        (秋穂街道)は主要な街道であった。秋穂渡瀬を渡って山口に入ると、ここで狩衣、直垂の
        旅装を解いて身づくろいして山口に入ったという。(道路の拡張で様子が変わったようだ)

        
         1864(元治元)年9月25日井上聞多(馨)は藩主の前で俗論派と争い、武備を整えて幕
        府に対すべきと主張したため、この地で襲撃され重傷を負う。
         近くの桑原家に逃れ兄の居宅に運び込まれた際に、居合わせたのが医者の所郁太郎(遊撃
        隊参謀)で、焼酎で傷口を洗浄し小畳針で処置を施して一命を取り留める。この碑は191
        7(大正6)年に建てられる。

        

        
         円龍寺は俗論派壮士の集団、先鋒隊の屯所だった寺である。刺客はここに集合して、井
        上馨の帰路を待ち伏せして襲撃する。刺客の中には井上馨の従弟(児玉愛次郎)や高杉晋作
        の妻・雅の姉が嫁いだ先の叔父(周布藤吾)、椋梨藤太の次男(中井栄次郎)らがいた。

        
         円龍寺脇の路地から山口線下羽坂踏切を越えると椹野川河川敷。

        
         赤禰武人は柱島(現岩国市)の医家に生まれ、勤王僧・月性に学び月性の紹介で阿月の郷
        校に入り、のち同地の赤禰家の養子となる。
         奇兵隊の3代目総督となり活躍したが、藩論統一について過激派と合わず、上京して幕
        府に近づいたが利用されて長州尋問の随員となった。このことが幕府に内応したと疑われ、
        この地で殺戮(さつりく)し梟首(きょうしゅ)された。
         一説には大内村柊の刑場で行われ、首級は同地の松樹の枝にさらし、これを持ち帰り武
        人原(この付近の字名)に埋めたともいわれる。

        
         1953(昭和28)年1月28日赤禰武人の命日に、照円寺の手によって顕彰碑が建立さ
        れた。

        
         NHK山口放送局前を山手に向かう。

        
         1948(昭和23)年の学制改革により県立女学校が県立山口女子高等学校として発足す
        る。1955(昭和30)年の高校再編で現在の山口中央高校(当時は女子高)となり、翌年こ
        の地に移転する。のち当地区の市街地再開発で山口市宮島町に移転する。(跡碑)

        
         その先の済生会山口総合病院北側に「清水湯」がある。市内唯一の自家源泉の銭湯で、
        朝風呂も楽しめるようだ。

        
        
         山口県立山口高等学校記念館は、1919(大正8)年から1850(昭和25)年まであった
        官立山口高等学校の講堂である。
         マンサード屋根の主体部正面左右に、三角屋根の塔屋が取り付いた形で、幾何学的な装
        飾を多用した点に時代の特徴が表れている。文部省建築課山口出張所が建設したものであ
        る。(国登録有形文化財)

        
         五十鈴川に合わすと川に沿って湯田中心部へ向かう。

        
         熊野神社の鳥居が見えると山水園の案内があり、これに従って進むと庭園の一角に茅葺
        きの「いばらぎ門」がある。大和郡山の慈光院の茨木門を写したとされ、庭園は有料で拝
        見できるようだが事前に連絡要とある。

        
        
         大内氏の時代に紀州熊野より勧請されたとされ、唐破風の向拝には大内菱が見える。

        
         錦川通りにも種田山頭火の句碑 「ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯」
         1975(昭和50)年8月雑誌「温泉」の女性編集長が湯田温泉に取材に来て、「山頭火
        の句に湯田温泉で作った“ちんぽこ”の句があるが、温泉場にふさわしいユーモラスな句
        なので、ぜひ碑にして湯田温泉を全国にPRしては」と勧められ、建碑の動機になったと
        いう。

        
         この詩は中原中也が26歳の時の作品で、生後間もなく軍医であった父の赴任先であっ
        た中国へ母と一緒に汽船に乗っている。「しののめ」とは明け方のわずかに明るくなった
        頃という。

        
         錦川通りを歩いてきたが、以前と違って旅館の廃業もあってか裏通り感が否めない。

        
         幕末の志士が密議の場としてしばしば利用した臨野堂跡。また、この辺り一帯は温泉地
        であり、幕末には多くの志士が錦川を舟に乗って訪れた。
         この奥手に湯田御茶屋があり、湯の管理は湯別当といわれた野原家が管理していたが、
        現在は痕跡を留めていない。

               
         1906(明治39)年創業の老舗旅館・西村屋は、2017(平成29)年6月に廃業して跡
        地は別会社に譲渡されたが、中原中也が結婚式を挙げた「葵の間」も消滅したものと思わ
        れる。
         また、種田山頭火も湯田の一角で「風来居」と称した家から、西村屋の温泉を利用して
        いたという。

        
         1933(昭和8)年12月中原中也が結婚式を挙げた「葵の間」である。

        
         西村屋廃業後の2017(平成29)年10月4日から3ヶ月半ほどの間、湯田温泉のイベ
        ントとして中原中也が結婚式を挙げた西村屋の「葵の間」が一般公開された。(期間中に撮
        影)

                
               遠縁にあたる6歳下の上野孝子との結婚。(中也26歳)

        
         中也の詩「生い立ちの歌」の一節で
              私の上に降る雪は
              花びらのように降ってきます
              薪(たきぎ)の燃える音もして
                  凍るみ空の黝(くろ)む頃
                  私の上に降る雪は
                  熱い額に落ちもくる
                  涙のようでありました
                       という額入りの詩も飾ってあった。

        
         瓦屋は江戸時代から続いた旅館で、幕末の湯田において瓦葺きの建物は,御茶屋とこの
        旅館だけだったので屋号となる。木戸孝允など維新の志士たちが利用した旅館で、187
        0(明治3)年山田顕義(日本大学の学祖)は瓦屋の娘・龍子と結婚した。旅館はいつ廃業した
        かは定かではないそうだ。

        
         湯田温泉街の通りには、湯の町、温泉、えびす、ほろよい、山頭火、中也通りと銘打っ
        て各デザインのマンホール蓋が見受けられる。ここ元湯通りは錦川の川下りが描かれてい
        る。

        
         旧国道筋に出ると維新志士ゆかりの宿松田屋ホテル。湯田温泉バス停より新山口駅行き
        バスに乗車する。